インディアナポリス研究会

中年の主張

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HCの仕事  出てきたな、競歩。4年に一度出てくるな。まあ、それ以外にも大会はあるんだろうけど、人目に触れるのは4年に一度という1/3セミ野郎である。

 んで、毎度思うのであるが、この競技、存在意義あるの。どう考えてみても、「走る」と「歩く」に本質的な違いがあるとは思えない。「歩く」のスピードを速めたものが「走る」なのであるから、本質的には同じ運動だと思う。ソフトボールと野球ほども離れていない。バスケットボールとポートボールほども離れていない。なんつーか、「甘いお菓子選手権」と「あまり甘くないお菓子選手権」みたいなもんである。旨いけど、甘過ぎて失格みたいな。なんつーか、理念が無い。

 スポーツというのは大概皆そうだと思うが、その運動自体に楽しみがあるというのが基本的な条件であろう。野球やフットボールといったゲーム性の高いものは勿論の事、競争や競泳といった競技性の高いもの、あるいは体操やフィギュアスケートのような演技性の高いもの、いずれもその運動自体に楽しみのあるものばかりである。あるいは、「誰よりも早く走りたい。」とか「誰よりも高く飛びたい。」とか「誰もやったことの無いような動きを鉄棒でしたい。」といったような人間の動物としての原始的な欲求を満たすものばかりであろう。その楽しみが無ければ、単なるトレーニングと化す。

 でも、競歩にそんなもの、無いだろ。「誰よりも早く歩きたい。」なんて欲求あるか。まあ、あるかもしれないけど。ある地点に速く到達しようとしたら、普通、走るだろ。文字通り。百歩譲っても、「誰よりも長く歩きたい。」ぐらいじゃないだろうか。実際、ウルトラマラソンといって、そういう競技があるらしい。ルール上は、勿論走ってもよいのであるが、実際はほとんど歩いているみたいな競技らしい。しかも、面白い事に、その勝者は女性である事もあるらしい。女性が男性に勝てるほとんど唯一の競技らしい。

 話を競歩に戻すが、「歩く」事自体に楽しみは無いだろう。世の中には「ウォーキング」、すなわち散歩という趣味があるけれど、あれは歩く事自体が楽しいというよりは、歩きながら景色を見たり、いろんな考え事をしたり、友達とおしゃべりしたりする事が楽しいのであって、歩く事自体を楽しんでいるわけではない。その辺は、ランニングやサイクリングとは本質的に異なっている。ましてや、「誰よりも早く歩きたい。」という欲求は皆無であろう。

 要するに、何が言いたいのかというと、競歩選手は完全にオリンピック狙いだつう事である。如何なる技術であっても精錬は楽しいものであるから、やっているうちに競歩そのものが楽しくなるという事はあるだろうけど、その第一歩目は、どう考えてみても、オリンピック狙いだつう事である。
 まあ、如何なる動機でスポーツをやってもいいけどさ。「たった一人のオリンピック」は、俺大好きだし。

 でもまあ、競歩は、どー考えてみても、大食い選手権のような無意味な競技だと思う。競歩に比べれば、ボーリングは無論のこと、ダーツやビリヤードの方がまだしもスポーツに近いと思う。

 さて、話は代わって、過日、「アメリカズゲーム パッツ篇」を見ていたところ、ベリチックが練習中やミーティングで、「フットボールでは状況判断が一番大事なんだ。その状況で正しい判断をする為に、我々は準備をしているんだ。シチュエーション・フットボールだ。」みたいな事を言っていたが、20年近く前、ヤクルトの野村監督も全く同じ事を言っていたのを私は思い出し、思わず苦笑してしまった。「野球では状況判断が最も大事であり、最も難しいんだ。その正しい状況判断をする為に、準備が必要であり、そのためのデータなんだ。それがIDという事なんだ。」みたいな事を語っていた。両者の間に交流があるとは、まず考えられないので、人間の考える事は皆一緒という好例であろう。

 もっとも、状況判断なんていうのは、フットボールや野球といったスポーツに限らず、人間の活動全てに於いて、最も重要であり最も難しい事であり、そのための準備やデータ、すなわち知識を我々蓄積しているのであるから、ベリチックや野村監督の言葉は、あまりに一般的過ぎて、逆に無意味であるとも云えるであろう。我々は不断の状況判断の下、生きているのである。それらが、どの程度間違い、どの程度正しいかは、個々によるだろうが。

 とまあ、無駄な前置きの後、いよいよ本題である。HCの仕事の二つ目「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメント」の説明である。

 「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメント」というのは、一口で云ってしまえば、フットボール・フィロソフィーという事になるのだろうが、ゲームの局面局面に於ける選手起用や作戦のベースとなる考え方である。これを基にゲームが運営されるのであるが、それを決める、決定するのが、HCの大きな仕事といってよいであろう。

 それは、ディフェンス中心とかオフェンス中心とか、QB中心とかRB中心とか、色々な考え方があるだろうし、その単位も1ゲームから始まって、シーズン、ポストシーズン、3年間や5年間等、いろいろあるだろう。あるいは1クォーターなんていうのもあるかも知れぬ。さすがに一分単位とか10年単位のフィロソフィーはないだろうが。

 戦略と戦術というのは、定義付けが意外に難しいのであるが、あくまでイメージとして、戦略を決定するのがHCの仕事であり、それを基に個々のコーディネーターやコーチが戦術を決定し、それをプレイヤーが実行するといった感じである。
 ダンジーのカバー2という戦略を基に、個々のプレイを決定していったここ10年のコルツを想起すれば、理解しやすいだろう。である。つうかまあ、実際はマニングのノーハドル&オーディブルという戦略の部品、すなわち戦術の一つがダンジーのカバー2だったんだけど。

 とまあ、ここまで書けば、誰もが思うとおり、「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメント」という仕事は、ここ最近はHCの仕事というよりは、むしろGMの仕事になってきている。
 実際、この10年間のコルツを作ったのは誰かと云えば、どう考えてもポリアンであろうし、ペイサーズを作ったのは誰かと云えば、カーライルでもオブライエンでもヴォーゲルでもなく、ラリー・バードであるのは自明であろう。まあ、中にはベリチックみたいにHCがチームを作っている場合もあるが、それはいまや少数派であろう。

 この手のチームマネージメント、チーム作りというのは、当然の事ながら、人事、すなわちリクルート活動が大きくモノを言ってくるので、もともとHCや監督の仕事だったものが、時間的物理的にこなせなくなってきた為に、特化したのがGMといってよいであろう。

 この論考の初期に、三原監督というのは心理的戦術に長けた監督だったと私は説いているが、その三大監督の一人、鶴岡監督は、まさしくこのGM的能力に長けた監督であったと思う。その日本全国に張り巡らせたスカウト網が野村や広瀬をピックアップしてきたのである。監督時代の初期、盗塁やエンドランを中心とした所謂スモールベースボールを得意としながら、それが巨人や西鉄に通用しないと分かると、ただちに400フィート打線への転向を図るなどは、まさしくフィロソフィーの転向である。
 ドラフト制が導入され、最も損をしたのは巨人だといわれているが、その強大なスカウト網が通用しなくなったという意味では、最大の被害者は、むしろ南海、鶴岡監督であったと思う。

 GMがHCから派生したという意味で面白いのは、そのHCそのものはプレイヤーから派生したという点であろう。フットボールに限らず、どんなスポーツでも、ちょうど子供の遊びのように、もともとはプレイヤーしかいなかった筈である。作戦や人事といったものは、当初は合議制、すなわちプレイヤー同士の話し合いで決定されていたであろうが、それがそのうち、それを担当するキャプテン的な専任者が生まれ、更にはそのうち、プレイと作戦の兼業が難しくなってきた事から、その専門家、すなわちHCや監督が生まれ、更にはその中での主に背広仕事、デスクワークを担当するGMが生まれる。そうして、発生順序的には最後に生まれたのがGMでありながら、権力自体はその謂わば末っ子であるGMが握っている不思議な構造になっている。人間社会における国王と国民の関係などもそれに似るであろう。

 ここで私は、敢えて不思議という言葉を使ったが、この構造に最もよく似ている、というか、ある意味原型といってよいのが、我々生命の発生順序であろう。
 始めは単なる物質だったものが、単細胞生物的になり、更にそこから、消化や呼吸活動の効率化を図るために植物的になり、更に、より効率的に捕食活動を行う為にヒレや手足が発生、即ち動物的になり、更にそこから、それら手足を統御する為に頭脳が発生し、即ち人間的になる。そうして発生順序的には最後の人間が生物界では最も威張っている。ちょうど頭脳が手足や臓器を統御するように。

 個体発生は系統発生を繰り返すと謂われるが、おんなじような事は、コクトーも言うように、我々の人間社会にも適用されるようである。まあ、始めに経営者ありきの、会社みたいな組織もあるけどね。

 なんか、訳の分からん序論みたいなので終わってしまったが、とりあえず今回はここまで。

 そういえば、GAORAが今季のNFLの放送予定を発表したが、その初戦はなんとINDatCHI、しかも生放送。今季はコルツのTV放送は減ると私は予想していたが、まさにラック様々やね。試合は負けそうだけど。

                                        2012/8/5(日)

 卓球にプロがあるって、スゲーな。あのスポーツを金を払ってみようとする人間が一定数以上いるって、スゲーな。懐深すぎる。

 高飛び込みは、その運動の美しさではなく、単純にその高さを競う競技になったら、スゲーな。どんどん記録が伸びていって、3000メートルの高さから1000メートルの深さのプールに飛び込む、みたいな。ちょっとした風で死者続出みたいな。そういう根性だけのスポーツになって欲しい。
 まあ、競技とまではいえないが、フリーダイビングつって、似たようなスポーツ、つうか趣味みたいのは既にあるけど。

 400メートル・リレーに日本の男子チームが5位入賞していたが、あれって凄くない。他の選手、ほとんど黒人ばっかだぞ。

 近代5種のコンバイン、1000メートル走って射撃って。そりゃ当たらんわ。当たっているけど。

 ロシアチームのシャツがパない。

 ボクシング、ミドル級の金メダルって、凄くない。やっぱ、ボクシングって、キング・オブ・スポーツって感じがするし。数あるオリンピック競技の中でも、100メートル走やマラソン、10種競技等々と並んで、中心競技って感じがするし。こういっちゃ何だが、今まで日本人が獲ってきたメダルっていうのは、バレーボールとか柔道みたいな、どっちかっていうと周辺競技みたいなのが多かったし。いかにもオリンピックらしい競技での金メダルていうのは、本当に数少ないと思う。しかも、ミドル級って。歴代金メダルの中でも、1,2位を争うほど価値ある金メダルだと思う。

 で、そのメダル数国別ランキングであるが、例によって例の如くで、アメリカが100個以上獲得して1位な訳であるが、これって凄くない。あれだけプロスポーツの盛んな国で、そのプロスポーツマンになれなかった人達が、オリンピックに回って、それで100個以上獲っていくのだから。どんだけスポーツ好きなんだか。他に娯楽ねーのか。

 一方、そのメダル数国別ランキングでアメリカについで2位につける中国であるが、こちらはアメリカとは事情が全然異なる。国家の全精力を傾けての2位つう感じである。しかも、その競技も、こういっちゃあ悪いが、いかにもメダル狙いみたいな、謂わばニッチな競技が多い。中心競技、人気競技でメダルに絡んでくるアメリカとは、その辺がまるで異なる。中国のメダルの中には、「この競技、中国では、オリンピック選手以外、競技人口いないんじゃねーの。」みたいな競技も多い。スポーツというものを、中国人は、根本的に勘違いしていると思う。卓球以外のスポーツを、中国人は皆つまらなそうにプレイしている。勝っても負けても楽しそうなアメリカ人とは好対照である。

 つう訳で、オリンピック話7連発で書き出してみたが、本題は「HCの仕事」である。

 さて、前回の記事で、私はHCの2番目の仕事「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメント」は、昨今では、もはやGMの仕事になっていると説いたが、そうはいっても、現場レベルの采配や練習指導などは、もちろんオフェイスから出来るものでは無いので、それらは今でもHCの仕事である。

 これら現場レベルの采配や練習指導を、自分のものかGMのものかはともかく、一定の指針、哲学の基に実行するのがHCの二つ目の仕事になる。
 これら現場レベルの采配や練習指導に、一定の指針や哲学が無い、あるいは間違っているとなれば、それはHCないしGMの責任となる。私が昨シーズンのプレイオフの記事で、レイブンズのハーボーの采配には問題があると説いたのは、そのあまりに保守的過ぎるゲームプランを問題にした訳である。

 ここで、前回の記事でも触れた日本プロ野球三大監督の最後の一人、水原監督について触れる。

 三原監督が心理面、いわば「選手を気分良くプレイさせる事」に長けた監督であり、鶴岡監督が「GM的な仕事」に長けた監督であるのに対し、この水原監督は、今ここで触れた「現場レベルの采配や練習指導」に長けた監督であったと思う。有名な2ボール1ストライクからのエンドランを始め、ブロックサインやワンポイントリリーフ等々、今現在のプロ野球で常識となっているような戦術の多くは水原監督起源である。まあ、元々はアメリカから輸入したものであるけれども、水原監督が、そういう現場レベルの戦術に長けた監督であった事は間違いないと思う。

 こうやって考えてみると、三原、鶴岡、水原という監督は、単に結果を残して三大監督といわれた訳ではなく、監督の仕事の三側面、すなわち「選手を気分良くプレイさせる」、「長期的な人事プラン、チーム戦略」、「現場レベルでの戦術」にそれぞれ長けた監督だった故に三大監督と謂われるようになったのだという事が分かる。

 この論考そのものは、おおよそ10年位前に出来ていたと私は書いたけれども、この三大監督の特色までは、当時は思いついていなかった。こうして書きながら気付いたものである。書いてみて、初めて気付いたものである。

 閑話休題、話をHCの仕事に戻すが、今ここで書いたような「現場レベルの采配や練習指導」というのは、上記の二つ「選手を気分良くプレイさせる」「長期的な人事プラン、チーム戦略」に比べるとやはり地味なものであるし、価値そのものもやはり低い。水原監督が、三原、鶴岡に比べ、語られる事が少ないのも、やはりそれが理由であろう。三者の中で三原監督が最も語られる事の多いのは、心理という、スポーツ選手のみならず、全ての人間に共通のものを、三原監督が得意としていた事に由ろう。もっとも、三原監督の場合は、自軍のプレイヤーを気分良くプレイさせるのみならず、敵のチームのプレイヤーを気分悪くプレイさせる名人でもあった訳であるが。スポーツマンとしてどうかという問題は残るだろうが、人間心理を操る事にかけては、プロ野球史上屈指の監督であった事は間違いない。

 という訳で、「現場レベルの采配や練習指導」というのはHCの仕事の中では比較的地味なものであるし、価値も低い。極端な話、「現場レベルの采配や練習指導」がお粗末でも、「長期的な人事プラン、チーム戦略」が優れていれば、チームは好成績が挙げられる。昨今のアメリカのプロスポーツ界でGMの地位がドンドン向上し、それに反比例するという訳でもないが、HCの地位がドンドン下降しているのは、それを表すものだろう。
 日本のプロ野球でも、日本ハムに顕著に見られるが、監督の地位はドンドン低くなっている。日本ハムにとって、監督などは、単なる広報担当ぐらいの役割しかない。GM、日本プロ野球では編成部が正しい仕事をしていれば、チームは勝ち続けられると言わんばかりである。ロッテなども、同じような調子である。

 つう訳で、昨今のプロスポーツ界では「現場レベルの采配や練習指導」が何故あまり価値が無くなったかというのが次回の話。今回は、前置きより本題の方が短くなってしまったが、いつもの事なので、お許し下さい。

 そう云えば、コルツ、つうかラック、つうかグリグソン、つうかパガーノのプレシーズン初戦は、ラムズに38−3で爆勝したようですな。まあ、プレシーズン・ゲームなので、結果や内容を吟味しても詮無きことであるけれども、少なくとも営業サイド的には万々歳でしょうな。
 ハイライト映像しか見ていないので何とも謂えないが、それを見る限りでは、何というか、チームが明るくなった様な気がする。なんか今までのコルツは、勝っても負けても、うつむき加減のチームだったので、ちょいと新鮮ではある。これもラック効果か。いや、脱マニング効果か。

                                         2012/8/13(月)

 戦評ばかり書いていても飽きてくるので、ここらで「HCの仕事」の続きを書きたいと思う。

 前回の話は、「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメントがHCの第二の仕事であり、昨今ではその役割の大部分をGMが担うようになってきている。」であったが、この議論に歩調を合わしたという訳でもないだろうが、今季のパ・リーグは日本ハムが優勝した。

 ちなみに、この日本ハム、チーム編成の中心にはサイバーメトリックスみたいなものがあり、その結論は絶対で、監督やスカウト部長はおろか、オーナーまでが口出しできぬものになっているらしい。その結果が、昨ドラフトの菅野指名であり、今ドラフトの大谷指名であったらしい。感情まではサイバーメトリックスできんわな。

 それはともかくとして、監督よりもGMが大事というのは、アメリカのみならず、世界的傾向としてドンドン進んでいく事だろう。この傾向は当分変わらないと思う。
 それに、この傾向は近年現れたもののように思われがちであるが、よく考えれば昔だって同じだったのである。日本のプロ野球に限ってみても、前回の記事で例に挙げた鶴岡、そうして何より、80年代、90年代、00年代をそれぞれ代表するチームを作り上げた根本陸夫の事跡が何より顕著である。そのカープ、ライオンズ、ホークスでそれぞれ監督を務めた古葉、森、王がそれら以外のチームではサッパリだった事を考え合わせると、監督とGM、どちらが重要かという問題の答えは自明であろう。広岡は特殊な例外。

 まあ、もっとも、そのGMを決めるのは最終的にはオーナーの仕事なので、一番大事なのはオーナーだという事になるのではあるが。まあ、もっとも、監督やGMが首相や大統領であるとすれば、オーナーというのは国王みたいなものなので、自ら後任にチームを売却しない限り、代わることは無く、ファンが議論しても詮無き事なのではあるが。

 オーナーは金は出しても口は出さないのが理想とはよく言われるが、口はともかくとして、目、チームやスポーツを見る目ぐらいは必要であろう。目が悪いオーナーも質が悪いが、目を持たない、例えばデトロイト・ライオンズのオーナー、フォード氏のようなのは、ある意味最悪であろう。ライオンズが長らく低迷している諸悪の根源が、ライオンズのオーナー職をデトロイト市民の名誉職ぐらいにしか考えていないフォード氏にあるのは自明である。

 理想的には、スティーラーズのルーニー一族のような目、すなわち見識を持った人間がオーナーになるべきであろう。アル・デービスのようなのも、晩年は耄碌したものの、これはこれでひとつの理想であると思う。色々な批判はあるものの、ダラス・マーベリックスの再建とキューバンが切っても切り離せない関係にあるのも自明である。巨人軍が日本プロ野球の盟主であったのも、賛否両論はあろうが、結局のところは正力松太郎の人格に依るものである事は云うを俟つまい。

 先に、私は「オーナーは国王みたいなもの」と書いたけれども、国民の不満が高まれば、最終的には国王の座から降りざるを得ない国王と違って、オーナーはどれだけファンの不満の声が高まっても、まずオーナーの座から降りる事は無い。チームがどれだけ赤字であろうとも、本業が好調ならば、額はともかくとして、選手に給料を支払える限り、少なくとも金銭的な理由でオーナーの座を退く事も無い。政治的、道徳的、犯罪的、家族的、健康的、年齢的等々の理由でも無い限りは、ほぼ半永久的な地位である。

 まあ、もっとも、大金持ちで尚且つスポーツに対する見識があるなんて人物は稀であろうから、そんなに高望みは出来ないであろう。それがGMや監督より遥かに希少な存在である理由である。最近、ブラウンズのオーナーが代わったが、新オーナーは見識のある人物であって欲しいと思う。

 さて、話がちょっと逸れたが、今回の「HCの仕事」は、ゲーム、練習まで含めた采配の話である。

 一般的に、世間に於いては、監督やGMの主な仕事は采配にあるとされているが、私はそうは思わない。特にゲームにおける采配、フットボールなら、ランにするかパスにするかとか、野球ならば、バントにするか盗塁にするか、等々を私はほとんど問題にしていない。どうでもいいと思っている。

 これらはファンの間で、とりわけスポーツ中継の実況席でよく話題になるが、まあ、その議論が楽しい事は私も認めるの吝かでないけれども、監督やHCの本質的な仕事だとは思っていない。そもそも、フットボール、草フットボールはともかく、プロやカレッジレベルのフットボールでは、それらは今やコーディネーターの仕事である。野球に目を転じても、投手交代という、一般には監督の仕事の中で最も難しいとされる采配も、今や、ほとんどのチームが投手コーチ、MLBにいたってはトレーナーの仕事になってしまっている。まあ、中にはべりチックや野村のように、何から何まで自分でやりたがる御仁もいるが、それはいまや少数派である。

 まあ、勿論、それらの采配の最終的な責任はHCや監督にあるのだろうが、実際的に現場レベルで運営しているのは、最早、HCや監督ではない。
 では何故そうなってしまったのかというと、勿論、仕事量的な理由、特にフットボールに於いてはその理由が大きいだろうが、本当の理由は、個々の采配というのは、結局のところ、「どーでもよい」からである。

 「どーでもよい」と書くと語弊があるが、個々の采配というのは、どんなに考え抜いても、正解が無いのである。それ故、監督やHCの主な仕事から外れてしまったのである。極端な話、ここでパスをするかランをするかといった選択は、あみだクジに任せても良いくらいなのである。どんなに考え抜いても、あるプレイの成否は分からないのである。

 例えば、ある局面で、パスプレイを選択したとする。で、スナップすると、敵ディフェンスはランを予想しており、OLは完璧にパスプロでき、レシーバーはフリーになり、QBが完璧なパスを投げる。ところが、レシーバーが落球。こんな事は、フットボールでは日常茶飯事であるが、この場合、プレイ選択は成功だったのか失敗だったのかと議論すれば意見は分かれるだろう。敵ディフェンスはランを予想していたのだから、そういった意味ではプレイ選択は正解だったと云える。しかし、落球するようなレシーバーをターゲットにしてしまったという意味では失敗だろう。内容的には成功だが、結果的には失敗とも云える。でも、勝負は全て結果論だという見方もある。と、議論していけば、喧々諤々、暗中模索、議論百出、丁々発止、永遠に答えは出まい。仕方が無い、だって、それがスポーツなのである。もしも完全な解答があるのならば、そこでゲームは終わってしまう。完全な勝ち方が見つかれば、誰もゲームはしない。

 今度は実例を挙げよう。有名な「江夏の21球」である。

 日本シリーズ、第7戦、4−3、9回ウラ、ノーアウト1塁の場面で、1塁ランナー藤瀬(だったかな。)はスチール、その2塁への送球をショートストップ高橋慶彦が後ろに逸らし、結果的にはノーアウト3塁、そうしてノーアウト満塁へとつながった問題のシーンである。

 このスチールの真実は、ヒット・エンド・ランのサインをバッター、アーノルドが見逃し、結果的に単独スチールの形になったというものなのであるが、そもそも、このシーンでエンドランという作戦が果たして正しいのかという議論がまずあろう。そうして、その作戦は、バッター、アーノルドがサイン見逃しという形で、少なくとも内容的には失敗だったのであるが、2塁送球をショート、高橋が後逸した事により、ノーアウト3塁という、ある意味、当初の作戦が望んだものと似たような結果になった。

 これを、作戦成功と見るか、失敗と見るかは、意見の分かれるところであろう。ピッチドアウトされた訳ではないのだから作戦的には成功とも云える。しかしそれをアーノルドがサイン見逃ししたのだから、内容的には失敗とも云える。しかしながら、高橋が後逸した事により、結果的には成功とも云える。
 仕方が無い、これがゲームなのである。もしも完全な解答があるのならば、そこでゲームは終わってしまう。完全な勝ち方が見つかれば、誰もゲームはしない。

 ちなみに話は大きく逸れるが、この場面の、高橋慶彦の後逸、今見ると、ホント泣けてくる。現代のショートでは、有り得ないレベルのエラーなのである。今時、高校生でも、甲子園レベルなら、あんなエラーはしないだろう。私が監督だったら、どんなに高橋が打っても、仮に三冠王でも、絶対に使わない。少なくともショートストップは任せない。
 「昔は凄かった」的な発言をする人は、洋の東西を問わず、数多くいるけれども、この野球のレベルのみならず、大概の事は、やっぱり「昔はしょぼかった」のである。

 さて、話を戻すが、ことほど左様に、ゲームにおける一つ一つの作戦とは非常にあやふやなものなのである。成否がおぼつかないものなのである。それ故、私はそれを理由に監督やHCの評価をする心算は無い。勿論、ゲーム評では、あの采配が良かった悪かったとの所謂居酒屋談義はするけれども、それと監督やHCの評価は別物である。
 ただ、その采配のバックボーンとなるゲームプランやフットボールフィロソフィーが誤っている場合は批判するし、更迭の理由にもなる。BALのハーボーやCINのルイスを批判したのはそれである。

 つう訳で、ゲームの個々の場面における采配の可否は監督やHCの評価とは別物だと私は思っている。実際、ゲーム中の采配で更迭にまでつながった例は、数多くのプロスポーツの中で、私の知る限り只一つしかない。昭和35年の日本シリーズにおける西本監督のスクイズである。これを理由に、西本監督は永田オーナーから首にされた訳であるが、その後の西本監督の活躍を見れば、この更迭が完全に永田オーナーの過ちであった事は自明であろう。

 つう感じで、今回は終わりにしたい。次回はいよいよ最終回である。つっても、言いたい事は粗方言い尽くしたので、単なるまとめとなる予定である。

                                               2012/10/30(火)

 次回は最終回と書いて、はや2年近く。もはや、自分でも何を書いていたのか忘れてしまっているが、とにかくまとめである。
 そもそも、このコラムは掲示板での前HCジム・コードウェルの評価に端を発したもので、そこで「HCの仕事とは何か」を書くに至った訳である。

 で、そのコールドウェル自身はというと、この2シーズンの間に、思わぬ(といっては失礼だが、コルツファン的には、)出世をした。

 そもそも年齢的に引退すんじゃねーかと私は思っていたぐらいのであるが、あにはからんや、いかなる政治力を使ってか、コルツHC退任後、すぐ、すなわち2012シーズンにBALのQBコーチに就任。

 その2012シーズン中、フラッコーと当時のBALのOCキャム・キャメロンとの確執に乗じて後任OCに就くと、チームはあれよあれよスーパーボウル制覇、立役者といえば大袈裟であろうが、まあまあスーパーボウル制覇の一翼を担った。

 んで、つづく2013シーズンでは、スーパーボウル制覇後にありがちなチーム弱体化にともない、オフェンスの成績も低迷し、OCとしてはハテナマークがつくも、何故かライオンズのHCに就任。2度目のHCである。さて、2014シーズンのライオンズは如何に、というのがコールドウェルを廻る現状である。
 この2年間のコールドウェルの実績を見るに、ベテランQBとの相性は良いというのははっきりしたと思う。「好きなようにやらせているだけ。」と言ってしまえば身も蓋もないが、結果は出ているのだから、それもひとつの能力だろう。放任というのは意外に難しいものである。

 一方で、コールドウェル自身に何かしらのフットボール哲学といったら大袈裟かもしれないが、何らかのスキームなり戦術なりがあるかといえば、様々な武器を失った2013レイブンズ、そうして唯一にして最大の武器であるマニングを失ったコルツで、事実上無策だった事を考え合わせれば、コールドウェルにそういったものが無い事はまず間違いないと思われる。

 したがって、このコラムで私の掲げたHCの二つの仕事の内の一つ目「選手を気分良くプレイさせる。」という点に於いてはほぼ満点であり、二つ目「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメント」という点に於いては、ほぼ零点といってよいと思う。

 コルツでの成績に加え、この2年間のレイブンズでの成績がそれを何より雄弁に物語っていると思う。私のHC論に於いて、これほど分かりやすいサンプルもちょっと珍しいと思う。コールドウェルを機に、この稿を書き始めたのも、決して偶然では無いと思われてくる。

 実際、多くの監督はこの二つの仕事、あるいは能力の色々な程度に保持、100:100にはじまり100:30とか58:79とか17:50とか、最悪0:0とか、その配分は色々あるだろうが、コールドウェルのように100:0というのは非常に珍しいケースかと思う。

 という事で、この時間的にも文字数的にも長々長々しいコラムを終わりにしたいのであるが、ただ、ここまで書いてきてふと思ったのであるが、私が掲げたHCの二つの能力「選手を気分良くプレイさせる。」「ゲーム全体、あるいはシーズン全体、更には数年先までのチームマネジメント」というのは、よく考えたら、それぞれ「モチベーター」と「戦略家」というだけの事で、何も目新しい事は無い。手垢にまみれた言葉である。つうか、このテーマに関しては、誰がどう考えても、この結論に至るという事であろう。言葉だけでなく、中身を考えてみるのもたまには良かろう。チャンチャン。

 最後にひとつ。このHCの二つの仕事というのはあくまで仕事、あるいは目的・目標であって、最低条件ではない。極端な話、無くてもHCは出来る。成績は振るわないだろうけど。

 HC・監督として絶対に必要なものは2つある。「ゲームに対する情熱」と「チームに対する愛情」、この二つである。先に挙げたHCの二つの仕事というのはあくまでプロレベル、それも高度なプロレベルの話であり、アマチュアや学校スポーツレベルには、強く求められるものではない(FBSレベルはまた別だが、)。
 ただ、ここに挙げた2つ「ゲームに対する情熱」と「チームに対する愛情」は、これはプロアマ問わず、ありとあらゆるレベルで絶対必要不可欠なものである。これの無いHCや監督は即辞任せねばならない。

                   また、梨ウォーターの季節がやってきた。 2014/6/19(水)

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