SuperBowl | 2月13日 KCvsPHI @ARⅠ 38-35 |
小山元アマが将棋の棋士編入試験に3勝1敗で合格した。おめでとう。 一方、半年ほど前、女流棋士の里見香奈は、同じ試験、というか同じメンツに3連敗した。 まあまあ、勝負は時の運もあるから、この結果のみで単純に判断する事は出来ないけれど、単純に判断したら、「女流はトップアマより弱い」という事になる。しかも、里見は、ここ最近はともかく、数年前は、今の藤井〇冠以上に無敵だった女流棋士である。が、この結果。 これは、女流棋士界のみならず、女性一般にとっても由々しき事態なのではないだろうか。なぜ、スルーするのだろう。 まあ、もっとも、これは女流棋士だけの問題ではない。 この小山元アマに1勝3敗を喫した新四段勢は、現在のプロ棋士の間では、相対的に(?)強い棋士達であるからである。勝率も七割近くあるだろう。 以上の結果を単純に図式化すると、こうなる。 小山元アマ>新四段勢>多くのプロ棋士=里見加奈 まあ、小山元アマが特別な棋力の持ち主なのかもしれないけれど、単純に判断すると、「多くのプロ棋士はトップアマより弱い」という事になってしまう。しかも、小山元アマは奨励会未経験者である。奨励会の意義も問われるであろう。「奨励会より、アマチュア棋戦で揉まれた方が強くなる」となってしまう。 そうして、その奨励会以上に、意義を問われるのは、数多くのプロ棋士、とりわけ万年C級のプロ棋士達であろう。 「タイトルに絡む事もないまま、10年どころか、20年30年と、所謂『プロ生活』を続けている人達って、一体?」って話である。 小山元アマが、これまでどういう生活をしてきたかは私は知らない。まあでも、「アマチュア」なのだから、普通に考えれば、月~金で9時~6時の仕事をしてきたのだろう。そうして、その空いた時間に将棋の勉強や研究を続けてきたのだろう。 一方で、数多くのプロ棋士は、「将棋が仕事」、である。一日の、つうか人生の大部分の時間を将棋に費やしてきた、あるいは、費やしている訳である。 なのに、この結果。何故。 まあ、将棋に限らず、一般的に「勉強」というものが、学校の試験以外、より正確に云えば、暗記物以外では、ほとんど役に立たないという事もあろう。知的活動、すなわち「知性」は「勉めて強いる」ものではないからである。むしろ、「勉めて強いる」事を拒否するものである。人は知的活動をする時、すなわち「考える」時は、ごく自然に、あるいは嫌々ながらでも「考えて」しまうものである。 将棋を例に出すと、とあるプロ棋士は、難しい詰将棋、とりわけおよそ実戦的でない詰将棋は、解かない、というか、あえて目に触れないようにしていると語っていた。何故なら、ひとたび目にしてしまうと、「意地でも解こう」として、精神衛生上悪いからだというのである。「知性」が「意志」から独立している事の証左である。人は、考える事を辞める事が出来ないのだ。塹壕で、哲学した。 「勉めて強いる」事なく、すなわち「ごく自然に」考えて、将棋の強い人たちがプロ棋士であり、その頂点が羽生や藤井である。勉強の質や量は関係ない。もし、質や量が関係あるのなら、将棋の勝者は老人ばかりになってしまうだろう。羽生はともかくとして、現在20歳の藤井以上に、将棋の生涯勉強量の多い棋士、あるいは将棋好きは、それこそゴマンといるであろう。里見も、その一人であろう。 どれだけ、勉めて強いて考えても、答えの出せない者には答えは出せない。逆に、ごく自然に考える者は、ごく自然に正解に到達する。 同じような事を、「伝説の5二金の回」で米長も語ってた。 まあ、そういう「知性」の話はともかくとして、元アマや新四段に負けてしまう「万年C級」の人達である。 こういう人達って、要るのかな。ハッキリ言って、「負けるのが仕事」「負けるための人生」だけど、そういう仕事って必要なの。「勝てない」と分かった段階で、競争の場、すなわち「プロの世界」から排除すべきじゃないの。 こういう人達、私はそれを「セミプロ」って呼んでいるけれど、日本は、こういう「セミプロ」を、将棋の世界に限らず、異常に保護する。所謂「社会人スポーツ」なんていうのは、みな「セミプロ」である。アメリカやヨーロッパ、あるいは中国や韓国では、そういう事はほとんど無い。実力が全て、結果が全て、である。勿論、それらの国々にも「セミプロ」はいるけれど、彼等はあくまで、「プロの実力の無い人たち」であり、故に、副業なり本業なりを別に持っている。「セミプロ」で飯を食っている、生活している人は、いない。 そういった点から見ると、日本の「社会人スポーツ」は異常な世界である。「プロの実力の無い人たち」、あるいは「プロスポーツとして成立していないスポーツに興ずるトッププレイヤー」達を「プロ」として扱っているのだから。これに該当する外国のスポーツマン達が、日本の「社会人スポーツ」に入りたがるのは、当然であろう。分不相応の収入が得られる訳であるから。 かつてに比べて、日本の「社会人スポーツ」はだいぶ廃れてしまったけど、それは当然の話である。 そういう「社会人スポーツ」に比して、プロ将棋界に、まだまだ、そういう「セミプロ」を保護するだけの体力があるのは、それはそれで慶賀すべき事なのかもしれない。まあ、一部で、こっそり、問題にはしているらしいけど。 いきなり「排除」するのが、人情的に厳しいというのなら、「将棋研究班」とか「将棋普及班」といった「職種」を創設して、その道の「プロ」にすべきであろう。「勝負」のみが「プロ」ではあるまい。 まあ、こういう「セミプロを保護する」っていうのは、「勝負に徹する」、謂わば「スポーツ仁義」的な意味はともかくとして、プロ将棋団体の「経営」という意味では、価値ある事なのかもしれない。裾野が広がるからである。「あれくらいなら、俺でもプロになれる」っていうのは、「才能の発掘、保護、育成」という意味では、プラスに働くであろう。かつての「貸本マンガ」みたいなものである。現行のマンガ界に、かつてのような「才能」のなかなか現れないというのは、いろいろな理由があろうが、そのひとつには「敷居の高さ」もあるだろう。「あんなの、俺には、とても無理だ」だと、「才能」が遠ざかってしまう。自分の「才能」というのは、大概、自分では気付いていないものである。それを発見してやるのが、本来的な意味での、「先生」や「先輩」の仕事なのだけど。日本の「先生」や「先輩」は「教えて」ばかり。それは、「才能」、には無用のものだ。 さて、本題の「スーパーボウル」である。 っで、毎度思うんだけど、スーパーボウルの開催回数のギリシア数字表記って、ほんっと分かりにくいよね。今回の大会なんか、「ラスベガス2」って読んじった。「ラスベガスで2度目の開催」かと思ったよ。アリゾナでの開催だとは気付かなかったよ。 あれ見てると、あれだけ「幾何学」の発達した古代ギリシアで「代数学」が全く発達しなかったのが、よぉぉぉぉぉぉっく分かる。あれじゃ、2ケタの足し算掛け算も出来ねーよ。そりゃ、何でもかんでも、因数分解せざる得ねーよ。良かったね、インド人がいてくれて。位取り記数法を発明してくれて。ひっ算を発明してくれて。 インド人の功績はともかくとして、これもう、辞めない?。習慣ていうか、悪習だよね。どーすんだろ、1347回とか。絶対誰も読めねーと思うんだけど。まあ、「第1347回スーパーボウル」が開催されているのか否か、という問題もあるにはあるが。まあ、やってかもしんねーけどな。今から1300年後でも、スーパーボウル。金星のとある都市で開催されてっかもしれねーけどな。それとも、今流行りの水星?。 で、スーパーボウルの結果は38-35でイーグルス、じゃなくてチーフスの勝利。チーフス関係者&チーフスファンの皆々様、優勝おめでとうございまーーす。 という訳で、イーグルス勝利という私の予想は、見事外れた訳である。パチパチパチパチ。って、パチパチじゃない。 スーパーボウルの勝敗予想が外れるのは、結構久しぶりのような気もするが、そういう訳で、今回は、思いっきり言い訳してみたい。言い訳も、亦愉し。 前回のスーパーボウル予想の「保険」として、私は「ひとつふたつ程度のラッキーじゃあ、この差は覆らないような気がする。みっつよっつ、いや、いつつむっつくらいは必要かもしれん。」と書いておいた。 で、一応、このゲーム、「ふたつ」のラッキーは発生した訳である。ファンブルリカバー・タッチダウンと準パントリターン・タッチダウンの「ふたつ」である。あとまあ、細かい「審判の判定」もチーフスに有利に働いたと云えなくもないが、これは不問に付そう。 ただまあ、今回、私の予想の外れた主因は、そういったラッキー達ではなく、もっと根本的に、私がチーフスのパスオフェンスの力を軽視していたからだと思う。過小評価していたからだと思う。カンファレンス決勝も含めて、チーフスのパスが、私の思っていたより、通った。 カンファレンス決勝にしても、今回のスーパーボウルにしても、チーフスの最終ドライブを、ベンガルズなりイーグルスなりが、ビシッと止めていれば、チーフスの優勝は無かった訳であるが、そこをビシッと決めるだけのオフェンス力、とりわけパスオフェンス力をチーフスが有していたという事になる。そこを、私は見誤っていた。誤算だった。 でもまあ、パッと見、そんな力のあるレシーバー陣には見えないんだよなあ。ケルシーにしても、このゲームは6レシーブ81ヤード1タッチダウンで、特別大活躍ってわけでもないし、その他のレシーバー陣も、数字的には平々凡々である。100ヤードレシーバーもいないし。単純に、動きだけを比較したら、ブラウンやスミスの方が上であろう。 一方で、マホームズが大活躍したかというと、そうでもないし、ケガの影響もあろうが、パフォーマンス的には、数年前とは比較にもならない。 実際、スタッツ的には、3タッチダウンは挙げているものの、21/27、182ヤード。チャド・ヘニーでも、似たような数字や結果を出したのではないかとさえ思う。 となると、プレイデザインやプレイコールが優れていたのかもしれないが、そのへんは、正直、私にはよく分からない。力に余る。 でも、これで、チーフスは過去4年間で、スーパーボウルに3度出場2度優勝だから、アンディ・リードはチーフス王朝を築いたと結論付けて良いと思う。苦節20年といったとこかな。 で、その立役者がマホームズ様となる訳であるが、この試合というか、今季のパフォーマンスが、年俸4700万ドルに相当するものかというと、皆目分からん。つか、年俸4700万ドル相当のパフォーマンスって何。1試合平均47点ってこと?。確かに、これ、分かり易い指標かもしれん。100万ドル1点換算。3000万ドルプレーヤーなら、1試合平均30点。100万ドルプレーヤーなら、1試合平均1点目安。どう?。ならんか。 そのほか、感想はというと、ハーツの70ヤード・ラッシングが、スーパーボウルにおけるQBのラッシング記録みたいな報道があったが、意外というか、やっぱりというか、スーパーボウルにおけるQBのラッシング記録って、そんなもんなのね。100ヤード・ラッシングは、誰か達成していると思ってた。スクランブルQBの難しさは、こういうところにも表れているのね。 実際、イーグルスのこの陣容、すなわち、このレシーバー陣とOL陣で、QBがマニングさんだったら、それこそ1試合平均50点は楽勝だったであろう。このゲームも、楽々50得点して楽勝だったと思う。ビシバシ、ブリッツピック決めて、ロング決め放題みたいなゲームだったと思う。この陣容を、ハーツが活かしきれなかったというのも、イーグルスの敗因の一つかな。 んなぐらいかなあ。 あと、いつもと趣を変えて、ハーフタイムショーについての感想を一つ。 私はアメリカ歌謡界については、全くの門外漢、没交渉であり、このショーを批判する能力も資格も全然無いのであるが、なんつーか、毎度代わり映えしないよね。スターを中心に配して、集団でダンスするっていう、このスタイル。スリラー以来っつうか、ぐるぐるメダマン以来っつうか(コラコラ)。 「せめて、全員の振付を変えるとか、すりゃいいのに」と思った。あくまで、素人考えだけど。 あと、ピース綾部はリストラされてましたな。 そういえば、コルツの新ヘッドコーチが決まったようですね。その感想はいずれ。 さあて、2021シーズンの俺オールプロ、書くか。 2023/2/20(月) |
2023年 6月 |
俺オールプロ | 一年ほど前、「ジョジョ」に一喜一憂する外国人リアクションについて、ちょいと書いたが、最近、その「カイジ」バージョンを見ている。 「カイジ」だけあって、単に一喜一憂するのみならず、時に黙りこくってしまうのが、面白いところである。耳を切り落とし、利根川は焼け(BBQで、神戸牛を美味しく焼いた鉄板でな。)、指を失い、あまつさえ、「神」まで否定してしまう。「オーマイガー、オーマイガー。」ゆうてた人達が、まさしく神妙な面持ちに。日本の青年マンガ、舐めるなー。 ちなみに、「カイジ」の中では、私は「賭博破戒録」編が好き。チンチロリン、パチンコ、いずれも面白いが、何と言っても、「これからは、真面目に働くぞ~~。」とか言って焼き肉屋で乾杯するシーンが大好き。そうして、案の定、作者の都合か、編集部の都合かは知らんが、結局、博打に堕ちていくとこも大好き。 まあまあ、それはともかく、この「カイジのリアクション動画」を観ていて思ったのは、映画やマンガにおいて、「博打もの」や「ギャンブルもの」は、案外少ないって事である。 まあ、細かいところを言い出せば、色々あるかもしれないが、大ヒット作となると存外少ない。つーか「カイジ」しか、思いつかない。 映画では全然思いつかないし、マンガでは、この「カイジ」のみである。まあ、「麻雀マンガ」という特殊ジャンルもあるにはあり、大ヒットはともかく、「哭きの竜」「自己中心派」等々ヒット作は多々あるが、これは、ちょっと特殊ジャンルなので、話を措く。 小説だと、「スペードの女王」や「バクチ打ち」等々、傑作かどうかはともかく、作品はあるにはあるけれど、まあ、大ヒットとは云えないし、厳密に「ギャンブルもの」かというと、微妙なところであろう。「スペードの女王」は、どっちかつうと「怪奇もの」であろうし、「バクチ打ち」は、ギャンブラーの心理や生態を扱ったものなので、ギャンブルそのものを扱っているかと云えば、微妙なところであろう。 また、あらゆる「ジャンル小説」の始祖であるポーも「ギャンブルもの」は扱っていないのは、面白いところである。 一方、あらゆる「ジャンル漫画」の始祖(「あらゆる」は言い過ぎかな)であるつのだじろうは、「麻雀もの」は描いていたと思うが、他は無かったと思う。あったら、ゴメン。 また、「ギャンブルもの」の小説としては、「麻雀放浪記」という大傑作にして大ヒット作があるが、私は未読なので、評論は差し控えたい。「映画版」はテレビで見ているけれど、こちらは、ギャンブルそのものを扱っているというより、ギャンブラーの生態(「死んだら、負けだ」)を扱っているものなので、「ギャンブルもの」というよりは「ギャンブラーもの」と云うべきかもしれない。 という訳で、「ギャンブルもの」というと、映画でも小説でもマンガでも、面白くなりそうな題材なのではあるが、存外傑作は少ない。 理由は二つあると思う。 一つ目は、「勝敗に説得力が無い」である。 ギャンブルの勝敗というと、当然の事ながら、運否天賦である。強運である。でも、それじゃあ、読者や視聴者は納得しない。まあ、たまには「運」で勝つのも良いかもしれないけれど、毎回毎回、勝因が「運」では読者は飽いてしまう。 テレビゲームで、勝敗が「運頼み」のゲームは「運ゲー」なんて言われて、揶揄されているのも、事情は同じであろう。 勝因は「工夫」や「知略」であって欲しいのである。 でも、「工夫」や「知略」で勝ててしまうのなら、それは「ギャンブル」では無くなってしまう。ここに「ギャンブルもの」の難しさ、アンチノミーがあると言って良いであろう。 で、「ギャンブルもの」に「知略」や「工夫」を導入すると、それは大概「イカサマ」になってしまう。多くの「ギャンブルもの」が、結局は「イカサマもの」であるのは、これが理由である。「ジョジョ」でも、何度か「ギャンブル」を扱っているけれども、いずれも「イカサマもの」である。 また、「ギャンブルもの」の中で、「麻雀もの」が比較的成功しているのは、「麻雀」は、他のギャンブルに比べ、「知略」や「工夫」を導入しやすいという側面があろう。それでも、結局は「運否天賦」だけどね。「麻雀」といえど、結局は「ギャンブル」だから。 そう、ここでも、やっぱりジャンプの黄金律、三大理念が出てくるのである。「勝利・友情・強運」ではダメなのである。「勝利・友情・努力」なのである。このジャンプ三大理念が、いかに強力かというのは、こういう点からも分かる。 ちなみに、これは「三大原則」と一般には云われているが、私はこの稿では「三大理念」とする。ご了承願いたい。 いつぞやにも書いたけれども、映画でもマンガでも、まあ小説はちょっと違うかもしれないが、大ヒット、それも世界的に大ヒットしている作品は大概、「勝利・友情・努力」の物語である。 最近の「鬼滅の刃」でも「進撃の巨人」でも「鋼の錬金術師」でも、古くは「七人の侍」でも「スターウォーズ」でも、大ヒット作には大概「勝利・友情・努力」が仕込まれている。 「スターウォーズ」の大ヒットは、勿論、その素晴らしいSF的ヴィジョンが第一の理由だろうけど、久方振りに現れた「勝利・友情・努力」の物語であったというのも大きいと思う。「ロッキー」も同様だけど、「敗北・孤独・怠惰」のアメリカン・ニューシネマ的なものに辟易していたアメリカ人に大歓迎されたのだろう。 また、小説というか、物語の世界においては、「桃太郎」(あれ、キビダンゴは契約か?)とか「円卓の騎士」、そうして、その頂点は、何と言っても「三国志演義」であろう。 また、意外なところでは、「ウルトラマン」にも、しっかり「勝利・友情・努力」は仕込まれている。「『勝利』と『努力』はともかく、『友情』は?」と疑問を抱く方もいるかもしれない。でも、ちゃっかり「友情」も仕込まれているのである。 科特隊やウルトラ警備隊にも、無論「友情」はあるだろうが、そもそもウルトラマンが「地球の為に」怪獣や宇宙人と戦うのが、「友情」であろう。まあ、「ハヤタを殺してしまった」という義理や負い目みたいなものも無くは無いだろうが、それより何より、ウルトラマンは、同じ宇宙に住む同胞としての「友情」で、地球のために戦っていたのである。 まあ、「セブン」になると、仕事感も無くは無いが、そのへんも「ウルトラセブン」が「ウルトラマン」に比べ、視聴率的に苦しんだ一因であろう。 「帰ってきたウルトラマン」以降も同様だろう。「家族」とか「兄弟」とか「親子」とか「恋愛」とか「男女」とか「師弟」とか、それぞれ新たなテーマを導入しているけれども、肝心要の「友情」が薄まっちゃてる。 また、「仮面ライダー」にも、しっかり「友情」は仕込まれている。「いやいや、孤独なヒーローの仮面ライダーに『友情』なんて、」と訝る向きもあるだろうが、やっぱり「友情」はあるんだよね。「一号ライダー」と「二号ライダー」の友情が。「藤岡弘のケガ」というのが、色々な意味で「仮面ライダー」の転換点、それも、優れて良い方向での転換点だったとはよく言われているけれど、この「一号ライダーと二号ライダーの友情」も、そのひとつだと思う。実際、藤岡弘がケガをしなかったら、「仮面ライダー」はただの「怪奇ヒーローもの」で終わってたかもしれない。そういった意味では、日本特撮史上、あるいは石森章太郎史上、最高の「ケガの功名」だったかもしれん。 つづく「V3」では、番組開始時に「一号ライダーと二号ライダーとの友情」があるし、終盤では「ライダーマンとの友情」がある。 ただし、「X」以降は、「ウルトラマン」同様、「友情」は薄まってしまっている。モグラ獣人との友情はあるけどさ。 「ゴレンジャー」にはじまる「戦隊モノ」に関しては、説明不要であろう。 また、プロレスにおける大ヒットアングルである「長州力と維新軍」も、「勝利」と「努力」のみであったプロレスのアングルに「友情」を導入したものと云えるであろう。そうして、この「団体抗争もの」は、新日本プロレスのみならず、プロレス界全体における定番アングルとなっていく。 もっとも、プロレスの場合は、「タッグマッチ」という「友情」要素は、あるにはあったけれども。 でも、プロレス以外の格闘技団体も、「団体抗争」はともかくとして、「タッグマッチ」ぐらいは導入しても、面白いんじゃないかしら。人気向上の足しにはなるであろう。 また、一般に、個人スポーツよりチームスポーツの方が人気が高いのも、この「勝利・友情・努力」が理由の一つであろう。 という訳で、「勝利・友情・努力」というのは、物語系エンターテイメントのみならず、多くのエンターテイメントにおいても、非常に、あまりの非常に強力な理念なのである。 ところが、今までは、案外、誰もこれに気付かなかった。文芸評論家や映画評論家、また、マーケティング大好きなハリウッド関係者も、何故か、この「三大理念」には到達しなかった。トルストイがちょっと似たような事を言っていたのが、私の知る限り、数少ない言及である。 しかも、この「三大理念」、小難しく議論したり研究したりした結果、得られたわけでは全然なく、単純に子供たちへのアンケートで到達したというのが、面白いところである。当事者に聞いてみれば良かったのである。 ちなみに、私がこの「三大理念」を初めて知ったのは、子供の頃、小学生ぐらいだったと思うが、初めて知った時は、ちょっと意外な気がした。 まず、「正義」が無い。 「正義」というのは、手塚治虫以来、日本のマンガ家達、とりわけ、ヒーローものやアクションものを描くマンガ家達を、ず~~~っと悩ませ続けてきたものであり、その苦悩の果てに、「デロリンマン」とか「デビルマン」とか「キカイダー」とか「ザンボット3」のような傑作に到達した。 でも、案外、子供たちはそんなものは望んでいなかったのである。「Dr.スランプ」の冒頭で、アラレちゃんが千兵衛に「ねーねー、博士、アタシつおい?」と問うた時、幼き日の私は、頭がクラクラする程のショックを受けたのだけれど、そう、ロボットに必要なのは、アトム伝来の「正義」では全然無く、「強さ」だったのである。 このセリフは80年代到来を告げる一語として大変有名だけれども、「正義失墜」の一語としても記憶されるべきであろう。 ちなみに、今調べたら、そういうセリフは無かった。トホホ。でも、それに近いセリフは言っているので、許してね。少なくとも、私には、そう聞こえたのだ。 また、同じ時期の「ガンダム」からも、「正義」は、きれいさっぱり取り除かれている。主題歌には残ってるけどな。 でも、子供たちが「正義」を望んでいないというのは、改めて考えてみると、深い意味があるような気がする。探索するつもりは全然ねーけど。 また、「恋愛」も無い。 これは、私は子供心に全然ショックは受けなかったのであるが、1980年前後がラブコメ全盛期だった事を考え合わせると、やはり意外な結果だとは云える。 まあ、10歳前後の子供、とりわけ男の子が「恋愛」に興味が無いというのは、当然といえば当然かもしれないが、上記のように、この「勝利・友情・努力」という三大理念は、人種や時代、年令、性別を超える程、かなり強力な理念である。そこに、「恋愛」は無かったのである。 実際、「アクションもの」、とりわけハリウッドの「アクションもの」のような、如何にもとってつけたような「恋愛」に辟易する人は多い。「最後のキスシーン、要らねーよ。」である。 でも、「アクションもの」に限らず、「恋愛」映画の傑作は存外少ない。勿論、大概の映画に、「恋愛」は、多かれ少なかれ、登場するけれども、純粋に「恋愛」のみを扱った傑作、大ヒット作は存外少ない。 パッと思いつくのは「ローマの休日」くらいである(「小さな恋のメロディ」とかツッコまないよーに、)。その他だと、「風と共に去りぬ」とか「タイタニック」とかが、「恋愛」映画の大ヒット作と云えなくも無いが、「風と共に去りぬ」は、ジャンル的には「歴史もの」あるいは「大河もの」だろうし、「タイタニック」は、ジャンル的には、当然「難破もの」あるいは「パニックもの」であろう。 「俺たちに明日はない」は、ある意味、「純愛」映画だろうけど、まあ、「恋愛」映画とは言えんよね。 という訳で、純粋に「恋愛」のみを扱った大ヒット映画、傑作映画は存外少ないのである。勿論、スマッシュヒット作品、佳品は色々あるかもしれないが、押しも押されぬ大ヒット作となると、存外少ない。ホントに「ローマの休日」のみかもしれない。 また、小説においても、純粋な「恋愛もの」は存外少ない。パッと思いつくのは「赤と黒」だろうけど、これもジャンル的には「出世もの」であろう。細かい佳品となると色々あるだろうが、世界的ヒット作となると、映画同様、存外少ない。「ボヴァリー夫人」とか「アンナ・カレーニナ」も「恋愛もの」ちゃあ「恋愛もの」だけど、どっちかつーと「不倫もの」だしね。 そういった意味では、「ウェルテル」とか「親和力」をものにしたゲーテは、数少ない「恋愛もの作家」だったとは云える。実際、ゲーテにとって「恋愛」は、彼自身にとっても重大事だったしね。そのへんは、いくら「恋愛」を描いても、その当人は「恋愛」と縁の薄い、数多くの「恋愛小説家」とは異なるところであろう。 で、勿論、文学における最大の「恋愛もの」は、申す迄もなく、「ロミオとジュリエット」である。実際、実在架空を問わず、人類史上もっとも有名な恋人は「ロミオとジュリエット」である。こういった点からも、シェイクスピアが偉大な作家だったという事が分かる。玄宗と楊貴妃とか言わないよーに。 また、物語系エンターテイメントにおいて、最も「恋愛」を取り扱うのは、何と言っても「少女マンガ」であろうが(「ハーレクインロマン」とか言わないよーに。)、その少女マンガにおいても、純粋な「恋愛もの」の大ヒット作は存外少ない。 少女マンガの大ヒット作というと、「星のたてごと」はともかくとして、「ベルサイユのばら」とか「エロイカより愛をこめて」とか「ガラスの仮面」とか「王家の紋章」とか「風と木の詩」とか「ポーの一族」であろうが(「ちびまる子ちゃん」とか言わないよーに。)、いずれも純粋な「恋愛もの」ではない。 「風と木の詩」は「恋愛もの」ちゃあ「恋愛もの」だけど、実質はともかく、形の上では「男女の愛」ではないしね。 少女マンガも含めた、全てのマンガで、純粋な「恋愛もの」の大ヒット作はというと、事実上「めぞん一刻」のみであろう。「タッチ」は、「恋愛もの」とは云いにくいしね。「野球もの」あるいは「青春もの」であろう。案外、系譜的には「ストップにいちゃん」とか「ハリスの旋風」に近いのかもしれない。 あっ、そうだ、史上最高の恋愛漫画を忘れてた。「愛と誠」。 という訳で、物語系エンターテイメントで、純粋な「恋愛もの」の大ヒット作は、案外少ないのである。 ちなみに、「恋愛」を扱う最大の娯楽ジャンルはと云えば、申す迄もなく、「音楽」、とりわけ「歌謡曲」であろう。ただ、私は「音楽」も「歌謡曲」も全然興味の無い人間なので、論評は差し控えたい。また、その能力もない。 また、ちなみに、プロレスのアングルでも、「恋愛」は御法度である。 で、「正義」と「恋愛」が無かった訳であるが、その他だと、「権力」や「出世」もない。 「権力」や「出世」というと、最近のマンガの読者には意外と思われるかもしれないが、かつてのマンガ、とりわけ「不良マンガ」には必須のテーマであった。梶原一騎とか本宮ひろ志とか雁屋哲のマンガである。真樹日佐夫はちょっと違うかな。あっ、梶原も雁屋も真樹も「マンガ家」ではなく、「マンガ原作者」か。いや、本宮も。 まあまあ、そのへんの問題はともかくとして、かつての「不良マンガ」では、「権力」や「出世」は必須のテーマであった。 ところがというか、やっぱりというか、そのへんのテーマは「子供」には全然興味の無いものだったようで、最近の「不良マンガ」からは、「権力」と「出世」は、きれいさっぱり除去されている。「ビー・パップ・ハイスクール」あたりが、その嚆矢だろう。そういった意味でも、「ビー・パップ・ハイスクール」は偉大なマンガなのである。 「ビー・パップ・ハイスクール」以降の「不良マンガ」は、ある意味、ジャンプ漫画以上に、純粋な「勝利・友情・努力」の物語である。「努力」は、やや薄いかな。 また、その他だと、手塚以来、日本の少年マンガ伝統、保守本流を自任してきた「SF」や「科学」も、この「三大理念」に含まれていない。こちらも、案外、子供たちに求められていなかったのである。星野之宣や諸星大二郎も、デビュー時の期待ほどには、ヒットしなかったしね。 ただ、「SF」や「科学」と入れ替わるようにして、「ファンタジー」が台頭してきたのは、面白いところであろう。そういった意味では、「なろう系」は「手塚マンガ」の成れの果てだと、云えなくもない。 また、「富貴」もない。さすがに、「富貴」が子供の求めるメインテーマになるのは、なかなか難しいであろうが、「富貴」というか、「お金もの」というのは、マンガにおける一定のジャンルではある。「銭っ子」とか「銭ゲバ」とか「おぼっちゃまくん」だとか「ナニワ金融道」とか「ウシジマくん」とかである。これらを並べると、戦後日本経済史そのものだよね。「バブル期」が「おぼっちゃまくん」であるというのが、異常なリアリティ。これだけが、ギャグマンガ。 つー訳で、ジャンプの三大理念「勝利・友情・努力」というのは、揶揄の対象になる事が多いけれども、誰か一度真面目に考えてみるべき深いテーマであると思う。巨大な文化批評になると思う。まっ、俺はやらねーけど。 え~と、何の話してたんだっけ。あっ、そうそう、「カイジ」つうか「ギャンブルもの」の話ね。 「ギャンブルもの」の難しさの二つ目はというと、って、話が長くなってきたので、ここで一旦切るか。続きは次回。あっ、これの主題は「俺オールプロ’23」で~す。 2023/6/25(日) 前回、「ギャンブル」つうか「ギャンブルもの」について、あれこれ書き、今回もその続きを書くつもりなのだけれど、グッドタイミングつうかバッドタイミングつうか、我らがコルツのアイザイア・ロジャースとラショード・ベリーがギャンブル容疑(確定なのかな?)で、ウェイブされちゃいました。なにも、そこまで気つかってくれんで、いいんに。 何でも、昨シーズン(2022シーズン)のNFLのゲームで博打していたみたい。まあ、それが、所謂「八百長行為」なのかは不明。いずれにしても、リーグは、ギャンブルに関しては、当然厳しい姿勢であるので、ロジャースとベリーは2023シーズンの出場停止が決定。それを受けてのウェイブとなった次第である。 ロジャースもベリーも、ミソの付いた選手をわざわざ獲得するっていう程のレベルの選手ではないので、このままNFLからフェードアウトかなあ。 ただまあ、ベリーはともかく、ロジャースは2023シーズン終了後にFAなので、スターター経験もある事から、コルツ、あるいは他のチームとそこそこの契約をゲットできた筈であるが、それも全部、パァ。まっ、いっか、博打で稼いだから。 でもまあ、なんか多いよなあ、こういう訳の分からん理由で消えていく選手、コルツは。 で、そのロジャースにちなんで、「ギャンブルもの」の話を続ける訳であるが、その前に、ちょいと。 前回の記事で、「『バブル期』が『おぼっちゃまくん』であるというのが、異常なリアリティ。これだけが、ギャグマンガ。」と書いたけれども、「お金持ち」というのは、どうしても「お笑い」になりやすい。この「おぼっちゃまくん」を始め、それこそ福本マンガの鷲巣巌とか兵藤和尊とかである。彼等も、登場時はおどろおどろしい感じであったけれども、話が進むにつれて、コミカルに、そうしてギャグ化していった。 アルパゴンを始め、「ケチん坊」が「お笑い」の対象になりやすいのも同様である。 あるいは、イヤミを始め、「キザ」もね。 これは、何故かというと、理由は簡単で、「お金持ち」という本来自身とは何の関係もない特性を、あたかも自身の能力のように思い、自恃の根拠としているからである。その「ズレ」が、どうしても「お笑い」になってしまうのである。 これが、道徳心とか知性とか運動能力といった、その人そのものの能力であったら、それを恃んでも、決して「お笑い」にはならない。だって、実際に優れているのだから。出木杉くんとか赤木しげるとか流川楓とか大空翼とかは、「お笑い」にはならない。 「お金持ち」、すなわち「商業的成功」なんていうのは、どこまでいったって「運不運」、「宝くじ」、それこそ「ギャンブル」みたいなものなのだから、偶然の成功を誇るくらい、滑稽な事は無いであろう。まして、生来の「お金持ち」、すなわち「いいとこの坊ちゃん」なんていうのは偶然も偶然、それを誇れば、滑稽でしかない。 まあでも、「いいとこの坊ちゃん」はともかく、「商業的成功」を為した人達っていうのは、どうしても誇りたがるんだよね、自身の「商業的成功」を。そうして、それを自分の何らかの能力、「知性」とか「性格」とかに帰したがる。そんなの、どこまでいったって、「偶然」でしかないのに。 挙句、講釈を垂れる。渋沢栄一とか松下幸之助とか稲盛和夫とか云った人たちである。そうして、またそれを有り難がって聞く人たちがいるんだな、これが。「お金持ち」の言う事を聞き、それを実践すれば、自分も「お金持ち」になれると思ってんだよね。「ビッグ・トモロー」を愛読していた人達だよね。今も、その手の書籍は、多過ぎるくらい多いけど。 もういい加減、気付いて欲しいよ、「お金持ち」になる方法は無いという事を。そんなのは、簡単な背理法で証明できる。だって、もし、「お金持ちになる方法」があるというのなら、皆がそれを実践するであろう。ところが、全ての人間が「お金持ち」になる事は絶対に無い。だって、「お金持ち」というのは、どこまでいっても相対的なものだからだ。「お金持ち」が「お金持ち」であるためには、絶対に「貧乏人」が必要なのである。それも大多数の「貧乏人」がである。 宝くじが当たると評判の神社に100人お参りしても、当たりが1枚しかない宝くじでは、99人が外れてしまうのと、全く同じ理屈である。 「お金持ち」になるというのは、自分以外の人間を「貧乏人」にするというのと、事実上、同義である。 ちなみに、「お金持ち」の定義というのは、意外に知られていないので、ここに示しておこう。「お金持ち」というのは、この世の全財産、全金銭と云ってもよいが、その全財産のうち、自身の所有する割合の多い人たちを「お金持ち」という。 例えば、1億円所持していたとしても、この世の全財産が100億円の場合と100兆円の場合では、価値が違ってしまう。100兆円のうちの1億円でも、まあ確かに充分「お金持ち」であろうが、100億円のうち1億円の方が、遥かに、つうか1000倍「お金持ち」であろう。ところが、みんな、金銭の多寡で「お金持ち」を判定するんだよね。この場合だと、同じ「1億円」だと思ってしまう。 で、その100億円だか100兆円だか、全財産を多くの人で奪い合いをするのが、商売、あるいはマネーゲーム、あるいはギャンブルであろう。 で、それらは当然、あたかもトーナメント制のごとく、勝者と勝者が対戦し、その勝者が、また別の勝者と、となる。 で、その最終的な勝者、まあ一人って事はなかなか無いので、ごく少数の勝者たちが「お金持ち」、最近流行りの言葉で云えば、「1%のほにゃらら」という事になろう。 まあ、それに勝ち上がる為には、それなりの能力も必要だろうけど、トーナメント制である以上、すなわち必ず勝敗を付けざる得ない以上、どうしたって「偶然」に左右される。とりわけ「最終的な勝者」になる為には、「偶然」の力が大きい。「能力」どおりに分配されるわけではない。つかまあ、「お金持ちになる能力」なんて、ねーけどな。強いて云えば、「強運」であろう。 「お金持ち」というのは、本人の能力とは何の関係もなく、たまたま「お金持ち」になった人たちである。 つう訳で、そういう「偶然」を「必然」とみなすが故に、「お笑い」が生まれるのであるが、一方で、「銭っこ」や「銭ゲバ」のような、所謂「貧乏もの」が、「お笑い」にならない、陰惨な話になりがちなのは、この理由の裏返しだからである。 すなわち、「本来自分の能力とは何の関係もない『貧しさ』故に、社会から不当に軽蔑されている。」からである。まあ、ペリーヌや山田太郎のように、結構悲惨な境遇でもケロっとしている奴もいるけどな。もっとも、彼等は、自身の能力、すなわち、道徳心や知性、運動能力に絶対の自信を持っているからだろうけど。 また、ポスト・バブル以降の人気「お金マンガ」が、「ナニワ金融道」「ウシジマくん」といった「金貸しマンガ」であるのも、これも当然であろう。お金が余って、何に使って良いか分からない時代になったからである。これは、所謂「先進国」共通の経済的特徴である。 そうして、「お金」で「お金」を買おうとするのだ。高校生が「投資信託」をする時代なのである。「銭っ子」や「銭ゲバ」の頃は「金貸し」の話なんてなかった。人に「お金」を貸せるほど、「お金」が余っていなかった。 もっとも、「ウシジマくん」の場合は、そういうマンガじゃないという説も無くは無いが。どっちかつうと、ジャンル的には「残酷マンガ」「恐怖マンガ」つう事で、むしろ楳図かずおに近いのかもしれないが。まあ、読んでないから、詳しー事は知らんけど。 さて、本題、いや本題じゃなかった。「ギャンブルもの」の難しさの二つ目である。 「ギャンブルもの」の難しさの二つ目は、「ルール及び基本的な戦略・戦術の説明の煩わしさ」である。 一口に「ギャンブル」といっても色々あるだろうが、仮に名前くらいは知っていても、その「ルールと基本的な戦略・戦術」を知っている人は、存外少ない。 日本で最もポピュラーなギャンブルは競馬・競輪あたりだろうけど、これらとて、馬券や車券の買い方の基本を知っている人は、案外少ないと思う。「3番から流す」だって、意味の分かる人は日本人全体で一割くらいしかいないのではないだろうか。ましてや、競輪の深雑怪奇な戦略をや。 また、そのほか、ポピュラーなギャンブルというと、パチンコ・麻雀あたりだろうけど、これらとて、「ルールと基本的な戦術・戦略」を知っている人は存外少ないだろう。パチンコのルールはともかく、「基本的な戦略・戦術」となると、やっぱり全体の一割くらいになってしまうと思う。専門誌が出版されている(されてた?)ぐらいだからね。 で、麻雀であるけれど、こちらこそ、「戦略・戦術」どころか、ルールを熟知している人さえ、本当に少ない、ごくわずかであろう。一割どころか1%もいないのではないだろうか。「趣味が麻雀」という人でも、「親の90符2翻」をパッと答えられる人は、ごく少数であろう。 私はかつて、知人が「僕、最近麻雀にハマってるんすよ。」というので、「へー、符計算とか出来んだ。スゴイねー。」と云ったら、「いや、出来ねッス。」って、答えが返ってきた。「じゃあ、どうやってんの?」って、問うたら、「なんとなく満貫。」って、答えが返ってきた。 まあ、雀荘だと、それでは厳しいかもしれないが、身内や家族で興ずる麻雀なら、それで十分だよね。 また、ちなみに、かつて私は、麻雀のルールも知らないのに「天」を読んでいた事がある。そこで、赤木だったかな、カンドラが乗って、例の「ざわざわ」になるシーンで、このどよめきの意味が全然分からなかった。 さすがに麻雀のルールが分からんと「天」や「アカギ」が楽しめないと悟った私はどーしたかというと、近所のゲーセンの「脱衣麻雀」で麻雀の「ルールと基本的な戦略・戦術」をマスターしたのであった。 やはり、エロを絡めると、覚えが早い。3週間くらいで、そのゲーセンの「脱衣麻雀」、全員脱がしてやったわ。全員脱がした時は、沢北ガッツをしてしまった。三十路前の私であった。チャンチャン。 つー訳で(どういう訳?)、ポピュラーなギャンブルといえども、「ルールと基本的な戦略・戦術」を知っている人は、案外少ないものなのである。大部分の人が「ルールと基本的な戦略・戦術」を知っているギャンブルと云ったら、ポーカー、チンチロリン、ジャンケンくらいじゃないかなあ。ちなみに、この3つ、「ジョジョ」で登場した「ギャンブル」の全てである。理由は、只今説明しているものであろう。あと、「キャッチボール」つうのもあったけど、これは「ポピュラーなギャンブル」じゃないからな。また、7部以降は読んでないから、許してね。 この3つに続くものとしては、ルーレットやブラックジャックがあるだろうけど、これらも「ルールと基本的な戦略・戦術」を知ってる者は、ごく少数であろう。ルーレットも、ルールはともかくとして、その基本的な戦略・戦術、すなわちディーラーとの心理戦を知っている人は、ほとんどおるまい。。まあ、そういった意味では、チンチロリンも同様だけどね。 ちなみに、ちょっと話が逸れるが、「ジョジョ」のポーカー回で、承太郎が手札を見ずに勝負してたけれど、あれって反則だよね。確か、公式ルール的なものでは、「反則」だったと思う。なにしろ、ポーカーの場合、「手札を見た時の表情」と「手札をチャンジした枚数」が、唯一の、つうか唯ニの判断材料なのであるから、それらを失ったら、ただの「宝くじ」になってしまう。なんで、ダービーは指摘、そうして注意しなかったんだろ。まあ、ハウスルールだから、何でもいいんだけどさ。 つー訳で、「ギャンブルもの」を扱う場合、どうしても、この「ルールと基本的な戦略・戦術」の説明が、避けては通れなくなる。避けられるのは、日本の場合、上記の3つぐらいであろう。ジャンケンが「ギャンブル」かはともかくとして。 で、それは大概、煩わしい。ルーレットやブラックジャックなんかは、比較的平易かもしれないが、麻雀あたりになると、本格的に説明しようとしたら、マンガだと、新刊書サイズで3巻くらい必要なのではないだろうか。しかも、それは既知の人にとっては、無用のページである。すなわち、退屈なページである。作品から離れてしまうかもしれない。 しかも、これが「マンガ」だったら、まだ「文字」と「絵」で説明できるけれども、「映画」は「映像」と「音声」、小説に至っては「文字」のみで説明せねばならない。トランプカードを「文字」のみで説明するのは、かなりの難物だろう。まあ、「挿し絵」を使えばいいんだけどさ。 もっとも、、そういったものを巧みに説明するのが、所謂「作家の腕の見せどころ」といった説もあろう。例えば、これはギャンブルとは異なるけれども、「スラムダンク」はそれが非常に巧みだったと思う。多くの日本人が、バスケットボールのポジションも知らない状態から(私も。テヘ。)、桜木花道を狂言回しにして、バスケットボールの「ルールと基本的な戦略・戦術」を巧みに紹介解説していった。しかも、そのうちのひとつ「左手はそえるだけ」などは、物語に巧みに織り込んだ。「スラムダンク」のこの点を褒める人は少ないが、巧みな手腕だったと思う。 その「巧みな手腕」のひとつとして、物語序盤は桜木軍団を中心に「湘南爆走族」風に仕立てていたのも、見事だったと思う。「バスケットボール解説編」を「不良ギャクマンガ」風にアレンジしていたのである。 ちなみに、この序盤の「湘南爆走族」風味が「スラムダンク」だと思っていて、途中からどんどん本格バスケットボールマンガになっていくのに驚いた、そうして寂しく思った、と言う人もいた。 ちなみに、私も、連載当初は「湘南爆走族」っぽいと思って、読んでいなかった。私はアニメから入ったのだ。青田との柔道話くらいからだったと思う。 そうして、物語中盤で、水戸が「花道は、バスケットマンになっちまったんだよ」というシーンがあるが、あれはまさしく「湘南爆走族」編の終わり、本格バスケットボール・マンガへの移行を宣言するセリフだったのだと思う。まあ、その後も、ちょこちょこ「湘南爆走族」風味はあるけどね。 つう訳で、「ルール及び基本的な戦略戦術の説明の煩わしさ」が「ギャンブルもの」の難しさの理由の二つ目なのであるが、では、この二つの問題、「勝敗に説得力が無い」および「ルール及び基本的な戦略戦術の説明の煩わしさ」を福本伸行は如何にして解決したか、うん、それは次回。長くなったから。いや、次回で最終回にしますよ。俺オールプロ'23まで辿り着きますよ。 2023/7/9(日) はいっ、第3回目。こんだけ引っ張るほど、たいそうなものではないのであるが、とにかく第3回目。 「ギャンブルもの」の難しさを、福本伸行はいかに解決したかという事であるが、それは、大方の読者の予想した通り、「ギャンブルを創案する。あるいは、既存のギャンブルをアレンジする。」である。 まあ、要するに、「既存のギャンブルを、そのまま使わない。」という事である。 これにより、まず一つ目の問題、「勝敗に説得力が無い」が簡単に解決する。「新規のギャンブル」あるいは「アレンジされたギャンブル」である以上、いくらでも「知略や工夫」を容れる余地が生まれる。なんなら、「必勝法」があったって良い。「既存のギャンブル」でないのだから、「必勝法」が発見されたとしても、誰にも迷惑は掛からない。これが「既存のギャンブル」、例えば麻雀やポーカーで「必勝法」が発見されてしまったら、大問題になるだろう。っつか、その「ギャンブル」の終わりである。 そうして、二つ目の問題「ルール及び基本的な戦略戦術の説明の煩わしさ」も同時に解決する。なにしろ「新規の」あるいは「アレンジされた」ギャンブルであるのだから、登場人物、ならびに読者にキチンと説明しなければならない。 また、「既存の」ギャンブルと違って、誰も知らないのであるから、その「ルール説明」を無用と感じる読者、退屈と感じる読者はいないであろう。つか、この「ルール説明」は、ある意味、その物語の「肝」である。あるいは「前提条件」である。これを知らねば、まさしく、話は先に進まない。 つー訳で、「既存のギャンブルを、そのまま使わない。」、あるいは「ギャンブルを創案する。あるいは、既存のギャンブルをアレンジする。」事で、「ギャンブルもの」にまつわる二大問題は、見事に一挙解決してしまうのである。 その白眉は、何と言っても、福本伸行の出世作「限定ジャンケン」であろう。ジャンケンという、誰もが知るギャンブル(?)に、「限定」というアレンジを加える事で、「工夫と知略」を容れる余地を与えた。名案だったと思う。福本マンガ的に表現すれば、「悪魔的発想」とでもいったところか。 福本伸行が、「カイジ」以前の作品、「天」等々で、私の先に挙げた「ギャンブルものにまつわる二つの問題」を自覚していたかは、全く以って不明であるけれども、この方法「既存のギャンブルを、そのまま使わない。」、あるいは「ギャンブルを創案する。あるいは、既存のギャンブルをアレンジする。」で、「ギャンブルもの」としては異例のヒットを飛ばした訳である。んで、今以って、その方法頼みである。良くも悪くも。あるいは、本人が望むと望まないにかかわらず、である。 このへんの事情は、「スタンド」を創案した荒木飛呂彦と、よく似ている。 でも、このアイデア、「スタンド」はともかく、「既存のギャンブルを、そのまま使わない。」、あるいは「ギャンブルを創案する。あるいは、既存のギャンブルをアレンジする。」を、何故に、他のマンガ家、あるいは映画関係者等々が拝借しないのであろう。ハリウッドなんか、その手のブレーンが、いくらでもいるのだから、似たような「ギャンブルもの」を大量生産しても良さそうなのに。「スタンド」と違って、それが「パクリ」である事はバレづらいであろうし。それとも、なんだろ、ハリウッドでは、「ギャンブルもの」は御法度なのかな。 とまあ、福本伸行を絶賛してしまったので、バランスをとる為に、という訳でもないけれど、ついでに悪口も書いておくか。 福本伸行の悪口というと、その画を非難する人が結構多いけれど、福本伸行は決して「画が下手」ではない。まあ、勿論、「天才的に上手い」訳でもないけれど、上手い下手で真っ二つに割れば、「上手い」方だと思う。あくまでギリギリだけど、その境界線ギリギリの「上手い」方である。 ちなみに、ギリギリ「下手な」方は、これを読んで、ショックを受ける人もいるかもしれないけれど、井上雄彦である。ああいう画を「上手い」と判断する人は多いけど、井上雄彦は「画は下手」だよね。あくまで「ギリギリ」だけどさ。 井上雄彦が、アメリカのNBA雑誌やスポーツ雑誌の写真の構図をそのまま拝借しているのは、自身の絵に自信が無いからだと思う。 10年くらい前、例の「週刊少年チャンピオン」での水島新司との対談のページで、井上雄彦の描く殿馬の画が掲載されていたけど、ビックリするほど下手で、私はいささかショックを受けた。「殿馬、下手なんて、ありえねー。」と思った。 ちなみに、マンガ家の画の「上手い下手」を判別する一番簡単な方法は何かというと、それは「自分で描いてみる」、であろう。これが、一番簡単だよね。私は子供の頃、ドラえもんやキン肉マン、ドカベン等々は、簡単に真似る事が出来たけれど、どうしても、何度描いても、似てこなかったのが、アラレちゃんとアムロ・レイである。理由は明々白々であろう。 もっとも、水島新司やゆでたまご(中井義則)はともかく、藤本弘の場合は、画の巧拙は判断しがたい。というのも、藤本弘は、マンガの画、少なくとも、自身のマンガの画は「記号的」であるべきと考えており、それを実践していたからである。もしかしたら、画は上手いのかもしれない。藤子不二雄のごくごく初期のマンガを精査してみなければ、分からぬ事であるが。 また、これは「画の上手い下手を判別する簡単な方法」という訳でもないけれど、ちょっとした目安としては、「重力が感じられるか、否か」というのがあると思う。「画の上手い人」は、単純な立ち姿でも、どこに重心が掛かっているかが、はっきり分かる。右足か左足か、あるいは、珍しいけれども、両足か。まさしく、「地に足が着いている」のである。ところが、「下手な人」だと、宙に浮いちゃってるんだよね~。特に、一昔前の少女マンガ家はヒドい。たいてい、宙に浮いている。 一方、上手い人は、はっきり重心が感じられるし、逆に「浮いている」ようにも描ける。分かり易いのが、フリーザ様の最終形態登場時だよね~。いかにも「宙に浮いていて」、私はしたたか感心した。 まあ、「いちいち重力を感じながら、あるいは計算しながら、描け。」とは云わないけれど、重力のような「目に見えないもの」を感じられるか否かは、天才と凡人とまでは云わないけど、達者と凡人ぐらいの差が出るところではある。 ちなみに、最近のCG、所謂「コンピューターグラフィックス」は、アニメでもゲームでも非常に発達しているけれども、私が最も物足りない、あるいは研究不足だと思うのは、この「重力の感じられ無さ」なんだよね~。だから、どんなに細かく、微細に描いても、一発でCGって分かっちゃう。リアリティを失っている。とりわけ、ぴょんぴょん飛び跳ねるシーンは最悪だよね~。ただ、画面の中で、物体を動かしているだけ。センスは勿論、物理も感じられない。 まあ、そのうち、CGの世界でも、宮崎駿みたいな人が出てくるかな。 こんな風に書くと、なんか宮崎駿は「画が上手い」みたいになるけれども、まあ、宮崎駿は、下手ではないけど、上手くも無いよね。まさしく、境界線上にいるのが宮崎駿の画の技量である。 宮崎駿は「画が上手い」、のではなく「画を動かすのが、上手い」人である。「画を動かす事」に関しては、それはもう、天才的に上手い。絶後はともかく、空前ではある。そういう人は、今までの芸術の歴史、あるいは絵画の歴史にはいなかった。まあまあ、そりゃそうだよね、アニメーションが20世紀の産物だから。ミケランジェロにしても、北斎にしても、ピカソにしても、彼等の「画を動かす能力」は、それこそ、不明である。宮崎駿の対抗馬と云ったら、かろうじてディズニーくらいだろう。 一方、同じアニメーターといっても、安彦良和の場合は、こちらは「画を動かすのが、上手い」人ではなくて、「画が上手い」人である。「画の上手さ」では、宮崎駿を凌ぐであろうけど、「画を動かす上手さ」では、宮崎駿にはっきり劣る。板野一郎にも劣るかもしれない。 ちなみに、宮崎駿はアニメーターとしては、勿論、史上最高といってよいくらいに超一流だけど、映画監督としては、はっきり二流である。少なくとも、シナリオは描けない。 で、シナリオが描けないから、キャラが立たず、キャラが立たないから、名セリフもない。宣伝屋さんが、宮崎アニメのセリフを名セリフっぽく、仕立てていたけど、結局名セリフにはならなかった。 したがって、宮崎アニメの最高傑作が現時点でも「カリオストロの城」であるのは、当然の帰結である。ルパン三世ほどキャラの立っているキャラクターは、他にいないからだ。世界随一といっても良いくらいである。まあ、そのルパン三世も「カリオストロの城」だと、随分とキャラが薄まってしまっていて、そのへんに不満を持つ人も少なくないのだけれど。 私は子供の頃、ナウシカのテレビCMを見て、「これは見なければ、」と、ものすごく興奮していたのだけれど、視聴したら、意外につまらなくてガッカリした。当時三巻まで出ていたマンガも、友達に1冊100円、合計300円で売ってしまった。 その後、念のため、「ラピュタ」も見てみたのだけれど、やっぱりつまらなくて、それきり宮崎駿は捨ててしまった。宮崎駿が「シナリオが書けない」事に気づくのは、その後20歳くらいの事である。それから、更に10年後くらい、アメリカの新聞に、同様の批評が掲載されていたと思う。「シナリオを書けない帝王、宮崎駿」みたいな記事である。まあ、見出しを見ただけで、記事自体は読んでねーけどさ。 でもまあ、本編よりコマーシャル・フィルムの方が面白そうに見えるっていうのは、宮崎アニメの特徴だよね~。おんなじ事は、庵野秀明にも云えるが。理由は明々白々であろう。 また、宮崎駿がシナリオを書けないのは勿論だけど、そもそも「本選び」が下手だよね。「魔女の宅急便」とか「ハウルの動く城」とか、読んでねーけど、宮崎駿が選んだっていうのなら、多分おそらく、つまんねー児童文学なのだと思う。そもそも、面白い児童文学なんか、なかなか無いけれど。特に女性作家はヒドイ。絵本についての話で、以前も同じような事を書いたけれども、子供を舐めてる。子供をダマせると思っている。少女マンガに児童マンガの傑作が無いのも、同様の理由である。女性は子供に劣る また、宮崎駿は、最近、「君たちはどう生きるか」なんて本を映画化しているが、これもらしいよね~。この本は、私が高校生の頃、夏休みの宿題で読まされたが、辟易した。ちなみに、この本を推奨した、つうか夏休みの宿題にした社会科の先生は、悪い人ではなかったけれども、この手のセンスは皆無に等しかった。ちょうど手塚治虫が逝去した頃で、「僕は手塚マンガは全然読んだ事が無かったのだけど、この機会に『アドルフに告ぐ』を読んで、非常に感動した。君達にも勧めたい。」なあんて宣いやがった。生意気盛りだった私は、人間的にはともかく、芸術的には軽蔑した。「こりゃ、ダメだ。」。 で、こういう宮崎駿とか手塚治虫みたいな社会的地位の高い芸術家の批評で、決まって出てくるのが、「テーマ」とか「メッセージ」だよね~。しかも、この手のグラフィカルな芸術家というのは、自身の作品を上手く説明できない、というか、専門的、あるいは天才的過ぎて、説明できないので、その当時流行ってる思想とか道徳とかを、自身の作品の「テーマ」とか「メッセージ」にしちゃう。手塚治虫なら「ヒューマニズム」、宮崎駿なら「エコロジー」である。そんなもん、当人は、「信じる」どころか「考えた」事さえないのにさ。だいたい、「エコロジー」に関心があるのなら、アニメ制作なんか、即刻辞めるべきであろう。芸術活動なんて、自然破壊以外の何物でもない。芸術と自然が対立概念かはともかくとしてな。 まっ、でも、しょうがないよね。この世の大部分の人達、先の高校の先生のような人達には、芸術を味わう能力は全く無いのだから。そこから、「テーマ」とか「メッセージ」とかを教わるしかない。何かを学ぶメディアとしての芸術作品であり、それのみである。一生勉強って奴だよね~。「教える」と「教わる」が大好物の人って、存外多い。 とまあ、ここまで、マンガ家の「画の上手さ」とアニメーターの「動画の上手さ」についていろいろ語ってきたけれども、それらと作品の優劣は、全然別問題である。「画が下手」でも、売れた、あるいは優れたマンガは、いくらでもあるし、「動画が下手」でも、売れた、あるいは優れたアニメは、沢山ある。そのへんが、このマンガやアニメといった芸術ジャンルの面白いところではある。詩や絵画、音楽だと、多少の例外はあっても、技術的優劣は、そのまま作品の優劣である。 まあ、もっとも、マンガに関しては、売れる売れないはともかくとして、作品の優劣は、「画の巧拙」より「コマ割り」である。「コマ割り8分」なんて言葉もあるくらいだし。 これが分かり易いのが、所謂「同人誌」で、この手のマンガが大概つまらないのは、「画の巧拙」よりは、大概「コマ割り」に原因がある。でも、素人は意外に気が付かないんだよね~、「コマ割りの優劣」が「マンガの優劣」に直結している事に。「画が下手」で売れたマンガ、優れたマンガは山ほどあるけれど、「コマ割りが下手」で売れたマンガ、優れたマンガっていうのは、ほとんど記憶にない。パッと思いつかない。 実際、さいとうたかをはシナリオは書かないし、画も描かないけれど、「コマ割り」だけはしてたっていうからね~。だ・か・ら、「ゴルゴ13」の作者は、さいとうたかをなのである。 また、手塚マンガの何が革新的、あるいは革命的だったかといえば、それは何といっても、「コマ割り」が革新的革命的だった訳である。それだけ、といっても良いくらいである。そうして、それはマンガの未来を変えたのである。この点については、いずれ稿を改めて、詳述したい。 マンガにおける「コマ割り」は、ちょうど、文学における「文体」にあたる。まあ、もっとも、私は「文学」は「文体」しか読まないけれど、「マンガ」を「コマ割り」しか読まないっ~て事は無い。 閑話休題。 で、そうそう、福本伸行の画の上手さであるが、勿論、水木しげるや鳥山明のように、あるいは「重力が感ぜられる」ように、上手い訳ではない。でも、福本伸行は、あの少ない線で、人物の心情をキッチリ表現できている。闘志に沸くカイジ、弱気に支配されるカイジ、ビールを世界一旨そうに飲むカイジ、散財してしまうカイジ、きっちり描き分けられている。しかも、というか、当然ながら記号的ではない。これは、例えば井上雄彦には出来ない事である。あるいは、藤子不二雄には出来ない、あるいは、やらない事である。 まあ、もっとも、「ギャンブルもの」の場合、登場人物の心理描写というのは、物語の性質上、必須であるから、そのへんは必至に勉強したのかもしれない。「良い手が入った事を、相手に悟られまいとする表情」とか、「良い手が入った事を、相手に悟られまいと思わせようとしている表情」とか、「良い手が入った事を、相手に悟られまいと思わせようとしたが、バレてしまっている表情」とか、「天国から地獄の表情」とか、「地獄から天国の表情」とか、われわれが日常生活では、あまりお目にかかれないような表情や心理を扱わねばならないのが、いわば「ギャンブルもの」の宿命である。これも、映画やマンガで「ギャンブルもの」が、あまり扱われない理由の一つかもしれない。演出家や役者、マンガ家に大きな負担がかかる。謂わば「第3の理由」である。ちなみに、この「ギャンブルもの」に必須の心理描写を逆手に取って、ヒットしたのが、「哭きの竜」であろう。 あれっ、福本を褒めてた。違う違う、福本伸行の欠点ね。 福本伸行の欠点というか、福本マンガの欠点つうか、それは、「やらんよね、あんなギャンブル、普通。」である。 「カイジ」でも「アカギ」でも、福本マンガに登場するギャンブル、あるいは「銀と金」や「零」に登場するギャンブルつうかアトラクション、普通はやらんよね。 とりわけ、「カイジ」の「鉄骨渡り」なんかね。まあ、あれも、「渡らなかったら、死ぬ」っていうのなら、数%の可能性に賭けて、渡ろうとする、つか、渡らざる得ないだろうけれど、あのギャンブルつうか、あのアトラクションは、別に渡らなくてもいいんだもん。ただ、数千万円を手にする権利を失うつうだけだからね。数億円、あるいは数十億円でも渡らんよね、普通。「90%以上の確率での死」と「数千万円」じゃあ、割に合わんよね。 あんなギャンブルをするのは、それこそ「死にたがりの狂人」だけだと思う。「カイジ」では、あの時、カイジを中心に登場人物たちが異常な心理状態になって、あのギャンブルを決行したという形になっているけれど、私は読んでて、ちょっと無理があるなとは思った。 同様の事は、「鷲巣麻雀」とか「西京麻雀」とか「零の数々のアトラクション」にも云えるであろう。 いやまあ、知らんよ、私のような平々凡々な人生を送ってきた者には窺い知れないような裏の世界、闇の世界があって、そこにはアカギやカイジのような、所謂「死にたがりの狂人」がうじゃうじゃしてるのかもしれんけど、少なくとも、私の身の回りの平々凡々な世界で、ギャンブルに興ずる人達は、あんな「死にたがりの狂人」ではない。つか、むしろ真逆の人達である。 福本マンガの世界に登場するハイリスク・ハイリターン、つうか、むしろハイリスク・ローリターンなギャンブルを好むのではなく、それと正反対のローリスク・ハイリターンなギャンブルを好むのが、私の身の回りのギャンブラー、あるいはギャンブル依存症みたいな人達である。毎週、宝くじを買い続けるみたいな。それも、ロト6の研究をしているような人達が、私の身の周りのギャンブラーである。なんつーか、甘い話が転がってると、本気で思っているような人達である。 この20年間で、700万円ぐらい競馬の配当金を貰ったけど、そのために1000万円くらい馬券を買っちゃった。でも、300万円で20年間楽しめたら、悪い趣味じゃないよな。」とか云ってるのが、私の身の周りのギャンブラー達である。 まあ、でも、そういうローリスク・ハイリターンを夢見るような人達は、マンガや映画の主人公にはなれないよね。観ててイライラするもんな、ぶっ殺したくなるもんな。これが、映画やマンガに「ギャンブルもの」が少ない「第4の理由」か。やっぱ、死にたがりの狂人じゃないとね。「ギャンブルもの」の主人公は。リアリティを失っても。ちゃんちゃん。 で、いよいよ本題の俺オールプロ'22であるが、今季というか、昨季というか、’22シーズンは、我らがコルツの体たらくもあって、あんま見とらん。よって選手も、あんま知らん。従って、まさかの全ポジション該当者無しにしようとも思わなくもなかったが、それじゃあ、あまりにあんまりなので、三日溜まった○○のように、なんとか捻り出すことにした。 まずはオフェンスから 【オフェンス】 QB:パトリック・マホームズ(KC) ま、さすがにね。 RB:アイザイア・パチェコ(KC) アメリカン・ドリ~ム。 WR:ジャスティン・ジェファソン(MIN) リーグNo.1レシーバー襲名か。 タイリーク・ヒル(MIA) マホームズの力じゃ、無かったのね。 TE:トラヴィス・ケルシー(KC) リーグNo.1TE論争、決着か。 該当者無し OL:該当者無し 【ディフェンス】 エッジラッシャー:ニック・ボサ(SF) リーグNo.1エッジラッシャー襲名か。 マックスス・クロスビー(LAR) スが多い。 ⅮT:クリス・ジョーンズ(KC) 遂に遂にリーグNo.1インサイドラッシャー襲名か。 ハリソン・フィリップス(MIN) いい仕事しとる。 LB:ミカ・パーソンズ(DAL) 余裕の13.5サック。 ジャスティン・ヒューストン(元IND) まだ、やってたんか~い。 ジェリー・ヒューズ(元IND) まだ、やってたんか~い。 CB:該当者無し 該当者無し S:該当者無し 【スペシャルチーマー】 K:ジャスティン・タッカー 史上最高キッカー襲名か。 P:該当者無し リターナー:職種消滅 【各賞】 最優秀ヘッドコーチ:アンディ・リード(KC) 永く永く永くベリチックの後塵を拝してきた、煮え湯を飲ま されてきた。が、遂に遂に、栄光を我が手に。 MVP:クリス・ジョーンズ(KC) 15.5サック。 カンバック・オブ・ザ・イヤー:セキオン・バークリー(NYG) いやホント良かったね。ホント良かっ た。 第4のLB賞:マット・ミラーノ(BUF) 枠が無かったので、こっちで。 「該当者無し」が多いのは、上記の理由なので、許してね。CBは選びたかったのだけど、インターセプトがベストで6だと、ちょっと選びづらい。せめて、8は欲しい。インターセプト数がCBの技能の全てではないけれど、来季の奮起を促したい。 また、Sは10年ほど前から、同じような事を言っているが、ホント、素人には分かりにくいポジションになったと思う。一昔前は、エド・リードとかポラマルとかボブ・サンダースとか、素人目にも分かり易いSが沢山いたが、最近はめっきり減ったと思う。そういった意味では、ここ10年で最も進歩したポジションなのかもしれない。「レギオン・オブ・ブーン」あたりから、変わってきたと思う。ピート・キャロルは画期的な仕事をしたと思う。 2023/7/28(金) |