インディアナポリス研究会コルツ部

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2021シーズン

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Week14 12月5日
GB@DET
31−34
 さすがに90年代は無かった。YouTubeではなく、ウィキペディアで調べてみたのだけれど、ほぼ皆無。私の知る限り、日本のプロ野球に来たオールスター選手は、1994年に出場したダンカンのみ。憶えている人いる?。それから、4年後の1998年に巨人入り。

 この時期になっても、巨人は「現役バリバリ」にこだわってたのね。さすが。もっとも、その巨人もガルベスの成功で「現役バリバリ」へのこだわりは失っていくのであるが。

 あと、「セシル・フィールダー」は私のポンコツ聴覚には「シーソー・フィールダー」って聞こえる事を知った。

 さて、「ヤオガチ論争」であるが、前回は言葉の定義についてあれこれ書いた後、「『ヤオガチ論争』とはプロレスが『ヤオ』だったか、『ガチ』だったかを争っている論争である」と書いたところで擱筆した。

 んで、その続きである。

 プロレスファンによる「ヤオガチ論争」っていうのは、そういう「完全に答えの出ている」「完膚なく解答の出ている」問題を蒸しかえしている訳なのであるが、そういう事って、結構あるよね。多いよね。

 例えば、数学における「角の三等分問題」もそのひとつであろう。これは、大昔から日本中のみならず世界中の数学雑誌の編集部を悩ましている問題、つか現象なのであるが、いまだに「角の三等分に成功した」と投書してくる輩が世界中で後を絶たないそうなのである。

 しかも、大概は定年退職した60過ぎのおじいさん、それも大概は数学と無縁の人生を送ってきたおじいさん。そういうおじいさん達が、もう数学的には完全に否定的に証明されているつうのに、それでもそれを覆そうとするのである。いや、「覆した」と主張してくるのである。それも全世界中で。それもはるか昔から。

 そういうおじいさんたちの「解答」あるいは「証明」は大体共通していて、補助線を引きまくって、各線が混乱、交わっていたり並行していたりを見誤って、「証明できた!!!」と宣うそうなのである。私はその現物を見たことが無いけれど、おおよそ想像できる。数学の証明というのはエレガントなものである。確かに、その証明は正しい、だが、私ならその証明を1ページで出来る。

 「ヤオガチ論争」もその「ぐちゃぐちゃな証明」の類であるし、その「ぐちゃぐちゃな証明」を見たくて、私は「ヤオガチ論争」を好んでいるのである。その「ぐちゃぐちゃな証明」の中にも、思わぬ理論、思わぬ理屈があるのを私は楽しみにしている。さすがに、「真理」はないけどな。まあ、なんつーか、神学論争によく似ている。

 古本屋業界には二大鉄板ジャンルがある。「古武術」と「オカルト」である。この二大ジャンルは必ず高値で売れる。理由は、説明するまでもないであろう。

 もっとも、「ヤオガチ論争が好き」といっても、寝食を忘れるほど好きな訳ではない。せいぜい30分が限度である。それくらい付き合って、「あほらし」である。バカと付き合うのも30分が限度であろう。

 あっ、そうそう、思い出した。私が「ヤオガチ論争」をよく読んでいた頃を。あれは、たまたま空き時間の多い仕事に就いていて、その職場にパソコンがあり、その空いた時間にネット掲示板等々で「ヤオガチ論争」を「楽しんでいた」のだ。まあ、要するに「暇つぶし」である。

 そこで、私は「思わぬ理論」や「思わぬ理屈」に期待して、「ヤオガチ論争」に付き合っていたのであるが(無論、「参加」はしてない。たりめーだっつの。)、まあ、さすがに、なかなかないよね。ほとんどは知能を疑うようなものばかり。30分で「あほらし」くなる程度の内容である。

 で、この手の「ヤオガチ論争」で多いのは、「プロレスの多くはヤオだった。でも、なかにはガチもあった」。

 うん、そんなの無意味だよね。多くが「ヤオ」なら、それは「ヤオ」だろう。例えば、点描で、そのほとんどが「黒」で塗られていて、ごくごく一部、近くで見ないと分からない程度に「白」が使われてても、それは「黒」であって「白」じゃないよね。

 また、カレーの隠し味に「チョコレート」が使われていても、そのカレーは「甘く」はないよね。「辛い」よね。

 また、そういうカレー好きがいて、ランチはほとんどカレーだけど、月に2,3回ラーメンやカツ丼を食べる時があるからといって、そういう人は「ラーメン好き」や「カツ丼好き」ではないよね。あくまで「カレー好き」だよね。

 また、この手の「ヤオガチ論争」で多いのは、「ガチを超えたヤオ」である。うん、それは「ヤオ」だよね。「超えよう」が「超えまい」が「ヤオ」って断言されているのだから、それは「ヤオ」である。

 ちなみに、これ、「アウフヘーベン」だよね、「止揚」だよね。こういう点から見ても、ヘーゲルの「弁証法」っていうのは無意味な、あるいは無価値な理屈だっていうのが、よく分かる。まあ、それゆえ、プロレスファンや神学者たちに愛用されるのだろうけど。

 ちなみに、ヘーゲルは、私はとある理由で全然読んでいない、謂わば「禁書」なので、細かくツッコまないよーに。

 そのほかの「理論」や「理屈」は大概忘れてしまったけれど、おおよそこんな感じが「ヤオガチ論争」である。はっきり言って、検討する価値のない代物である。

 ただ、ここで面白いのは、先にも書いたけど、これら「ヤオガチ論争」は、「『ヤオ』と『ガチ』、どちらが優れているか」という議論には絶対ならないのである。「ヤオ派」と「ガチ派」に共通する前提として、「『ガチ』は『ヤオ』に勝る」なのである。その点については、両陣営とも、絶対に揺るがない。共有する盤石の「真理」なのである。故に、「ガチを超えたヤオ」のような主張が出てくる訳である。「ヤオ」を認めるにしても、「ガチ」を超えていなければならないのだ。

 笑っちゃうよね。だって、この世には「ガチより優れるヤオ」、「ガチより面白いヤオ」、「ガチより感動するヤオ」、すなわち「ガチを超えたヤオ」なんて山ほどある。いや、むしろ、そちらの方が多数派といっても良いくらいである。

 まあ、いわゆる「フィクション」である。

 「巨人の星」に感動して野球を始めた人、「ドカベン」に感動して野球を始めた人、「キャプテン翼」に感動してサッカーを始めた人、「スラムダンク」に感動してバスケットボールを始めた人、「太陽にほえろ」に感動して刑事を志した人、枚挙にいとまがない。「現実」の野球選手や刑事に感動して、それらを志した人より多いかもしれないくらいである。

 まあ、さすがに「野球」は「現実」の方が多いかもしれないけど、当時の日本における「サッカー」や「バスケットボール」は「現実」を凌ぐものであったと思う。

 また、「世界一の格闘家はブルース・リーである」と信じている人、主張している人もまだまだいるであろう。一時よりはだいぶ減ったかな。

 そうして、そういう人たちが「愚か」かといったら、決してそんな事は無い。誰も馬鹿にしない。また、「現実と空想の区別がついていない」訳でもない。彼らは「空想」と知って、感動しているのである。その感動は「空想」ではないであろう。確かな確実なものだ。

 ちなみに、私は所謂「ガチな」スポーツ、プロ野球やNFLのファンであるけれども、どこかで書いたと思うが、それらが好きな理由の一つは「空想のように容易に感動させない」からなのである。なんなら、最後まで「感動させない」場合すらある。いつまでたっても「幸せな結末」「ハッピーエンド」が訪れない。なんなら、「バッドエンド」すら訪れない。いや、「エンド」すらない。なぜなら、それが「現実」だから。

 「漫画」や「小説」、まあ「映画」でも「アニメ」でも、「最終回やラストシーンは難しい」とよく言われる。その理由がこれである。すなわち「『現実』には『最終回』がない」からである。どんな「現実」も、それが「現実」である限り、「次回」があるのである。「最終回」は永遠に来ない。唯一の「最終回」は「自身の死」だろうけど、「自身の死」は自身では認識できないから(いや、もしかしたら、出来るのかもしれんけど、)、いつまでたっても我々の人生、すなわち「現実」には「最終回」がやってこない。

 例えば、「高校野球モノ」のマンガあったとする。そうして、その「最終回」は「夏の甲子園で優勝してガー」だったとする。でも、「現実」はそうはいかない。「優勝してガー」、すなわちガッツポーズしたら、その手を1分後くらいに降ろし、整列して挨拶して、インタビューを受けて、荷物をまとめて、宿舎に帰り、地元に帰り、プロを目指して練習するチームメイトもいれば、野球は終わりにして、残りの学生生活を遊び惚けるチームメイトも、といった風に、「現実」は「永遠に」続いていくのである。「現実」に「最終回」は無い。故に、「最終回」は常に「リアリティ」を失い、空々しくなってしまう。すなわち、ここまで隠しに隠してきた「空想」が丸出しになってしまうのだ。

 三島やトーマス・マンのいう「長編小説の終わりは、主人公を死なすか、旅立たせるしかない」というのは、これを指している。

 そう、「現実」には「最終回」がない。

 それが例えば、「誰もが望まないような結末」、所謂「バッドエンド」っぽい最後、プロスポーツマンなら、「キャリアエンドのケガで引退」なんていうのが、ベタな「バッドエンド」であろう、そういう「バッドエンド」でも「最終回」ではないのだ。

 「現実」は続く。その選手はコーチに転向、名伯楽になるかもしれないし、全く別の職業に転身して成功を収めるかもしれない。そうして、「いや〜、あのタイミングでの引退は、今から考えるとベストでした。ケガが完治してもどうなるか分かりませんしね。ほんとベストのタイミングでの引退だったと思います。天の声でした。」なんてオチも十分あり得るのだ。しかも、それさえ「オチ」ではない。

 また、「誰もが望むような結末」「ハッピーエンド」のその後も当然ある。実例を挙げれば、「斎藤佑樹」であろう。あの甲子園での優勝のその後を予想できた人は少ないと思う。いや、結構多いのかな。

 嫌がうえでも「現実」は続いていくのだ。それが「現実」の特徴である。なんとなく始まり、なんとなく終わるのが我々の人生なのだ。明確な始まりも明確な終わりもない。故に、小説やマンガは、なんとなく始まり、なんとなく終わるべきであろう。それが「リアリティ」である。

 まあ、「始まりはともかくとして、終わりはなんとなくではない」と主張する宗教もあるにはあるが、それはまた別の話。

 ちょっと話は逸れたが、そういうのっぴきならない「現実」に対して、読者や視聴者、観客、すなわち受容者を「いい気分」にさせようというのが、あらゆるはともかくとして、ほぼ全ての「フィクション」の目的であるし、プロレスでいうところの「ヤオ」である。

 ところが、全てとは言わないけれど、一部のプロレスファンは「ヤオ」を異常に嫌がる。そんなに「ヤオ」が嫌なら、NFLやプロ野球、プロボクシングといった所謂「ガチ」のスポーツを観戦すればよいのに、何故か、彼らはプロレスに「ガチ」を要求するのである。NFLやプロ野球、プロボクシングといった「ガチ」のスポーツの「ガチな結果」、それは「誰もが望まない結果」であることもしばしばだけど、それが嫌で彼らはプロレスを見るようになったにもかかわらず、である。

 何故か?。理由は簡単である。それはアントニオ猪木に「騙された」からである。猪木が「ガチ」だと謳ってたにもかかわらず、「ヤオ」だと知って彼らは憤慨しているのだ。そうして、その憤懣やるせなさが「ヤオガチ論争」を産み出したのである。

 まあ、なんつーか、それは「転向組」と「非転向組」の争いといってよいであろう。「ヤオを認めた人」と「ヤオを認めない人」の争いである。宗教や政治活動のそれとよく似ている。そうして、人は敵よりも裏切り者に対して、より苛烈になる。

 つー訳で、この「ヤオガチ論争」の諸悪の根源はアントニオ猪木という事になるのだけれど、この点に関して、猪木を強くは責められない。

 実際、過去の猪木の発言を振り返ってみると、この「問題」に関して言明はしていない。「ガチ」っぽいような事は言っているのだけど、断言はしていない。のらりくらりとかわしている。有名な「プロレスラー最強論」にしても、どういうルールで、どういう理由で「最強」なのかは言明していない。ただ「強い強い」とお題目を唱えているのみである。

 そういった意味でも猪木を強く責められないのだけれど(「サギっぽい」っていう批判はあるだろうけど、)、それより何より、こういう「アングル」が無ければ、「新日本プロレス」のみならず、世界中の「プロレス」は滅びていただろうからだ。

 私はこれははっきり断言できるが、アントニオ猪木のこうした数々の「アングル」、当たり外れはあるにせよ、それらが無ければ、「新日本プロレス」のみならず、世界中の「プロレス」は滅びていた。

 そうした「アングル」の最大のヒット作が「団体抗争」であり「ヤオとガチの境界を曖昧にする」なのである。

 例えば、「全日本プロレス」なんていうのは、ファンの方々には大変申し訳ないけれど、アントニオ猪木がいなければ(ジャイアント馬場ではない)、1980年前後に倒産消滅していただろう。実際、「全日本プロレス」は一貫して営業的には苦しんでいた。テレビの視聴率も、どの時間帯でも、一貫して苦しんでいた。

 そうした苦しい経営状態の中になって、比較的良好だったのは「超世代軍」時代である。でも、これ、明らかに「維新軍」のパクリでしょう。まあまあ、パクリの意志はなく、結果的に、同じような「アングル」になったというだけの話かもしれないけど、そのへんの著作権特許権の問題はともかくとして、これは完全にアントニオ猪木の考案した「団体抗争」のアングルである。

 しかも、形のみならず、中身もそっくりである。団体内において、2軍あるいは1.5軍的な位置づけの選手、しかも体が小さい選手がひとまとめになって1軍選手、主流派にぶつかっていく、闘争する。全く同じ構造である。典型的な「勝利・友情・努力」の物語である。

 この「アングル」がいかに強力かというと、新日本プロレスプロレス自身が「平成維震軍」という形で再登場させているし、「nWo」という形でアメリカでも採用されている。

 また、長州力はこのアングルひとつでキャリアを全うしているのである。いかに強力な「アングル」かはお分かりであろう。

 まあ、全日本プロレス、というかジャイアント馬場がこの強力なアングルを採用するのは、ある程度致し方ないにせよ、そもそも、それ以前に、タイガーマスクとか長州力を譲り受けている。弟が兄のお下がりを使うのはともかく、兄が弟のお下がりは、恥ずかしいよね。更には、それ以前に、「異種格闘技戦」っぽい事もしてたしね。

 そのくせ、ジャイアント馬場自身はなにひとつ新しい「アングル」を考案しなかった。全日本プロレス設立当初はお得意の「外国人vs日本人」。完全に賞味期限切れである。戦後の昭和20年代30年代なら、まだ戦争の記憶が生々しいので、日米両国ともに「アメリカ人vs日本人」というアングルは成立したし、それこそ「団体抗争」を超える最強の「アングル」だったであろう。でも、昭和40年代50年代ともなれば、ねえ。実際、テリー・ファンクやハンセン、ブロディといった大人気外国人選手が成立しているのである。その期に及んで「アメリカ人vs日本人」をやられてもねえ。

 あとは、お得意の「力士転向」。輪島の時は、私ももう中学生くらいになっていたので、ビックリした。辟易した。「いや、まだそんなことやってんの」、って感じである。

 もっとも、この「力士転向」は、ジャイアント馬場のみならず、プロレス界格闘技界ともに大好きなようで、北尾、曙で採用、いずれも失敗している。

 そもそも、相撲というのは、他の格闘技に比較すると、かなり異質なので、「転向」には向いていないと思う。単純にいっても、相撲は1分前後で決着のつく無酸素運動であり、それだからこそ「太っても良い」のである。一方、プロレスをはじめ、多くの格闘技は有酸素運動である。力士とその他の格闘家は根本的に体のつくりが違う。完全に体を作り変えるならともかく、安易な「転向」は危険だと思う。まして、北尾はともかく、輪島や曙は、一度引退している選手である。どんな勝算があったのだろう。

 まあ、「力士転向」はともかくとして、ジャイアント馬場は「アングル」という点に関しては、プロレス界には全く何も寄与していない。というか、1970年代以降、それをしたのは、アントニオ猪木だけ、おそらく、世界中でアントニオ猪木だけ。

 私は2000年前後、テレビ東京でWWEをたまに見ていたのだけれど、あの放送で、よく控室の風景、というか状況、というかコントを、よく放映していた。あれって、「新日本プロレス」だよね。まあ、プロレスに限らず、80年代の日本のエンターテインメントっていうのは、マンガ、ゲーム、テレビ番組等々、世界に先駆けるものだったので、それ自体は、驚かなかったけれど、あれもアントニオ猪木が考案したものである。まあ、パクったって訳ではないだろうけどさ。

 そのへんのエンターテインメントに関してはともかく、ことプロレスに関する限り、70年代以降、というか「アメリカ人vs日本人」以外のアングルは全て猪木あるいは新日本プロレスの考案したものといってよいだろう。唯一の例外は、FMW、というか大仁田の「ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチ」のみであろう。故に、「一に力道、二に猪木、三、四が無くて、五に大仁田」といわれる訳である。あっ、もう一つ例外があった。「髪切りマッチ」である。でも、これは女子プロレスのみのアングルなので、特殊な例外。

 ちなみに、エンターテインメントの世界で、「爆破」の面白さに最初に気付いたのは、おそらく「仮面ライダー」である。「仮面ライダー」の画期的なところはいくつもあるのだけれども、その一つは「爆破」、あるいは「発破」であろう。それ以前の映画やドラマでも「発破」はそれなりに使用されていたけれども、話の脈絡に何の関係もなく、つまり「発破」の画的な面白さのみを狙って、それを使用した、それもガンガン使用したのは「仮面ライダー」が初めてだったと思う。その象徴的なシーンは、そのオープニングであろう。バイクが走り抜ける中、バンバン発破させとる。

 で、それに味を占めたのか、その後の東映特撮、いや、それ以外の会社でも「発破」しまくり。事例は色々あるが、例えば「デンジマン」のエンディング。何の脈絡もなく「発破」しとる。あと、「ダイナマン」に至っては、名前がそれそのもの。

 そうして、この「発破」を特撮番組以外で積極的に使用したのは、なんといっても「大都会partV」そうして「西部警察」。

 そうして、それに続いたのがビートたけし。「元気が出るテレビ」や「お笑いウルトラクイズ」で多用してた。

 そういったテレビ番組で蓄積された「発破」のノウハウをライブ会場で使用したのがFMWなのである。テレビ番組だと、「映像」と「音」のみだけど、ライブ会場では、そこに「熱」と「爆風」が加わるのである。迫力はいかばかりであったろう。問答無用の説得力である。「リアリティ」である。「ガチ」といってもいい。

 という訳で、「プロレス」というエンターテインメントにおいて、「アングル」は非常に重要、というか、それが全てといっても良いくらいなのであるが、猪木以外、あるいは猪木と大仁田以外のプロレスラーはそれを全然理解していない。良い選手になって良い試合をすれば、客が来ると思ってる。来るわけねーっつの。

 鈴木みのるが「『パンクラス』設立時、プロレスのチケット一枚売るのがいかに大変か、身に沁みて分かった。」と語っていたけれど、つまりそういう事である。

 また、何回か前の記事で、私は「80年代の南海の選手はその実力に相当する賞賛を得られなかった」みたいな事を書いたけれども、これが現実である。それはスポーツやエンターテインメントの世界に限らず、「良い製品」と「売れる商品」には何の因果関係もない。これが分かっていない人は、本当に多い。「ベータ」と「VHS」なんていうのは、その分かり易い事例であろう。知られてないのは無いのと同じ。

 アントニオ猪木にしても、それは日本プロレス時代に痛感、それこそ痛いほど感じていたと思う。運動能力的にもプロレスラーとしてもジャイアント馬場を凌いでいるを自負していたであろうが、会社も世間も馬場一辺倒。自分の方には目も向けてくれない。

 故に、独立したのだし、モハメド・アリと戦ったのだし、数々のアングルを考案したのである。当時の猪木は、「スポーツ紙ではなく、一般紙に掲載されたい」と強く願っていたそうであるが、それはつまり、そういう事であろう。

 ところが、猪木以外、あるいは大仁田と猪木以外かな、他のプロレスラーは「アングル」なんて考えようともしない。良い選手になって良い試合をすれば、客が来ると思ってる。

 2000年前後、所謂「総合格闘技」が大ブームになり、猪木はそれを利用しようと盛んに動いていたにもかかわらず、ほぼ全てのプロレスラーとプロレスファンは馬耳東風、煙たがってすらいた。

 また、同じ頃、三沢の死を受けて、プロレス界で「安全委員会」的なものを作ろうみたいな動きがったが、猪木はそれに猛反対していたらしい。当然である。「危険」を売り物にしている商売が「安全」でどーする。そういった類のものを作るにしても、裏でやれ。それこそ「ケッフェイ」である。「公」にしてどーする。

 それが当時、というか、大仁田と猪木以外のプロレスラーの意識、プロレス観であった。

 で、結果、「プロレス」は今の状態である。

 経営的には安定しているらしいけど、70年代80年代の「プロレス」とはまるで別モノだろう。棚橋弘至やオカダ・カズチカの物真似を出来る人はどれだけいるだろう。一昔前は、日本人のほぼ全てが猪木と馬場の物真似が出来たのである。ほぼ全ての日本人が、「猪木の物真似してみ」って言われれば、アゴを突き出して「かかってこい、コノヤロー」ってやったし、「馬場の物真似してみ」って言われれば、手刀を作って「アッポー」である。これを、ほぼ全ての日本人が出来たのである。しかも、この「ほぼ全て」には女性も入っている。実際、やるかはともかくとして。

 更に、「コブラツイスト」と「卍固め」は当時の全ての小学生がやったことがある。

 そんなプロレスラーはもういないよね。はっきり言って、今のプロレスは「女性向けストリップショー」であろうし、女子プロレスは「男性向けストリップショー」であろう。

 まあ、元の姿に戻ったとも云える。もともとボクシングやプロレスなんていうのは、飲み屋の余興、催し物であったし、その他のスポーツ、フットボールや相撲なんていうのは、お祭りの余興である。ただ酒を飲むだけではつまらないので、酒を飲む芯として、というか酒を飲む口実として、格闘技やスポーツは誕生、成立したのである。「花」や「月」と同等である。つかまあ、カブスは現時点でも酒を飲む口実だしね。ボウルゲームも、すなわち「お祭り」だしね。

 とまあ、ここまで読んできて、「そんなに『アングル』が重要だというのなら、他のスポーツでも導入したらよいではないか」と思う人もいるであろう。

 さよう、私もそう思っている。でも、出来ないのだ。ボールゲームやチームスポーツだと、「アングル」や「ヤオ」はなかなかに難しい。コントロール出来ないものが多いからだ。

 例えば、ボールをコントロールすることは難しいであろう。フットボールのような楕円球は無論の事、野球やバスケットボールのような球形のボール(変な言い方)にしても、ある程度はともかく、完全なコントロールは難しい。

 また、天候等の自然環境もコントロールできないし、フィールドや芝の状態もコントロールしにくい物であろう。

 更には、チームスポーツだと、多人数が参加する事となる。すなわち、それだけ失敗する可能性が高まってしまう。しかも、ライブ、すなわち一発勝負である。やり直しがきかない。

 これらは、そのまま、チームスポーツやボールゲームの実写映画が少ない理由でもある。「やり直し」、すなわち「撮り直し」は出来るものの、そうはいっても「思い通りの試合」を作るためには多大な時間と労力を要するであろう。

 一方で、格闘モノの映画が多い、また、ブルース・リーやジャッキー・チェン、ロッキー等々、成功例が多いのも、全く同じ理由である。「プロレス」に「ガチ」や「アングル」が可能なのも同等の理由である。

 格闘技は、「少人数」、かつ「屋内競技」、かつ「ボールを使用しない」ためにコントロールしやすい、すなわち「ヤオ」や「アングル」をやりやすいのである。

 もっとも、これらの問題はコンピューターグラフィックスの発達で解決するかもしれない。優れた野球映画、フットボール映画も可能になるかもしれない。

 では、そういう「作られた」野球やフットボールは面白いのかといえば、そりゃ面白いであろう。面白くするように作っているのだから。ちゃんと実例もある。数多くの野球マンガやサッカーマンガ、バスケットボールマンガである。それらは「ヤオ」で「アングル」なチームスポーツ、ボールゲームである。

 まあ「映画」はともかくとして、「現実」のチームスポーツやボールゲームを「ヤオ」で「アングル」にするかはなかなかに難しいであろう。でも、それが可能ならば、現今の「ガチ」なチームスポーツやボールゲームより「面白く」なるであろうし、人気も博すであろう。「誰もが望まない結果」を求む私のようなへそ曲がりもいるけどさ。おおむね好評だろう。

 このへんで一区切りするか。次回は、多分Jリーグについてと書くと思います。年明けかな。
 

 さて、本題のNFLである。今回は第14週のGB@DET。結果は31−34でライオンズの勝ち。

 ライオンズの試合はシーズン序盤にレビューしていて、「ライオンズは強いことは強いけど、勝ち上がっていくには、もう一つ何か、戦術なり戦略なりが必要」みたいなことを書いた記憶があるが、私の懸案を蹴散らかすかのように、ここまで11勝1敗。そうしてこのゲームに勝って12勝1敗でプレイオフ決定。しかも3位のパッカーズまでが9勝4敗で勝ち越しているNFC北で12勝1敗なので、なおさら価値がある。

 いやまあ、意外な結果ではありませんよ。強いのは分かってましたよ。所謂「MADDEN」的な戦力では、現在おそらくリーグナンバー1だと思う。しかも2番手をかなり離してのナンバー1だと思う。2番手はテキサンズかな。

 ただまあ、そういう「MADDEN」的な戦力数値だけでは勝てないのが、NFLの恐ろしさというか面白さというか醍醐味なので、そういう点から見ると、スーパーボウル太鼓判って訳にはいかないと思う。現時点で、スーパーボウルに最も近いのは、やはりチーフスだと思う。おい、ビルズ、ちゃんと責任とれよ。プレイオフで負けたら、チーム解散だからな。「はい、今日でビルス終了で〜〜す。各自、安全に気を付けて、ご帰宅して下さ〜〜い。」だからな。

 とはいえ、強いことは強い。あらゆる問題を、あの強力OL陣が解決してしまっているといってもいいと思う。ウェンツがいた時のイーグルスみたいな感じ。

 ゴフの代償であれだけドラフト権を得られれば(「失った」ではない。念のため)、そりゃデカいよね。これでもしライオンズがスーパーボウルを制覇したら、このトレードはNFL史上最高のトレードになると思う。おそらく、カウボーイズのアレを抜く事になるだろう。しかも、ラムズ側も成功してるからね。NFL史上どころか、アメリカプロスポーツ史上最高のトレードになるのかもしれん。我々は気づかぬうちに歴史の傍観者になっていたのか。私なんか、トレード成立時、バカにしきってたけどな。恥ずかし、キャ。

 で、この試合のポイントって訳でもないだろうけど、ひとつのトピックスとして、試合最終盤でのライオンズの4th&ギャンブルがあるが、成功したので、G+の実況席は賞賛してたけど、というか、無理やり賞賛してたけど、あれは間違っていると思う。「ジ・ワースト・コール・アイ・ハブ・エバー・シーン」はスーパーボウルでのシーホークスのアレだけど、そこまではいかないものの、あれはやはり「バッドコール」だと思う。

 あの場面、FGを蹴っても、ギャンブル失敗しても、おおよそ同じような位置、パッカーズ陣20ヤード30ヤードくらいからの開始である。ただし、FG成功なら3点リード、ギャンブル失敗なら同点での開始なので、その差がある。故にFGを蹴るべきだったと思う。

 まあ、勿論、ギャンブル成功すれば、ほぼ勝ち確定だし、仮にギャンブル失敗しても、ディフェンス陣がこのドライブも延長戦も必ず止める自信があると言われればそれまでだけど、単純なリスク計算なら、絶対FGを蹴るべきだし、ギャンブルは無いと思う。

 それに、そもそも残り40秒くらいで敵のポゼッションになるのが嫌だというのなら、そんなチームはプレイオフを勝ち抜けないであろう。「残り40秒、敵陣30ヤード、3点リード、敵チームタイムアウト無し」のシチュエーションを怖がってるようなら、それをビシッと止める自信がないなら、スーパーボウルは厳しいと思う。

 という訳で、あのコールには、一抹の、というか、かなりの不安を感じた。

 一方、パッカーズのコールにも不満を感じた。こっちはこっちで、ライオンズとは逆に、コールがあまりに教科書的に過ぎる。コンサバ、といか凡庸という感じ。

 例えば、グリーンベイの最後のオフェンスで、タッチダウンがファウルで覆り、敵陣16ヤード、2nd&ゴールのシーン。あそこでパッカーズの選択は「パス」。そりゃ残り16ヤードで2ndダウンだから、普通に考えれば「パス」だろうけど、そこで「ラン」を選択するのが勝負ってもんだと思う。試合終盤3点ビハインド、同点はほぼ確定、そういう場面だからこそ「ラン」を選択すべきだったと思う。仮にそれが、ほぼノーゲインでも、次の3rdダウン、ライオンズディフェンスはかなり嫌がるであろう。不気味に感じると思う。「ランもある」と思うはずだ。

 実際、ああいう場面は「ラン」をコールすると、出るんだよね、どうしてもパス警戒、タッチダウン警戒で、エンドゾーンを厚くするから。ベリチックなんかは、ああいうシーンでよく「ラン」をコールし、なおかつ大きくゲインしてた。

 もっとも、「イカれたコール」の総統ハーボーがどういうコールをひねり出すのかは私には分からん。だって、イカれているから。フリーフリッカーとかしだすかもしれん。意味が分からん。

 でも、こういう「コール云々」の話になるのはシーズン終盤って感じだよね〜〜。NFLの醍醐味、フットボールの醍醐味。

 明日のハーボーも楽しみ。

 んで、ここ最近のコルツ〜〜。

 第12週は最強ライオンズに余裕の敗戦、第13週は落日のペッツに1点差勝ち。

 で、6勝7敗でカンファレンス現在8位。はい、来た、このパターン。お得意のパターン、既視感アリアリのパターン。

 私はシーズン前に、「リチャードソンフル出場で4勝くらい」と「フラッコー出陣で6勝くらい」の2パターンを予想したけど、まさかの折衷策。んで、ここまで6勝。今週はバイ・ウィークで、残りはブロンコス、タイタンズ、ジャイアンツ、ジャガーズ。う〜む、ブロンコス以外は勝ってもおかしくない相手ばかり。3勝すると、9勝なんで多分プレイオフ。いや、厳しいか。

 まあ、プレイオフに進出しても勝ち上がる力は全く無いので、出る意味は無し。ドラフト順位が下がるだけ。それよりなにより、「バラード解任」という私の野望が、悲願が、宿願が、ばーちゃんの遺言が、遠のくばかり。

 と、こんな風に書いといて、例によって例の如く「死んでも勝て〜〜〜〜」だと思うでしょ。でも、今年はしません。いや、ほんとに負けて欲しいから。バラード解任しないと一歩も前に進まんわ。スカイドンのように動かないわ。





 はい、やりませ〜〜ん。


 ハリソンJr.様は、ここまで12試合、41レシーブ、606ヤード、7タッチダウン。タッチダウン数はともかく、う〜ん、微妙。替えるか、カイラー・マレー。

                               2024/12/8(日)   
12月8日
LAC@KC
17−19
 12月6日に中山美穂が急逝した。謹んでお悔やみ申し上げます。

 私は世代ちゃあ世代であるが、所謂「アイドル顔」は好みでないので(「ブス専」とか、ツッコまないよーに。)、そういう意味のショックはない。

 ただまあ、その全盛期、ナンシー関が「美人といえば中山美穂、中山美穂といえば美人」みたいな書き方をしていたように、往時を代表する美人タレントであっただけに、多少の感慨はある。規模は違うが、アレン・ドロンがハンサムの代表であるように、中山美穂が美人の代表である時代があった。

 「ねるとん紅鯨団」では、「好きな女性タレントはミポリン」が多かったように思う。柳葉敏郎の好きな女性タレントもミポリンだったと思う。ギバちゃん、今頃、悲嘆に暮れている事だろう。

 ちなみに、「好きな男性タレント」で多かったのは「吉田栄作」。そんな時代である。

 でもまあ、人間なんて、思わぬ形で死んでしまうもんだよね。

 まさか、風呂の扉を開けて、それから10分後くらいに死んでしまう運命とは、思いもよらなかっただろう。まさか当代一の美人タレントだった自分がマッパで死ぬことになる運命とは、思いもよらなかっただろう。

 佳人薄命。いや、ブスも等しく死ぬけどさ。

 でまあ、今回の報道で、ちょっと驚いたんだけど、中山美穂って「俳優」なのね、「女優」じゃないのね。「歌手」かはともかくとして、「俳優」って。三國連太郎じぇねんだから。

 まあ、「看護婦」とか「スチュワーデス」とかと同じ流れなんだろうけど、なんで、わざわざ分かりづらくするのだろう。ちなみに、「女流作家」とか「女流小説家」も禁句らしい。作家が「言葉狩り」するとは、世も末だよね。

 まあ、フェミニストの悲願は、この世から「女」を一掃することなので、それへのささやかな前進といったところか。「Weib」ぐらいから始まったのかな。いや、その前からあるか。まさしく、「女の敵は女」である。

 あと、最近は、この手のフェミニズム的な事を「ジェンダー」って謂うのな。あれって、「文法用語」じゃないの。ま、どーでもいいけどさ。

 この手の「女性活動」のバカらしさは、あのボーヴォワールの写真に集約されていると思う。あのタバコ咥えている奴である。

 あと、女の人は、どうして、そんなに「言葉」にこだわるのか、それも不思議。名前とか肩書とかに異常にこだわるよね、女って。「言葉」が変わったって、「現実」は変わらんのにね。いや、変わるのか、女の場合は。「言葉」が変わると「現実」が。ちょろいな、オンナって。

 って考えると、ある種の女性が執拗に「夫婦別姓」にこだわるのも分かるような気がする。

 あんなのどーでもいいって思うんだけど。それに女性だけ苗字の変更が認められている訳でもないし。私なんか、むしろ変えたいくらいだよ、人生に何回もさ。もう、とうの昔に厭いている。

 っていうか、そもそも「結婚」っていう制度、まさしく旧態依然とした制度を無くしてしまえばいいのにね。そうすれば、不倫問題はきれいさっぱり消え去るしさ、1対2でも、2対3でも、5対4でも、好きなようにセックスライフを楽しめるのにね。何故に、そんな1対1の「結婚」にこだわる。

 まあまあ、そういうセックスライフの話は別にしても(いや、別にせえ。)、女性問題の全部、とまでは云わないけれど、女性問題の多く、男女不平等問題の多くは「結婚制度」に起因しているのだから、それを捨て去ってしまえば、多くの女性問題、男女不平等問題は自然に自動的に解決してしまうだろう。

 「じゃあ。子供はどーする」っていう質問があるかもしれないが、私は、子供は全て一人残らず公共機関で育てるべきだと思う。公共機関で保育教育すべきだと思う。

 実際、「妊娠・出産・育児」というのが、男女不平等問題の根っこなのだから、それを取り除けば、ほとんどの女性問題、男女不平等問題は自然に自動的に解決してしまうだろう。まあ、真の男女不平等問題は別のところにあるのだけれど、それはまた別の話。少なくとも、社会的な男女不平等問題の多くは自然に自動的に解決してしまうだろう。

 それに、それは子供にとっても良い事であろう。「親の愛」云々って話はあるけれど、「親の愛」を受けられない子供も沢山いる訳だし、そういう点では、「幸福」かはともかく、「平等」にはなる。

 それよりなにより、経済的社会地位的な不平等は完全に解消されるであろう。あんま云いたくない事だけど、そういう不平等は確かにある。

 才能のある人は、どんな家庭に生まれても、何らかの形で出世してくるであろうが、問題は、才能がないのに家庭の出自だけで出世してくる連中である。二世タレントとか二代目社長とか二世議員みたいな連中である。

 まあ、二世タレントとか二代目社長とかはは所詮は私的な事柄なので、どーでもいいちゃあどーでもいいのであるが、問題は二世議員である。ただのボンクラなのに、政治家、それも有力政治家の家に生まれたというだけで、政界進出してくるバカが多すぎる。小泉とか安倍とか麻生とか、その他諸々である。あんなのは、政治家の家に生まれなかったら、絶対政治家になれなかった、いや、ならなかった連中である。まあ、そういうのに喜んで投票するバカが一番悪いんだけどさ。

 二世議員の問題はともかくとして、出産育児を女性から、いや男性からも解放すれば、人間の生き方は大きく変わるであろう。その結果、出生率が上昇するか下降するかは分からんけどな。

 あと、この手の「生まれる家」については、最近は「親ガチャ」なんていうバカ丸出しの言葉を使っている輩がいるが、そんな言葉を使っていたら、それこそ、お里が知れるよ。

 お前ら、教えてやるよ。本当に怖いのは「親ガチャ」じゃねえ。「自分ガチャ」だろ。「自分」がどんな人間に生まれるか、それが「自分」の人生を左右すんだよ。「親ガチャ」に成功しても「自分ガチャ」に失敗したら、不幸になるし、「親ガチャ」に失敗しても「自分ガチャ」に成功したら、幸せになるんだよ。

 閑話休題。ミポリンに話を戻す。

 私は最近テレビを全然見ないので、今回の訃報をテレビ各局がどのように報じているのかは全然分からないのであるが、中山美穂の代表作っつたら、「Be-Bop-Highschool」や「毎度おさわがせします」って事になるだろう。いや、違う?。

 で、「ビーバップ」も大概だけど、「毎度おさわがせします」なんて、今の人が見たらひっくり返っちゃうだろう。つか、今の人じゃなくても、ひっくり返るであろう。なにしろ、第1話のサブタイトルが「こんにちわポコチン」だからね。それ以降は、各自ウィキペディア等で確認してちょ。

 80年代に関しては、色々な評論がなされているけれど、私が思うに、80年代の文化を一言で表すと、それは「ふざけてる」だと思う。先の「毎度おさわがせします」も、性教育どうこう言っているけれど、要するに「ふざけてる」のである。

 80年代の文化は色々あるけれども、その代表というか、あらゆる意味で、それを象徴するのはYMOの「君に、胸キュン。」、とりわけ、そのプロモーションビデオ、ミュージックビデオだと思う。

 そうそう、あの感じである。あれが80年代そのものである。非常に技術的に優れた人たちがクダラナイ事をやっている。そのふざけた感じが80年代なのである。ビートたけし、鳥山明、皆同様だろう。

 「くだらねーなー」っていうのは当時のビートたけしの口癖だったけれども、そういうクダラナイ事をバブル期特有の大金をかけて作っていたのが80年代の文化なのである。まさしく、「ふざけてる」のだ。「毎度おさわがせします」もその一つだったろう。「刑事ヨロシク」とかもね。そうして、欽ちゃんとかドリフターズとかは、その「ふざけてる」感じに着いて行けなくなったのである。彼らは、はるかに「マジメ」だったのだ。

 そうして、この「ふざけた」感じは90年代に入りピタリと消えた。尾崎豊をマジメに聴くような連中が現れたのである。私はビックリした。尾崎豊そのひとは80年代の人だけど、売れたのは90年代以降である。80年代では、尾崎豊ははっきりギャグだった。ごくごく一部の人を除いて、「マジメに」受け取っていなかった。「マジメに」聴いていなかった。いや、当の尾崎豊ですら、「マジメに」作っていなかったのかもしれない。そうして、そのややこしい相克に悩んでいたのかもしれん。売れだした、社会的に認められたのは、90年代以降、死後の事である。尾崎豊は「早すぎた90年代」だったのかもしれない。

 こういう「尾崎豊」を受け入れていく社会の変容に私は驚いた。そのほかだと、槇原敬之とかミスターチルドレンとか、80年代にどっぷり浸かった私には、まるで分らない文化だった。そうして、それは今でも続いている。

 いつの時代にも擬古主義、懐古趣味というのはあって、例えば「60年代に戻りたい」「70年代に戻りたい」って声はあった。でも、私は80年代に戻りたいとは思わない。80年代というのは、おそらく、戦後史上、いや日本史上、現時点における、最高の文化的頂点を極めた時代、また世界文化史にも記録される時代であるとは思うが、その時代に私は戻りたいとは思わない。あんなクダラナイ時代、もう懲り懲りである。それは私だけではないと思う。それが80年代を生きた人間の矜持であろう。

 私の人生は総じて「ツイている」方だと思うけれども、その中でも最大の幸運は80年代が丸々私の十代だったという事である。これは本当にツイていた。その時代を生きた人には大変申し訳ないけれども、これが例えば2010年代が丸々私の十代だったら、目も当てられなかったと思う。スマホをスワイプしているだけの青春なんて、真っ平御免だ。

 今年は鳥山明を始め、スキラッチ、中山美穂と思わぬ人の訃報が相次ぎ、それを機に色々書いた、いや、今でも書いている。来年、どんな人が死ぬかなあ、楽しみ。コラコラ、そういう事を言うんじゃない。そういう事を言うと、自分が死ぬからな。まあ、死んでも未練はねーけど。

 さて、本題のNFL、チャージャーズ戦である。

 今季一番楽しみにテレビ観戦したゲームであったが、17−19でチーフスに敗戦。

 スコア的には17−19なので、「惜敗」と云えなくもないが、私の目にはそうは映らなかった。「完敗」だと思う。

 まあ、フットボールに限らず、最終スコアというのは、ゲーム内容や両チームの実力差をそのまま表さない事が多いけれども、このゲームはその典型である。

 点差的には2点差であるし、展開的にはチャージャーズに勝ちの目もあったと思うけど、実力的には、はっきりチーフスが上である。ゲームを終始コントロールしていたのはチーフス、リードやマホームズだったと思う。

 チャージャーズはオフェンスの主力にケガ人が出て、その点は差っ引いて考えないといけないが、私の不満はオフェンスより、むしろディフェンスである。

 強力チーフスオフェンスを19点に抑えたのだから上出来と言えば言えなくもないけど、フットボールというゲームで真に評価すべきは、評価に相当する場面、ここぞという場面で、攻守ともに何が出来るか、出来たか、出来なかったか、である。試合全体、あるいはシーズン全体の得失点はほぼ意味がない。大雑把な目安でしかない。

 このゲームで云えば、それは無論、チーフスの最終ドライブであろう。こういう場面でビシッと止めることができるのか、あるいはサクッと得点できるのかがプレイオフを駆け上がっていくチームと敗退してしまうチームの違いである。

 そうして、このゲームでは、チーフスが時間をきっちり使い切ってFGで逆転サヨナラ勝ち。まあ、差が出たよね。これがそのまま両チームの実力差、現時点だと思う。

 私はチャージャーズ事情には昏いので、その理由はさっぱり分からないけれども、傍から見た感じだと、もうちっとビッグネーム、つまりボサとマックの御両人をうまく使う、というか目立つようにすべきだと思う。このゲーム、それぞれ1サックと0.5サックを挙げているけれども、正直あんまり目立ってなかった。

 ちなみに、今季の成績は、ボサが10試合出場4サック、マックは12試合出場5サック。ボサが御年29歳、マックが御年33歳で、決して若いとは言えないけれど、老け込む年齢でもない。実際、昨季のマックは17サック(涙のコルツファン)。

 もうちっと、この御両人が目立っても良いと思う。これは当人たちの能力やコールというより、むしろスキームの問題かと思われる。一考を促す。

 んな感じ。

 あと、個々人についての感想は、やっぱりクサヴィエ・ウォージーかな。この試合、プチ活躍してた。ただ、この試合を含めて、数試合を私は見たけれども、その限りでは「バカっ速」って感じではない。デショーン・ジャクソンやタイリーク・ヒルとは全然違う。スタッツ的にも、今季ここまでロングが54ヤード、アベレージは11.8ヤード。快速ディープスレッドつう感じではない。

 もっとも、ジャクソンもヒルも一年目は「そこそこ」程度の活躍だったので、本格始動は来年以降かな。今季はルートランニング修行中といったところか。良かったな、ビルズ諸君。

 そのウォージー同様、「バカっ速ドラフト一巡」という意味では、懐かしのジェーレン・リーガーさんをチャージャーズで発見。2020年ドラフトで今季5年目、そうして早4チーム目。すっかりジャーニーマン。ジャスティン・ジェファソンの一つ前で指名された男の真価が発揮される時はいつ。親父も心配しとるぞ。

                                      2024/12/15(日)

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