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<QB/RB/WR・TE/OL/DL/LB/DB/ST/O・GM・C>
C.Ballard | ![]() 獅子身中の虫 |
キャリアの初期には、ネルソン、レオナルド、テイラーとスマッシュヒットを連発し、一時は「NFLトップエクゼクティブの一人」なんて言われてもしたが、ここ数年のグダグダっぷりって、その評価もすっかり地に落ちたクリス・バラードGMである。 ここでは、そのバラードを紹介、つうか悪口を書き連ねたいと思う。 まず、その前に、そのキャリア初期の「成功」について、一言二言言いがかり。 ネルソン、レオナルド、テイラーっていうのは、確かにヒットちゃあヒットだけど、「それってバラードの純然たる功績か」っていう疑問はある。 まずは、ネルソンであるが、これって誰だって指名するでしょ。しかも、この10年くらいじゃ最高のブルーチップと云われていた選手であるから、失敗の可能性はほぼ皆無である。バラードの功績とは言いにくいと思う。 しかも、今から考えると、1巡6位でガードつうのは、やっぱり失敗だった気もする。当時、ネルソンを切望した私が、こんな事を云うのも何であるが、ここではネルソンをスルーして敢然とブラッドリー・チャッブを狙いに行くべきだったと思う。 チャッブは6位の直前の5位でデンバーにかっさわられ、そのチャッブもバスト気味のキャリアとなりつつあるけれども、それでも1巡6位はガードに使うべきではなかったと思う。 もちろん、ネルソンのパフォーマンス、キャリアについては一切不満はない。私が見た中ではコルツベスト、いや、それどころかNFL全体の中でも、ここ20年でベストのガードだと思う。NFL史上最高かまでは分からないが、「ベスト議論」の際にはエントリーされるガードの一人ではあろう。 ただまあ、「6位」で指名する価値があったかというと、微妙なところではあったとも思う。1巡18位で指名したケリーも含めて、インテリアラインマンは下位で指名すべきポジションだと思う。 1巡10位以内は、原則的に、QB、WR、エッジラッシャーの3つのポジションを指名すべきだろう。かつては、ここにLTもあったけど、最近はその価値が無くなった。1巡中位以降の指名でよいポジションだと思う。 もちろん、そのへんのポジションがきっちり埋まっていて(それで10位以内って事は、あんまないと思うが、)、それこそトレードかなんかで上手く1巡10位以内に化けたピックというのならともかく、単純に実力で10以内を獲得してしまったチームだったら、その3つのポジションのどこかに問題を抱えている筈なのだから、素直にその3つのポジションのどれかを指名すべきだろう。あの当時のコルツだったら、それはやっぱりエッジラッシャーだったろう。チャッブ狙いが本命で、それがダメならトレードダウンが正しい判断だったように思う。 で、2巡36位のレオ様であるが、これも確かに成功ちゃあ成功ではあるが、2巡上位のインサイド・ラインバッカーって、むしろ失敗する方が難しい指名だからなあ。「功績」とは言いにくいと思う。 でも、この2018年ドラフト、いま改めて見てみたけど、まあまあ「不作」とまでは云わなくとも「豊作」とも言えない年だったと思う。「やや不作」ぐらいな感じ。例の「QB四天王+ラマー」の年だった訳であるが、あれから7シーズンを経て、結果論的には、どうしても何が何でも欲しい選手っていうのは、いない。っていうか、おそらく、それはネルソンだと思う。で、ケガしなければバークリー、レオナルド、強いて挙げればニック・チャッブくらいである。そういった意味じゃあ、このドラフトに関しては、「バラードの慧眼」だったとは云えるかもしれん。 で、テイラー様であるが、私の熱望していた選手ではあるし、そういった意味では「嬉しいピック」ではあったのだが、このピックは果たして「バラードの意向」だったのかという疑問は残る。詳細は省くが、バラードらしからぬ指名であったからである。ライクの差し金ではなかったのではないかという意地悪な疑念が私にはある。まあまあ、でも、ここは素直に良しとしましょう。 つうのが、バラードドラフト、いやFA等々も含めたバラード人事の数少ないスマッシュヒットなのであるが、あとは凡打の山、死屍累々である。あっ、そうそう、オケレーケなんかは数少ないスマッシュヒットのひとつだったかもしれん。 さて、ここからが私のバラードへの本格的な不満爆発、悪口爆発となる。 とりあえず、「WRの見る目の無さ」についてであるが、これに関しては、ここ5年くらい、当サイトのあちこちに書き散らかしているので、ここでは繰り返さない。そこらの記事を見れば、すぐ発見できる筈。そちらをご参照ください。 そのほか、バラードへの不満は大きく二つある。 一つ目は、「トレードアップしない事」。 バラードのドラフトにこれまで9回、私は付き合ってきた訳であるが、ただの一度も大胆なトレードアップをしていない。順位を10個前後下げて下位ピックを増やすようなセコセコトレードダウンは毎年のように実施しているが、周囲があきれかえるような大胆なトレードアップは、ついぞ一度も敢行したことがない。 何故、トレードアップしないのか。理由は簡単である。トレードアップしてまで欲しい選手がいないから。では、何故、トレードアップしてまで欲しい選手がいないのか。あるいは、いなかったのか。 9年やって、ただの一度も絶対欲しい選手に出会えなかったというのは、あるかもしれん。また、欲しい選手はいたが、トレードアップできなかったというのも、あるかもしれん。 でも、9年だよ。一度くらいはあって然るべきでしょう。トレードアップだって、デタラメなモノだったら、よほどの事のない限り、相手も応ずるだろう。それこそ、私が昨年提案した「ハリソン様とこれからの1巡全部」とか。そこまでいかなくても、どんな選手だって大なり小なり不安材料はある訳だから、それなりの対価を要求すれば、トレードに応じてくれるであろう。例えば、ラックの全体1位だって、向こう3年分の1位を提案されたら、私はよろめくであろう。しかも、「ラックの結果」を知った今となってみれば、そのトレードは正解だったという事となる。あくまで完全な結果論だけどな。 まあ、そういう偶機的な、あるいはトレード交渉的な理由もあったのかもしれない。でも、私は違うと思う。バラードが「トレードアップをしない」のは、もっと単純な理由、そうしてもっと本質的な理由だと思う。 バラードが「トレードアップをしない」のは、もっと単純に「欲しい選手がいないから」、いや「欲しい選手が分からないから」、要するに「理想の選手がいないから」だと思う。というか、である。 では、何故「理想の選手がいない」のか。その理由はもう簡単である。バラードには「理想のフットボールが無いから」である。バラードに「あなたの理想のフットボールは、どのようなものですか。」と問うてみい。おそらく、当たり障りのない、八方美人的な、模範解答的な、水っぽい答えが返ってくるであろう。「非常に優秀なQBがいて、ディフェンスが強力で、選手の意志が一つに固まっている、そんなチームですね。」みたいな答えが返ってくるであろう。 要するに、バラードには「理想のフットボールが無い」のである。「理想のフットボールが無い」から「理想の選手はいない」し、「理想の選手はいない」から「トレードアップをしない」のである。理想が無ければ、トレードアップをする理由は無いであろう。こだわりが無ければ、わざわざ高い商品を買う理由はない。 この反対、すなわち「理想のフットボールがある」の最も分かり易い最近の事例はアンディ・リードであろう。マホームズをウォージーを、それぞれ無理目のトレードアップで獲得している。 2017年のドラフトは私事で忙しく、私はざっくりとしか見ていないのだけど、この年のマホームズはそれほど高い評価ではなかったと記憶している。というか、評価の分かれる選手だったと記憶している。「2巡3巡から1巡下位」みたいな評価の選手だったのではないだろうか。それが、ドラフトが近づくにつれて評価が上がってきた、みたいな選手じゃなかったかな。いずれにしても、ラックのように「1年前から全体1位間違いなし」みたいな、そういう選手ではなかった。 そういう選手を、チーフス、つうかリードは、2017年の1巡27位と3巡、そうして翌2018年の1巡でビルズの1巡10位とトレードしたのである。大盤振る舞いどころか、狂気の沙汰といっても良いであろう。 その後のマホームズの活躍は皆さんご存じの通りである。 リードがマホームズのどこを買ったのか、それは私には分からない。でも、マホームズはリードにとって理想のQBであったのだろう。なぜなら、リードには理想のフットボールがあるから。その理想のフットボールに合うQBがマホームズであり、WRがウォージーであったのだろう。でも、この両トレード、今気が付いたが、相手はいずれもビルズなのな。万死に値する。 ピート・キャロルもブルース・アーヴィンで同様の事をした。 そうそう、忘れちゃいけない、我らがポリアンも同じ事をしている。当時、流行していた「ボールコントロール・オフェンス」を全否定して、「タイム・オブ・ポゼッションなんて無意味な数字だ。」と言い放ち、パスオフェンスに特化したチーム作り、ドラフトをした。マニングはともかくとして、ウェインやダラス・クラーク、アダイあたりは、そこそこ無理目なピックだった。マホームズ程でないにせよ、リーチ扱いであった。 それでも、そういう果敢なドラフトをしたのはポリアンに「理想のフットボール」があったからである。そうして、その「理想のフットボール」によるポリアンのドラフトの最高傑作は、なんといってもドワイト・フリーニーであろう。 スピードが尋常ではないとはいえ、ただのパスラッシャー、それもランストップがほぼ期待できないDEに1巡11位はリーチもいいとこ、狂気の沙汰だと、当時は散々批判されたが、結果は皆さん御覧の通りである。 あと、そういえば、これはドラフトとは違うが、ペイトリオッツ、というかロバート・クラフトオーナーによるベリチック獲りも、似たようなものである。クラフトはベリチックを結構無茶にジェッツから強奪した。しかも、当時のベリチックはDCとしてはともかく、HCとしては何の実績も無かったのである。いや、むしろブラウンズ時代は「失敗」と見做されていたのである。 そのベリチックをクラフトは少々荒っぽい方法で強奪したのである。これも狂気の沙汰であろう。その後のクラフトとベリチック、そうしてペイトリオッツの栄光は、皆さんご存じの通りである。ちなみに、ベリチックの前任はピート・キャロル。ピート・キャロルとベリチックを天秤にかけて、クラフトはベリチックを選んだのである。どっちを選んでも正解。贅沢な天秤も、あればあるものである。バースとブーマーの天秤とかね。まあ、大森と元木という、両方失敗天秤もあるけどな。 リードやキャロル、ポリアン、クラフトの「理想のフットボール」の是非を私は問わない。また、その資格、能力もない。ただ、彼らが「理想のフットボール」を持っていた事、それは事実であろう。また、その「理想のフットボール」が彼らを成功に導いたのか、それも私には分からない。ただ、彼らが「理想のフットボール」を持っていた事、それは事実であろう。 かつて、野村克也は、こう述べていた。いや、ボヤいていた。「なんで、ワシがボヤくのかって。それはワシには『理想』があるからや。ところが、その理想がなかなか現実化せえへん。実現せえへん。で、ボヤいてしまうんや。理想と現実のギャップで、ワシはボヤいてしまうんや。理想と現実のギャップがワシをボヤかせてしまうんや。理想がワシをボヤかせるのや。」。 以前、NFL解説でおなじみのター濱、ではなく河口さんが「野村さんの本は、どれもこれも同じ事ばかり書いてある」と批判していたけれど、それこそすなわち野村に「理想」がある証左である。「理想」は時や場所を超えて、変わらぬものである。変わるのは、本人の「考え方」、すなわち「思想」あるいは「哲学」が変わった時のみである。まあ、出版営業上の問題はあるけどな。 ちなみに、野村が自身の「理想」を醸成していたのは現役引退後10年にわたる解説者時代だったと思われる。「監督は如何にあるべきか」「4番は如何にあるべきか」「エースは如何にあるべきか」「2番打者は如何にあるべきか」「ショートは如何にあるべきか」「3塁コーチャーは如何にあるべきか」「バッティングコーチは如何にあるべきか」「7回3点ビハインド、ノーアウト3塁、バッターは如何にあるべきか」「2回0−0、1アウト2塁、ランナーは如何にあるべきか」、そうして「キャッチャーは如何にあるべきか」、「プロ野球は如何にあるべきか」、「野球は如何にあるべきか」等々、「あるべき」を追い続け、それが大爆発したのが、ヤクルトの監督時代、有名なミーティングだったと思う。そうして、その大爆発をしたスペルマを最もぶっかけられたのが、他ならぬ、古田敦也であったろう。 野村のスペルマはともかくとして、この記事を書いている時、ちょうど2025ドラフトが開催されていたのであるが、バラードがムチャなトレードアップをしないかヒヤヒヤしてた。いや期待してた。 でも、結果は、当然ながらというか、やっぱりというか、通常のバラードドラフト。理想なきバラードドラフト。いや、あんなドラフトだったら、AIでも出来るわ。それもグーグルあたりの最新最強AIでなくて、私が耽溺した「MADDEN2005」のポンコツAIでも、あんなピック出来るわ。ドラフトできるわ。 バラードへの私の不満の二つ目。それはバラードに「人脈が無い事」、少なくとも「人脈が感ぜられない事」である。 かつて、ドラフト時、私はポリアンの「シラキュース好き」をよく揶揄っていた。「また、シラキュースかよ。」ってツッコんでた。 でも、これは今から考えてみると、というか当時から分かっていたけど、ポリアンの「人脈」、おそらくビルズ時代に培ったであろう「ビッグ・イースト人脈」なんだよね。その「ビッグ・イースト人脈」の最高傑作がドワイト・フリーニーであり、跳んだいっぱい食わせ物がパット・マカフィーだったのである。つか、あいつ、今WWEでプロレスやってんのな。ほんと絶望的だな。 NFLのGMの人脈事情について私は多くを知らないので、ここからは日本のプロ野球を参照する。 日本のプロ野球史における3大GMといえば、鶴岡、根本、星野の3人である。もっとも、日本での役職は、それぞれ監督であったり管理部長であったりしたが、彼らの仕事は実質的にはアメリカプロスポーツにおけるGMのそれであったろう。 この3者はいずれも、ヤクザに比すべき人脈を誇っていた。それが理由かは分からぬが、3者共にヤクザっぽいニックネームや二つ名を持っていた。鶴岡親分、鉄拳制裁星野、根本、についてはこれ以上言えない。怖い怖い。 何故、「人脈」に「ヤクザに比すべき」という形容が付くのかは私には正確には分からない。ただ、ヤクザっぽい人々が広い人脈を持っている事は私の経験上確実である。例えば、職場においても、ヤクザとまでは云わないが、ヤンキーっぽい人は、一般的な応募ではなく、友人の紹介みたいな形で就職してくる事が多い。一般の人に比べ、縦のつながり横のつながりが強いのだと思う。 何故か。これはあくまで私の憶測であるけれど、ヤクザとかヤンキー、不良といった人達は、はっきり言って社会的弱者である。頭が悪い・体力がない・根性がない、この3点セットの人たちがヤクザや不良になっていく訳である。 ヤクザはともかくとして、不良少年が口癖のように「舐めんなよ」って言うのは、この劣等感の裏返しであろう。ヤクザの「メンツ」も似たようなものだと思う。 では、この劣等感がどこから生まれるかといえば、その多くは学校、学業であろう。学校の成績、テストの成績が悪くて、劣等感を抱き、「舐めんなよ」となる訳である。 子供たちに不当に劣等感を与えたり、またその逆に不当に優越感を与えたりする学校のテストなんていう、あんなくだらないものは即刻廃止すべきであろう。2000年前、世界一の文明国だった中国が腐ってしまった、いや死んでしまった諸悪の根源、というか唯一の原因は、あの科挙、ペーパーテストである。 それはともかくとして、学校のテストで不当に劣等感を与えられてしまった不良少年たちも、スポーツの世界で活躍したり、あるいは就職して仕事で認めらるようになれば、そうした劣等感は消え去り、「舐めんなよ」という口癖もいつしか消えてしまう。 ただまあ、それでもダメな人たちがいる。頭が悪く、体力がなく、根性がない、そういう人達である。そういう人達はヤクザ、あるいはそれに類する生き方をせざる得ない。すなわち、社会的弱者である。 では、そういう社会的弱者が生きていくためにはどうするか、それはただひとつ「群れる」しかない。ヤクザが「組」を作ったり、不良少年が「暴走族的なもの」を作ったりするのは、それが理由である。「質」がダメなら、「数」で勝負である。 一方、その反証という訳でもないけれど、優等生、あるいは社会的強者は、群れやグループを作ったりはしない。「族」や「組」を作らない。彼らは得てして「孤独」である。己を恃むところの強い彼らにとっては、周囲の人間というのは、「味方」あるいは「盾」ではなく、かえって「足手まとい」なのである。分かり易いところで云えば、落合である。自恃心の強い落合が、東洋大学や星野、立浪のようなヤクザ的倫理を嫌ったのは、ひとつにはこれが理由である。 ヤクザと人脈の問題はともかくとして、では何故、GMに人脈が必須なのかといえば、それは当たり前の話であるが、「良い選手に出会うため」である。 一般にGMの仕事というと「選手の目利き」とされ、確かにそれは重要であるし、バラードのようにそれが全然ないGMもいる。 ただ、「選手の良し悪しを判断する」といっても、そもそも「選手を見る」ことが無ければ、話にならない。宝の持ち腐れである。山岡士郎のような味覚を持っていたとしても、毎日マクドナルドでは意味がない、というか価値が無いし、長くて太くて硬いチンポを持っていたとしても、以下自粛。 選手を目利きするためには、まず選手を見なければいけないのである。それも出来るだけ数多く見なければならない。更に言えば、仮に選手を見る目が無くとも、数多く見れば、下手なテッポも何とやら、良い選手と出会えることもある。パット・マカフィーを掴まされる事もあろうが、フリーニーに出会える事もある。「ナンパは数」。 では、数多くの選手を見るためにどうするかというと、理想的には、野球なりフットボールなり当該のスポーツを自分で出来る限り見れれば良いのであろうが、現実的には、どうしたって上限がある。いまや、インターネット時代なので、かつてよりは数多く見れるであろうが、それにしたって上限がある。一日は全ての人に等しく24時間、1年は365日なのである。 そこで、「人脈」が必要になってくるのだ。日本中、アメリカ中、世界中のフットボール関係者野球関係者に知己がいれば、人脈があれば、更に言えば、スカウト網を作っていれば、フリーニーや野村、千賀といった大魚がその網に引っかかるのである。 実際、千賀なんて言うのは地元のスポーツ用品店主からのタレコミであったらしいし、野村も、本人は自らプロテストを受けたと言っており、実際受けてもいるだろうけど、それは形だけで、広瀬や長嶋、杉浦同様、鶴岡のスカウト網に引っかかっていたのだと思う。 これがGMに「人脈」が必須な理由である。そうして、バラードに、私はそれを感じない。もしかしたら、私の知らぬところにバラードの「人脈」があるのかもしれないが。 ちなみに、日本プロ野球史における失敗したGMといえば、落合と広岡である。この御両人も、ものの見事に「人脈」がない。 まず、落合であるが、こちらは人も知るように、人間関係を自ら断つような生き方をしてきた御仁である。「人脈」なんてある訳がない。落合が中日のGM職に就いていた時、東洋大学からスーパースターが出現したら、どういう顔をして挨拶に行くのか、私は楽しみにしていたのだけれど、残念ながら、まことに残念ながら、当時、東洋大学からスーパースターは現れなかった。残念。まことに残念。 ちなみに、落合はそのGM在職時、社会人時代にお世話になったらしい二つのチームの選手を盛んに推薦していたらしい。なるほど、それが落合の唯一の「人脈」であったのだろう。 また、落合といえば、「人脈」はともかくとして「選手の目利き」には長けているなんて事を云う人もいるが、少なくとも私の知る限り、そういう実績はない。野村が新井や稲葉、あるいは中学時代の井端に示したような鮮やかな実績とまではいかなくとも、地味な実績すらない。 落合監督時代の中日の選手の多く、というかほぼ全ては星野と山田が揃えた選手達であるし、落合が唯一抜擢したと言っていいのは森野くらいである。通算1581安打、165本塁打。微妙でしょう。 ちょっと話が逸れるが、この手の「選手の目利き」のエピソードで最も鮮やかなのは野村の目による中学生の井端の件であろう。 この時、野村は中学生の井端に何を見たと思う。まあ、勿論、体つきとか動きの癖とかが内野手、とりわけショートに向いていると思ったのであろう。そうして、ここからは私の完全な憶測になるが、もうひとつ重要な特徴が井端にあったのだと思う。 おそらく、井端はキョロキョロしてたんじゃないかな。当時、井端はピッチャーをしていたらしいけど、マウンド上で、ネクストバッターズサークルとか、自軍のベンチとか、相手のベンチとか、内外野の守備位置とか、ベースコーチの動きとか、それら諸々が気になって仕方なく、キョロキョロしてたんだと思う。そこを野村は買って、井端に内野手、とりわけショートを勧めたのだと思う。 内野手、とりわけショート、セカンドで最も重要な性格は、この「キョロキョロすること」、すなわち「周囲が気になって仕方ない事」である。フィールドの中心を守るセカンド、ショートは、内外野の守備位置やボールやランナーの位置等々、「周囲を気にする事」「周囲に気を配る事」は非常に重要な仕事、任務である。で、そのために必要な性格が「周囲が気になって仕方ない事」「キョロキョロすること」である。井端や宮本は、そういう性格であった。同じく名ショートといわれる小坂を私がイマイチ買わないのは、これに欠けるからである。 また、根尾がショート失格となった要因は、内野手としてバッターとして色々な技術不足という点も大きいのだろうけど、私が気になったのはこの点、すなわち「キョロキョロすること」である。テレビでちょろっと見る限りではあるけれども、根尾や「キョロキョロしない」というか、むしろ「一点を見つめてしまう」タイプのように見えた。こういうタイプは、むしろピッチャー向きである。技術的にはよく分からないが、性格的には根尾はピッチャー向きだと思う。ショート向きではない。 ちなみに、外野手は「ボーっとしがち」、キャッチャーは「うつむき加減」が、その適正性格である。また、同じ内野手でも、ファーストは「受け身」あるいは「他人のフォローが気にならない」がその適正性格である。田淵なんかは、典型的な「外野手向き」の性格だったと思う。キャッチャーをやったのが諸悪の根源だったかもしれない。外野手をやっていたら、500本以上、あるいは600本以上のホームランを打って、山本浩二どころか張本を凌ぐ「史上最高の外野手」になっていたかもしれない。足も速いし、肩も強いしね。 そういった意味でも、「性格によるポジションの振り分け」っていうのは非常に重要なのだけど、アマチュアは無論のこと、プロでもなかなか難しい。そのポジションに必要な運動能力と技術と性格を兼ね備えた選手なんて、なかなかいない。チーム事情もあるしね。長嶋や王、野村、山本、清原、あるいは先述した宮本や井端みたいなのは非常に稀なケースであろう。 特にキャッチャーなんていうのは、アマチュアレベルだとピッチャーの次に運動能力が高い選手が務めることが多いので、プロに入ってくるようなキャッチャーというのは、キャッチャー向きでない性格が非常に多い。先の田淵の他に、城島なども全然キャッチャー向きの性格ではないし、古田、谷繁、阿部もキャッチャー向きの性格ではない。古田はショート向き、谷繁は外野手向き、城島はピッチャー向き、阿部はサード向きであろう。古田などは、運動能力的にもショート向きで、ショートをやっていたら、バッティングはともかく、守備に関しては大橋を凌ぐ史上最高の大型ショートになっていたと思う。まあ、そういうショート的な選手がキャッチャーをやっていた事に古田の価値はあるのだけれど。 話が逸れた。落合の話ね(いや、違ったか。)。 この「選手の目利き」に限らず、選手と監督としての実績、そうして、あの勿体ぶった物言いから、落合の発言を御神託のように受け取るバカは後を絶たないけれども、落合の言う事が何でもかんでも正しいかといったら、そんな事は全然ない。間違っている事も多い。尤も、一番多いのは、誰もが分かり切っている事を、あたかも自分しか知らないように語る事、すなわち勿体ぶった物言いだけどな。 その物言いはともかく、落合の間違えている発言のひとつとしては、例の「センター方向の方が打球が伸びる。故に球場はセンター方向を深くしている。」がある。これは絶対に間違っている。誰がどう考えたって、経験的にも理論的にも、「引っ張った方が打球が伸びる」に決まってる。 単純に考えたって、日米ともに、いや台湾や韓国、キューバ、ドミニカ共和国もかな、ホームランバッターの多くは「引っ張り専門」だし、最長ホームラン、すなわち特大ホームランというのは、中西でもマントルでも、そのほとんどが引っ張った打球である。また、大谷にしても、反対側の打球の印象が強いけど、一番飛んだのは、私の見た限り、セーフィコフィールドの5階席だか6階席に飛び込んだそれ、引っ張った打球である。 ちなみに、清原が本塁打王を取れなかった、通算本塁打が600本700本を超えなかったのには色々な理由があるだろうけど、そのひとつは「流し打ちが多過ぎた」「センター返しを意識し過ぎた」からだと思う。もう少し「引っ張りのバッティング」を身に付けていれば、違った結果もあったと思う。 という訳で、「引っ張った方が打球が伸びる」というのは経験的にはほぼ確実、というか絶対正しいだろうけど、これは理論的にもその正しさは証明されている。 その理由は簡単で、バットが動き出している位置、「トップ」といってもいいかな、そこからボールと接触する位置、所謂「ミートポイント」の距離が「引っ張り」は最も長いからである。この距離は、陸上競技で云うところの「助走」みたいなものであるから、その「助走」が長ければ長いほど、よほど特殊なスイングでない限り、バットとボールが当たった瞬間の速度、スイングスピードは速まる。すなわち、打球速度が上がるのである。こんなのは誰でも分かる事なので、図示はしない。 また、「引っ張った方が打球が伸びる」にはもうひとつ理由がある。それはピッチャーの球速である。ピッチャーの球速というのは、原則的に、というかほぼ例外なくだろうけど、まあよほど特殊な気候条件下にないかぎり、投げた瞬間が最も早く、徐々に遅くなっていく。すなわち、ピッチャーに近ければ近いほど球速は速く、ピッチャーから遠ざかるほど、すなわちバッターに近ければ近いほど球速は遅くなる。 そうして、「引っ張り」というのはピッチャーにより近いところでミートする訳であるから、最も球速が速いところでミートするという事になる。 つまり、「引っ張り」というのは、バッターのスイングスピードが最も速く、ピッチャーの球速が最も速いところでミート、すなわちバットとボールが衝突する訳である。「打球速度が上がる」、すなわち「飛距離が伸びる」のは自明であろう。 ちなみに、「前さばきで打つ方が飛距離が伸びる」も全く同じ理屈である。たまに、引っ掛けるような打球で長打を打つ場合があるが、それを「あんな体勢から長打を打つなんて、凄いパワーだ。」なんて評するバカがいるけれど、あれも同じ理屈で、前さばきで打っているから打球は飛ぶのである。ただ、一般的には、引っ掛けるた時はバットの芯を外されているので打球が飛ばないだけで、引っ掛けても芯にさえ当たれば、引っ掛けないよりも打球は飛ぶ。実際、そういうバッティングをしている選手もいる。山崎武司なんかはこの種のバッターであろう。わざと引っ掛け気味に打っているのである。 勿論、「前さばきで打つ」というのは技術的にも難しいし、体への負担も大きい(手首をケガがしやすい。中西、原、中村等々)。故に、「ひきつけて打つ」「センター返しを心掛ける」という打ち方が推奨されるのである。「ホームランを狙いだすと、バッティングが狂う」とよく言われるのは、これが理由であるし、先に私は「清原は引っ張りのバッティングをした方が成績が伸びた」と書いたけれども、キャリア中期から、清原はこれを意識しだして、バッティングを崩していったのである。 以上が、「引っ張った方が打球が伸びる」の経験的理論的証明である。完全だと思う。ちなみに、これは統計的にも証明されているらしく、そういう研究(?)があるらしい。 こんなのは当たり前の話で、研究もクソも無いのだけれど、落合のような実績十分の元選手が、自信の感覚に即してだか何だか知らんけど、いい加減というか、間違えた事を云うので、私の大嫌いなセイバーメトリクス的なものの台頭、傍若無人を許すのである。元選手は自分の発言に責任を持って欲しい。ちゃんと、調査研究してから、モノを言えっつの。有名選手の言葉を大衆は無邪気に信じる。それこそ、セイバーメトリクスを信じるように。「ダウンスイングの悲劇」は繰り返さないで欲しい。今同じように「アッパースイングの悲劇」が繰り返されているけれども。 ちなみに、最近は、落合に代わってかは知らぬが、宮本がホントいい加減な事言ってんだよね。「フライボール革命」も完全に誤解してるし。その反論というか反証はいずれ。あとPL学園出身者の根本的な「頭の悪さ」というのもあるのだけど、これもいずれ。 何の話してたんだっけ。ああ、GMね。GMの人脈の話ね。そう広岡ね。 この落合と並んで「失敗GM」の代表格は広岡なのであるが、こちらの「人脈」の無さは落合の比じゃない。その「人脈」は「早稲田大学の後輩」しかない。 では、なぜ「人脈」が無いのかといえば、理由は簡単で人に嫌われまくっているからである。落合は人に好かれない程度であったけれども、こちらははっきり嫌われている。球界関係者で広岡を嫌っていない人を私は知らない。 だいたい、自分が連れてきた監督にも嫌われるつうんだから相当である。自分に仕事を与えてくれた人には大なり小なり恩義を感じるものだけど、それにも嫌われてしまうのだから相当である。そもそも、連れてきたのがバレンタインというのも問題だけどな。あのくらい分からんのか、ちょっと調査すれば分かる事だ。 もっと言えば、何故に外国人監督、それも日本と縁も所縁も無い監督を連れてきたのかといえば、それは恐らく日本の野球界に広岡の「人脈」が無かったからである。唯一の「人脈」は「早稲田の後輩」だけだったろう。「後輩」は命令を聞かざる得ないもんね。それくらい、誰も広岡とは仕事をしたがらなかったのである。んで、広岡を知らないアメリカ人となったのであろう。 それくらい、人に嫌われているのが広岡なのである。では、何故嫌われているのか。理由は簡単である。悪口である。とにかく、口を開けば人の悪口、そんな人格であるらしい。それもユーモアを交えた、人の核心を突くような批評的悪口なら、周囲もそれほど嫌がらないであろう。ところが広岡の悪口はもっと辛辣というか、差別的なものですらあるらしい。ほぼ単一民族国家の日本で差別的というのもおかしいかもしれないが、人を差別するのは人種や性別だけではないのだ。同人種同民族同性すら、人は差別する。表面化しにくいものだけど、こちらの方が事は深刻かもしれない。先の不良やヤクザだって、同人種同民族同性なのに、差別された人たちである。 まあ、差別云々はともかくとして、広岡の悪口というのは、野村曰く「隣で聞いていて、背筋が寒くなる」というレベルのものらしい。ちなみに、この発言をした当時の野村は、球界では数少ない「広岡礼讃者」であり、広岡の西武監督就任時に、田淵に向けて、こんな事を書いている。「おい、田淵。騙されたと思って、広岡さんの云う事をすべて実行してみろ。野球観が変わるぞ。まっ、お前に変わるような野球観があればの話だけどな。」。 しかも、こんな数少ない「広岡礼讃者」に対しても、野村がヤクルト監督として成功し、世間的にチヤホヤされ出したら、それが悔しかったのか、陰に陽に野村の悪口を言っていた。もっとも、その野村の死去した際の球界関係者の反応、というかその涙にショックを受けたのか、多少、ホントに多少、野村を褒めだしたのには笑ってしまった。広岡の死んだ時に泣く人はいるのだろうか。 そもそも、広岡は巨人時代から嫌われているのである。力の衰えもあろうが、事実上それが理由で、巨人を退団引退させられ、野球評論家に転身。そこで、巨人のキャンプに取材に行くも、ほぼ全ての選手関係者に無視される。その選手たちの態度に憤慨した森が「そんな女々しい事をするな」と積極的に広岡の取材を受けるようになったのが、両者の交流の始まりで、それがヤクルト・西武時代に花開く訳である。その森にすら嫌われてしまうのだから、相当なモノである。 とまあ、こんな風に書くと、私は強烈な「広岡否定論者」のように思われるかもしれないが、一時期の野村ほどでないにせよ、広岡の野球理論は概ね正しいと思っている。少なくとも、先に挙げた「センター方向の方が打球が伸びる」とか「ダウンスイング」のような、「そんな訳ねー」という主張は、私の知る限り、広岡にはない。とりわけ、そのお得意の「食事理論」は完全に広岡が正解であろう。 実際、長生きしてる。現時点で、有名プロ野球関係者の最長老は広岡なんじゃないかな。吉田、金田、野村等々、後輩の多くは皆鬼籍に入った。ところが広岡はいまだピンピンしとる。御年93歳。野村亀理論崩壊である。玄米、食べた方がいいよ。 広岡って人は、要するに「能吏」なのだと思う。言う事やる事、そのほとんどが正しいのだけど、正しいが故に嫌われる、そんなところがある。そうして、それが許せず、つい悪口を言ってしまう。しかも、なまじ賢いが故に、それが辛辣であり、それ故に、また嫌われる。 この広岡を見ていると、わたしはどうしても石田三成を思い出してしまう。非常に優秀な能吏でありながら、それ故に「天下」を取れなかった石田三成に広岡達朗は重なる。 能吏であるが故に正しい政治的判断をするのだけれど、正しい政治的判断というのは、得てして「三方一両損」的な、全員が公平に損する事が多い。故に、全員から嫌われてしまうのである。 そうして、その「嫌われる」という事の恐ろしさをよく知っていた、あるいは「嫌われない」事の価値をよく知っていた徳川家康や野村克也は、彼等よりさらに聡明だったという事であろう。 また、広岡の成功できなかった「GM」という職で、広岡が最も軽蔑するヤクザ的な人たち、無能な人たち、それ故豊かな「人脈」を誇る人達が成功したというのは、なんとも皮肉な話である。ここでも「神の見えざる手」は働いている。 ちなみに、広岡や落合というのは「練習型」の監督であると私は前に説明したけど、「人事」が苦手な彼ら、不得意な彼らは、なるほど「練習」に頼らざる得なかったであろう。実際、自分で練習すれば努力すればなんとかなるという、そういう人生、そういう才能を持って生まれてきた人たちなのであろう。「努力」の人たちなのであろう。 一方で、そういう人生でない、そういう才能を持って生まれなかった人たちは「人脈」に頼らざる得ない。「選手獲得型」にならざる得ない。「友情」の人たちなのであろう。 では、第3の監督のタイプ「戦略・戦術型」が「勝利」の人たちなのかは、分からない。ただ、この手のタイプの監督は「勝ちゃ、いい型」だとも言えなくもない。野村や上田はそこまでいかないけど、三原やビリー・マーティンは典型的な「勝ちゃ、いい型」の監督だとは云える。森もそういうところがあるかな。 ちなみに、「選手獲得型」の監督は「戦略・戦術」に没交渉、朴念仁の人が多い。例えば、有名な鶴岡・野村問答「プロはサイン盗みなんかしない。」「いや、プロだからこそ、サイン盗みをするんじゃないかな。」があるし、星野は現場での采配の多くを島野(野村門下生)に丸投げだったそうである。 また、根本の「監督」としての采配には、多くの、というよりはほぼ全ての選手たちが「デタラメ」「メチャクチャ」と口を揃えている。 まあ、当たり前ちゃあ当たり前だが、人間には得意不得意があるってこっちゃ。 何の話してたんだっけ。あっ、そうそう「人脈」な。GMの「人脈」な。つう訳で、GMには、この「人脈」と先に述べた「理想」が必須であると私は考えているのであるが、バラードにはその二つが無い。あと「WRを見る目」もな。 という訳で、一刻も早くGM職を解いてもらいたい、「現コルツ」から「元コルツ」に移行して貰いたいのであるが、どういう訳か、いまだに居座っとる。 また、こういう「理想と人脈の無さ」という理論的な理由のみならず、「ここ数年のプレイオフ不参加」という経験的現実的理由だけでも、十分更迭なのに、何故かいまだに居座っとる。 そもそも、プレイオフは全32チーム中14チーム出場、ほぼ半数のチームが出場できる訳ある。正確に計算すると、14÷32で43.75%。単純計算だと2年に1度は出場して普通、平均である。 んで、コルツは2021年から不出場。4年連続である。2年連続不出場でも数学的には十分な更迭理由になるのに、それをダブルである。2度更迭されてるっつの。 なんかあんの、アーセイとなんかあんの。肉体関係あんの。体の相性がいいの。 でまあ、今一応、バラードの履歴をウィキペディアでざっと見てみたのであるが、正直、特筆すべきものは何もない。私には分からない。KCでの在籍時に実績を残したという事なのだろうけど、ぶっちゃけ、あれはアンディ・リードの功績でしょう。実際、バラードが抜けても、いや、意地悪な言い方をすれば、バラードが抜けてから王朝を築きだした訳だし。 分からん、ホント分からん。やっぱ肉体関係。体だけの関係(私の大好物)。 本名はChristopher R. Ballard。 2025/5/18(日) |