インディアナポリス研究会ペーサーズ局

俺

TOPページへ

ペーサーズ局TOPへ

<1/2/3>
 
 私と
スラムダンク
  日に日に賑やかになってゆくコルツ部に比べ、いつまでたっても記事の増えていかないペーサーズ局。その穴埋めという訳でもないけれど、ちょっと記事を書いてみたいと思います。

 本当は選手紹介のところを充実させていきたいのだけれど、そのプレイ振りを見たことのない選手がほとんどなので、あの2名というか3名からなかなか増えていかない。グレンジャーはたしかルーキーイヤーにちょろっと見ただけ、確か10分ほどだったと思う。T・マーフィーとダンリービーはGS時代に見たこと、あったかな〜。あと見た事あるのはT・J・フォードとネステロビッチぐらいである。当然ペーサー姿ではない。まあ今シーズンはさすがにBSでも放送があると思うので(たぶん。)、それを見てからということで。

 で今回は趣を変えて「私とスラムダンク」というテーマで話を進めたいと思います。正確には「スラムダンクの面白さ」というテーマだけれども。しかしこの「俺」という項目名は完全に失敗したな、でも変えない。

 スラムダンクという漫画の面白さについてはそれこそ各地で数多くの人々が語っているけれども、ここではスラムダンクという漫画におけるバスケットボールというスポーツの描写の正確性について語ってみたい。

 私はこのスラムダンクを通してバスケットボールというスポーツを学んだのであるが、バスケットボールというゲームを知るに及んで、ほとほと感心するのはこの「スラムダンク」という漫画におけるバスケットボールというゲームの描写の正確さである。それは巷間語られているように、画が上手いということではない。それは確かに上手い事は上手いのであるが、ここで述べたいのはそういうことではない。ここで述べたいのは作者井上雄彦氏がバスケットボールというゲームを、当然といえば当然なのであるが、バスケットボールというゲームを非常によく理解しているという事である。
 それが最もよく表れているのが、私の思うに、豊玉高校のチーム構成である。

 豊玉高校は、云わずと知れたラン&ガンのチームである。そうしてこの戦術を採るチームは一定の成績は上げるものの、そこから先はなかなか難しい。そうして観客にとって非常に楽しい戦術である。このような描写が為されている。しかしこうした事はバスケットボールをなまかじりした者でも十分可能な描写である。
 しかし私が感心するのは、その先、豊玉高校のチーム構成である。このチームにはなんとしっかり3ポインタシューター南君が設定されているのである。確かにラン&ガンという戦術は、その戦術上フォワードに高さや技術よりスピードや運動能力を求めるため、どうしてもハーフコートオフェンス時のスコアリング能力が落ちる。そうして、それを補う為、どうしても優秀な3ポイントシューターが必要になる。それをこの「スラムダンク」という漫画はきっちり描いている。それも何の説明も無く、あたかも当然の事であるかのように。
 しかもまだ先がある。この豊玉高校にはなんと大型ポイントガード、確か伊藤君だったかな、が設定されているのである。ラン&ガンはディフェンスリバウンドから始まる。そうして出来ればこのディフェンスリバウンドはPGに獲って貰うのが望ましい。PGがディフェンスリバウンドを奪い、そのままタッチダウンパス、そうしてレイアップなりダンクなりでフィニッシュ、これがラン&ガンの理想的攻撃パターンであろう。そのキーとなるプレイはPGのリバウンドであろうが、これはPGが大きければ大きいほど獲り易くなる。またハーフコートオフェンス時にはそのままローポストにも入り、ペイント内でのフォワードの得点力不足を補う事も可能である。
 ラン&ガンのPGは大きければ大きいほどよい。マジック然り、キッド然りである。漫画内でそのような描写は無かったが、伊藤君はリバウンドとローポスト、どちらのプレイも得意ならずも可能だったろう。それが彼の2年生にしてレギュラーを奪った理由である。

 私はこうした点は初読の際は気付かなかったが、バスケットボールというゲームを知るに及んで、気が付いた。そうして平伏した。

 スポーツ漫画において最も大事な事は作者がそのスポーツをどれだけ愛しているかということだと思う。これはスポーツ漫画に限らず、漫画家が自分の作品のテーマをどれだけ愛しているかというのは重要な事であるけれども、スポーツ漫画に於いてはその比重は非常に大きい。全てと言っても良いくらいである。水島新司の野球、ゆでたまごのプロレス、森川ジョージのボクシング、皆然りである。そのほか探せばまだまだいろいろあるかもしれない。
 また逆に作者がそのスポーツへの愛情がうすいと作品はいまひとつつまらなくなる。いい例が高橋陽一の「キャプテン翼」である。この作者がほんとうに好きなスポーツはおそらく野球だろう。「ドカベン」や「スラムダンク」に比べると、「キャプテン翼」がいまひとつつまらないのはそれが理由である。この手の作者の描く漫画は必ずといっていいほど、玄人っぽい薀蓄を漫画に登場させる。「キャプテン翼」でいえば「鳥かご」や「ドライブシュート」である。そうしないとドラマが作れないからであろう。更にこの薀蓄がなくなってくると必殺技の出番になる。「キャプテン翼」でいえば「スカイラブハリケーン」や「タイガーショット」になる。車田正美の「リングにかけろ」については説明するまでもあるまい。「巨人の星」や「あしたのジョー」は厳密にはスポーツ漫画とはいえない。スポーツがテーマではないからだ。

 こうした漫画に比べると、「スラムダンク」のバスケットボールの描写は非常に正確である。際立っている。水島新司の野球に比べてもはるかに正確である。水島新司の野球漫画は、それ以前のスポーツ漫画に比べれば画期的なほど正確なスポーツ漫画であったが、「スラムダンク」には遠く及ばない。ストレートだけのピッチャーで勝てる野球など無いし、ほとんど三振でしかもファーボールのない岩鬼を1番に据える明訓の打順もあまりに漫画的である。

 「スラムダンク」には、いかにも漫画的なチームやプレイヤー、ゲームは一切登場しない。そこに描かれるバスケットボールは十分可能なものばかりである。まあたしかに、只今の高校バスケットボール界において可能かどうかと問われれば、疑問符を付けざる得ないが、少なくともアメリカに於いては十分可能である。というか、この漫画に描かれているチームやプレイヤー、ゲーム、すなわちバスケットボールはアメリカではゴロゴロしている。
 また作者井上雄彦氏はバスケットボール漫画にありがちな背の低い主人公も避けた。安易なドラマ作りを嫌ったのであろう。背の低さはバスケットボールに於いてははっきり傷である。PGも大きいに越した事はない。

 もちろん薀蓄や必殺技は「スラムダンク」に登場しない。強いて言えば花道が必殺技を作りたがるのは、面白いところである。この漫画における主人公桜木花道の役割は非常に特殊である。これは別の機会に説こうと思う。

 こうしたバスケットボールというゲームの描写の正確性は作者井上雄彦氏のバスケットボールへの愛情から来るものである。その象徴は主人公桜木花道の最後のシュートがジャンプシュートだったという事である。「スラムダンク」だって云っているのに最後はジャンプシュートである。申す迄も無く、ジャンプシュートはバスケットボールにおいて最も基本的であり、かつ最も難しい技術である。主人公桜木花道のプレイがダンクシュート(失敗。)で始まり、ジャンプシュート(成功。)で終わるというのは、いかにもこの漫画を象徴している。と思うのは私だけであろうか。

 そのほか、「スラムダンク」という漫画におけるバスケットボールというゲームの描写の正確性として挙げられるものに、全国デビューした流川のジャンプシュートが「高さ」だけではなく「速さ」をも評価されている点がある。バスケットボールのジャンプで重要なのは、確かに「高さ」と「速さ」である。こうしたところもこの作者は抜かりが無い。安田君がシューティングガードではなくオフガードと表記されているのもそうした点であろう。あれ、潮崎君の方だっけ。そのほか、いろいろあるだろうけど興味のある方は探してみて下さい。

 ちなみに私がもうひとつ挙げておくと、ゾーンプレスの破り方というのもある。安西先生は三人に囲まれる宮城リョータに対しパスするのではなく、まずドリブルで抜く事を指示したが、これはまったくもって正しい指導である。トリプルチーム、ダブルチームに対し、安易にパスを選択すれば、それこそまさしくゾーンプレスの餌食である。昨今のNBAでも頻出する光景である。トリプルチーム、ダブルチームに対しては、まずドリブルで抜く事、それが肝要である。パスはそれからである。こんなところでも、「スラムダンク」におけるバスケットボールの描写は常に正しい。

                                                                    2008/8/11

 ちょっと「スラムダンク」絡みで書き忘れていた事があったので、付け加え。

 私の知人に中学高校とバスケットボール部だった人がいるが、彼曰く、「スラムダンクはバスケットボール部の雰囲気が良く出ている。」

 私は野球部出身なのでその辺の空気はよく分からぬが、スポーツ漫画にとって最高の賛辞であろう。

                                                                    2008/12/14

 2012NFL開幕戦はカウボーイズの勝利で幕を閉じたが、ここではそれとは全然関係なく、スラムダンクについて書きたいと思う。

 というのも、先日、週刊少年チャンピオンを立ち読みしていたら、そこに水島新司と井上雄彦の対談記事が掲載されており、そこで井上雄彦が、ちょっと面白い発言をしていたからである。

 そこで、井上雄彦は、「桜木っていうのは、当時は意識していなかったんですけど、岩鬼に良く似ているんですよねえ。」みたいな事を発言していた。私は、この発言は少々意外だったというよりは、かなり驚いた。桜木が岩鬼に似ているなんていうのは自明なのであるが、それを私は長らく、それこそ20年来、作者井上雄彦が意識的に似せていたと思っていたからである。それを意識していなかったと言われ、私は少々どころか、かなり面食らった。この手の対談記事は、何から何まで本当のことは言わないと思うが、にしても、である。

 「スラムダンク」というマンガの原型が「楓パープル」であり、その主人公が流川楓であったことは有名な話であろう。しかしながら、この油断したらすぐ寝てしまうようなキャラクターでマンガを引っ張るのは厳しいとは誰でも思うであろう。そこで、編集サイドからか、それとも作者自身のアイデアかは分からぬが、話を引っ張るような元気なキャラクター、そうして、もうひとつの役割として、当時多くの日本人にとって馴染みの薄いスポーツ(事実、私はこのマンガでバスケットオールのポジションを知った。今ではエラソーにバスケットボールについてあれこれ語っているくせに、)であるバスケットボールのルールや戦略を教えていく為の、謂わば狂言回し的なキャラクターとして、ズバリ岩鬼みたいなキャラクターを登場させたのだと、私は永らく思っていた。
 そもそも、岩鬼自体が、真面目な山田では話が詰まらないという事で作られたキャラクターである。野球というスポーツを読者に教える必要性は無かったろうが。

 しかも、それはどっちかというと、作者井上雄彦のアイデアというよりは編集サイドの意向だと思っていた。まあ、分からんけど。だからこそ、桜木花道なんていう、誰がどう見たって岩鬼を連想させるような名前、いわば逆キレ的な命名したのだと思っていた。「花は桜木〜、男は岩鬼。」、一読した習慣、この歌が頭に流れた人は多いだろう。

 無論、そのほかにも、岩鬼と桜木の共通点は多い。「何の根拠も無い自信」、「人を自分だけのオリジナルな渾名で呼ぶ。」、「自分の名前の前に、男とか天才といったような美称を付けたがる。」、「出鱈目なファッションのくせに、妙なコダワリを持っている。」、「オリジナルの妙な歌をうたう。」、「豪快&バカのくせに、妙なところで繊細&内向的になる。」、「妄想癖がある。」、「人情話や浪花節に弱い。」、「流川&山田が大嫌い。」等々である。唯一の違いは、「実は家族が偉い。」であろうが、もしかしたら桜木にもそういう設定があったのかも知れぬ。あと、海南大付属に負けた後、「岩鬼がいたのに何故負けた。」的な事を、桜木にはやって欲しかった。

 そのほか、作中で、全国大会の宿舎に晴子さんが電話をかけてくるシーンがあるが、こんなのは完全に「ドカベン」へのオマージュないしパロディだと私は思っていた。あのシーンを見て、「うわっ、夏子さんからの電話だ。」と思ったのは私だけでは無いと思う。
 また、作品の最初の方で、桜木が柔道に誘われる話があるが、こんなところも「ドカベン」へのオマージュ&パロディだと私は思っていた。

 これらはみんな、作者井上雄彦が意識的に行っているのだと思っていたら、まさか無意識だったとは。これにはホントに驚いた。

 まあ、もっとも、この岩鬼的なキャラクターというのは日本の漫画界に深く広く根付いているものなので、わざわざ意識する事もなかったのかもしれない。この桜木を始め、「じゃりん子チエ」のテツや「はじめの一歩」の鷹村等々、探せばいくらでもでてくると思う。その元祖が岩鬼正美かどうかは分からんが。元祖は伴宙太という説もある。

 そのほか、この対談記事は短いけれども、なかなか興味深い点が多い。

 たとえば、井上雄彦が「ドカベン」の中で、最も面白いとまでは言っていなかったかな、とにかく面白かったのは「山田が二年の春の甲子園決勝の土佐丸戦」だなんていうのは、私もまったく同意見である。まあ、「ドカベン」の中で最も有名なゲームは恐らく、件の弁慶高校戦だろうが、この土佐丸戦も、それに負けず劣らず面白いゲームだったと思う。このゲームで、井上雄彦も指摘している通り、ゲームを戦いながら、そこに山田達登場人物の回想シーンを挟むという手法がとられているが、これは後々、日本の漫画界、とりわけジャンプ漫画で最も重要な手法のひとつとなったものであるが、私の知る限り、その元祖は、この土佐丸戦だと思う。まあ、それ以前にもあったかも知れぬが、それを最も印象的に使ったのは、この土佐丸戦が始めてだったと思う。それまで、山田達については、あまり過去が語られなかった為に、それをゲームの中でそれぞれ紹介していくというのは、非常に斬新な手法だったと思う。私も非常に印象的だった。そうして、秘打円舞曲「別れ」である。

 この回想シーンの挟み方に限らず、そのほか「ドカベン」が開発した様々な手法が日本の漫画界、とりわけジャンプ漫画に多大な影響を与え、そうして多くのジャンプ漫画の雛形になり、ジャンプの前代未聞の隆盛へとつながっていくのであるが、、面白いのは、それが肝心のチャンピオンには全然影響を与えていないという点である。そこが「チャンピオン」の「チャンピオン」たる所以なのであるが。もちろん褒めてます。

 まあ、「ドカベン」というか所謂水島野球漫画は、日本漫画界のみならず、日本野球界にも、それ以上に多大な影響を与えるのであるが、それはまた別の機会にということで、話をこの対談記事に戻す。

 また、この記事中、井上雄彦は、「明訓が負ける、あの弁慶高校戦は衝撃的だった。自分の漫画にも影響を与えた。」みたいなことを語っており、一方で、水島新司は「あれは失敗だった。やっぱり主人公は負けちゃいけない。」みたいな事を語っているが、ここも私には面白かった。
 この弁慶高校戦というのは、恐らく日本スポーツ漫画史上、チームスポーツとしては最も有名なゲームであろう。その次がおそらく「湘北対山王工業」だと思う。チームという縛りをとると、恐らく上位2つは「あしたのジョー」の2戦、力石徹戦とホセ・メンドーサ戦という事になるだろう。

 それはともかくとして、主人公がま負けることに対して、井上、水島両者の意見が食い違っている点が私には面白い。井上雄彦はそれを世代的な違いじゃないかみたいに述べているが、ただ井上雄彦はまだ主人公の負けは、本当の意味では描いた事は無い、海南大付属には負けているが、インターハイには出場しているし、「リアル」というのは、所謂スポーツ漫画とはちょっと趣が異なるし。

 主人公の敗北というのは、リアリティとかストーリー性といった意味では、重要あるいは必然なのかもしれないが、主人公が負けると、やっぱり人気は落ちるんだよね、これが。実際、ドカベンも、その敗戦以降、人気が落ち、その回復の為に「大甲子園」のアイデアにつながったと聞く。水島新司はそれに懲りて、上記の発言をしているのだと思う。

 この手のものに関して、「主人公が百戦百勝なのは馬鹿げている。」みたいな発言をする人は多いけれど、やっぱり、読者というのは北斗の拳的なもの、あるいは水戸黄門的なものを求めているんだよね。
 たしか、新日本プロレスが一度、アントニオ猪木が負けるアングルを作ったら、次のシリーズから観客動員数がビックリするほど落ちたらしい。
 また、森川ジョージもどこかで、「あしたのジョーの凄いところは、主人公がこれだけ負けているという事ですよ。普通、主人公がこれだけ負けたら、読者はついてきません。」と語っている。
 件の山王工業戦も、井上雄彦のアイデア段階では敗戦の予定だったのが、編集部と揉めに揉めて、勝利に変更、連載終了につながったと聞く。このへんは、百戦錬磨のジャンプ編集部ならではの判断だったと思う。

 実際、主人公が負けて人気が落ちなかったのは、世界広しといえども「あしたのジョー」くらいしかないと思う。もっとも、その「あしたのジョー」にしても、当時、大学生以上の読者はともかくとして、小学生や中学生の読者は、力石やホセに敗れたジョーに対し、「何だよ。」みたいな気持ちにはなったらしい。私も、小学生の頃、「デビルマン」を読んで、最後結局、飛鳥了に敗北したデビルマンに「何だよ。」みたいな気持ちになった記憶がある。ちなみに、「あしたのジョー」は18,19才ぐらいの読むに最も適した頃に読んだので、そんな気持ちには全然ならなかった。

 こうした漫画に限らず、スポーツの世界でも、結局、大部分の観客が求めているのは、やはり勝利なのだと思う。みな、自分では、巨人ファンだ、コルツファンだ、ペイサーズファンだを自称しているけれど、実際のところ、より正確に表現するならば、巨人の勝利のファン、コルツの勝利のファン、ペイサーズの勝利のファンなのである。現実の敗北より幻想の勝利なのである。そりゃそうだ、金を払って、敗北気分をわざわざ味わうのはマゾヒストだけだろう。

 そのほか、この対談記事の面白い点はというと、井上雄彦が南海権左は嫌い、少なくとも嫌いだったと発言し、水島新司は、俺は好きだったと発言している点だろう。この点が、上のリアリティの件も含めて、両者の気質の違いだと思う。ちなみに、南海権左は、もしかしたらドカベンの全キャラクター中、私の最も好きなキャラクターかもしれない。それだけに井上発言は残念であり、水島発言は頼もしい。運だけで勝つ、斬新過ぎる設定じゃないすか。しかも、最後は殿馬の神通力に負けるんだよね。

 でもまあ、スラムダンクもあのまあ、連載が続いていたら、今頃は、この南海権左やBT学園のようなキワモノキャラが登場していたかもしれない。それはそれで見てみたかった気もする。まあ、河田美紀男や宮益、福田吉兆も結構キワモノだけどね。

 こんなとこかな。まあでも、「スラムダンク」が現時点でも水島式スポーツ漫画の最高峰である事は間違いないと思う。バスケットボール漫画なんか、むしろ退化してるもんな。

 あと、井上雄彦の殿馬は下手すぎ。あれなら、俺の方が上手いづら。

                                                              2012/9/6(木)

 今ちょうど、CSで三井寿の「先生、バスケがしたいです。」をやっていた。このシーンは、初めて見たときから思っていたのであるが、こういう風に、スポーツマンの怪我に心理的陰影を絡めて描くというのは、今までのスポーツ漫画にありそうで無かったという事である。それまでのスポーツ漫画、それこそ「ドカベン」等々の水島野球を始め、数多くのスポーツ漫画に、ケガという話柄は、それこそ掃いて捨てる程、描かれているが、そのほとんど、というか全ては、ケガによる技術低下や戦力低下を努力や友情でカバーするという、まあ、はっきり言って、チープな話作りに過ぎなかった。今でも、多い。

 でも、この「先生、バスケがしたいです。」は違う。赤木に対する三井の心理的陰影をベースにケガが描かれている。むしろ、ケガはその象徴に過ぎない。「過去に一番こだわっているのは、アンタだろ。」という宮城の指摘はそれである。本来、自分がなる筈だったチームの中心に赤木がなってしまったという心理的屈折が本来の三井のケガであろう。「大人になれよ。」という木暮の指摘はそれである。もっとも、15,6歳の少年がそれを克服するというのは、なかなか難しい、というかほとんど不可能だろう。木暮の言葉は酷である。そうして、自分でも何がなんだか分からなくなってしまった、ぐちゃぐちゃな状態で安西先生の顔を見た時、全てが氷解したのである。

 この時の、木暮、赤木、安西の三井に対する態度は三者三様で面白い。

 木暮は、上述したように、「大人になれよ。」と諭した訳であるが、これは木暮自身が常に大人的態度をとるように心掛けている事の裏返しであろう。スターターを奪われながらも、それに対する不満を見せるシーンが無かったのは、その証左だろう。力の差がありすぎるというのもあろうが。木暮名物変なTシャツはその反動といったところか。

 赤木は往復ビンタ、謂わば暴力&ガタイにモノを言わせた訳であるが、結局のところ、最後は腕力&ガタイという事か。こういうシーンを見ると、仮に三井がケガをしなくとも、エースの座はともかく、キャプテンの座は赤木の手中に落ちたかと思われる。

 そうして、安西先生は「おや、三井君、お久し振り。」(だったかな。)と、まるで2年間の歳月がなかったかのように、普通に応対をした。大人どころか老人の対応である。白髪鬼から白髪仏へと渾名が変わったこと、また、その後語られる谷沢のエピソードを考え合わせると、この安西先生の対応は感慨深いものがある。

 このように、ケガに心理的陰影を絡めて描くというのは、それまでのスポーツ漫画、あるいは少年漫画には、ほとんど無かった手法だと思う。もしかしたら、少女マンガには似たような手法があったのかもしれぬ。スラムダンクに女性の読者が多いのはひとつにはこの理由に依ろう。

 もっとも、スラムダンク自体は、この手法に味をしめたのか、その後、似たような話が頻出するのであるが。

 ただ、このように考えると、スラムダンクというのは、上の記事にも書いたように、水島式スポーツ漫画の直系であるが、一方では、その水島新司と並ぶ、そうして無数の追従者を生んだ水島漫画と違って、ほとんど後継者のいない、謂わば屹立する孤峰、ちばあきおの後継者であるとも云える。もちろん、ちばあきおの心理描写は、スラムダンクのそれに比べ、はるかに微細かつ正確ではあるが。
 ちなみに、私は谷口タカオのケガのシーンを見ると、いまだに泣いてしまう。つうか、それを、今こうしてちょっと思い出しただけでも涙ぐんでしまう。

 とまあ、ここまでは、初見の時から考えていたのであるが、最近、このシーンを見て思ったのは、この三井と似たような形で、スポーツ、あるいは自分の好きなものや得意なものからフェードアウトしていった人が、世の中には数多くいるのではないかという事である。三井は、なんやかんやで、ゲームに戻ってくる事が出来たけれども(三井寿名言集その8「俺は冬もやる。」、宮城「えっ。」)、そのままゲームに戻れなかった人も、世の中には数多くいるのであろう。

 私は、どちらかというと流川・沢北タイプ、あるいは赤木タイプ、更にあるいは谷口タイプの人間なので、このシーンには、初めて見た時から、あるいは今現在もあまりシンパシーは無いのであるが、このシーンに感動したという人が多い、そうしてスラムダンク名場面のひとつに数えられているのというのは、世の中には三井・丸井タイプの人間が数多いという事の証左であろう。歳取るまで、気が付かなかった。このシーンに感動したという人が不思議だった。歳はとってみるものである。

 
                                                              2012/9/16(日)

  最近、またCSでスラムダンクが放送しているので、ついつい見てしまう。

 スラムダンクについては色々書いてきたが、新たに、というか遅ればせながら、思うた事を少しばかし、

 上の記事にも書いているが、スラムダンクで最も有名なセリフ、人口に膾炙したセリフ「先生、バスケがしたいです。」に、若い頃、私は全然感動しなかった。

 それを最近になって、ようやく、三井ように意気揚々と何らかのスポーツ部に入部しながら、ケガが原因で何となく復帰しづらくなり、三井のようにグレるかはともかくそのまま、部活、そうしてそのスポーツと疎遠になってしまった人が日本中には数多くいて、その人達を救ったのが、かの有名なセリフ「先生、バスケがしたいです。」だという事に気が付いた。

 三井の場合は、幸い、ギリギリの段階でバスケットボールに復帰できたけれども、多くの人達は復帰のチャンスも得ぬまま、卒業、そのままもう二度とそのスポーツをプレイする機会もないのだろう。そういう人達のブスブスとした気持ちを救ったのが、あの三井の言葉だったのだと思う。

 私自身は、上にも書いたとおり、そんな三井のような大言壮語を吐けるような運動能力の無いペッポコ部員だったので、何となく3年間ダラダラ、部活動を続けてしまったので、そんな三井の心理には全然気が付かなかったのであるが、三井のように「全国制覇」をぶち上げるかはともかく、意気軒昂で入部し、ケガの為、なんとなく、そのスポーツから離れ、モヤモヤとした気持ちのまま生きている人は本当に多いと思う。

 そうして、そういう人達の気持ちをマンガで表現したのも、意外に「スラムダンク」が初めてだったのではないかと思われる。細かいものを挙げれば、色々前例はあるかもしれないが、国民的ヒットを飛ばしたスポーツ漫画で、こういう謂わばありふれた心理、日常的なスポーツマンの心理を活写したのは、「スラムダンク」が初めてだったように思う。

 それ以前のスポーツ漫画は「巨人の星」でも「ドカベン」でも「アタックNo.1」でも、尋常ならざる人間の心理、スーパーマンの心理を描く事には熱心すぎるほど熱心であったけれども、この三井のような、どこにでもあるスポーツマンの心理を描く事にはやぶさかであったような気がする。パッと思いつかない。

 ちばあきおの「キャプテン」や「プレイボール」が唯一の例外かもしれないが、意外にあれらもスーパーマン、スポーツの技能的にはともかく、メンタリティ的にはスーパーマンの話なので、意外に普通のスポーツマンの心理はあまり描いていないと思う。倉橋とか半田がそれに当たるだろうが。丸井やイガラシはともかく、谷口なんていうのは、マンガ的にも現実的にも、いそうでいない唯一無二のキャラクターだったと思う。

 そのような視点で見ると、「スラムダンク」にはふんだんに普通のスポーツマン、更には普通の人の心理が活写されている。

 例えば、赤木が他の部員から「うちは普通の学校なのだから、そんなに気張るな。」とたしなめられるシーン。こんなのも日本中の部室で見られる光景であろう。赤木は、その後、奇跡的に彼の努力が実る訳であるが、日本中の多くの赤木は、その努力も実らぬまま、日本中の多くの三井と同じく、ブスブスとした気持ちで卒業していくのだろう。

 また、パチンコ店の残された桜木軍団の気持ちも日本中の多くの不良少年の気持ちであろう。自分達のかつての仲間がスポーツやら音楽やらで頭角を表し、自分達は取り残されていく感じ、応援したい気持ちもあるし応援したくない気持ちもある。そういう感情である。

 また、これは心理とは違うが、木暮や宮益のような、とりたてて運動能力がる訳ではないが、3年間、あるいは6年間、コツコツとやってきた(宮益はコツコツではないかもしれんが、)選手の陽の当たるシーンを作ったりしている。こんなのもスポーツの世界ではよくあるシーンである。
 先に挙げた赤木をたしなめた部員のように成果の見える努力しかしない選手より、結果が見えなくてもコツコツ努力する選手が意外にゲームでは活躍するものなのである。

 また、谷沢のエピソードなども、海外が身近になった90年代以降では、日本中(?)で見られた光景だろう。

 このように、「スラムダンク」には、スポーツの世界における、ごくありふれた光景や心理が溢れている。かつての記事で触れた事があるが、私の知人の言った「スラムダンクにはバスケ部の雰囲気が良く出ている。」というのは、そういう描写の積み重ねによるものであろう。

 ただ、実際問題として、そういう日常的な心理や光景の積み重ねで物語を作るのは非常に難しい。青年誌なら、そういうマンガも成立するかもしれないが、少年誌でそれを成立させるのは、事実上不可能に近いと思う。そういった意味では、この「スラムダンク」は非常に稀有な作品であるし、それが名作たる所以のひとつであろう。

 なぜなら、読者というのは、結局のところ、百戦百勝をみたいのである。水戸黄門が好きなのである。日常的な部室の光景など、わざわざ金を払って読みたくはないのである。
 「スラムダンク」以前のスポーツマンガが、スーパーマンの活躍や心理の描写に熱心だったのは、それが所以であるし、「スラムダンク」以降のスポーツマンガも、結局、スーパーマンの活躍や心理の描写に専心してしまったのも、それが所以であろう。日常的な描写の積み重ねでは、読者は引っ張れないのである。

 そもそも、「スラムダンク」にしても、そのような日常的な描写の積み重ねのみでは、国民的大ヒット作にはならなかったと思う。秀作バスケットボールマンガ止まりだったと思う。というか、そもそもジャンプでの連載は不可能だったろう。

 「スラムダンク」を国民的大ヒット作たらしめたのは、申す迄もなく、90年代の岩鬼、桜木花道の力である。桜木が画面一杯に無軌道に暴れたからこそ、読者が引っ張っていかれたのである。湘北高校バスケットボール部は赤木と木暮が土台であったが、「スラムダンク」というマンガ自体の土台は桜木花道なのである。桜木花道という絶対的な非日常的土台の上に、三井や木暮、福田、南等々の日常的なエピソードは成立しているのである。

 あと、今回アニメを見ていて初めて気付いたが、敵のチームに桜木がいたら、めちゃ腹立つ。田岡茂一に同情する。つか、同じチームにいても腹立つ。もし、海南に花道がいたら、清田はツッコミ死にしている事だろう。

                                                             2014/4/2(水)
 コントロール   ちょっと話柄が遅れてしまったが、バンクーバー冬季オリンピックの女子カーリングについて少々。

 日本女子カーリングチームの試合を数試合見て思ったのであるが、日本チームは他の強豪チームと比べるとやはりコントロールに甘さがある様な気がした。カナダやスウェーデンチームがストーン半個分でコントロール出来るのに対し、日本チームは、たまたま調子が悪かったのかもしれないが、ストーン1個分でしかコントロール出来ない様な気がした。

 カーリングという競技の場合、この差はかなり大きいと思う。なぜなら、ストーン1個分以内でコントロール出来ないと、当たったストーンに角度を付けられないからである。当たったストーンに、偶然ではなく、技術で角度を付けられないと、戦略に大きな制限が出来てしまう。日本チームは、このコントロール力の差で予選敗退に追い込まれたのだと思う。

 あとまあ、こういう事はあまり言いたくないが、カナダやスウェーデンといった強豪チームがスポーツとしてカーリングをプレイしているのに対し、日本チームはレクレーション、とまでは言わないが、スポーツとレクレーションの間ぐらいの気持ちでカーリングをプレイしているように見えた。
 件のコントロールの無さも、技術的な理由もあるのだろうが、それより何より体力的な理由が大部分を占めているように見えた。彼女たちの体は完全なスポーツマンの体ではなかった。トレーニングをしてプレイするゲームがスポーツであり、トレーニングをしないでプレイするゲームがレクレーションである。

 ちなみに、その後、男子カーリング決勝のゲームを観たが、これはもう、戦術的にも技術的にも、日本女子カーリングとは全然別のゲームであった。女子カーリングのゲームで興奮していたのがバカらしくなったくらいである。かつて日本の大学ラグビーで興奮していた私が5ヶ国対抗(今は6ヶ国やね。)ラグビーを観た時と同じような感覚を味わった。

 さて、では何故、このカーリングの話をこのNBA・ペーサーズの項目でしたかというと、バスケットボールのシュートに於いて、前後のブレより横のブレの方が修正が難しいという話を思い出したからである。これは勿論、前後のブレは力の強弱だけで修正できるのに対し、横のブレは手首、ないし腕の角度そのものを修正しなければならないので、その分だけ難易度が増すのであろう。

 そのコントロールという共通項だけで、カーリングの話をバスケットボールの項目に書いちゃいました。もっとも、カーリングの場合は、前後のブレはスイープしちゃうので、ほとんど関係ないのだけれど。ただまあ、実際、前後のコントロールに関しては、日本チームとカナダやスウェーデンチームにそんなに差はないように感じた。やはり前後より左右の方が難しいのであろう。

 QBやピッチャーになると、この前後・左右に加えて上下も加わるので(ピッチャーの場合の前後は単に速度やね。)、より難易度が増す。上下はリリースポイント自体を変えねばいけないので、左右より更に難しくなる。

 我々はスポーツ観戦をしていると、気楽に「このノーコン野郎。」などと罵ってしまうが、10メートル、20メートル先にボールをコントロールするというの一般に考えられているより、実ははるかに難しいのである。私なんか、鼻紙を1メートル先のゴミ箱に入れるのでさえ、2回に1回は外してしまう。でも、「ノーコン野郎。」と罵るのは止められないけど。

 しっかし、ペーサーズの試合はいつになったら放送してくれるのか。もしかして今年は無いのか、無いんだな、そうなのか。

                                                                        2010/3/10
 フェアと
スポーツマンシップ
  1週間ほど前、NBAドラフトが行われペーサーズはフォーワードを3名ピック、内一人はトレードに出した訳であるが、それでいいのか。詳しく分からないから何とも言えないが、フォワードばっかり取っちゃって、それで良いのだろうか。今ペーサーズが欲しいのはバリバリのスコアラータイプのSGだと思うのであるが。なんかシュートの上手いSFがやたら多い様な気がするのであるが、どうであろう。グレンジャーとはお別れが近づいているということか。
 何というか、バードがGMに就任して以来、この手のシュートの上手いSFタイプ、要するにバードみたいなSFをやたら掻き集めている様な気がするのであるが、これは私の錯覚であろうか。バードがGMつうか副社長に就任して何年経過したかは忘れてしまったが、正直、GMとしての能力はいまいちなのかなとも思う。バード批判はインディアナ州ではご法度だろうけど。

 それはともかく(それはともかく、って。←三村風に)本題である。今回のお題は直接どころか間接的にもNBAやバスケットボールとは全然関係ないのであるが、他に書く所もないので、このコーナーに納めてみることにした次第である。NBAもNFLもオフシーズンなので、得意のグダグダコラムでお茶を濁そうという訳である。毎回「選手紹介」じゃ、私が飽きちゃうので。適当にグダグダコラムを混ぜていくので、よろしく。

 先日、つっても半年ほど前であるが、本屋さんで得意の立ち読みをしていると、元ヤクルト・スワローズの古田敦也の著作に次のような記述があった。「僕は所謂ささやき戦術はしません。フェアじゃないと思うからです。」、細かい措辞は忘れてしまったが、そのような文章だった思う。

 ささやき戦術の賛否はともかく、私がこの記述で引っかかったのは「フェア」という言葉の使い方である。「フェア」という言葉は日本語で表せば、「同等で」とか「同条件で」ということになるだろう。英語でもそういう意味で使われている筈である(それが違っていたら、このコラムの一切の根拠が崩壊するけど。)。
 しかし、ささやき戦術を使う使わないとフェアとは全くの無関係である。ちなみに「ささやき戦術」というのは日本プロ野球を知らない人のために補足しておくと、主にキャッチャーがバッターに話しかけて、その集中力を乱すという野村克也式野球戦術の一つである。より詳しく知りたい方はグーグルなり何なりで適当に検索すれば、嫌ってほど出てくると思います。
 閑話休題。確かに、身体的欠陥(まあ大概、口の効けない人は耳も聞こえないけど。)があったり、ルールでマウスピースの着用などが義務付けられていたりして、バッターが喋れない状態にあり、キャッチャーだけが喋れる状態にあるのならば、それは「同等」「同条件」でないのだから、「ささやき戦術」は「フェア」ではない、という事になるだろう。しかし普通大概、バッターは喋れる状態にあるのだから、「ささやき戦術」と「フェア」云々は何の関係も無い話である。バッターがささやいて、キャッチャーの配球を惑わす事も出来る訳である。
 NBAでも、マイケル・ジョーダンやラリー・バード、ゲイリー・ペイトンなどのトラッシュトークが有名であるが、彼らのその行為を「フェア」でないと非難した人を、少なくとも私は知らない。

 古田がここで使うべき言葉は「フェア」ではなく「スポーツマンシップ」だったと思う。「僕は所謂ささやき戦術はしません。スポーツマンシップに反すると思うからです。」。これなら意味が通る。おそらく古田も「スポーツマンシップ」という意味でこの「フェア」という意味で使ったのだと思う。また、この言葉も単なる発言ではなく文章なのであるから、編集者や校正のチェックを通過してきた筈である(ゴーストライターはわざと外しました。)。それでも、この言葉のまま、この本(題名は忘れた。すみません。)が出版されたというのは、古田に限らず、多くの日本人がこの二つの言葉の意味を混同、ないしは同じ様なものと思っているからである。青リンゴと赤リンゴぐらいの違いに思っているのかもしれない。しかし、実際はリンゴとミカンぐらい違う。いや、リンゴとコケシくらい違う。

 この手の比喩はどんどん深みに嵌って、どんどん訳の分からない方向に行ってしまうので、具体的な説明に移ろう。

 まずは「フェア」から。フェアというのは、先にもちょっと触れたとおり、「同等で」とか「同条件で」とかいう意味である。スポーツの世界における有名なフェアは、例えばボクシングやレスリングなどにおける体重別階級制であろう。格闘技の世界における体重は、一般に考えられているよりもはるかに大きく勝敗に影響するものなので、その影響を排すべく、体重別階級制を設けているのである。
 そのほかスポーツにおける「フェア」は、実際のところは当たり前すぎる事なので、人の目にはっきり触れる事ではないが、チームスポーツにおいては、例えば両チームを同人数にするとか、サッカーやバスケットボールなどにおいては両ゴールの大きさや数を同じにするとか、野球やボウリングなどにおいては両チームの攻撃回数を同じにするとか等々の、要するにルールに明記されているものばかりである。逆に言えば、両チームの「フェア」を保持するためにルールが存在するといっても良いくらいである。もちろんルールの半分くらいはゲームを作るためのものであるのは、云うまでも無いことであるが。

 「フェア」から派生した言葉に「フェアプレイ」という言葉があるけれども、これも「ルールに則って」とか「ルールに忠実に」とか「ファウルをしない」とか「ルールを統括する審判に逆らわない」等々のルールに絡める意味で使われている筈である。サッカーのW杯に「フェアプレイ賞」という賞があったはずであるが、それは今言ったような事に良く該当する選手に与えられる筈である。

 一方で「スポーツマンシップ」というのは、いちいちルールには明記しないけれども、常識的に考えて非難されるべき行為を表すために使われる言葉である。例えば、バスケットボールで敵の選手の顔に至近距離からボールをぶつけて退場に追い込むというのもルール的には可能、すなわち「フェア」であろうが、スポーツマンシップに反する事は言うまでもあるまい。これが「ルール的には可能」、すなわち「フェア」であるというのは、「味方プレイヤーにパスしようと思ったら、誤って相手プレイヤーの顔面に当たってしまった。」という言い訳が成立するからである。しかもパス自体はルール的には当然可能である。そして、このプレイ自体は両チーム共に「同等に」可能である。しかしながら、こんな事を両チームがしていたら、ゲーム自体が成立しなくなるのは言うまでもない。

 NBAには「アンスポーツマンライク・コンダクト」というルールがあり、NFLにも、名称は忘れてしまったけれど、似たようなルールがあったと思うが、それらはこういう一般的なルールでは捕捉できない行為を取り締まるための特殊なルールというべきであろう。この「アンスポーツマンライク・コンダクト」に対して、「アンフェア・コンダクト」というルールが無いのは、アンフェアなものは既にルールで除外されているからである。

 ここで面白いのは「フェア」な行為の多くは「〜しなければならない。」または「〜した方が良い。」というような義務・推奨の行為、すなわち肯定的な行為であるのに対して、「スポーツマンシップ」に則った行為の多くが「〜してはならない。」もしくは「〜しない方が良い。」というような禁止・抑制の行為、すなわち否定的な行為であることだろう。
 実際、アンスポーツマンライクな行為はいくらでも思いつくが、スポーツマンライクな行為といわれてもパッとは思いつかない。せいぜい試合終了後の握手くらいだろう。もっとも、これもしなかった場合には非難されるが、した時に褒められる訳ではない。あと、サッカーで相手チームに負傷者が出た際に、ゲームを止める為にボールをラインの外に蹴り出すという行為があるが、これも、どちらかといえば、ゲームの「フェア」を維持するための行為であり、スポーツマンシップに則った行為とは言いにくいのではないだろか。

 また「スポーツマンシップ」の特徴として、この議論の発端となった「ささやき戦術」がそうであるように、観る人によって、肯定的にも否定的にも採れるというのがある。ささやき戦術も、人によっては「ルールに違反している訳ではないのだから、悪くない。」と主張するだろうし、また古田のように「あれは間違っている。」という人もいるだろう。
 先に挙げたバスケットボールの例なども、観る人によっては、「あれは手が滑ったのであり、悪質な行為ではない。」と主張するだろう。野球の危険球などもその好例で、当初は「アンスポーツマンライク」な行為として非難されていたに過ぎなかったのであるが、結局、その線引きを明確にするため、頭部へのデッドボールは一様に退場というルールが設けられた。
 一方、「フェア」に関しては、これは誰の目にも明らかというのがその特徴のひとつである。コート上に、一方が5人、他方が6人ならば、誰の目にも一目瞭然で「アンフェア」である。先の「頭部へのデッドボールは一様に退場」というのも、これも誰の目にも明らかにする為に作られたルールである事は自明だろう。

 とまあ、ここまで長々と「フェア」と「スポーツマンシップ」の違いを長々と書いてきたのは、上にも書いたように、多くの日本人が、この二つの言葉の意味を、混同しているように思われるからだ。もし、この言葉の意味を日本人が明確に区別しているのなら、先の本でも、古田なり編集者なり校正なりゴーストライターなりが気付いて、直していたことだろう。直さずに出版されたというのは、多くの日本人がこの二つの言葉を使い分けていないという証拠だと思う。

 私の見たところ、多くの日本人はこの二つの言葉を、日本語で言うところの「卑怯ではない」とか「正々堂々」というようなの意味で使っている。件の古田の文章も「僕は所謂ささやき戦術はしません。卑怯だと思うからです。」としてなら意味が通る。しかし「フェア」の意味は「同等」である。「僕は所謂ささやき戦術はしません。同等じゃないと思うからです。」では意味が通らない。

 では何故、多くの日本人がこの二つの言葉を同じような意味で使っているかというと、それは日本人が「フェア」に関して非常に鈍感な民族であるからだと思う。私が先に「フェア」の好例として挙げたボクシングやレスリングの体重別階級制も、日本の相撲や柔道にはない。そのくせ、それらは体重の重いものに非常に有利に出来ている。だがそれを日本人は「アンフェア」として論う事はしない。

 一方で、日本人が敏感な概念のひとつに「卑怯」がある。「相撲のはたき込みは卑怯である。」とか、「男なら正々堂々ストレートで勝負して来い。」なんて議論はあちこちで見られる。「フェア」という言葉も、そうした日本人の心情の中で、いつの間にか「正々堂々」とか「卑怯」じゃないという意味に変化してしまったのだろう。まあ確かに「フェア」という言葉の概念の一つにそれらも無くは無いけどね。そうして元々「正々堂々」とか「卑怯」とかいう意味に近かった「スポーツマンシップ」と同義語になってしまったのだろう。

 日本人が「フェア」に関して鈍感である事の理由は、いろいろと考えられるだろうが、そのひとつは何といっても日本人がほぼ単一民族国家だということであろう。天から与えられた条件がほとんど同じなのであるから、わざわざ「フェア」、「同等」「同条件」という事に敏感になる必要はない。
 一方で、他の国々、例えばヨーロッパ人などは宗教によっても生活スタイルが随分異なるし、また日本人よりもはるかに身近なところに黒人がいる。天から与えられた条件の相違を感じずに入られないだろう。自然、「フェア」に関して敏感ならざるを得ない。
 ヨーロッパ人が天才や才能を重視するのに対し、日本人が努力を重視するのも、こうした心理的傾向の表れだろう。

 まして、多民族国家であり、なおかつ「競争」「コンぺション」を国家原理とするアメリカ合衆国である。「フェア」に関して敏感にならざるを得まい。高校や大学の運動部のスポーツ大会ですら、学校の規模で階級分けをし、「フェア」を維持しようとするのも当然といえば当然の措置である。
 話はちょっと逸れるが、マイケル・ジョーダンの言葉に次のようなものがある。「人生は競争であり、競争が人生である。」、これはそのままアメリカ合衆国の憲法であるように思う。

 昨今の日本では増税論議が盛んである。私は日本の税金は安すぎるくらいだと思っているので、増税しても全くかまわないが、ただし、それは今よりずっと「フェア」な徴税体系であって欲しいと思う。と、ちょっと時事ネタ。

 しかし、これだけ書いてきて例の古田の本の記述が私の記憶違いであったら身も蓋もないのであるが。一番肝心なところは裏を取らないというのは私の悪い癖である。つーわけで、私の書いていることを鵜呑みにしないよーに。

 今、ペーサーズの公式サイトを見ていたら、「PASSION PRIDE PACERS」つうダサいキャッチフレーズを発見。しかし、そのダサいところがインディアナ州らしくて、良し。

                                                              2010/7/1

 レブロン、ヒート入りしちゃいましたね。クリーブランド残留が最良のシナリオ、というか、それ以外に選択の余地はないと思っていたので、私にとっては少々意外な移籍劇でした。

 しっかし、レブロンはこれで随分と、サラリーのみならず、いろいろなものの値を下げちゃったなあ。広告収入もこれで、マイケルの10分の1、下手すれば100分の1、1000分の1にまで下げてしまうのじゃないだろうか。
 そして、そんなサラリーより何より、プレイヤーとしての格を、この一件でもの凄く下げてしまった。もはや、レブロンは単なるスーパースターでしかない。「単なるスーパースター」というのもよく分からない表現であるが、マイケルやコービーのようなスペシャルなプレイヤーではないという事である。ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、アブドゥル=ジャバー、ドクターJ、バード、マジック、マイケル、シャック、ダンカン、コービーといったスペシャルなプレイヤー(ピストル・ピート、モーゼス・マローン、バークリー、オラジュワン等は意見の分かれるところかな。)に仲間入りするための扉は完全に閉じられてしまった。はっきり言って、レブロンの人生における、最大の愚かな決断だったと思う。

 このチームで確かに優勝はするだろうが、その代償として失うものがあまりにも大きい。しかも、優勝できなければ、NBA史に残る愚行として、歴史に名を刻む事になる。

 あと5年10年、どうして待てなかったかなあ。こんな強引な移籍など、晩年になればいくらでも出来る。全盛期のプレイヤーのやる事ではない。
 また、これから10年の間に、クリーブランドで優秀なHCや強力なCやSGと出会う可能性も、まだまだあった筈である。
 焦った末の行動というのは、大概多くのものを失う結果になる。レブロンは、この一件で、高校生の頃から約束されていたもの全てを失ってしまった。

 かつてマイケル・ジョーダンが優勝できない頃、「移籍を考えないのか。」と問われ、「私にはこのチームを優勝させる義務がある。」と返答したそうである。

 プロスポーツマンにとって、自分の生まれ育った土地にあるプロスポーツチームで選手生活を全うするくらい幸せな事は、他にないと思うのだけどなあ。仮に優勝できなくても。

 とまあ、レブロン話が長くなってしまったが、今回の主題は「スポーツマンの道徳」についてである。スポーツマンシップについて、少々話をしたので、相撲界の野球賭博が世間を賑わせている事でもあるし、いい機会なので、今回はそれを少々深めてみたいと思っていたわけである。ちょうど、そう思っていた矢先、このレブロン移籍報道を耳にしたので、少しばかり関係もあることだし、今回の枕に使ってみた訳である。

 はっきり言って、これから先はスポーツマンに対する悪口ばかりになるので、そういうのが嫌いな方は、ここから先は読まない方が良いと思う。不快な思いをするだけです。

 前回、「スポーツマンシップというのは、〜しない、〜してはならない、というような消極的否定的な意味しかない。」と私は書いた。ところが、世の中には、スポーツマンシップというものを何か肯定的積極的な価値のように捉える人達がいる。特にスポーツマン自身にそういう人が多い。「スポーツをすることで精神的に鍛えられる、人間的に成長する。」というような類の話である。

 しかし、私はスポーツをしても、精神的に鍛えられたり、人間的に成長する事はないと思う。確かに、それなりには鍛えられるかもしれないが、そんなものは普通に生活をしていても、例えば、コンビニでバイトしたり、農家で農作業したって鍛えられる類のものである。スポーツをしなければ、鍛えられないような特別なものではない。スポーツなんかするより、飛び込み営業でもした方が余程鍛えられる類のものだろう。

 PL学園野球部のOBが、「高校時代の寮生活で人間的に成長した。」みたいなコメントをよく出すが、少なくとも桑田や清原、立浪のその後の言動を見る限り、とても人間的に成長したようには思えない。スポーツ界では、どうだか知らぬが、一般社会から見れば、むしろ人間的には平均より下の部類に入ると思う。紳士ではない。

 そもそも20歳を過ぎて、体を動かしたり、勝負事に熱中したりする事のできる人間は、その時点で紳士失格である。スポーツというのは元来子供のやる事であって、大人のやる事ではない。そうして紳士は、例外なく大人である。これは動物でも同じ事で、例えば犬なども、仔犬の時は、キャンキャン吠えたり、あちこち走り回ったり、絶えず運動しているが、ある程度年をとるにしたがって、体を動かさなくなり、老犬は日がな一日、犬小屋の前で、くた〜としている。「君子無所争、必也射乎、」 中国は大人の国である。スポーツが流行らないのも無理はあるまい。スポーツや勝負事など馬鹿らしいと感じるのが、大人、紳士というものだろう。

 また逆に言えば、立派な紳士や大人では一流スポーツマンにはなれないとも云える。一流スポーツマンは皆例外なく子供である。長嶋茂雄、モハメド・アリ、マラドーナ、マイケル・ジョーダン等々、そうして何よりベイブ・ルース。
 マイケル・ジョーダンは、例えばゲームボーイのような携帯ゲーム機などで遊んでいても、相手が自分より高得点を獲りそうになると、肩をぶつけて邪魔してしまうそうである。これも、私の大好きなマイケル・ジョーダンのエピソードであるが、立派な、というか普通の大人のやる事ではないだろう。

 横綱の品格などというのも、これと全く同じで、子供の頃から相撲ばかりしていると、一人前の大人、一般的な社会人にはなれなくなってしまうから、せめて横綱くらい、もうこれ以上強くなる必要の無い横綱くらいは、大人っぽい行動、普通の社会人のような行動をとるように努めなさいという戒めであろう。すなわち、今まで推奨されていたような行動、強くなるために推奨されていたような行動とは反対の行動をとるように戒められるのであるから、朝青龍ならずとも、混乱するのは無理もあるまい。

 しかし、今回の野球賭博の一件で明らかになったように、相撲取りは取り組みの間にも、花札や野球賭博のような勝負事をしているというのだから、どんだけ勝負事が好きなのだろう。マイケル・ジョーダンも、かつて、ファイナル(違ったかな。)の合間に賭けゴルフをしていて、随分と叩かれていた筈であるが、勝負事の合間に勝負事って、完全にジャンキーである。
 しかも、スポーツにしても博打にしても、そんなものはどれだけ勝ったところで、全て幻想である。幻想の勝敗に一喜一憂しているというのだから、おめでたい人たちである。体を鍛えてホームランを打ったって、別に社会の役には立たない。スポーツは、どこまでいっても非生産的非社会的な運動である。引越し屋のアルバイトでもした方が、はるかに生産的社会的である。

 まっ確かに、プロスポーツや博打となると、そこに大金が絡むので、一概に幻想、非生産的非社会的とは云えないかもしれないが、スポーツや勝負事が本質的に幻想であり、非生産的非社会的である事は間違いないことだと思う。

 そういう訳であるから、私はスポーツマンが大金を得る事には、実は大反対なのである。博打が禁止されるのなら、同じ理由でスポーツマンが大金を得る事も禁止されるべきだろう。スポーツ団体がその事業で得た収益は、最低限の経費を除いて、国庫に収めるべきだと思う。でなければ、プロスポーツマンには99%の所得税をかけるべきだろう。
 プロスポーツマンにならなければ、貧しさから抜けられないという国もあるようだが、そんな国こそスポーツなんかしている場合ではない。スポーツなどしなくても、貧困から抜けられるような国にすべく、まずは社会改革をせねばなるまい。

 スポーツと政治という話が出たので、ちょっと話は逸れるが、先日行われた参議院選挙でも話題になった元スポーツマンの立候補について、軽く私見を述べたい。

 元スポーツマンが選挙に立候補したがるというのは、洋の東西を問わず、頻出する現象であるが、その理由は、私の見るかぎり、ふたつあると思う。

 一つ目は、申す迄もなく、彼らの引退の早さであろう。一般社会人に比べると、30年近く早く現役を引退してしまう。そうして、これは人にもよるが、食うには困らないだけの財産は既にある。結果的に、やることがなくなり、政党から誘われると、ちょっとやってみようか、という気になってしまうのだろう。

 そうして、もうひとつは、、これはあまり指摘されない事だけれど、選挙自体がひとつの勝負事だという点もあると思う。長らく勝負の世界に生きてきた彼等にとっては、当落選という形で白黒のはっきり出る選挙は、彼等のメンタリティに非常に合致するものなのだと思う。いわば、萌える燃える、のだろう。

 ところが、落選してしまえば、それで終わりであるが、ひとたび当選してしまうと、そこから先は白黒のはっきりしない、常にグレーな政治の世界である。彼等の多くが当惑する。全てと言ってもよいかもしれない。
 まして、政治活動というのは、詮ずる所、ルールを作る事、ルールを変える事、そうしてそのルールが社会に対して、どのような影響を与えるのか、考える事である。彼等にとって、最も苦手な事、やったことの無い事であるのは、言うを待つまい。いちいちルールを作ったりルールを変えたがるような人間にスポーツは出来ない。ルールに対する絶対服従がスポーツマンの第一歩である。

 一方、同じタレント候補といっても、芸能人の方が、スポーツマンに比べると、当選後、政治家としての成功例が多いのも、ここから説明がつく。もともと芸能界というのは、ある意味、政治の世界以上にグレーな世界、魑魅魍魎な世界であるし、また、ルールを作ったり変えたりというのも、彼等にとっては非常に馴染みの深い活動だろう。

 また、同じ理由で、相撲協会に限らず、多くのスポーツ団体の経営を、元スポーツマンがやっているというのも非常にナンセンスだと思う。大工がそのまま建設会社の社長になるのは中小、というか零細企業のみである。まして、スポーツ団体の経営というのは、あらゆる経営の中で最も難しい経営である。ちなみにその中でも最も難しいのが、プロ格闘技の経営である。この話については、日を改めて(来年くらいかな。)、詳述したい。

 なんだか、プロスポーツチームのファンサイトらしからぬ内容になってしまったが、この「インディアナポリス研究会」は、厳密に言うと、コルツやペーサーズを肴にぐだぐだ言うサイトであって、コルツやペーサーズのファンサイトではないので許してちょーだい。と、言い訳。

 ただ、スポーツにおける勝敗は全て幻想であるということは、スポーツファンは常に頭のどこかに置いておくべき事だと思う。

 スタインブレナーよ、あの世(たぶん地獄。)では、ビリー・マーチンと喧嘩するなよ。って、するか、やっぱ。

                                  サブのトークテク、最高。 2010/7/14

 <1/2/3>