インディアナポリス研究会コルツ部

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2021シーズン

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1/2/3/4/5/6/7

Week13 12月4日
SNF
TND@DAL
19−54(!!!)
 老いが理由なのであろうが、最近、身に覚えのないケガが多い。無論、擦り傷や切り傷のような小さなケガである。骨折や捻挫のような大きなケガでは無い。まあ、そんな大きなケガが身に覚えが無かったら、老化どころの騒ぎではない。

 でもホント、気が付くと、手足にちょっとしたケガをしている。で、ホント、全然記憶がない。全く無い。その経緯を類推すら出来ない。

 で、しかも、そのケガがなかなか治らない。ちょっとした擦り傷や切り傷が1か月ぐらい治らない。子供の頃、それも中学生の頃など、朝のケガが夕刻には完治していたくらいなのに。
 野球部の朝の練習時に膝をすりむいたりしても、放課後の練習時には完治していて、自分でもビックリしたくらいである。あの頃のメタボリック、いま何処。で、メタボリックしなくなった時、それは死ぬって事なのね。

 で、そんな私のメタボリックとは全然関係なく、第13週のコルツは19−54で惨敗です。

 あっ、一応念のため断っておきますが、このレビューは先週、第13週のコルツ戦のレビューです。今週、第14週のコルツはバイウィークでお休みでーす。もっとも、第15週は、ほぼ本日だけどさ。

 で、その第13週の対ダラス戦、G+の放送をザッピングしつつ、見ていたのであるが、第3クォーター終了時点で19−21、まずまずの接戦であった。「うまい具合に勝ちが転がり込んでくるかなあ」なんて甘い事を考えていたら、老いの為か、うとうとしちゃった。で、ふと目を覚ましたら、いきなりの19−35。目を疑っちゃった。ゲームタイムではなく、現実の時間で5分くらいの間での出来事である。

 で、ここで気持ちが切れて、そのまま寝ちゃった。目が覚めた時、「もしかしたら、逆転してっかな。」と甘い期待、一昔前のお菓子、あるいはアメリカのお菓子みたいに甘過ぎる期待をしつつ、結果を確認したら、19−54、第4クォーターのみのスコアが0−33。

 まっ、いいけどさ。もはや勝利は期待してねーし。確実に敗北を重ねて、ドラフト順位を一つでも上げたいぐらいだしさ。何の不満もない。唯一の不満は、フッカーが1インターセプト1ファンブルリカバー・タッチダウンと活躍したことぐらいである。

 一方、マット・ライアンは3インターセプトを喰らった訳であるが、これは指示があったんじゃないかな。「多少無理してでも、パス投げてけ」みたいな。で、その成果という訳でもないけど、第1クォーターでは、その無理なパスを「競り合いに強い」ピアースが上手くレシーブしたってシーンもあったし。でも3インターセプト、59失点。

 これではっきり分かったよね。「競り合いに強い」なんてワイドレシーバーには全然必要ない能力だって事が。まあ、全てボールを奪い捕れるならともかく、100%じゃなければ、インターセプト量産になってしまう。

 で、この大敗で4勝8敗1分け。数字上プレイオフの可能性が残っているのか否かは知らんが、私の気持ち的には今季終了。でも、ここから、よせばいいのに、ちょろちょろ勝ってしまって、ドラフト順位を下げちゃったりすんだよなあ。最終テキサンズ戦にオーバータイムの末、勝利して、ドラフト順位をおおいに下げるって落ちだけは堪忍。ここからは、確実に敗北を拾っていって欲しいです、ハイ。

 で、バラードはサヨナラな。

 なあんて書いていたら、バイキング戦見逃しちゃった。土曜日のゲームだったのね、チャンチャン。しかも、33−0からの逆転負けって、なにそれ。

                                   2022/12/18(日)
Week15 12月17日
TND@MTN
36−39
 上記の記事にもあるように、このゲームのダ・ゾーンでの生観戦は完全に失念した。まあ、今季のコルツに対する情熱を完全に失っているという、フロイトの手紙的な理由もあろうが、単純に忘れた。毎年って訳でもないんだけど、数年に1回ぐらいあるんだよね〜、シーズン終盤の変則日程とか土曜日ゲームに惑わされるの。皆さんもあ〜りませんか?。

 特に、土曜日ゲームは、日本時間だと「日曜日」なので、勘違いしやすい。通常の「日曜日」のゲームだと思ってしまう。
 また、アメリカだと、NFL情報は国全体に氾濫しているだろうけど、日本の場合は、公式ページぐらいしか、まず情報が無い。今季みたいに、贔屓チームへの情熱が失われていると、忘れちゃうよね〜。皆さんもあ〜りませんか?。

 あと、ここ最近嘆いている「私自身の老化」とは何も関係ないです。だって、若い時からですから。それもそれで問題か。

 で、まあ、この問題の「大逆転負けゲーム」、まだダ・ゾーンで視聴できるのであるが、さすがに逡巡した、葛藤した。

 いやだって、確実に不快になる事が分かっている事のために2〜3時間ほどを費やすって、バカでしょう。

 このへんが「スポーツ観戦」という趣味の恐ろしいところですな。怖すぎる。

 あらゆる趣味あるいは娯楽には、大きく分けて、2種類ある。ひとつは「能動的なもの」と、ひとつは「受動的なもの」の2つである。

 「能動的なもの」というのは、それこそ「野球をする」とか「歌をうたう」とか「楽器を演奏する」とか「プラモデルを作る」とか「山に登る」とかいうような「みづから動く」趣味あるいは娯楽である。「切手集め」(今時、やっている人いるのかな?)というようなコレクション系の趣味も、「みづから動い」ているのだから、「能動的な」趣味娯楽といって良いであろう。

 一方、「受動的な」趣味娯楽としては、代表的なものは、無論「読書」や「音楽鑑賞」といった、所謂「鑑賞系」の趣味娯楽である。「『読書』や『音楽鑑賞』だって、眼球や鼓膜を動かしている。」というような、しょーもないツッコミはしないよーに。

 また、「ダンス」みたいな、「音楽を聴きつつ、踊る」みたいな、カテゴライズ的に微妙なものもあるにはあるけれど、「あらゆるカテゴライズには、ヌエ的なものがある」って事で、お許し願いたい。

 また、「エロビデオ鑑賞」というような、鑑賞しつつ……、以下自粛。

 で、「スポーツ観戦」というのは、「応援しながら、踊り狂う」みたいな、ごく一部の例外は除き、完全に「受動的な」趣味娯楽である。

 ただし、「読書」や「音楽鑑賞」あるいは「映画鑑賞」というような、所謂「鑑賞系」の娯楽趣味と「スポーツ観戦」は、決定的な相違点が一つある。それは、「かなり高い確率で、不快な気持ちになる」という点である。

 勿論、「映画鑑賞」や「音楽鑑賞」でも「不快な気持ち」になる事はあろう。でも、それは映画や音楽の制作者の不手際、あるいは制作者と鑑賞者のセンスのミスマッチによるもので、回避する事も可能である。というか、「不快な気持ち」にさせないのが、制作者の腕の見せ所であろう。まあ、そんな「鑑賞者の不快な気持ち」をガン無視して、映画や音楽、あるいは小説や詩、絵画を制作する人も、いるにはいるが、それはまた、別の話である。基本的に、制作者は、鑑賞者の不快な気持ちを避けるべく、努力するものである。

 また、「能動的な」趣味娯楽においても、「不快な気持ち」というか「不快な結果」に終わる事も無くは無いが、それは本人の努力次第で避ける事は出来る。避けられないものも無くは無いけどさ。

 ところが、「スポーツ観戦」という趣味娯楽においては、この「不快な気持ち」を本人の努力で回避する術は無い。ほぼ無力である。なかには、「私の応援で我がチームを、」なんていう人もいるけれど、それは幻想である。まあ、審判の笛ぐらいは左右できるけれどね。

 そうして、その「不快な気持ち」は、上述したように、かなり高い確率で発生する。少なくとも、スポーツ観戦をした人すべてが幸せになる事は無い。なぜなら、勝利の反対は敗北だからである。勝者と同じ数だけ、必ず敗者がいる。

 もしかしたら、あらゆる人が敗北を願うチームやプレイヤーがいる、あるいは現れるかもしれないけれど、それは非常に低い確率であろう。どんなチームやプレイヤーにも、ファンやアンチはいるものである。そうして、彼等御贔屓のチームやプレイヤーに一喜一憂するのである。そう一喜一憂するのである。一喜だけではないのだ。

 これが「映画」や「音楽」あるいは「小説」だったら、制作者の腕次第で、完全に一喜とまではいかなくとも、完全に近い一喜ぐらいまではいくであろう。
 ところが「スポーツ」だと、そうはいかない。スポーツ観戦者すべてが幸せになるゲームは無い。あったとしても、非常に例外的なものであろう。あらゆるゲームは、必ず、誰かが喜び、誰かが悲しむものなのである。

 でも、私は、それこそがスポーツやゲームの尊さだと思うのである。実を言うと、私には、映画や小説、あるいは漫画、そうしておそらく音楽、そういった所謂「フィクション鑑賞」の娯楽や趣味を、いくらか軽蔑する心持ちがある。とくに、スポーツやゲームを軽蔑して、映画や漫画、音楽等々のフィクションに耽溺する人たちを、どこか軽蔑する心持ちがある。お前ら、いつまで愛撫されてんだよ。どんだけ乳首舐められりゃ、気が済むんだよ。

 とはいうものの、これはこれ、それはそれ。さすがに、この「大逆転負けゲーム」を「鑑賞」、つか「ムチ打ち」には躊躇った。でも、「ムチ打ち」されちゃった。だって、僕、マゾなんだもん。いや、違います違います。わたし、コルツっ娘なんだもん。

 つう訳で「ムチ打ち」された訳であるが、この「観戦」というか「確認」の主たる目的は、「もし、リアルタイムで、このゲームを見ていたら、私は、どの段階で『嫌な予感』がしただろうか。」って事の確認である。

 観戦前の予想としては、「前半終了時あたりで、キナ臭い匂いが漂っていたのかなあ。」なあんて思っていたのであるが、実際、観戦してみると、その時点ではキナ臭さなんてまったく漂っていなかった。

 つか、第3クォーター終了時だって漂ってねーよ、いや、第4クォーター終盤だってねーよ。だって、第4クォーター残り8分ぐらい15点リードでインターセプト奪ってんだよ。残り3分ぐらい8点リードで4thダウン失敗を奪ってんだよ。そっから逆転って、信じらんねーよ。

 実際、観戦中あるいは確認中、「こっから逆転負けすんの?」って、全然信じられなかった。私のパソコンに「コルツ逆転負け」という誤った情報が流されてんじゃねーかって疑ったぐらいだよ。ハッキングされてんじゃねーかって疑ったぐらいだよ。「ホントは勝ってんじゃねーの」って、信じちゃったぐらいだよ
 ミネソタサイドにも、第4クォーターに入っても、全然勝つ気が感じられなかったし。ここまで10勝3敗、前半0−33でリードされたら、そりゃ「こんな日もあるよね〜」モードだよ。「ケガには気を付けよ〜ね〜。」モードだよ。

 でも、そっからやっぱり逆転負け。33点差からの逆転負けって、あのライクのグレートカンバックの32点差を凌ぐ大記録だってさ。前コーチに対して、そういう恩の返し方をしてドースル。いや、それともライクの呪い?。

 いや、そりゃそーだろ、33点差って、4ポゼッションでも32点だよ。つまり、ミネソタが勝つためには最低5ポゼッションが必要って事だよ。っていう事は、すなわち、後半5ポゼッションをミネソタに与えなければ、自動的に勝利するって事だよ。でも、逆転負け。

 敗因は、もうさんざん言い疲れたけど、オフェンスだよ、オフェンスが全然進まねえーって事だよ。前半の33得点だって、そのうちの30点ぐらいはディフェンス&スペシャルチーマーの力だからね。オフェンスで獲ったのなんて、印象的には3点ぐらいだよ。

 これ、もう口きいて貰えないよ。私がディフェンスorスペシャルチーマーだったら、オフェンスにキレるよ。オメーら、その差し入れのお菓子、食うなよ。オメーらの分はねーからな。

 で、オフェンスの進まねー理由は何かっていうと、これは勿論、魅惑のレシーバー陣。もう批判も飽きたよね。ジェファソンが、この試合、ワンカットで、あるいは魅惑のルートランニングで、ギルモアをブレイクしてたけど、あれだよあれ、あれをやってくれよ。あっ、無理か。

 あっ、こう書くと、ギルモアが不出来のように思われるかもしれないけど、全然そんな事は無いからね。この試合、ジェファソンは12レシーブ・123ヤード・1タッチダウンだったけど、むしろ、良く抑えた部類である。さすがの動きだった。私が見た中では、間違いなくコルツ歴代ナンバー1のCBである。対抗馬は、ちょっと思いつかない。

 話をオフェンスに戻すと、QBね。マット・ライアンね。

 以前、マット・ライアンについて、「判断が固い、選択肢の数を増やして欲しい」みたいな事を書いたけれども、そこから更に私は、「こういう選択肢の数の少ないQBは、追いかける状況、すなわち終盤でリードされている時は、選択肢の数が自然に減るので、良い結果を出し易い。一方、リードしている状況、すなわち選択肢の数の多い状況では、苦しむ。そういった意味では、あのスーパーボウルは、ライアンにとっては、最も難しい、あるいは困難な状況だったと思う。しかも、相手はペイトリオッツ、つかベリチックだし。」みたいな事を書こうと思って、タイミングを伺っていたのであるが、そのタイミングが来る前に、まさかの、つか、やっぱりこの結果。いや、むしろ、これこそタイミング。

 いやまあ、ライアンは、その特性上、こういう展開は苦手だよね。大量得点差を逃げ切るっていうのは、最も不得意なQBだと思う。ちなみに、もっとも得意なのは、以前も書いたけれど、あの愛しのアンドリュー・ラック。ラックがQBだったら、こういう展開は楽々、そうして巧みに逃げ切っていた事だろう。

 一方のライアンは、時間を使ってほしいところで投げ捨てたり、ファーストダウンの欲しいところでバックフィールドにパスしちゃったり。逃げ切るゲームという意味では、不手際が目立った。レシーバー陣ほどではないが、敗因の一つではある。まあでも、これは治らないよね。年齢も年齢だし、性格に由来するものだし。

 あとまあ、敗因という程じゃないけど、ライアン・ケリーも、もう少し何とかなんねーかなあ。第4クォーター終盤、4thダウン半ヤードでのスニーク失敗は、さすがにガッカリした。1巡18位のセンターなんだし、隣はネルソンなんだし、ねじ込んで欲しいよね、あの場面は。ハリソン・フィリップスが相手でもさ。サタディなら、絶対ねじ込んでた。

 あとまあ、ザイール君の名人芸パスインターフェアランスとかもあるけどさ、まあいいや、敗戦オールオッケーだし。残り3試合、確実に負けてください。それが、ヘッドコーチ・サタディのミッションです。でも、そこから3連勝したりするのが、スポーツの恐ろしいところなんだよ、映画好きの諸君。

 あと、ジェファソンのひとつ前で指名されたWRことジェーレン・リーガーが試合出てたね。ルートランニングミスったのか、怒られてたけど。

 あと、ネイハイム・ハインズ改めザック・モスを今回初めて見た。思ったより悪くない印象。典型的なパワータイプ、パスプロも上手そう。これでレシーブも良ければ、面白い存在かも。ハインズよりグレードアップも見込める。ただまあ、ディオン・ジャクソンと、タイプ的には丸かぶりではあるが。どっちかを残したら、どっちかはサヨウナラかな。

                              さっ、寒い。2022/12/21(水)
Week16 12月26日
MNF
LAC@TND
20−3
 きっちり敗戦。よしよし。

 とりあえず、これでドラフト10位以内は確定。上手く嵌れば、5位以内もあるかも。よしよし。全体1位の可能性も、まだ残ってんのかもしれんけど、よー分からん。ヒマな方、お正月に箱根駅伝でも見ながら、計算してください。でも、この1分けが響く事になったら、ヤダなあ〜。

 でも、今、AFC南の順位表を見たら、ジャガーズとタイタンズが7勝8敗で並んでんのな。我らがコルツも、2,3試合接戦を拾っていたら、まだ優勝戦線の渦中にいたという事か。いても、また地区優勝しても、その先は無いけどさ。

 つう訳で、心は完全にドラフトな訳なのであるが、まあ5位以内なら、仮にバラード残留でも、外さんだろ、エースレシーバー。

 なんつーか、今季は、ドラフト上位でエースレシーバーが競って指名される理由が、イヤっていう程、いやホント、イヤっていう程分かった。いやもう、ホント新感覚。ポリアン時代には味わえなかった感覚ではある。

 つう訳で、バラード、マスコミの言う通り、ドラフトガイドの指示通り、ちゃああああああんと指名しろよ、ワイドレシーバー。お前の見立てはいらんからな。一切の私見を入れるな、いや、私情すら入れんな。身長は関係ないからな、レシービングに。まあ、言っても理解しないと思うけど。

 また一部で、QB指名という主張もあるし、その意見も分からんではないが、私は反対である。その理由は、ここ数年ちょこちょこ書いてきたので、ここでは割愛する。ドラフト時にでも、また書きたい。

 つう訳で、来週再来週、マスト・ローズよろしく。万が一にも勝つなよ〜〜。

 で、来週は帰省するので、記事はありませ〜ん。皆様、良いお年を〜〜〜。しっかし、つまらんシーズンだった。

                              2022/12/29(木)
Week18 1月8日
HOU@TND
32−31
 元日に立ち食いソバ屋で蕎麦を食べている人を見た。どんだけ、そば好きやねん。

 年末年始は、毎年恒例で帰省していたのであるが、やる事もないので、老母の隣でテレビを見てた。

 どんだけ老いてんねん。

 老母と私という視聴している側も確かに老いてはいるけれど、テレビの出演者も老人ばっか。みんな70才超えてる。高橋英樹の十津川警部モノを観ていたけど、高田純次が亀さん。どっちも70超えてるっつの。そんな刑事いねーよ。とっくに定年退職してるよ。刑事も公務員だよ。長さんとか丸さんとか、みんな50代の設定だよ。下川辰平も高品格も、当時実際50代だよ。

 まあ、それでも、芝居が50歳だったら、百歩譲って、許せるけど、高橋英樹も高田純次も完全におじーちゃん。矍鑠としちゃってたよ。テレビ画面を通しても、完全に70代。

 そのほか、歌番組とかも観てた。老母の好むものって側面もあるけど、出演者が老人ばっか。香西かおりが若手って、どんな舞台だよ。

 ちなみに、私は、普段はあまりテレビを観ていない。つーか、所謂「地上波」は全然見ていない。「私めは高尚な人間だから、テレビみたいな低俗なものは云々、」とかいうような理由では全然無く、10年ほど前の所謂「地上波デジタル切り替え」時に(覚えている人いるかな?)、何となく見るのを辞めてしまった。視聴習慣を失ってしまった。別に貧乏だったという訳でもないけれど、チューナー付きのテレビに買い替えるのも面倒くさかったし、衛星放送に加入もしていたし、何より見たい番組もほとんど無かった(「タモリ倶楽部」くらいか)しで、そのままうっちゃってしまった。爾来、「地上波」は、ほとんど、つーか全然見ていない。それこそ、帰省した時のみである。
 ちなみに、5年前くらいに衛星放送からケーブルテレビに鞍替えしているので、現在は「地上波」も視聴可能である。でも、見ていない。

 故に、最新のテレビ芸人は「クールポコ」だったりする。スギちゃんって誰?、「今でしょ」っ何?、な状態な訳である。あと、「そだねー」の使い方が、さっぱり分からなかった時期もある

 んで、帰省した際には、ちらほら「地上波」を観ているのであるが、なんかもう、出演者が全然変わってねー。地上波アナログだった時代とほとんど変わってねー。ただ10歳トシ取っているだけだよ。タモリはぶらぶらしてるし、和田アキ子は鐘鳴らしてるし、黒柳徹子は…、いやそれは言うまい。まあ、あれはあれとして、「老人虐待ショー」として、面白くはあるが。

 今年の正月は、そういう老人タレントを、老母の隣で、さんざん見てきた訳であるが、あーいうの見てっと、なんつーか、若い頃とか全盛期にお亡くなりになった役者や歌手は、ある意味、幸せなのかもしれないとも思った。ジェームス・ディーンとかブルース・リーとかジョン・レノンとか沖雅也とか松田優作とか尾崎豊とか。あるいは、若くはないけど、石原裕次郎とか美空ひばりとかマイケル・ジャクソンとか。

 エクスペンダブルズ入りするブルース・リーなんて考えられんもんな。松田優作あたりは、トシ取ったら、取ったなりの芝居をしそうだけど、マイケル・ジャクソンは、80歳過ぎても、ムーンウォークしてんのか。してそうだけど。ジョン・レノンも、80歳を過ぎて、「イマ〜ジン」とか「ロックンロール・ミュージック」とか歌ってたのかな。いい歳こいて、「盗んだバ〜イク」は辛いよね。

 長生きしちゃったロックスターなんて、ほんと悲惨だよね。ミック・ジャガーとかポール・マッカートニーとか内田裕也とかかまやつひろしとか。「自由」も「反抗」も無いよね、「富」と「名声」を得ちゃったら。つーか、それより何より、ルックス。プレスリーは、あれでもまだ幸せな方なのかもしれん。あれ以上、生きていたら……。

 あと、死んだ訳ではないけど、全盛期にサクッと引退しちゃった人達も偉いよね。つーか、賢いよね。原節子とか山口百恵とか。

 まあ、勿論、何でもかんでも死ねばいい辞めればいいという訳ではないし、老いてもテレビ出演を続ける人たちには、当人達のエゴというよりは大人の事情、いろんなしがらみ、それこそ、しがみらみにしがらんでテレビ出演し続けているんだろうけど、放送番組、あるいは芸能としては辛いよね。もともと、老人枠だったり脇役枠だったりした人達、例えば、菅井きんとか汐路章とか、高品格みたいな人は良いけれど、主役クラス、ヒーロー枠ヒロイン枠は辛い。

 でも、私の子供の頃、すなわち70年代80年代は、テレビにこんなに老人は溢れていなかったと思う。70代以上の人はほとんどいなかったと思う。今調べてみたら、汐路章も66歳で死去しているし。史上最高の芸人、由利徹師匠も、当時は50代60代ぐらいだったし。

 私の子供の頃の老人タレントと云えば、パッと思いつくのは、まず何より淡谷のり子。あと、上原謙あたりがちらほら出ていたくらいである。まあ勿論、小堺一機の「いただきます」みたいな番組もあったけど、ああいう番組が成立したのは、老人タレントが少なかったからだとも云える。でも、塩沢ときにしたって、「いただきます」出演時は50代だからね。
 あとまあ、杉兵助師匠なんかは、所謂「イジラレ」てはいた。

 あとまあ、これは「老人タレント」とは直接関係ないけど、当時は謂わば「老人芸」というものがあった。青島幸男を頂点に、加藤志村の両御大、研ナオコやつまみ枝豆なんかも得意にしていた。これら「老人芸」は90年代に入って完全に消えた。所謂「自主規制」なのだと思う。あと、これは「老人芸」じゃないけれど、白木みのるも同時期に消えたよね。恐ろしい話である。

 「老人芸」が消えて、「老人タレント」がうじゃうじゃうじゃうじゃ。

 最近の若い人には申し訳ないけれど、テレビというメディアは1985年あたりを境に徐々につまらなくなっていった。

 「つまらなくなった」理由としては、先に挙げた「自主規制」等々、作る側の事情がよく取り沙汰されているけれど、私の見るところ、「つまらなくなった」理由としては、勿論、「作り手側の事情」も多々あるけれど、最も大きな要因は、「受け手側の変化」、「視聴者層の変化」、具体的に言えば、「テレビの主な視聴者が、『子ども』から『オバサン』に変わった事」だと思う。

 1985年くらいまで、とりわけ70年代から80年代にかけては、テレビの主な視聴者は「子ども」だった。それこそ、私の子供の頃、テレビは「子ども番組」いわゆる「ジャリ番組」に溢れに溢れていた。

 午後4時から6時くらいまで、子供、とりわけ小学生が学校から帰って来る頃合は、各局ともに(NHKですら)、子供向け番組、つまりアニメや特撮(これらは、ひとくくりに「テレビ漫画」とも云われていた)の再放送を繰り返し繰り返し放送し、6時以降8時くらいまでは、今度は、アニメや特撮の本放送のオンパレードである。

 また、アニメや特撮以外でも、今や完全に絶滅種であろうが、「子供向けドラマ」というジャンルがあった。「ケンちゃんシリーズ」を頂点に、「レッドビッキーズ」とか「あばれはっちゃく」とか、また今現在では「特撮」にジャンル分けされているが、「ロボコン」とか「5年3組魔法組」とかも、「子供向けドラマ」にくくって良いであろう。すなわち「子供、とりわけ小学生が主人公のドラマ」である。
 また、ちょっと年齢層が上がるが、ヲタクの至宝「NHKの少年ドラマシリーズ」も所謂「子供向けドラマ」といって良いであろう。

 また、同じく年齢層が上がるが、「金八先生」や「うちの子にかぎって」というような、所謂「学園モノ」も、同じく「子供向けドラマ」といって良いであろう。

 また、「太陽にほえろ」にしたって、あれは「子供向け刑事ドラマ」であるし、「西部警察」や「トミーとマツ」は言わずもがなであろう。そう言えば、「刑事犬カール」つうのもあったよね。「刑事くん」はともかくとして。

 また、「バラエティ番組」も、当時は「子供向け」が多かった。「8時だよ!全員集合」も、今は「作り込まれた笑い」なんて評価されているけれど、あれは完全に「子供向け、それも小学校低学年向けのお笑い番組」である。ドリフターズはクレイジーキャッツの子供バージョンである。また、「電線マン」や「タケちゃんマン」だって、「子供向け」であるのは自明であろう。「欽ちゃん」は、ちょっと年齢層が上がるので、故に「9時から」放送していた。

 事程左様に、70年代から80年代にかけては、所謂「ジャリ番組」が、午後4時から8時くらいにかけて、それこそ履いて捨てるほど放送されていた訳であるが、1985年あたりを境に、徐々に減少し、今やそれは地を払って消えてしまった。「ドラゴンボール」あたりが、最後の「7時から」のジャリ番組であろう。あっ、テレビ東京は21世紀に入っても放送してたかな。

 こうした「子ども番組」の減少の理由は何かというと、1985年あたりを境に、テレビの主な視聴者が「子ども」から「オバサン」に変わっていってしまったからである。「子ども」達がテレビを卒業、あるいは徐々に減少し、それに代わって、かつて自分の子供たちに「テレビを見たら、バカになる」と叱っていた「お母さん」達が主な視聴者、メインターゲットになっていったからである。

 かつて夕方4時くらいからの至宝の再放送タイムは、あの低俗極まりないニュースショーに取って代わられた。それは70年代80年代において、いや、今現在においても「オバサンタイム」だった午前9時から11時くらい迄にかけてのワイドショーが、夕方4時代5時代に移行拡大したものである。

 「怪傑熟女」なんて番組が、「7時から」放送されているのを見て、当時の私は呆れかえったものである。また、所謂「オネエタレント」の氾濫も、細かい理屈は省くが、テレビのメインターゲットが「オバサン」に変わった事の証左である。あんなの絶対子どもは観ない。

 「いや、『オバサン向け』だからといって、『つまらない』とは限らないんじゃないか」と反論する向きもあろう。はいっ、断言しましょう。「オバサン」向けに、テレビ番組を作ったら、はっきりつまらなくなります。「オバサン」向けにテレビ番組を作って、面白くなる訳がない。これは断言できる。「オバサン」に限定すると、ジェンダー勢から怒られるかもしれないので、「大人」と訂正しても良い。

 文化は常に「子ども」が担当するものなのである。「大人」は文化を担当できない。「文化」を担当するのは常に子供、あるいは「大人にならない一握りの人達」が作るもの、それが「文化」である。大人、ましてや「子ども」を産んでしまった女に「文化」は担当できない。まさしく、「天才は子供であり、子供は天才である」。おっと、またジェンダー勢を敵にまわしちまったぜ。

 勢いに任せて、もうちょいジェンダー攻撃するか。

 人類の歴史が3000年か4000年かは知らないけれど、その期間、ただの一度も女性が「文化」を担当した事はない。少なくとも「優れた文化」は担当していない。「世界文学全集」、「世界思想全集」、「世界科学全集」、ほぼ男性である。オースティンやキュリー夫人など、無理矢理ねじ込んでいるだけである。実際の実力は、「全集入り」は厳しいであろう。さしづめ「女流枠」といったところか。

 また、絵画や音楽、あるいは詩作といった、参加人数的には、むしろ女性の方が多そうな文化ジャンルですら、優れた画家や作曲家、詩人は、ほぼ男性である。いや、「男性に限られる」としても良いくらいである。しかも、それは人種や民族、文明を問わず、である。これって、ジェンダー研究者は、どう捉えているのだろう。いや、「ジェンダー」って、そういう事じゃあないのかもしれないけどさ。

 こんな事を書くと、「一部の男性」が得意がるので、そちらも制しておくが、男性だって、ほとんどは「文化」を担当できない。「一握りの男性のみ」である。ほとんどの男性は、「オバサン」同様、「文化」の敵であろう。「文化」というのは、いつの時代も、どんな地域も、「子ども」と「大人にならない一握りの男性」が担当するものなのである。

 また、私が、それこそ子供の頃から、首をひねっていた常套句のひとつに「大人でも楽しめるアニメ」というものがある。「大人でも楽しめる」って、それって、つまんないアニメの事でしょう。子供の楽しめるもの、それは芸術作品として、最も優れているものである。「子ども」こそ、最も優れて、最も厳しく、そうして、最も正しい批評家なのである。
 漫画家は、それこそ掃いて捨てる程発生しているにもかかわらず、藤子不二雄のような優れた「児童マンガ家」の生まれないのは、その証左のひとつである。まあ、鳥山明という飛び抜けた例外はいるけどさ。「大人でも楽しめるアニメや漫画」、それらは大概つまらないアニメや漫画である。まして、「大人向けアニメや漫画」をや。

 また、優れた小説家は、セルバンテス以降、数あれど、優れた童話作家がアンデルセンのみであるというのも、事情は同じい。

 「童話」の話が出たついでに、もうひとつ「女性」を攻撃しておくと、「女性」の描く、あの「絵本」っていう奴は、本当にくだらない。ほぼゴミである。「絵」も「物語」も、ほんと腐ってる。「子供を舐めんな」って言いたい。実際、私は、子供の頃から、それこそ幼児の頃から、「絵本」をバカにしきっていた。ちなみに、私が、生まれて初めて、感動した芸術作品は「Dr.スランプ」である。こんなに面白いマンガがあるのか、いや、こんなに面白い本があるのかと感動した。この直観は正しかった訳である。

 「女性」の描く「絵本」の読者は「子ども」ではなく、「お母さん」である。故に、くだらない。

 「お母さん」以外にも、ついでにいろいろ攻撃しておくか。

 先にちょいと触れた「8時だよ!全員集合」であるが、それは今では「作り込まれた」笑いという評価になっているけれど、そりゃそうだよ、「子供向け」のお笑い番組こそ、きちんと「作り込まなければ」、子供は笑ってくれない。そっぽ向かれてしまう。ここ30年くらいのお笑い番組、松本人志以降のお笑い番組が、子供に対して、何の訴求力も持っていないのは、それは「つまらない」からである。「大人だまし」の作品だからである。

 「子供だまし」という言葉がある。これも私は、「大人でも楽しめるアニメ」同様、それこそ子供の頃から首をひねっていた。先に挙げた「松本人志以降のお笑い番組」同様、子供こそ、最もだまし難いものであるからだ。なぜなら、子供は、最も優れて、最も厳しく、そうして、最も正しい批評家だからである。

 かえって、「大人」の方が余程だまし易い。「大人だまし」の作品は、先の「松本人志以降のお笑い番組」を始め、何と世に溢れかえっている事であろう。その代表的なものは、何と言っても、あの「ハリウッド映画」である。あれこそ、「大人だまし」の最たるものである。「自由」とか「反抗」とか「愛」とか「平等」とか「成長」とか、それっぽいテーマを散りばめれば、「大人」はコロッと騙される。そのくせ、あらゆるエンターテインメントの基本である「セックス&バイオレンス」には、異常に憶病。ああいうのを見ていると、アングロサクソン芸術の限界を私は感じる。そりゃ、「ドラゴンボール」をハリウッドは映画化できないよ。

 また、ここ30年くらいで、最も優れた「文化」、日本どころか、それこそ世界的に見ても、最も優れた「文化」のひとつは、おそらく「ポケットモンスター」であろうが、これもまた、「子ども」が発見したものである。当時のゲーム評論家の多く、広告業者の多く、小売店の多くが閑却していたにもかかわらず、当時の「子ども」達が、「大人」達のマーケティングを超えて、その「面白さ」を発見したのである。そうして、その制作者もまた、「子供が、そのまま大人になったような人」であった。

 「子供文化論」はともかくとして、「テレビのつまらなさ」に話を戻すと、今後、それこそ人口ピラミッドが正常化し、テレビの主役が「オバサン」から「子ども」に変わる時が来るかもしれない。でもまあ、30年くらい先の話かな。もっとも、その頃はテレビというメディア自体が消滅しているかもしれないけれど…。

 まあ、漫画や小説のように、経済規模の小さな文化なら、「受け手」の都合は考慮せず、「制作者」側の都合で、それなりに制作できるであろうが、映画やテレビ、また昨今のゲームソフトのように、経済規模の大きな、あるいは巨大な文化となると、「受け手」の事情を考慮せざる得なくなる。「文化」を担当する能力の欠けた「大人」から金銭を巻き上げざる得ない。まあ、そこを押し切っちゃうのが、「子供が、そのまま大人になったような人」なのかもしれんけど。

 ちなみに、私の老母は、この年末年始、私の隣で、「テレビがつまんない、テレビがつまんない」と連呼していた。、テレビをつまらなくしたのは、オメーらだつーの。
 また、ちなみに、先にちょいと触れた「自主規制」も、主犯は、この「オバサン」達である。「あれも見たくない、これも見たくない」。そもそも「オバサン」に知的好奇心なんか、ねーつの。まあ、もっとも、知的好奇心なんか無い方が、それはそれで幸せに生きていけるのかもしれないけれど。字を識るは憂いの始めなり。

 さて、本題のコルツ話であるが、最終戦もキッチリ敗北、パチパチパチパチ、今季は4勝12敗1分けで終了(ちなみに、先週第17週はジャイアンツ相手に10−38で大敗。ヨシッ。)。ドラフト順位は4位。まあ、この順位なら、エースレシーバー指名に失敗はあるまい。最悪の展開でも、「3番手評価」ぐらいはゲットできる。まあ、ドラフト話はいずれまた。

 さて、話は代わって、先週第17週、私が帰省している時に、NFL的には、そこそこの事件があった。ビルズのダマ―・ハムリンの「心肺停止」である。それこそ、日本の「地上波」のニュースでも放送されていた。

 幸い、一命はとりとめ、何よりであるが、どれだけ安全健康を配慮しても、このスポーツの場合、こういう結果は十分起こり得るであろう。

 最悪の事態を避けるためには、ボクシング同様、フットボールも「禁止」するしかないと思う。ルール改正等々では限界がある。

 パッと思い付く「ルール改正」としては、「フットボールギアの禁止」であろう。意外に思われるかもしれないが、あのマッドマックス的な防具は、あくまで自分の体を守る為、あるいは自身の最高のパフォーマンスを出す為であって、受け手のためのものではない。ちょうど、ボクシングのグローブと理屈は同じである。まあ、10オンスとかは受け手の為かもしれないけれど、4オンス(狂気)6オンスくらいは、あくまで「自身の拳」を保護するためのものである。グローブが禁止されたら、ほとんどのボクサーは10試合ほどで、拳を痛めて引退であろう。ある意味、「安全」だとは云える。「死亡」や「パンチドランカー」の危険性はだいぶ低下するからである。

 それは、フットボールで云えば、「フットボールギアの禁止」になろうし、その理屈が進めば、「ブロックの禁止」や「タックルの禁止」へと発展しよう。

 でもそれじゃあ、「フットボール」じゃないよね。「ラグビー」、あるいは「サッカー」だよね。

 この手のスポーツ、フットボール的なスポーツの原型はラグビー的なものだったと思う。まあ、例の「ラグビー校のエピソード」はあるにはあるけれど、あれは、むしろフィクションに近いものなのではないだろうか。実際、「フットボールは、元々手を使っていた」なんて記事も、どっかで読んだ記憶があるし。

 いきなり「足しか使わないゲーム」が誕生したというのは、やはり不自然だと思う。ボールを腕に抱えて、押し合い奪い合いをしていたのが、「フットボール」の原型なのではないだろうか。そこから、パスしたり、キックしたりと派生していったのだと思う。「オフサイド」は、単純に「ボールを保持していないプレイヤーの敵陣進入禁止」というルールであろう。ボールを保持している地点、すなわちスクリメージラインが陣地の境界線で、そこでの押し合い、すなわち陣地の奪い合いがフットボールの原型だったと思う。それが最も自然であろう。

 ただ、それは非常に危険性が高いので、タックルを禁止したのが、所謂「サッカー」の始まりだと思う。タックルを禁止すると、ボールを止める術、奪う術を、ほぼ失ってしまうので、両手の使用を禁止したのだと思う。そう考えると、キーパーのみが両手を使える理由の説明も付く。だって、キーパーはボールを所持して前進する事は出来ないのだから。ペナルティエリア内は動けるけどさ。

 一方で、フットボールの原型的なものから、暴力性、おっと間違い、競技性を高めたものが、所謂「アメリカンスタイル・フットボール」に発展していったのだと思う。
 そうして、原型を頑固にとどめているのが、所謂「ラグビー・フットボール」なのであろう。そうして、安全性を高めたものが、所謂「アソシエーション・フットボール」、縮めて「サッカー」のなのであろう。アメリカで、「サッカー」が「女子供」のスポーツと云われているのも、こう考えると説明が付く。

 ちなみにって訳でないが、これらの考察は、あくまで私の勝手気ままな空想、思考実験であり、思弁である。厳密緻密な調査研究ではないので、うかつに信用しないよーに。でも、結構自信はある。

 てなことを考えていた、私の年末年始でした。

               2023/1/15(日) 21世紀も、もう23年目。世紀末が懐かしい。

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