〈2022〉
打順 | 「ドラゴンボール」の話に入りたいのであるが、その前に、ちょいと本の感想を。 過日、「Dr.マシリト 最強漫画術」という本を読んだのだけれど(もち、立ち読み)、その本に鳥嶋と鳥山明の対談が掲載されていて、鳥山明は「芦田豊雄の影響を受けた」と語っていて、「なるほどな」と思った。 もっとも、「影響を受けた」のは鳥山明だけではなく、芦田豊雄も同様であろう。んで、「ガラット」を作って…。良い子は「バイファム」を見よう。 んで、同じ本で、今度は鳥嶋が当時の「東映動画」への不満を語っていた。なんでも、全然自分の意見を聞き入れて貰えなかったそうで、それで業を煮やして「Z]にしたのだという。「見解の相違」って、あるよね。つか、あれで、まだ不満なのか。鳥嶋とは一緒に仕事できんな。 さて、その鳥嶋の御不満作「ドラゴンボール」の話である。 世間的には、鳥山明の「代表作」となっており、私はそれに不満プンプン(byさとう珠緒)なのであるが、それへの恨みつらみを述べてもくだらないので、ここでは、その鳥山明の「代表作」、「ドラゴンボール」への私見を述べたいと思う。 「ドラゴンボール」の連載当初、というか第1話を読んだ時の私の感想は、どこかで書いたと思う。寒風吹きすさぶ冬のある日、友達と「ジャンプ」を回し読みした。 私の感想は、「大丈夫か、鳥山明」であった。まあ、「マンガ家を辞めたい」というのは、あちこちに書き散らかしていたので、「わざとつまらないマンガを描いて、この業界から逃げ去りたいと思っているのかな」とも勘ぐったりした。 も一つ思ったのは、「今更、西遊記もの」である。「西遊記もの」なんていうのは、当時、子供だった私にしたって、繰り返し目にした、読まされた、うんざりしたジャンルである。例の日本テレビの西遊記、ドリフの西遊記、スタージンガー、その他もろもろ、10歳前後の私が、すでに辟易しているジャンルである。「そんなもの、今更やって、大丈夫か。」っていうのはあった。 もっとも、この「今更、ほにゃらら」っていうのは、その後の経験から結論すると、「作者の自信」の表れともいえる。「ワンピース」の「今更、海賊もの」、「ナルト」の「今更、忍者もの」(これは、ホントに驚いた。「今更感」がハンパなかった。)、「デスノート」の「今更、死神もの」、いずれもヒット、それも大ヒットした。 まあ、そういう「ベタのもの」を描いても、「自分なら、新しい面白さを引き出せる」という自信が作者にあったのだろう。また、「ベタ」って事は、それだけ「ベースはしっかりしている」という訳だしね。もっとも、「『ベタ』に手を出して、死屍累々」のパターンも大量にある訳ではあるが。 逆に、「そんなジャンル、大丈夫なの」と思った代表作は、なんといっても「スラムダンク」のバスケットボールであり、「ヒカルの碁」の囲碁であろう。これは、まさしく、前者とは逆に、「『厳しいジャンル』でも、自分なら、新しい面白さを引き出せる」という自信が作者にあったのだろう。まあ、こちらも、「『厳しいジャンル』に手を出して、死屍累々」は大量なのであるが。 まあ、マンガの良し悪し、ヒットするしないに「ジャンル」は、あんま関係ないって事だよね。 ちなみに、私の「大丈夫か」という不安は、裏目に出ることが多い。 パッと思いつくのは、「ミニ四駆」。 プラモデル屋で、それを初めて見た時は、「これ、大丈夫か」と思ったものである。直進しかできないし、600円とお高いし。「これなら、ガンプラ2個買うよね〜。」なんて思って、バカにしきっていた。 それから、2年後くらいかな、「スーパータイム」(懐かしい、覚えている人いる?。逸見さ〜ん。)で、「今、子供たちの間で、『ミニ四駆』が大ブームです。」。 いや、ビックリしたね。まあ、私が見たのは、最初期版の「オフロード」タイプのミニ四駆であり、人気が大爆発した「スピード」タイプというか、「ラジコン・レプリカ」タイプではなかったので、許してね。でも、「ラジコン・レプリカ」であっても、直進しかしないもの、600円もするものが、人気爆発するとは、予想できなかったろうな〜。 で、もひとつ印象深いのは「セーラームーン」。 「セーラームーン」の放映直前、たまたま、私は、誌名は忘れてしまったけれども、アニメ誌を立ち読みしてた。その中に、アニメ関係者の座談会みたいな記事があって、その参加者の一人が、「この春の新番組で、バケる可能性があるのは『セーラームーン』」みたいな事を言っていた。 で、私は、何話目かを視聴、いや試視聴してみたのだけど、「いや、これバケる?。アイキャッチは野郎の声だし、「セーラー服美少女戦士」って、自分で断言しちゃってるし、完全にヲタク向けアニメでしょう。よく、こんなもん、テレビ朝日が許したな。」なあんて侮っていたのであるが、それから1ヶ月もしないうちに、日本中の女の子が、それから、数年後には、世界中の女の子が、「月に代わって、お仕置きよ。」。 アニメ史どころか、世界女性史に名を遺す作品となった訳である。ボーヴォワールもぶっ飛んだ。 いや〜、完全に見損なってたね。女の子、それも本当に世界中の女の子が、既存のヒーローものに忸怩たる思いをしてたって事なんだよね。まあ、なんつーか、足手まとい&拉致られ要員であることに。なんつーか、さやかさんである事に。そうして、白鳥のジュン、つーかパンチラ要員である事に。 それを初めて打破したのが、南夕子、あるいはモモレンジャーである。実際、歴代モモレンジャー役の女優は、下は4歳から、上は大学生まで、それこそ膨大な数の女性からのファンレターを頂くらしい。 でも、彼女らはあくまで、ヒーローの中の一人に過ぎない。今から思えば、南夕子は単独でエースに変身すべきだったと思う。北斗星司は要らんかったよね。邪魔だったよね。 ただ、それを完全に打破したのが「セーラームーン」なのであろう。全員女の子。しかも、がっつり「勝利・友情・努力」の物語。そこに、「恋愛」や「オシャレ」、「食い意地」も加わってるのだから、そりゃ、世界中の女の子が夢中になるよね。たまに、タキシード仮面に助けてもらうし。 あとまあ、意外に忘れられがちな「セーラームーン」の影響のひとつとして、「フィギュアの一般化」というのがあると思う。これと、これに続く「ワンピース」は、「フィギュアの一般化」に大きく貢献したと思う。あと、「チョコエッグ」もあるかな。 私は「フィギュア」の黎明期を知っており、しかもクソミソに悪口を言っていたので、こんなものが「一般化」、つか「市民権」を得た事に感無量、というか忸怩たるものがある。いやいや、良かったよね。新しい価値、新しい商売が生まれたのだから。 で、話をも一度「今更感」に戻すが、この手の「今更感」の中で当時の私が最も驚いたのは、「ナルト」の「忍者モノ」である。 当時も何も、「忍者モノ」なんていうのは手垢にまみれ切ってるジャンルである。 「忍者モノ」なんていうのは、それこそ、立川文庫の「猿飛佐助」に始まり、「伊賀の影丸」等々で一世を風靡した「ジャンル」である。 もっとも、その後、下火になったかというと、そんな事は全然なくて、「忍者モノ」は「魔球モノ」に姿を変え、水島新司の登場により一掃されたかと思いきや、「アストロ球団」を経て、車田正美が仲介し、一連のジャンプマンガに継承され、「ジョジョ」で「能力バトル」という新名称を与えられた、日本の少年マンガというか、日本の少年の娯楽における巨大ジャンルというか、幹、保守本流のジャンルなのである。 ただ、それが「忍者」という形で先祖返りしたことに私は一驚したのである。まあ、その直前にも「忍空」とか「ムジナ」(コラコラ)とかあるけどね。 あとまあ、「忍者モノ」で忘れてならないのが、ある意味「忍者モノ」の頂点とも謂われる(誰も言ってない)「忍者ハットリくん」であろう。 「忍者武芸帳」みたいなマンガが出てるつうのに、これを描いちゃうんだから。しかも、「サスケ」と一緒に「少年」で連載してるというね。やってて恥ずかしくないのか。しかも、「ニンニン」という「忍者モノ」で最も有名なセリフ、つうか口癖(?)まで発明してるというね。いや、忍者は絶対「ニンニン」って言わねえ〜だろ。って、念のため、ツッコんどいたが、こんなツッコミすら恥ずかしい。 あと、「プロゴルファー猿」ね。これも、作者がゴルフを知らず興味もなく、編集部からの依頼で描いたつうなら分かるが(それでも、どうかと思うが、)、作者がゴルフを好きで、「子供たちにゴルフの楽しさを知ってもらいたい」という気持ちで、あの作品はおかしーだろ。動機と結果がつながってねーよ。あれを読んで「プロゴルファーになりたい」と思う子供はいねーだろ。いや、いるの。いたの。 こちらは「あした天気になあれ」より先の作品だから、「忍者ハットリくん」と「忍者武芸帳」の関係ではないけれど、にしてもである。しかも、当時は「ドカベン」とか「キャプテン」とかは既に登場してたからね。ゴルフはともかくとして、「スポーツはリアルに描くべき」というトレンドの中で、あのマンガ。スゲーよ。 藤子不二雄というと、どうしても藤本弘の方がクローズアップされがちだけど、真の天才というか、真の怪物は安孫子素雄の方だと思う。「『忍者ハットリくん』と『プロゴルファー猿』は、なぜ描かれたのか」というテーマで、私は全100巻の哲学論文が書ける。「魔太郎がくる」で全10巻、「狂人軍」で全5巻が書ける。 話が大きく逸れた。 さて、そんな不安な立ち上がりをみせた「ドラゴンボール」であるが、それでも私は読んではいた。無論、「面白くて」読んでた訳ではない。勿論、鳥山明の作品だから、当然チェックはしている訳だけど、「面白くて」とか「楽しみで」読んでた訳ではない。 こちらも、肉体的には無論の事、精神的にもどんどん成長していく中学高校時代である。生意気盛りである(えっ、それは今も変わってないって、)。「監視」は大袈裟かもしれないけど、「観察」ぐらいの気持ちでは読んでいた。現在日本ナンバー1のマンガ家の最新作はチェックしておかねばならない。なんつーか、これは子供としての義務である。 もっとも、これは大人になっても続いていて、ナンバー1のマンガ家かはともかくとして、子供に最も人気のあるマンガ・アニメはチェックしていた。「ワンピース」「遊戯王」「ポケモン」等々である。つか「妖怪ウォッチ」も見てた。つか、これは結構おもろかった。恥ずかしながら、「楽しみ」にしてた。スイカニャンは笑った(とりわけ、マンガ版)。未空イナホ推し(全方位型ヲタク!!!)なのに、世間的には人気が無くて、悲しかった。あと、「今どきの子供に、『金八ネタ』が通用するのか」とも思った。おっと、恥ずかしい告白をしちまったぜ。 スイカニャンはともかくとして、「ドラゴンボール」は、そんな私の生意気盛りの頃の読書なので、当然「批評的」というか「批判的」な読み方であった。で、当然ながら、私は「ドラゴンボール」を高く評価していなかったので、その後、私より若い世代、そうして全世界が「ドラゴンボール」「ドラゴンボール」云いだしたのには、ちょっとビックリしたぐらいである。えっ、それほどのマンガあ。 当時の私にとって、というか、今現在に至っても、「ドラゴンボール」というのは、要するに「鳥山明の描いた『キン肉マン』」である。「鳥山明が『キン肉マン』を描くとこうなる、すなわち世界的大ヒット作になる」っていう事である。 今の人は、この手のマンガを「トーナメント形式」とか「バトル漫画」とか呼んだりしているけれども、当時の私はこういうマンガを「キン肉マン」と呼んでいて、そういったマンガに変わっていったマンガ、とりわけ「ジャンプ漫画」を「キン肉マン化」などと呼んでいた。その筆頭が「ドラゴンボール」だった訳である。「どんどんキン肉マン化していくなあ」なあんて残念に思いながら、当時の私は「ドラゴンボール」を読んでいた、あるいはチェックしていた訳である。 「キン肉マン化」は色々あるが、そのいくつかを挙げると、 例えば、「武術大会」。まあ、要するに「超人オリンピック」であり、「天下一武道会」である。 そうして、人気キャラクターの殺害。「悪魔超人編冒頭のミートくんバラバラ」と「ピッコロ大魔王編の冒頭のクリリン殺害」。 そうして、戦闘能力の数値化。「超人強度」と「スカウター」。 そうして、前シリーズのボスキャラを現シリーズでかませ犬にすること。「悪魔超人編でのウォーズマン」、「セル編でのメカフリーザ」。 そうして、敵キャラを変身させる事、「マイルドマン、もといビック・ザ・武道」。「フリーザ」、「セル」、「ブー」。 そうして、所謂「リミッター解除系」。「火事場のクソ力」と「界王拳」。 そのほか、探せば色々とあるだろう。それらの全てが「キン肉マン」が元祖という訳ではないけれど、それまでのマンガで色々と使われてきた演出テクニックをひとまとまとめにした、あるいは見事に整理したのが「キン肉マン」という作品だったとは云える。 そもそも、作品の経緯、あるいは経過が、「キン肉マン」と「ドラゴンボール」はよく似ている。 開始当初はギャグ、あるいはコミカル路線で始まったものの、数字的に苦しみ、「武術大会」で人気爆発、その後政治的な要素(「アメリカ遠征編」と「レッドリボン軍編」)を加味したら、人気低下、そうして再度「武術大会」で人気爆発、その後は異界の強者との団体抗争で人気を不動のものにする、という「ほぼ」どころか、「全く」同じ経緯をたどったのが、この両作品だといっても良いと思う。 私が先に書いた「『ドラゴンボール』は鳥山明の描いた『キン肉マン』である」というのは、こういう意味である。 もっとも、これは「ドラゴンボール」に限らず、当時のジャンプ漫画、いや、その後のジャンプ漫画、いやその後の少年マンガの多くが、「キン肉マン化」あるいは「キン肉マン方式」を採用しているといっても良いかもしれない。それほど強力なのが「キン肉マン化」なのである。いまは「トーナメント方式」「バトル漫画」とか呼ばれているけれども。 実際、「キン肉マン」というのは、それくらい重要な作品なのである。「ジャンプ」を人気面で支えたのは、申す迄もなく「鳥山明」だけれども、「ジャンプ漫画」あるいは、その後の「少年マンガ」の骨格を作った、あるいは「勝利の方程式」をジャンプ編集部が発見したのは、間違いなく「キン肉マン」である。 「キン肉マン」の苦悩と成功が、それはそのまま「ジャンプの歴史」だと思う。そうして、その頂点が「キン肉マン」第9巻の表紙になったキン肉バスターのシーンであろう。あの時、ジャンプ編集部は掴んだと思う。「ああ、『子供たちが喜ぶ』というのは、こういう事だ。」という事を。実際、その後の「お帰り、テリーマン」の回で、初めて「Dr.スランプ」を抜いて、アンケート1位になったのだという。 ちなみに、今先に、私は「両作品ともに、一時、政治的な要素で苦しんだ」みたいな事を書いたけれども、「『アメリカ遠征編』はともかく、『レッドリボン軍編』は『政治的』とは言えないのではないかという反論もあろう。 まあまあ確かに、微妙なところではあると思う。とはいっても、ひとたび「軍隊」と名付けたら、どうしても「政治的な匂い」は出てしまうと思う。これはあくまで憶測だけれども、もしかしたら、「国王軍」と「レッドリボン軍」、「悟空たち」の三者入り乱れての乱戦みたいな構想もあったのかもしれない。 ただまあ、子供というのは「政治的な匂い」に意外に敏感である。それだけで、子供たちの気持ちは離れて行ってしまう。「レッドリボン軍編」をさっさと、あるいは慌ただしく、終了させてしまったというのは、やはり「人気」が出なかったからであろう。 実際、「キン肉マン」や「ドラゴンボール」に限らず、この手の「子供向け」作品においては、「政治的」なものは禁忌といっても良いかもしれない。製作者サイド的には、ストーリーに幅が出るので採用したいところなのであろうが、どうしても「人気」に苦労する。 分かり易いのは、一連の「リアルロボットもの」であろう。「ガンダムブーム」に促されて、雨後の筍のように所謂「リアルロボットもの」が乱立したけれども、結果的には、すべて失敗した。 理由は色々あるだろうけど、その一つは、やはり「政治」であろう。「リアル」な「ロボット」の「戦い」を描こうとしたら、どうしたって「戦争」にならざる得ず、結果的に「政治」を描かざる得ない。で、失敗である。その代表は、申す迄もなく「Zガンダム」であろう(「ダグラム」は色んな意味で、別格)。「内紛」に「三つ巴」という「政治」の中でも、とりわけメンドクセーものを扱おうとしたのだから、そりゃ読者、子供達はついてこないよね。 「リアルロボットもの」の中でも、比較的「面白かった」のは「ザブングル」と「バイファム」あたりであろうが、その理由のひとつは、これらは比較的「政治色」が薄かったからであろう。「レイズナー」も面白いところは、やっぱり「非政治的」なところだよね。 また、「ジャンプ漫画」では「ナルト」や「ワンピース」が「政治色」が強いけれども、「ナルト」はまあ、「政治」に恐れをなしたのか、途中から、完全にナルトとサスケの物語に変えたよね。 一方、頑なに「政治」を描いているのは「ワンピース」であるが、正直言って、それは足引っ張てるよね。「政治」が無ければ、「ワンピース」ははるかに面白い作品に仕上がっていたと思う。もう手遅れだけれども。 「海軍」とか「世界政府」とか「革命軍」とかが出てきた時、私は「大丈夫かなあ」と心配したのであるが、やっぱり、その「不安」は的中したと思う。単純に、「海賊の宝探し物語」に徹した方が、はるかに面白い作品に仕上がっていただろう。 つかまあ、「子供向け」の限らず、「大人向け」でも、「政治」は扱いに難儀すんだよね。 分かり易いところでいえば、NHKの「大河ドラマ」で、これは「維新もの」は「戦国もの」より大概数字的に苦労する。「政治」が足を引っ張ってるって事だよね。 また、私は以前、「映画で『恋愛もの』の大ヒット作は少ない」って書いたことがあるけれども、「政治もの」の大ヒット作も少ないよね。強いてあげれば、「ゴットファザー」とか「仁義なき戦い」あたりになるだろうけど、これらも「矮小化された政治もの」であって、本格的な「政治もの」とは言いにくいよね。云うても、「ギャングもの」「ヤクザもの」だし。 「政治もの」というのは、どうしても、その国や地域の歴史や産業、文化等々、また、登場人物個々の出自や性格、思想等々をきっちり描く必要があるため、表現形式的に、「映画」や「アニメ」といった映像作品向きのジャンルではないし、「マンガ」でも、なかなか厳しいであろう。 「政治もの」というジャンルに向いているのは、申す迄もなく、「小説」である。司馬遼太郎の一連の作品なんかは、その代表かもしれない。ただまあ、これらはあくまで「歴史小説」だからね。「史実」に則ってる訳である。純然たる「空想」ではない。 純然たる「空想」で「政治」を描くとなると、それこそバルザックとかトルストイ級の剛腕が必要になると思うけど、彼らも「政治もの」はモノにしていない。彼らの小説には、大なり小なり「政治」は出てくるけど、「政治」そのものを扱ってるかというと、それは違うであろう。 となると、シェイクスピアという事になるのだけど、「ジュリアス・シーザー」とか「マクベス」とかが「政治もの」といえるだろうけど、こちらも純然たる「政治もの」かというと、ちょっと違うよね、「政治の携わる人々の心理もの」といった感じであるから、純然たる「政治もの」とは言えないと思う。しかも、「史実」を基にしているから、純然たる「空想」でもないし。 で、おそらく、世界文化史上における最大の「政治もの」は、おそらく「三国志」あるいは「三国志演義」であろうけど、これには、確かに「政治の面白さ、厳しさ、難しさ等々」が描かれているけれども、どっちかってたら、「軍記もの」だよね。先の「大河ドラマ」でいえば、「維新もの」ではなく「戦国もの」である。しかも、「史実に則ってる」。 という訳で、「政治もの」というのは、なかなか難儀なジャンルなのであるが、その理由のひとつは構造的な問題があると思う。 「政治もの」っていうと、例えば、こんな感じであろう。 どこぞの村で、「ダム建設の問題」が持ち上がる。当然、村民たちは、それぞれに様々な反応をする。経済的な理由から賛成する者、自然保護的な理由から反対する者、また、自分の思い出的な理由で反対する者、それこそ様々色々な反応を示すであろう。 また、個々人の心中においても、賛成反対様々な葛藤があろう。 そういった諸々の意見を集約するために、村長には様々な能力が要求されるであろう。なだめ、すかし、おどし、相互の意見を調整する。場合によっては、切り捨てる。そこには、さまざま葛藤があろう。道半ばで倒れる事もあるかもしれない。 更には、そういった状況の中、刃傷沙汰も生まれよう。そうして、その刃傷沙汰が、また新たな火種となる。 こういった諸々をひとつづつ丁寧に、そうして読者が飽きぬよう、構成に工夫して、描かねばならないのが、「政治もの」である。 もっとも、こういったものをきっちり描き切れば、それこそバルザックやトルストイのような剛腕で描き切れば、面白い話に仕上がるように、一見思う。 ところが、そうなならないのである。なぜなら、そこにどんな決着をつけたとしても、この場合なら、「ダムが建設される」あるいは「ダムが建設されない」という決着をつけたとしても、読者にはどうしてもモヤモヤ感が残ってしまうからである。 作者が。きっちり、この「政治劇」を描けば描くほど、読者が、その登場人物の全てとは言わないまでも、その多くに、賛成派・反対派両者に共感同情してしまう。結果、どんな結末にも満足できないのである。 つまり、あらゆるエンターテインメントの王道である「勧善懲悪」と真っ向対立してしまう構造なのである、どうしたって、大ヒットしない。まして、子供をや、である。「勝利・友情・努力」が薄まってしまう。 閑話休題。「キン肉マン」と「ドラゴンボール」の関係に話を戻す。 まあまあ、そういう訳で、「ドラゴンボール」というのは、云わば「鳥山明の描いたキン肉マン」であるとは、先にちょろっと書いたれども、更に言えば、「ドラゴンボール」というのは、「原作/鳥嶋和彦・作画/鳥山明」といっても良い作品だと思う。 そこまで言うと大げさかもしれないけれど、「ドラゴンボール」はやっぱり、全世界3億人のドラゴンボールファンには大変申し訳ないけれども、非常に鳥山明成分の少ない鳥山明作品だと思う。 そうして、油断して、あるいは調子に乗って、鳥山明が鳥山明っぽいものを描く、すなわち鳥山明成分を高めると、すかさず人気が落ち、原作者/鳥嶋和彦の修正、つかボツ・ボツ・ボツが入るのである。 分かり易いところでいえば、「魔人ブウ編」の冒頭の「オレンジハイスクール編(サイヤマン編?)」あたりであろう。あのあたりのノリが私は大好きで、当時「お〜、俺たちの(僕だけの?)鳥山明が帰ってきた。」なんて感じで喜んだものであるが、多くの、あるいは生粋のドラゴンボールファンには不評だったようである。残念。そうして、鳥嶋の注意・警告が入り(その頃は、担当編集者は変わってたかも、)、すぐさま案の定のバトル編に突入する訳である。私は、あんな調子が2,3年続くのを期待していた。つか、あのノリのまま最終回を迎えて欲しかった。「もう、どうせ終わるんだから、鳥山明の好きなように書かせてよ。」と思ったものである。 でもまあ、世間が求めているのは、あるいは世界が求めているのは、非鳥山明的なもの、鳥嶋和彦的なもの、キン肉マン的なものなのであるから、致し方あるまい。当時、私はすでに大人(?)だったので、その辺は重々承知していた。 でもまあ、そういう自身のテイストの少ないものを平気で描けるのが鳥山明の偉大なところというか、不思議なところというか、稀有なところだよね。普通の「マンガ家」だったら、大なり小なり「自分の描きたいもの」がある訳だし、そこに大なり小なり固執するものだけど、鳥山明は全然固執しないんだよね。実際、どこかで、「『ドラゴンボール』なんて、描きたくもなければ、読みたいマンガでもない。」みたいな事を鳥山明は語っていたけども、実際その通りなのだろう。 先に私は、鳥山明をムロタニツネ象に比したけれども、そういう「マンガに対するクールな距離感」は、全く以ってムロタニツネ象のそれだと思う。 で、同じく先に私は「もし、水木しげるが『週刊少年ジャンプ』で連載していたら」という仮定を行ったけれども、その逆で(?)、「もし、鳥山明が『週刊少年ジャンプ』以外でデビュー、あるいは連載していたら」という仮定も面白いと思う。 作風的には、それこそ「マンガ奇想天外」あたりでのデビューも十分考えられただろうけど、そうしたら、さすがに「実力派マニアック漫画家」で終わってただろうなあ。いや、大ヒット飛ばしたかもしれんけど。そうして「マンガ奇想天外」が現在の「ジャンプ」の地位についてたかもしれないけど。いや、さすがにそれは無いか。 あと、この「仮定」で外せないのは「鳥山明が『アクション』で連載してたら、どうなってたか。」であろう。これは、マンガファンでなくとも(いや、マンガファンだけか、)、興味津々の「仮定」であろう。 「実力派マニアック漫画家」止まりだったかなあ。まあでも、普通に考えたら「じゃりン子チエ」や「クレヨンしんちゃん」的なヒットを飛ばしていたであろう。まあさすがに、「ドラゴンボール」を描くって事は無かったろうけど。いや、分からんけど。「ドラゴンボール」みたいなマンガを描いて、世界的大ヒットをかまして、「週刊漫画アクション」が現行の「ジャンプ」の地位についていたかもしれんけど。いや、さすがに、それは無いか。いや、ある。 でもまあ、「ドラゴンボール的」はともかくとして、当時の「アクション」で鳥山明がどんなマンガを描いたのかは、大いに気になる。もしかしたら、「ルパン三世」みたいな奇妙奇天烈な大傑作をモノにしてたかもしれん。そういう鳥山明のマンガも読んでみたかったなあ〜。さすがに、「子連れ狼」や「同棲時代」のようなマンガを鳥山明が描いたとは思えんが。いや、鳥山明の描く「『同棲時代』みたいなマンガ」は読んでみたかったかもしれない。「花の応援団」みたいのは、どーでもいい、興味なし。 でもまあ、やっぱり、鳥山明は「ジャンプ」で連載したのが良かったんだよね。まさしく「鳥山明先生のマンガが読めるのはジャンプだけ」。 ちょっといい話っぽくなったので、ここらで切るか。この話はまだまだ続く、続くったら続く。 2024/6/28(金) ちょいと、更新が遅れたのは、パソコンを買い替えたからです。そうして、多くの人同様、OneDriveに泣かされました。でも、それ以外は快適。やっぱ、買い換えて大正解。前のパソコンは10年使ってた。ケチンボ。 さて、前回の記事で、「『ドラゴンボール』は鳥山明の描いた『キン肉マン』である」みたいな事を書いたけれども、その証拠という訳もないけれど、それを裏書きする事象を、ひとつ紹介したい。 昨今は、「ドラゴンボール」に限らず、数多くの日本のアニメが世界中で楽しまれている訳であるけれども、そうした世界中のアニメファン、あるいはアニメ視聴者のうち、日本人を除いた、外国人のアニメファン、アニメ視聴者の覚えてしまう日本語のひとつに、「なにー」がある。 まあ確かに、日本のアニメ、とりわけ「ジャンプアニメ」や「ジャンプ系バトルアニメ」に頻出する日本語ではある。そうして、何度も耳にしているうちに、何とはなしに覚えてしまうのであろう。使用されるシチュエーションも、ほぼ一定しているしね。まあ、我々日本人が、洋画等を視聴して、「ガッデーム」とか「オーマイガッ」を覚えてしまうのと同様であろう。あと、「ジュデーム、マダ〜ム」とかね。いや、これは違うか。 でも、この「なにー」って、完全に「キン肉マン用語」だよね。まあ、勿論、それ以前でも、マンガやアニメで使用されていた言葉、セリフであったけれども、それを各、というか全キャラクターが口癖のように使用するのは、何といっても「キン肉マン」であろう。実際、「なにー、なにーの『キン肉マン』」みたいな揶揄もあったと思う。 まあ勿論、「ジャンプ漫画」や「ジャンプ系バトル漫画」の全てが「キン肉マン」をオマージュしていたというつもりはない。実際、オマージュはしていないであろう。ただ、「ジャンプ漫画」や「ジャンプ系バトル漫画」の構造が、「キン肉マン」のそれだったために、結果的に「キン肉マン」を象徴するセリフ「なにー」が多用されてしまったのだろう。そうして、それ等を原作としたアニメを視聴した多くの外国人アニメファンが、何とはなしに覚えてしまったのであろう。 でも、日本人の多くが「なにー」を使っていると思ったら、大間違いだからな。あくまで、特殊な日本語だからな。一般的な日本人が、握り拳をして、「なにー」って言ったら、それはあくまでギャグだからな。ジョークだからな。その辺は、「ガッデーム」や「オーマイガッ」、「ジュデーム、マダ〜ム」とは違うからな。 つう訳で、「キン肉マン」という作品が、日本の「ジャンプアニメ」や「ジャンプ系バトルアニメ」の基本構造になっているというお話でした。で、それが世界中で大ウケしているという。そうして、その頂点は、申す迄もなく「ドラゴンボール」であろう。 では、何故に「ドラゴンボール」がこの手のアニメ・漫画の頂点に立ったかといえば、それは、申す迄もなく「鳥山明の絵」である。 「ドラゴンボール」が、この手のアニメ・漫画の頂点に立った理由は色々あるだろうけど、そのひとつ、そうして最も大きな理由は、その絵、記号的表現の少ない鳥山明の画、漫画にあると思う。 記号的表現というと「汗マーク」とか「怒りマーク」が有名だけれども、実際はもっともっと大量にある。現行の日本のアニメ・漫画というのは、ほぼ全て、90%ぐらいが記号で構成されているといってよいくらいである。 そうして、その多くは我々日本人、マンガに親しんだ日本人には無意識レベルのものなのである。 例えば、「三白眼キャラ」というのがある。これって、「二番手キャラ」の記号だよね。分かり易いのは、コンドルのジョーやカイ・シデンであろう。彼らは必ず主人公より「瞳が小さい」。そうして、冷静でニヒルで批評家的だけど、イザというときは主人公を助けるという属性を与えられている。キャラ設定である。まあ、勿論、それらの裏をかくような作品やストーリーもあるけれど、それらが「裏をかける」のは、あくまで「三白眼キャラ」が記号化されており、マンガを読む多くの読者、少なくとも日本人読者の多くは、それを知っている、無意識レベルで前提としているからである。 この「三白眼キャラ」の記号を逆手にとって、すなわち「裏をかいて」大成功した作品は、申す迄もなく「ゴルゴ13」である。ちなみに、さいとう・たかをは本来こういう「三白眼キャラ」を絶対主人公にしないんだよね。実際、連載当初、というか人気のない頃はゴルゴ13は三白眼じゃなかったしね。これは小池一夫の手腕・功績といってよいであろう。 ちなみに、少女マンガに限らず、女の子も同様だよね。「スラムダンク」の晴子ちゃんは瞳が大きく、藤井ちゃんは瞳が小さい。ちなみに、私は絶対藤井ちゃん派。ちなみに、松井さんは無い。絶対に無い。いや、あるか、意外にいい女なのかも。 そのほか、こうした無意識レベルの記号的表現というと、キャラクターが走っている時の「下半身グルグル」だよね。赤塚マンガに顕著なアレである。 そうして、この表現というか、記号の意味するものは、単に「走っている」ではなく、「急いで走ってる」。それも、徒競走的な理由で「急いで走っている」ではなく、「忘れ物をして」とか「デートに遅れて」とか「殺し屋に追われて」とか、強制的に「急いで走っている」時の記号である。 そして、それを、先の「三白眼キャラ」同様、逆手に使ったりもする訳である。もっとも、最近のマンガは、この記号を一種のギャグとして使っているよね。それらが出来るのも、当然、日本のマンガ読者の多くが、その記号を前提として「知っている」からである。 ここに挙げたのは「無意識の記号」といっても、ものすごくベタなものであって、実際は、言われるまでは気付かない、いや言われても気づかない無数の記号で構成されているのが、日本の「マンガ」なのである。こうした「記号」の生産と整理・淘汰こそ、日本のマンガ、手塚式マンガのひとつの歴史だといっていい。 で、実際、それらを知らない人は、マンガを「読めない」のである。最近は、さすがに少ないけれども、一昔前は、マンガを「読めない」人は沢山いた。ちなみに、私の父親もマンガを「読めなかった」。「何が描いてあるのか、分からない。」と云うのである。私は子供の頃、それが不思議で仕方がなかったけれど、今となれば、その理由ははっきりと分かる。私の父親は、「マンガ的記号」を全然知らなかったのである。マンガを読んだ経験がほぼ無かったために、それらを知る機会、覚える機会が無かったのである。で、大人になって、自分の子供に勧められるままにマンガを読んでみたものの、そこに描いてあることが「分からない」のである。あたかも、外国語で書かれた本を読んでいるかの如きであったろう。 こんな事を書くと、「それはコマの順序が分かっていなかったからだ」と異論を唱える人がいるかもしれないが、そんなもんは、よほど特殊なコマ割りをしていない限り、普通はすぐ理解できる。私の父親がマンガを読めなかったのは、「マンガ的記号を知らなかった」からである。これは断言できる。 同じ事は外国人にも云えるであろう。マンガ読書経験の少ない、あるいは全く無い人達が、マンガや、それを基にしたアニメを読んだり見たりしたら、面白い・つまらない以前に、そもそも何が描かれているのか、分からなかったであろう。最近の外国人の多くが、日本のマンガを読めるのは、子供の頃から日本のアニメに親しんでいたからである。自然に、無意識レベルで「マンガ的記号」を覚えていったからである。 と、このように考えると、「ドラゴンボール」の特異性や、その価値は明瞭になってくる。なぜなら、「ドラゴンボール」は、そういった「マンガ的記号」が比較的少ない作品だったからである。それらを知らなくても、十分楽しめたであろう。それ故、「ドラゴンボール」は世界で最も親しまれた日本のマンガ・アニメになったのである。無論、理由は、それ一つではないけれども。 一方で、「ドラゴンボール」とて、日本のマンガであるから、そこには「マンガ的記号」は、少ないながらも、確実にある。「ドラゴンボール」の視聴者はそれらを、ごく自然に無意識に覚えていったろう。 そういった「日本式マンガの読み方」の啓蒙・教育という意味でも、「ドラゴンボール」は重要な作品であったと思う。例えば、同じ事が「ドラゴンボール」とストーリーの構造の全く等しい「キン肉マン」に出来るかといえば、難しかったろうし、「鉄腕アトム」でも難しかったろう。「手塚式記号マンガ」の直系でない、異端である「ドラゴンボール」、鳥山明のマンガだったからこそ可能だったのだと思う。 今、ここに「マンガ表現の多くは記号である」みたいな事を書いたけれども、それに反論する向きもあろう。でも、「マンガが記号の集積」である事の証拠は、まだいくつかある。そのひとつは、この世の多くのマンガ批評、とりわけ「画の批評」である。 「このマンガ家の画が上手い」とか「下手」とかいう批評は、この世に山ほどあるけれども、その多くの批評は、「絵」に使用される批評じゃないよね。「字」に対する批評である。 こういう批評の評価基準の多くは、おおよそ「線がきれいに引けている」とか「画のバランスが整っている」とかいうようなものが多い。それって、「字」の批評だよね。「字」の巧拙に使われる批評用語である。「線が均質にまっすぐ引けている」とか、「『田』の字の4つの「口」がほぼ同じ大きさである」とか、と同じだよね。「書道」あるいは「書法」で用いられる批評用語である。 「書法」はともかく、「書道」もあるレベル、というか「異端」までいくと、「絵画」に近いような批評用語が用いられるが、まあ一般的な、それこそ「町の書道教室」、あるいは学校の「書道の時間」の批評用語は、先に挙げたそれらであろう。 「絵画」に対する批評用語というのは、「線の巧拙」も無論あるけれど、一般的、初歩的、基本的な段階では、まず何より「デッサンの巧拙」である。すなわち、「実物に近いか否か」である。 でも、そんな批評は「マンガ」にはない。例えば、顔の半分が目の女性なんて、この世にはいない。そんなの宇宙人だろう。また、「三白眼」の男性もいないであろう。そもそも、目の大きさなんて、性別、人種を超えて、皆だいたい同じである。東洋人が、比較的、目が小さく、つり目というぐらいであろう。 また、「鼻」にしたって、あんな「くの字型」の鼻なんて、無いよね。 でも、誰もそれを咎めないのは、マンガの多くが「記号」だからである。それら「記号」を新案する、あるいはうまく組み合わせて、きれいに描けば、それは「上手い画」と評されるわけである。「デッサン」なんて誰も求めていない。 そういった意味では、「マンガの画」はまさしく「字」である。「マンガの描き方」は「書法」であり「書道」であろう。英語では「グラフィック・ノベル」というマンガがあるが、まさしくその通りだと思う。適語である。「ペインティング・ノベル」ではないんだよね。 前々回の記事で、私は鳥山明の車のイラストをいくつか紹介したけれど、何故ああいうものを鳥山明以前のマンガ家が描けなかった、あるいは描かなかったというと、鳥山以前、いや以後も同じかもしれないが、多くのマンガ家にとって、車もまたひとつの「記号」であって、実車に似せる必要は無かったからである。四角くてガラス窓が付いていて車輪が4つあるもの、それが「車」の記号である。その「記号」の描き方の巧拙はあるけれども、それが実車に近いか否かは問題にならない。まして、車種なんて必要がない、意味がない。「フィアット500」とか「ホンダS800」とかを描く必要はないのである。故に、そういう個々の車種「記号」もない。まあ、「フェラーリ」の「記号」ぐらいはあるかもしれんけどな。まさしく、「自動車という名の自動車は無い」である。 そういう「マンガの世界」にあって、「初めて」ではないけれども(「初めて」はいろんな説がある。関谷ひさしとかね。)、非常に珍しく、実際の車、すなわち実車をマンガに描いたのが鳥山明だった訳である。 そりゃそうだよね、だって鳥山明は「実物を見て」マンガを描いている訳だから。むしろ「車の記号」の方を知らなかったぐらいであろう。 とまあ、ここまで私は「画の巧拙」について色々書いてきたし、また世間の多くの人も「画の巧拙」について色々語っているけれど、これはうかつに批判すると、イタイ目に遭うぜ。 だって、作者が、その画を描いているとは限らないからな、日本のマンガの場合。まして、最近のマンガの多くはコンピューターのマンガソフトウェアを利用しているから、訂正加工、つうかコピー&ペーストが容易だからね。そのマンガの「作画」が、そのまま作者の力量と判断すると、イタイ目に遭うぜ。ヤケドするぜ。 まあ、勿論、そのマンガの「作画」の最終的な責任者は「作家」であるマンガ家が担うべきものだけど、それは、そのまま、その作者の「作画の技量」とはならんよね。まあ、鳥山明みたいに、ほぼ全て「自分で描いていた」なら、話は別だろうけど。私も注意しよっと。 さて、話を「キン肉マン」と「ドラゴンボール」の関係に戻すが、今回(っても、大分たっちったな。)、鳥山明の訃報で私が驚いたのは、世間の多くの人が、この前後関係を勘違いしているという事である。「ドラゴンボール」が先、「キン肉マン」が後、だと思っている人が存外多い。故に、「ドラゴンボール」の数々の所謂「バトル漫画のギミック」を「キン肉マン」が拝借したと思っているのである。逆だからね。「キン肉マン」に登場した数々の「バトル漫画のギミック」を、「ドラゴンボール」、つか鳥嶋和彦が拝借したんだからね。「キン肉マン」が先、「ドラゴンボール」が後、である。 とまあ、「憤懣やるかたなし」みたいな書き方をしてみたけれども、「まあ、でも、仕方ないかな。」という気持ちもある。80年代を生きていない人にとっては、「キン肉マン」も「ドラゴンボール」も同じ80年代のマンガなのであろう。1,2年の前後関係なんていうのは、認識できない程度の誤差なのだろう。 となると、世間的な人気、知名度の差から、あたかも「キン肉マン」が「ドラゴンボール」を拝借したように錯覚してしまうのであろう。 でもまあ、この「1,2年程度の差」って結構大事なんだよね。なぜなら、人間の活動が他の人間に影響を与えるのは、この程度の「時間差」だからである。100年前の人間の活動に影響を受ける人って、皆無とまでは云わないまでも、ほとんどいないよね。1,2年前、あるいは半年ほど前の事象に人は影響を受けるものである。 まあ勿論、これが海外、すなわち空間的に離れていると、そこにより多くの時間差が生じるであろう。最近はインターネットの登場で、そういう時間差は短くなっているけれども、80年代ぐらいだと、例えば、アメリカで流行っている音楽が日本で流行るのは、1,2年後、あるいは3年後5年後だったりする。また、逆に、ファミリーコンピュータ、すなわちファミコンがアメリカに上陸するのは、日本での発売から、およそ2年後だったりする。 更に時代が遡って、これが19世紀になると、海外の事象が日本に入ってくるのは、10年後20年後だし、それより先の時代になると、それこそ100年後200年後になってしまう。 また、国内でも、地方と都会では、何らかの「時間差」が生じるであろう。 まあ、そういう空間的な距離はともかくとして、同じ地域、すなわち同じ空間で生活している人間が他の人間に影響を与えるのは、事象にもよるが、1,2年、あるいは半年ぐらいであろう。 ところが、「歴史」は、この「1,2年」あるいは「半年」を「同時」にしちゃうんだよねえ。その細かい前後関係まで斟酌しない。1985年1月と1985年12月は同じ「1985年」の出来事にしちゃうんだよねえ〜。同じ「1985年」でも、1月と12月では随分違うし、その12月は、1月の影響抜きには考えられないだろう。1970年と1985年12月のどちらが、1985年1月に影響を与えているかといえば、それは無論、年月の近い1985年1月であろう。今、この瞬間は、ほんの一瞬前の一切の結果である。 このへんの細かい時間的前後関係というのは、その時代を生きていないと案外分かりにくいものなのかもしれない。勘違い、錯覚しやすい箇所なのであろう。 人間の歴史は、大きく3つに分けられると言われている。すなわち、「自分が経験した歴史」、「経験した人から、直接聞いた歴史」、「本で読む歴史」の3つである。 ここは、しっかり区分けして考える、あるいは捉える必要がある。 もっとも、「自分が経験した歴史」が絶対的に正しいというつもりはない。 ちなみに、最近はずいぶん減ったけれども、経験絶対主義者」は、今でもそれなりにいる。すなわち、「自分の事は自分がよく知っている」である。 でも、そんな事ないよね。じゃあ、バッタはバッタの事を人間よりよく知っているのかって話である。まあ確かに、そのバッタの生活、経験、人生(?)は、そのバッタ自身がよく知っているのかもしれない。でも、そのバッタは、「自分がバッタである」という事は知らないであろう。更には、「昆虫という種族の一員である」という事も知らないであろう。というか、そもそも、そのバッタがどういう人生を生きてきたのかという記憶だって怪しいものである。所詮、バッタの記憶力である。信用はできない。 まあまあ、これは一種の詭弁かもしれないけれど、例えば、病気について最も知っているのは、患者ではなく臨床経験豊富な医師であろう。でも、その医者を前に「自分の体は自分がよく知ってる」って豪語しちゃう人、まだまだいるんだよね。 ちなみに、先に「バッタは自身の人生を記憶しているか、怪しい」みたいな事を書いたけれども、これ、人間も同じだからね。 大昔、「自分史ブーム」というのがあって、それを印刷する仕事を私はしていたことがある。印刷するついでに、その中身を私は軽く読んでみたりしていたのだが、いや、これホント酷いんだよ。なんつーかもう、自分の歴史は全然書いていない。ただの昭和史、昭和小史。東京オリンピックが開催されたとか、新幹線が開通したとか、大阪万博とか、そんな事が書いてあるだけ。そこに、ちょこちょこ、就職したとか、結婚したとか書かれているくらい。どこぞの出版社が刊行している現代史を書き写しただけ。よって、せいぜい30ページ程度。70年以上生きてきて、しかも太平洋戦争を大なり小なり経験してきている世代なのに、たった30ページぽっち。私はビックリした。 その中に、医師の書いた「自分史」があって、医師は一般的に知能が高いとされているので、私は期待したが、こちらは70ページ程度。まあまあ、一般の倍だから、その分マシともいえるが、内容はやっぱり、ただの昭和史、昭和小史、私はガッカリした。 でもまあ、そんなもんなんだよね。ちなみに、私は私の母に「初めて見たテレビ番組」を問うた事があるが、「覚えてない」との答えだった。テレビって、かなり衝撃的な電化製品、体験だと思うけれども、そんなもんなのである。現在、その老母は、「つまらない、つまらない」とぶつくさ言いながら、1日中テレビを見ている。 ちなみに、私は物心ついた時から、テレビはあったので(無論、カラーだよ。)、初めて見たテレビ番組は記憶にないけれども、初めて見た、というか、初めて借りたビデオソフトは覚えている。「ランボー2」と「キカイダー」である。小学6年生の頃である。初めて見たインターネットのサイトは覚えてないかな。つかまあ、ヤフーのポータルサイトが「初めて見たインターネットのサイト」であろうけど、次に見たのは覚えてないかな。なんか、ニュース記事をクリックしたのかもしれん。プロ野球の結果とかね。 また、ちなみに、私が「自分史」を書くとしたら、「生まれる前まで」で1万ページくらい書いちゃって、そこで力尽きると思う。「自分史」ならぬ「自分前史」である。 でもまあ、「自分の歴史」を書こうと思ったら、出来る限り家系は調べたいもんね。そうして、両親がどういう生き方をして、出会ったのかも、重要だろうし(見合いだけどさ)。トリストラム・シャンディみたいな事になるだろう。 トリストラム・シャンディはともかくとして、人間の記憶なんつうのはいい加減なものなのであるが、それでも、その歴史が「経験」したものなのか、「見聞」したものなのかは知っておく必要はあろう。それが、「過去」を調べる最低限の態度だとは思う。 その「態度」さえあれば、「キン肉マン」と「ドラゴンボール」の前後関係なんて、間違えようが無いであろう。だって、その時代を生きた人が、私をはじめ、うじゃうじゃいるのだから。しかも、「ジャンプ体験」なんて、当時を生きた少年ならば、ほとんど必須といってよいくらい、ほとんど誰もが「体験」した事なのであるから。まあ、それでも「記憶違い」や「記憶にない」のは山ほどいるだろうけど。 ちなみに、「ウルトラマンシリーズ」の前後関係も、よく分かっていない人が増えたよね。単純に、「ウルトラマン」あるいは「ウルトラQ」から順番に1年づつ、それこそ現代の「スーパー戦隊シリーズ」のように、放送されていたと思っている人は多い。違うよ。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「キャプテンウルトラ」「ウルトラセブン」が、連続して放送され、これが「ウルトラシリーズ」である。「セブン」の後番組の「怪奇大作戦」も含む場合もあるが、こちらは「ウルトラ」の名がつかないので、これも含めるなら「空想特撮シリーズ」というべきだと思う。ちなみに、これが「ウルトラマンセブン」でない理由である。 で、それから数年して、「もう一度『ウルトラマン』を観たい」というチビッコ達の強い要望を受けて制作されたのが「帰ってきたウルトラマン」なのである。だから「帰ってきた」なのだ。 また、「ガンダム」「Zガンダム」「ガンダムZZ」が連続して放送されていたと勘違いしている人もいると思う。違うよ。「Zガンダム」は「ガンダム」の7年後の放送だよ。だから、作中でも「7年」経過しているのである。これを知らないと、この「7年」に特殊な意味を付けてしまう人が出てくるであろう。 「仮面ライダーシリーズ」と「スーパー戦隊シリーズ」については各々調べてちょ。 あと、ヤフーニュースの記事に「『ドラゴンボール』が社会現象になった」なんて記述があったけども、そんなもん、ねーよ。「ドラゴンボール」は社会現象なんか起こしてねーよ。最終回の時に、ちょっと世間がザワついたくらいだよ。社会現象になったのは「アラレちゃん」だよ。その後だと、「セーラームーン」とか「エヴァンゲリオン」だよ。「ドラゴンボール」は社会現象になってねーよ。 とまあ、老人の愚痴みたいな事を書いちまったけれども、私も注意しよっと。私も、このサイトで、自分の「経験」していない事を、「見聞」どころか、「読書」だけで書いている事も多いので、思わぬ間違い、それこそ「『キン肉マン』と『ドラゴンボール』の前後関係」的な間違いを犯しているかもしれん。反省。 つう訳で、長々と「『キン肉マン』と『ドラゴンボール』の前後関係」について書いてきたけれども、こんな風に書くと、ジャンプ漫画、というかジャンプ的バトル漫画の元祖が「キン肉マン」のように思われる方もいるかもしれないが、そんな事は無い。「アストロ球団」とか「リングにかけろ」なんかも、その元祖の資格はあるように思うが、真の元祖は別にある。「ドカベン」である。 「ドカベン」こそ、この手の「ジャンプ的バトル漫画」の元祖にして、典型である。 なぜなら、後の「ジャンプ的バトル漫画」の要素はすべて揃っているからだ。 「勝利・友情・努力」は云わずもが、「前シリーズのボスキャラを現シリーズでかませ犬にすること」(弁慶高校に土佐丸高校が敗戦する)、「能力の数値化」(本塁打数、打率、球速等々)、等々である。さすがに、「人気キャラクターの殺害」や「リミッター解除系」などは、作品の性質上、なかなか難しいけれども、後の「ジャンプ的バトル漫画」の要素はすべて揃っているといっていい。 更に、そういったギミック的なもの以上に重要なのが、作品の骨子、構造にかかわる部分である。先に挙げた「勝利・友情・努力」は無論の事、「キャラクターの生産と淘汰」、「1話ごとにヤマを作る、連作短編的長編作り」などである。 「キャラクターの生産と淘汰」で最も分かり易いのが、何といっても「殿馬」であろう。 当初は、中学生編で登場した、ただの1キャラクターに過ぎなかった「殿馬」は、人気を得た事で、「明訓四天王」の一人になる。同時期、登場していた、長島や大河内、赤一郎青二郎黄三郎らは、それっきり消えている。人気が無かったのだろう。柔道編のわびすけは再登場してるけどね。 里中も、登場後、すぐ人気が出たから良かったものの、人気が無ければ、明訓高校のエースの座は別のキャラクターに取って代わられていたと思う。 こういう風に、人気に応じて、キャラクターを出たり引っ込めたりさせるというのは「ドカベン」で初めて見られた、少なくとも、明確な手法として採用したのは「ドカベン」が初めてだったと思う。それ以前のマンガは、当然の事だけど、初期設定、初期構想に拘泥して、この「ドカベン」のような融通無碍なキャラクター採用、ストーリー展開が出来なかった。ちなみに、水島新司は、「マンガで最も大事なことは?」という質問に、「キャラクター」と答えている。「キャラクターが全て、魅力的なキャラクターが全て。それが作れれば、マンガは成功する」とまで語っている。 また、ちなみに、水島新司は「自分は短編が得意」とも語っている。これも全くその通りで、「ドカベン」を始め、水島マンガは、巻数的には、所謂「長編」が多いけれども、作品の構造的には、完全に「短編」である。20ページくらいで話を作るタイプの作家である。 「ドカベン」等々の水島作品は、同じキャラクターで短編を連続させる、云わば「連作短編集」の構造なのである。一見すると、各話が連続しているように見えるが、構造的には独立しているのである。 で、それが功を奏したのが、「週刊連載」という形式だった。「週刊連載」というと、全100話、全500話、全1000話的な話を、1話づつ発表していく形式のように思われるが、それは違うのである。あくまで、1話ごと、話は独立していないといけないのである。1話ごとに「盛り上がり」、あるいは「起承転結」がないといけないのが、「週刊連載」という形式なのである。 これに気付かなかったというか、この盲点に引っかかったのが、手塚治虫や石森章太郎といった所謂「トキワ壮グループ」である。また、「古い」マンガ家たちであった。 彼ら、特に手塚治虫のような200ページ前後の「書き下ろしマンガ」でデビューしている人たちは、どうしても、200ページ前後で話を作ってしまう。故に、どうしても「つまらない回」が出てきてしまうのである。単なる「フリ」の回、「起承転結」でいえば「起承」の回である。 また、「盛り上がり」、すなわち「結」の回でも、それが5話,6話と続いてしまうために、どうしても「盛り上がらない」、間延びしてしまうのである。 手塚治虫の「週刊連載」唯一のヒット作が「ブラックジャック」であったというのは、当然の帰結である。「ブラックジャック」は、はっきり「連作短編集」、同じキャラクターで短編を連続させる「連作短編集」であったからだ。 ちなみに、「連続モノ」が失敗するのは、テレビでも同様で、「ウルトラマン」シリーズや「仮面ライダー」シリーズでの2話連続回や3話連続回は、案外盛り上がらない、人気が出ないものである。「仮面ライダーX3」は路線変更したくらいである。 そのほか、「ドカベン」が週刊連載少年マンガ界にもたらしたものの一つとしては「W主人公」なんてものもある。これは、先に論った「勝利・友情・努力」などとは違って、その後の週刊連載少年マンガが必ず踏襲した訳ではないけれど、たまに使用される。桜木・流川が有名だけど、ナルト・サスケとか一歩・鷹村とか、そのほか探せばいろいろ出てくるだろう。 これは所謂「バディもの」という事になるのだけれど、ハリウッドにおける「バディもの」は70年代に試行錯誤して、「48時間」、というかエディ・マーフィーで花開くことになるので、「ドカベン」はそれよりちと早いという事になる。 ちなみに、以前にもどこかで書いたけど、この「W主人公」に限らず、「スラムダンク」は、完全に「ドカベン」リスペクトだよね。いろんなオマージュがあるけれども、物語序盤に、桜木が柔道をするしないみたいな話が合ったけれども、あれなんかも完全な「ドカベン」リスペクトであろう。 そのほか、これは「スラムダンク」に限らず、多くの週刊連載少年マンガ、というか多くのマンガが「ドカベン」より踏襲した手法としては、所謂「回想シーン」がある。 これも、うんざるする、というか、完全に手垢にまみれた手法だけれども、その元祖は、例の「春の土佐丸戦」である。 ただまあ、この「春の土佐丸戦」に比べると、その後の使用はみんなヘタッピだよね。もう完全に「回想シーン」のための「回想シーン」、あるいは「キャラクター紹介」のための「回想シーン」なのだもの。 「ドカベン」の「春の土佐丸戦」の「回想シーン」が感動的なのは、あの時点で、すでに連載が5年以上経過し、読者に明訓四天王への様々な疑問が溜まりに溜まっていたからである。何故、山田の両親はいないのか、何故、里中はアンダースローなのか、何故、岩鬼は、神奈川県民なのに、関西弁なのか、何故、殿馬は、音楽の才能があるのに、野球をやっているのか。それらの疑問を、苦しい試合展開と重ね合わせながら、明らかにしていった故に、感動的だったのである。そうして、最後は、申す迄もなく、「秘打・円舞曲『別れ』」。でもあれ、厳密に、というか、ルール上は完全にアウトなんだけどね。盛り上がったから、いいや。 ところが、昨今の「回想シーン」は、キャラクターが出てきた瞬間に、いきなり「回想シーン」。それじゃあ、感動できねーよ。ただの陳腐な「キャラクター説明あるいは紹介」だよ。全然、回想じゃねー。演出方法としては、きわめてチープだと思う。具体名出しちゃうと、「ビッグ・マム」とか「おでん」とかね。 つう感じで、「ドカベン」というのは、その後の「週刊連載少年マンガ」あるいは「バトル漫画」の骨格を作った、というか典型として、ほぼ完成されていて、故に、当時の「週刊少年チャンピオン」は、これと「がきデカ」を軸に、「マガジン」をぶち抜き、ナンバー1少年誌の座に就いた訳だけど、惜しむらくは、当時の「週刊少年チャンピオン」編集部は、この「ドカベン」の人気の秘密、構造を全然研究しなかったんだよね〜。故に、「ジャンプ」に抜かれてしまった。 まあまあ確かに「鳥山明」の捕獲は、「ジャンプ」にとって僥倖、それも何物にも代えがたい僥倖だったけれども、「キン肉マン」の人気の秘密、構造を、「週刊少年チャンピオン」編集部と違って、研究したのは、はっきり「週刊少年ジャンプ」編集部の功績だったと思う。 「ジャンプ」の編集部というと、世間的には悪口を言われがちだけど、やっぱり優秀なんだよね。例の「勝利・友情・努力」の発見は、その最大の功績であろうし、「ジャンプ」出身のマンガ家が他誌に移ると、大概つまらなくなるというのも、その裏からの証明である。その全盛期には、「子どもが喜ぶ漫画とは何か」で、編集者達が、涙を流しながら、議論してたっていうし。「ジャンプ」編集部を軽々しく批判するのは、それこそ軽率であろう。 もし、この情熱が「チャンピオン」編集部にあったならば、「ジャンプ」編集部が「キン肉マン」を量産したように、「ドカベン」を量産して、その後の低迷は避けえたであろう。まあ、鳥山明がいるので、いずれにせよ、「ジャンプ」の後塵を拝しただろうけどさ。つうか、後塵を拝するぐらいには、近づけたとは思う。 まあまあ、その辺の問題はともかくとして、「ドカベン」というのは、週刊少年マンガ史的には、それくらい重要な作品なのである。そのほか、週刊少年マンガ誌的に重要な作品、というかマンガ家は二人いて、ひとりは「ちばてつや」、もうひとりは「小林まこと」なのであるが、この両者については、ちょっと長くなってきたし、次回に軽く触れたいと思う。 でもまあ、改めて考えると、「キン肉マン」って、80年代のまさしく象徴だよね。なにしろ、タイトル自体が「キン肉マン」なんだから。80年代っていうのは、色々な側面があるけれども、そのひとつに「筋肉」の時代、「マッチョイズム」の時代でもあった。 実際、「ジャンプ漫画」は、この「キン肉マン」を始め、「北斗の拳」「シティーハンター」「男塾」、みなマッチョ化していった。「ジョジョ」や「シェイプアップ乱」まで「筋肉」だからね。まあ、「聖闘士星矢」みたいにマッチョ化を断固拒否した作品もあるけどさ。 また、海の向こうでは「スタローン」「シュワルツネッガー」、日本以上に「筋肉」の時代であった。 何故そうなったのかは、全く以って分からないけれども。 でも、そう考えると、この「肉弾時代」を予見した宮谷一彦って、やっぱ偉かったんだなあ。 2024/7/20(土) 暑い。 |