2024年 9月 |
シーズン展望 | 過日、アラン・ドロンが死んだ。その一方を聞いた際、というか読んだ際の私の第一声は(いや、別にホントに声を出している訳じゃないよ。)、 まだ生きとったんかい、われ〜〜〜。 であった。 「まだ生きとったんかい、われ〜〜」シリーズ(どんなシリーズ?)は、他にも色々あるのであるが、その第一号は井伏鱒二であった。90年代中頃、今調べてみると1993年の事であるが、その一方を知った際の私の第一声は(これはホントに発声した。)、まさしく、 まだ生きとったんかい、われ〜〜〜。 であった。 井伏鱒二の場合は、太宰治との一件があり、その太宰が戦後すぐに死んで、というか入水心中(時代やね〜。)しているので、ものすごく古い人みたいなイメージがあったのであるが、冷静に考えてみれば、決しておかしくない年齢なのであった。享年95歳。 で、今回はアラン・ドロン。スティーブ・マックイーンが、私の子供の頃に死に、そのマックイーンと同時代の人というイメージだったので、とっくの昔に死んでいるのかと思っていたら、でなければ100歳を超えているのかと思っていたら、享年88歳。まあ、確かに死んだという話も聞いたことはなかったしね。まだ、ご存命だったのね。ご冥福をお祈りいたします。 でも意外に若いんだな。88歳自体は若くはないけれど、完全に100歳超えていると思っていた。 調べてみると、スティーブ・マックイーンは1930年生まれで1980年没。アラン・ドロンは1935年生まれで2024年没。アラン・ドロンの方が5歳と下だったのね。クリント・イーストウッドは、マックイーンと同じ、1930年生まれ。ご存命。 ちなみに、そのスティーブ・マックイーン、今調べたついでに知ったのであるが、なんとインディアナ州出身。ちなみに、ジェームズ・ディーンとマイケル・ジャクソンとザ・ファンクスもインディアナ州出身。なかなか豪快なメンツ。 ザ・ファンクスはともかく、スティーブ・マックイーン、ジェームス・ディーン、マイケル・ジャクソン、これ、「アメリカ三大スター」って言ってもいいくらいなんじゃないの。これを超えるメンツは、なかなか思いつかない。いや、「世界三大スター」でも、そこそこいいとこ行くと思う。「男の中の男」と「夭折したアイドル」と「天才歌手」、なかなかの組み合わせ。 ちなみに、フランク・シナトラはニュージャージー州出身。エルビス・プレスリーはミシシッピー州出身、マリリン・モンローはカリフォルニア州出身。ちょっと格は落ちるが、スティービー・ワンダーはミシガン州出身、レイ・チャールズはジョージア州出身。 さて、そんなインディアナ州民でもなければ、アメリカ人でもないアラン・ドロンであるが、私の子供の頃は、申す迄もなく、「カッコイイ」の代名詞であった。今風の言葉で言うと「イケメン」、ちょっと古い言葉だと「ハンサム」「二枚目」、それらの代名詞であった。 当時、「カッコイイ」といえば「アラン・ドロン」、「アラン・ドロン」といえば「カッコイイ」だった。事実上、「アラン・ドロン」と「カッコイイ」は同義語だった。「アラン・ドロンのようだ」といえば、ルックスという点では、至上の誉め言葉であった。実際、身近で使われているのを聞いた事がない。この言葉を使用するためには、「町一番」とか「学校一」のレベルでは全然ダメなのだ。芸能人の誉め言葉として使われていたと思う。それこそ、草刈正雄あたりが「和製・アラン・ドロン」みたいに評されていた。 そのくせ、幼い私、10歳以前の私は、アラン・ドロンの映画どころか写真も見たことが無かった。それでも、「アラン・ドロンはカッコイイ」は知っていた。そう刷り込まれているのである。なんなら、今調べて、その美貌を初めて知ったくらいである。確かに、スッゲーカッコイイわ。ちなみに、私の知る限り、この世で最もカッコイイ人間は小林旭(ご存命!!!)。 そうして、私が高校生くらいになると、「カッコイイ」あるいは「イケメン」の代名詞はトム・クルーズやディカプリオへと移行していったのであるが、80年代半ばくらいまでは「カッコイイ」の代名詞は「アラン・ドロン」であり、「アラン・ドロン」が「カッコイイ」を独占していた。占有していた。ちなみに、インディアナ州出身スティーブ・マックイーンの代名詞は「男の中の男」「タフガイ」だった。まあ、女の憧れる男性第一位がアラン・ドロンであり、男の憧れる男性第一位がスティーブ・マックイーンだったのである。 まあでも、21世紀に入って、以前どこかで同じようなことを書いたけれども、そういう「大スター」、「世界的大スター」はすっかりいなくなってしまった。影を潜めた。 理由は、無論、映画やテレビといったマスメディアがすっかり力を失ってしまったためである。実際、その訃報の大きさでいったら、本国フランスの状況はよく分からないけれども、世界的には、少なくとも日本では、アラン・ドロンより鳥山明の方が上だったよね。追悼ブームも全然なかったし。 今の人たち、それこそ平成キッズには、こういう「世界的大スター」、それこそアラン・ドロンやスティーブ・マックイーン、あるいはビートルズやマイケル・ジャクソンらの当時の世界的位置は分かりずらいと思う。「カッコイイ」の代名詞も「タフガイ」の代名詞も、今はいない。 まあ、そんなもん、無くても全然いいけどさ。 つかまあ、そういう「世界的大スター」もあらかた鬼籍に入ってしまったよね。最後の大物といったら、それこそポール・マッカートニーくらいか。ミック・ジャガーやマドンナは、やや小粒だもんな。 さ〜てと、コルツについて書くか。 ここ数年毎度のことであるが、シーズンに向けて私のテンションは低い。白木みのるよりも低い。超低空飛行である。まあ、はっきり言って、バラードが解任されない限り、コルツ浮上の目は無いと思っている。 まあでも、一応書くか。 で、例年通り、ポジションごとに俯瞰したい。 【QB】 とりあえずリチャードソン。昨季は、結局のところ、そのQBっぷりを私は見ていないので、なんとも判断しようが無いのであるが、このサイトを見ている方ならご承知の通り、私はこの手のタイプのQBが嫌いである。あまり期待していない。まあそれでも、良い結果が出れば、諸手を挙げて歓迎だけどさ。 控えは、ミンシュー君では全然なく、ジョー・フラッコーさん。また、他チームの大物ベテランQB連れてきた。今度は、曲がりなりにもスーパーボウル覇者である。しかも、昨季はブラウンズを支えている。 まあ、ある意味、リチャードソン怪我⇒フラッコーさん登板⇒そこそこ勝ってプレイオフ戦線に残る⇒バラード残留、つうのが、結構ありがちなシナリオなのであるが、それは私にとって最悪のシナリオである。 リチャードソン無事シーズン完走⇒でも、4勝止まり⇒バラード解任、が私にとって理想のシナリオなのであるが、なかなか厳しいだろうなあ。 あと、まさかのスーパーボウル制覇⇒バラード、他チームに栄転、つう奇跡のシナリオもなくはないが、それは来季ホワイトソックス優勝より低い確率だろうなあ。 3人目はエーリンガー。何気に、ルーキーイヤーから丸々3年間、3人目を死守。そうして、4年目突入。意外に珍しいキャリア。バックアップとしては優秀なのか。 【RB】 盤石。トレイ・サーモンさんに期待。キャリアイヤーになるかもね。 【レシーバー陣】 無。もはや無の境地である。何も言うまい語るまい。アンソニー・ゴウルドの足が、もしかして速いことを祈るのみ。 【OL】 盤石、あまりに盤石。ただ、ライアン・ケリーは、コルトとしてはラストイヤーかもしれん。 【DL】 ライアツ・ラツに期待かなあ。もう、それしかないわい。お願い10サック。 【LB】 なんか知らんが、チームはザイール・フランクリンに万全の信頼を置いている模様。なにしろ、今オフ、3年3126万ドルで契約延長してんだもん。意味わからん。 E.J.スピードもそこそこ止まりっぽいしなあ。レオナルドやオケレーケ級とはとても思えん。ちょっと期待していたロニー・ハリソンはカットされとるし。 【DB】 無名ではあるが、そんなに不安はない。ブラックモンは怪我しないよーに。あと、ムーア先輩。今季もビッグプレイ、よろしく。 【スペシャル】 盤石、あまりに盤石。 つー訳で、パスオフェンス以外、不安はないのであるが、ただ結局、フットボールの場合、それが全てなんだよね〜。 なので、今季も、シーズン当初はゲームパスに入会しないのであった〜〜。昨季分も、無事退会出来たし。コルツの調子にもよるが、後半、貧乏セットになった時にでも入会しようと思います。前半はG+のみの守りの姿勢。でも、そのG+、9月はコルツの放送、ねんだよなあ〜。無念。 つう訳で、今季もコルツの記事は控えめになることが確定なのであるが、代わりにWOWOWでペイサーズ観てみっかな。そうして、実に10年ぶりに記事を書いてみようと思う。ポール・ジョージは、まだ生きてんのか、元気なのか。ヒバートは。 コルツに関しては、そんな感じであるが、NFL全体だと、まずはやっぱ、クサヴィエ・ウォージーの足がホントに速いかのかって事である。ホントに速かったら、KC3連覇確定だよ。マホームズ様、ブレイディ超え確定だよ。早速、初戦がG+で放送されるので、要チェックや〜。古ッ。 あとは、やっぱりハーボーかなあ。これはかなり楽しみ。ミシガン大のゲームは、昨季チラッと見たのだけれど、もう見た瞬間で、ハーボーのゲームだって一発で分かる。ハーボーのゲームはハーボー印が刻印されている。 ただ、チャージャーズはハーバートが2度目の契約という事で、キャップヒットは苦しくなる一方である。そこをハーボーがどう乗り切るか。操舵するか。それも楽しみ。 でも、9月にG+で放送は無し。残念無念。 あとは、やはりアーロン・ロジャースさん。いつケガをするのか、それが楽しみ。コラコラ。それが心配です。 あとはやはり何といっても、 マーヴィン・ハリソンJr.様だろうーがー、それしかね〜〜〜〜。 こんな感じであるが、最後に縁起モン、やっとくか。 死んでも勝て〜〜〜。 暑さが和らいできた。2024/9/6(金) |
開幕週 あれこれ |
月が三重に見える。10年くらい前は、五重八重、何なら十重くらいに見える時もあったのに、今は三重。目が良くなったの?。それとも老眼?。 街を歩いていると、ババア、おっといけない、妙齢の女性とすれ違うことがある。もしかすると、自分より年下なのではないかと思い、ぞっとする。 一週間くらい前のニュースに、シンガポールで日本人に性犯罪の罰として「ムチ打ち20回」が確定したというものがあった。 その報を受けた「ヤフコメ」に、「日本でも性犯罪はより厳罰化すべき」という意見が多数あった。 「ムチ打ち20回」が「厳罰」か否かはともかくとして、こういう「犯罪の抑制には厳罰が効果的」という見解が、未だに多数あるというのは、全く以って不可解である。なぜなら、「厳罰」と「治安の維持」には、多少の例外を除くと、何の因果関係も無いからである。 単純に考えても、例えば、「日本は治安が良い」とはよく言われるけれども、とりたてて「厳罰な国家」ではないであろう。 一方で、「アメリカは治安が悪い」とはよく言われるけれども、こちらもとりたてて「軽罰な国家」ではないであろう。州によって、未だに「死刑」は存続しているし、仔細に見れば、色々な違いはあるであろうが、おおよそで見れば、日本もアメリカも「罰の度合い」は大差ないであろう。 また、ヨーロッパも多くの国々で「死刑」が廃止されているが、だからといって、特別治安が悪いという話は聞かない。日本ほどではないにせよ、平均的な治安であろう。 また、共産圏や旧共産圏やイスラム圏は、細かく調べた訳ではないけれど、一般的なイメージでは、日本や欧米に比べれば、罰は重い。これらの国々は、先に挙げたシンガポール同様、性犯罪には厳しいし、どこぞの国では泥棒は手を切り落とされてしまう。 だからといって、これらの国々が欧米諸国に比して、「治安が良い」とは聞かないし、日本に比べれば、ほとんどの国が「治安は悪い」であろう。 また、この事例はあまり出したくないけれども、所謂「不良学校」と「優等生学校」では、一般的には「不良学校」の方が校則は厳しい。でも、ワルさやヤンチャをする事の多いのは、「不良学校」の方であろう。 という訳で、「罰の重さ」と「治安の維持」には何の因果関係も無いという事は、経験的には明白だと思う。 更にちょっと考えてみれば、そもそも人間が何らかの犯罪行為を犯す際に、「罰の重さ」を考慮するのは、スリとかヤクザ屋さんのようなプロの犯罪者だけであろう。 彼らは、「罪の重さ」を考慮して犯罪行為をするかもしれない。例えば、「前回の服役から、まだ1年経過していないので、ここでまた捕まると、刑期が伸びてしまう。あと3日待とう。」とか。あるいは、「今ここでパクられると、あの裁判所のあの裁判官で、あの刑務所に送られて、そこの刑務所長はどうこう。」とか「毒殺より刺殺の方が罰が重いので、刺殺にしとくか。」(いや知らんけどね)とか、である。 でも、一般の犯罪者といったらおかしいけど、素人の犯罪者、いやそれもおかしいか、つまり初犯に近い犯罪者は、「罪の重さ」なんて考慮しないよね。 その多くは「出来心」とか、先のシンガポールの事例で言うなら、「ムラムラとして」、罪を犯してしまう、つまり「前後の見境なく」犯罪行為をしてしまう訳である。「罰の重さ」なんて考慮している訳がない。 例えば、轢き逃げにしたって、「罰の重さ」を考慮、あるいは計算すれば、自首した方が様に良いに決まっている訳だけど、多くの人は「気が動転して」、あるいは「動物を轢いたと自らに思い込ませて」逃げる訳である。あるいは「逃げ切れる」と計算して逃げる訳である。「罰の重さ」なんて考慮しない、計算しない。 そもそも「罪の重さ」なんて、普通に生活している人は、まず知らない。「轢き逃げ」や「殺人」「強盗」の「罪の重さ」なんて、普通に生活している人はまず知らない。法律関係者でもないのに、そんな事に詳しかったら、かえって「プロの犯罪者」と疑われてしまうであろう。 また、先に挙げた「突発的な犯罪」のほかに「計画的な犯罪」、例えば「計画殺人」的なものもあろう。でも、その犯罪者らは、「捕まらない」計画は立てても、「罰を軽くする」計画は、まず立てないであろう。まあ、全く無いとは言えないだろうけどさ。 あと、「罰の重さ」を考慮するであろう、数少ない犯罪としては「脱税」はあると思う。実際、「罰の軽い」所に脱税者は集まるからね。どことは言わんけど。そういった意味では、「脱税」は「厳罰化」が効果を発揮する数少ない犯罪といえるかもしれない。 また、「飲酒運転」なんかも、「厳罰化」が奏功した犯罪といえるかもしれないが、こちらはテレビ・新聞等々が「飲酒運転」の恐ろしさをこれでもかこれでもかと報道した結果、その恐ろしさを世の多くの人々が知った結果だと言えるであろう。「厳罰化」の効果ではないと思う。「飲酒運転」くらいで、人生を失いたくないもんね。 まあ、勿論、この「飲酒運転」に限らず、ありとあらゆる犯罪、「ネコババ」とか「立ちション」等々の軽犯罪まで含めた、ありとあらゆる犯罪に「死刑」を連発、それもほとんど裁判無しで「死刑」を連発しちゃえば、「犯罪」はかなり「抑制」されるであろうけど、そんな社会、嫌でしょ。「治安」と引き換えに、常にビクビクしているような生活、そんなの嫌でしょ。しかも、それでも「犯罪」は「撲滅」しないしね。 つう訳で、「厳罰化」に「治安の維持」の効果はほぼ無いのであるが、百歩譲って、それでも「厳罰化」に「治安の維持」の効果を与えたいというのなら、先に述べたように「罰の周知徹底」、すなわち「見せしめ」をするべきであろう。「飲酒運転」の減少も「罪の周知徹底」だしね。 では、「見せしめ」とは何かといえば、それは「恐ろしい罰をはっきり現実的に見せること」である。そのためには、まず現行の死刑のような、首吊りとか電気ショックのような極めて楽な、精神的にはともかく、肉体的には極めて安楽な、所謂「楽に死ねる」方法では絶対ダメである。実際、世を儚んだ人が、「死刑になるために」重大犯罪を犯しているくらいである。 死刑の方法は「車裂き」とか「火炙り」「串刺し」のような、それを見た人が「いや、あれだけは絶対ダメだ」と思うような残酷刑でなければならないであろう。 しかも、当然、見せなければ意味はない、現行の死刑のように、誰にも知られない、執行者すら自身が執行したかも分からない、何なら本人すら気付かないような方法では絶対ダメである。それこそ、毎週日曜日午後7時から全国放送すべきであり、それを観ないものは、それこそ罰するべきであろう。 また、こういうものは、当然、子供の方が「効果的」である訳だから、それこそ道徳の時間に視聴を必須すべきであろう。 そうして、勿論、その映像はロングショットでは絶対ダメで、数台のカメラとマイクで受刑者の苦悶の表情、引きちぎられる四肢、その断末魔をきっちり放送、録画録音すべきであろう。 それくらいすれば、確かに、犯罪の抑制には幾ばくかの効果はあろう。もっとも、それでも犯罪は撲滅しないけどね。 しかも、この手の「見せしめ」は、思わぬ逆効果になることもある。 カミュがどこかで書いていたと思うけど、その昔、猛烈な「死刑賛成論者」がいた。それこそ、何でもかんでも「死刑」連発のがきデカみたいな人がいたらしい。で、その人の近所でギロチンによる「死刑」が公開されることとなった。それをその人は、それこそ喜び勇んで、意気揚々と見物に行った。で、帰宅後、その人は二度と「死刑」を口にしなくなったという。 ヨーロッパで「死刑廃止」の進んでいるのには色々な理由があるだろうが、ひとつにはこうした理由もあったと思う。「ギロチン」は最も残酷でない、死刑囚に最も優しい死刑方法として考案されたのにね。 ちなみに、そうした「見せしめ」的な厳罰とは別の厳罰もあり、おそらく、こちらの方が犯罪の撲滅には、より効果的であろう。 よく外国人が「日本は治安がいい治安がいい」と絶賛するが、これにはちゃんと理由がある。それは「相互監視」である。日本はこれを200年以上実施して、治安が良くなったのである。すなわち江戸時代である。 「相互監視」とは何かというと、要するに、その犯罪の実行者ではなく、その犯罪の実行者の近親者を罰するというものである。例えば、ある人が放火なり殺人なりの罪を犯したら、その妹とか、兄とか、父親や母親、あるいは職場の上司、同僚などが罰せられるという、聞くも恐ろしい制度である。 この実例は山ほどあるけれど、有名なところで言えば、坂本龍馬の脱藩であろう。この罪を償うために姉のお栄が自害したのである。 江戸時代というのは、社会の最低構成単位が、現行の日本や多くの国々のように、「個人」ではなく「家」あるいは「ムラ」であったために、ある「個人」の罪は「家」あるいは「ムラ」の罪となってしまうのである。したがって、その罰は「家」や「ムラ」が受ければよいという事になってしまうのである。 すなわち、「山本茂」さんが殺人を犯したら、それは「山本茂」さんの罪ではなく、「山本家」の罪となってしまうのである。したがって、その罪を滅ぼすためには、「山本家」が罰せられれば良いという事になり、「山本花子」さんや「山本利一」さんが罰を受けることで許されてしまうのである。 こういう制度が社会に何を産み出すかといえば、それはただ一つ「相互監視」であろう。「家族」や「村人」が罪を犯したら、自分が罰せられてしまうのだから、それらの行動は常に監視しておかねばならない。悪の萌芽は早めに摘み取ってしまわないと、自身が罰せられてしまうのである。 この証拠はいくらでもある。 例えば、「挨拶」という習慣である。都会ではだいぶ薄れてしまったけれども、田舎では今でも道端ですれ違った人と「挨拶」を交わす。これは、一見すると、「美風」のように感ぜられるけれども、何の事はない、怪しい人間ではないか、相互に監視しているのである。顔色を窺っているといっても良いかもしれない。 また、これも今では大分廃れてしまったけれども、田舎には、近所に引っ越してきた人に、手土産をもって、訪問する習慣がある。これも、勿論、「親交を深める」という目的もあるだろうが、真の目的は「怪しい者がムラに引っ越してきたのではないか、確認するため」である。 また、かつて、池波正太郎が、どこぞの雑誌でインタビューにこう答えていた。インタビュアーは、得意の質問だったのだろう、こう質問した。「池波先生は、さぞかし江戸時代に引っ越ししたいでしょうね。」。すると、池波正太郎は言下に「ヤだね。」。インタビュアーはキツネにつままれた感じで、「どうしてですか。」。池波は「だって、江戸時代は相互監視社会だよ。そんな恐ろしい社会で生きてけないよ。現代がいいに決まってるよ。戦後が一番だよ。」 まあ、そりゃそうだよね。そんな暗い社会、真っ平御免だよね。もっとも、多くの時代小説や時代劇は、この「相互監視社会」の様相を絶対描かないけどね。池波正太郎のように、知ってて描かないならともかく、知らずに描かない作家もいるからね。そうして、それをしらない、上記のインタビュアーのような読者は、ああいう呑気な質問をしてしまう。 ちなみに、そうした「相互監視社会」、人の顔色を伺う、あるいは他人の視線を常に気にするという社会、というか習慣は、当時、外国でも知られていたらしく、モンテスキューだかモンテーニュだかが、その著書で触れている。曰く、「日本に刑罰は必要ない。なぜなら、日本の武士は、疑われた瞬間、切腹してしまうからだ。」日本の武士、つまり侍の過度に体面を気にするという文化、あるいは風習は、江戸時代の「相互監視社会」よりもたらされたものであろう。それ以前の日本人には、見られぬ風習である。 では、なんで江戸時代が、そういう「相互監視社会」になったのかといったら、理由はただ一つ、その前の時代が、「モノは盗む、女は犯す、男は殺す」の戦国時代であったからであろう。今のアメリカなんか、問題にならないくらい、「自由な」社会だったからである。 そうして、そういう社会に、ほとほとイヤ気がさした徳川家康、というか、ほとほとイヤ気がさした多くの日本人の気分を察して、徳川家康が、ああいう制度を作っていったのであろう。とにかく治安第一、治安のためなら全てを犠牲にする、それが江戸時代であり、徳川幕府の基本理念、最重要政治課題だったのだと思う。天下泰平というのは、そういう事である。 そうして、それは「黒船」が襲来するまで、つか実際は寄港程度だけど、ほぼ完全に達成されていた。池波の嫌がるように、非常にクライ社会だったろうけどさ。 でもまあ、この恐ろしい制度が、今の日本人にも、それこそDNAレベルで染み付いてんだよね。世界各国の「治安に悩んでいる」皆さ〜ん、「相互監視社会」を採用してみたらどうですか〜〜。「銃規制」より、よほど効果がありますよ〜〜。「銃規制」より「自由規制」ですよ〜。「神の目」より「人の目」ですよ〜。 でまあ、今ここでは、死刑とか、それに類するような厳罰について語ってきたけれども、もう一つのメジャーな、というかポピュラーな刑罰は、「禁固」とか「懲役」というよな、所謂「刑務所にぶち込む」であろう。 これについては、サドが面白いことを言っていて、曰く「刑務所は無意味だ。無意味どころか、逆効果だ。なぜなら、悪い奴を悪い奴と混ぜたら、より悪くなってしまうからだ。悪い奴こそ善人と混ぜなければならぬ。」。 全く以って、その通りであろう。一部の例外を除けば、刑務所送りにされた人間は、より悪くなって帰って来るだけであろう。所謂「箔がつく」である。 また、その「一部の例外」は、そもそも刑務所に行かなくたって、「改心」「罪を改める」ような人達なのであるから、「更生施設」としての「刑務所」は無意味、無価値という事になろう。サドの言う通り、「逆効果」、「より悪を強化する場」にさえなっている。所謂「ムショ帰り」って人達だよね。 実際、そういう「悪人」達こそ、「善人」と交えて生活することにより「更生」の可能性は高まると思う。「正しい生き方の方が、得をする」という事を知れるからだ。 もっとも、じゃあ、誰が彼らを預かるかとなれば大問題になるよね〜。凶悪殺人犯と同棲したい人なんて、まずいないからね〜。ここは、宗教家や政治家の出番になるんじゃないかなあ〜。だって、彼らは自身が「善人」であることをアッピールしている人達なのであるから。 ちなみに、ここで「悪人は善人と生活を共にすることで、更生する」みたいなことを書いたけれども、例外はある。コトは簡単ではないよ。 かつて、アメリカかどこかで、凶悪犯罪者の息子を、どこぞの司祭だか牧師だかの家庭で育てるという、云わば「社会実験」を行ったことがあるらしい。 で、結果どうなったかというと、4歳5歳くらいから、盗みや暴力が始まり、15歳くらいには、見事立派な凶悪犯罪者、犯罪常習者に育ったという。その家庭の教育が悪かったという説もあろうが、その家庭の娘、実の娘は、見事イイ子ちゃんに育ったというのだから、教育は関係なかったって事である。 ちなみに、この話にはオマケがあって、その息子が刑務所送りになると、そこで実の父親と再会、その父親は一目、「俺の子だ」と分かったらしい。血は育ちより濃しって事だねえ。 つう訳で、「刑罰」について色々書いてきた。そうして、「残虐刑」や「相互監視」のような極端な「重罰」や「制度」を除けば、「刑罰」には「治安維持」や「犯罪抑制」の効果はほとんど無いと書いた。しかも、「刑罰」には逆の効果もあると思う。すなわち、「犯罪促進」の効果である。しかも、それもバカにならない。 世を儚んだ人が、自殺する勇気もなく、楽に死ねる方法として、「死刑」を選び、「死刑」になるために「凶悪犯罪」を実行するなんていうのは、よくある話だし(いや、「よく」は無いか)、また、生活に困窮した人が「三食」と「寝床」を求めて、それなりの犯罪に走ってしまうなんていうのは、それこそよくある話である。これらは「刑罰」が犯罪を促進している事例であろう。「死刑」や「刑務所」が無ければ、こうした「犯罪」は発生しなかったのだから。 「じゃあ、オメーに『死刑」や『刑務所』に代わる、優れた『刑罰』や『犯罪抑制策』があるのか」と問われても、そんなの無いけどね〜。難しいよね〜、「罪と罰」って。 さて、NFLの開幕である。 と、その前に、これ昨年、というか、ここ数年グチっているけれど、今年もグチる。云わば「完全版」である。 ゲームパスなあ、なんで「チームごと」や「1試合ごと」に売らないんだよ〜〜〜。 いやまあ、私だって、3万円ぐらい払うお金はあるよ。そこまで貧乏じゃないよ。でも、今の私なんて、はっきり言って、コルツにしか関心ないんだから、「コルツセット」なら1万円ぐらいで買うよ。あるいは、1試合500円ぐらいなら全然買うよ〜〜。 なんでシーズン丸ごと37200円なんだよ〜。あるいは1週2180円なんだよ〜。 ちなみに、昨年までは5ヶ月分割くらいだったのに、今年からは12ヶ月分割になっていて、ちょっと安くなってる風を装っている。ウィンドウズのOneDriveも同様だけど、こんな商法に騙されちゃう奴いるの?。今のアメリカ人って、そんなにバカなの。 まあまあ、それはともかく、シーズン全部見たい人って、いる?。しかも、映画やドラマと違って、スポーツの場合はリアルタイム視聴に価値のあるコンテンツである。すると、木曜日ゲームに1試合、日曜日に3試合、マンデーナイトの1試合、計5試合しかリアルタイム視聴はできないんだぞ。まあ、海外ゲームとか、シーズン終盤の土曜日ゲームや変則日程も加算すれば、も少し増えるかもしれないけど、にしたって、全ゲームリアルタイム視聴は不可能である。 いや、無理やりモニター5台とか画面5分割とかすれば、不可能ではないかもしれんけど、そんなの訳分かんないぞ。私も、かつて一度、4分割を試した事があるけど、収拾つかなかったぞ。点差も分からん。 まあ確かに、リアルタイム視聴に拘らなければ、全試合好きに見れるという事で「お得」なセットなのかもしれぬ。実際15年くらい前の私、NFLに熱狂&熱中していた頃の私ならば、「おお、神のようなサービスだ。」なんつって、聖水のような涙を流しなら、加入していたかもしれん、いや加入していた。 でももう、そんな熱中&熱狂、今の僕にはないんだもん。コルツのゲームさえ見れれば、いいんだもん。なんなら、テイラー様の走りだけ見れれば、いいんだもん。せいぜい、コルツと、なんか面白そうな試合を1試合見れれば、いいんだもん。だとすると、私の1試合500円計算では、週1000円。プレイオフをG+で視聴するとすれば、レギュラーシーズンの18週のみ。18000円。37200円は高い、高すぎる。 リアルタイム視聴を4試合ぐらいするのなら、恐らくトントンだろうし、そもそも、私の1試合500円換算が是か非かという問題もある。100円だっていう人もいるだろうし、1000円だ2000円だって人もいるだろう。まあ、でも、私はネット視聴で1試合1000円は払えん。1000円をコルツのネット視聴に使うなら、もっとエロイ事に使っちゃう。そっちのが有意義。 まあまあ、価格的にいくらかはともかくとして、何故に「チームごと」「試合ごと」に販売しない。更には、時間単位、すなわち「分刻み」「秒刻み」で販売しない。 いやまあ、これが「技術的に難しい」っていうのなら分かるよ。例えば、これがテレビだったら、衛星放送やケーブルテレビは「局ごと」に販売しているけど、「番組ごと」の販売は行っていない。こちらも、PPVみたいなのはあるから、「番組ごと」も可能なのかもしれないけど、なかなか煩わしいので、していないのであろう。契約してからのタイムラグみたいのも、未だにあるしね。 まして、これが地上波だったら、「局ごと」「番組ごと」の販売は、不可能でないにしても、技術的人事的に、かなり厳しいであろう。つかまあ、放送の受信自体には、今でも「金銭の授受」は介在してないしね。NHKが「受信料」という形で、事実上の人海戦術で徴収しているのみである。民法は野放しである。 つう訳で、テレビ・ラジオ等では、「局ごと」「番組ごと」、更には「視聴時間ごと」の販売は、技術的人事的になかなかに難しいだろうが、ネットなら可能だろうがよ〜〜。お茶の子サイサイだろうがよ〜〜〜(死語)。 実際、映画やドラマ、アニメなんかの動画配信は、「作品ごと」あるいは「一話ごと」に販売しているんだから、何故にゲームパスで、それが出来ん〜〜。 それとも、マーケティング的に、こういう所謂「サブスクリプション」的な売り方の方が、営業利益的に効果が高いみたいな研究結果が出てんの。「個別売り」より「まとめ売り」の時代なの。懐かしのガンプラ抱き合わせ販売が、マーケティング的には正解なの。ガンプラという名のイデオンを売る方が正解なの。ザクという名のガンガ・ルブを売る方が正解なの。 飲食店における「サブスクリプション」的な売り方といえば、すなわち「飲み放題」「食べ放題」であるが、かつて、私は飲み会の幹事をした際に、「飲み放題」の損得を調べた事がある。「飲み放題」をした場合と「飲み放題」をしなかった場合とで比較検討したのである。結論はというと、トントンでした。 まあ、当たり前だよね。店側もちゃんと計算して価格設定してくるわけだから、トントンになる訳である。お酒ごとの利益率とかまで勘案しちゃうと、色々あるのであろうが、そこまでは客の立場では分からない。額面上はトントンでした。 これも勿論、人数やメンツで事情は変わってくるであろう。例えば、呑兵衛5人なら「飲み放題」の方が断然お得であろうし、ビール1杯程度の5人だったら「飲み放題」にしない方がお得であろう。 でもまあ、力士組合みたいな特殊な集団でない限り、20人30人の飲み会だと、飲む人飲まない人は、それなりに均されちゃうだろうから、結局トントンになっちゃうんだよね。「まあ、そりゃそうだ」という経済的結論である。 いや、そりゃそうだじゃね〜〜〜。来季は「チームごと」「試合ごと」のゲームパスを用意しろ、コノヤロー。 いや、「チームごと」じゃなくていい〜〜。「コルツだけ」を用意しろ、コノヤロー。何なら、「テイラー様だけ」でいい。「テイラー様の走りだけ」でいい。それなら、5万円でも買うわ〜〜。 どうも、取り乱しました。試合の感想へと進みます。 まずは開幕戦のBAL@KC。既視感アリアリのカード。 20−27でチーフスの勝ち。 この試合の注目というか、要チェックポイントはただ一つ、クサヴィエ・ウォージーの脚。クサヴィエ・ウォージーの脚がホントに速いのかだけなのであるが、結論はよく分からん。次戦に持ち越し。 一応、第1クォーターにエンドアラウンドからタッチダウン、第4クォーターに35ヤードのタッチダウンレシーブという事で、試合内容的には活躍しているのであるが、足の速さを見せつけたという感じではない。 最初のエンドアラウンドは、まあエンドアラウンドであるし、最後の35ヤードタッチダウンレシーブは相手CBがゾーンとマンマークを間違えたみたいのだったので、あまり足の速さは分かりませんでした。 まあでも、そういうのが一人、フィールドにいるだけで、チーフスのオフェンスは、昨季とはずいぶん様変わりしていたように見えた。昨季はテイラー・スウィフトのセフレ(コラコラ)一辺倒であり、すなわちフン詰まり気味であったけど、ワイドアウトにバカッ速いと噂されるのがいれば、現時点では噂段階にせよ、警戒せざる得ず、結果として中短距離が空き、ライスが7回103ヤード、この試合のMVP級の活躍であった。 もっとも、肝心のウォージーにはボールが集まっていなかったので、ハンドやルートランニングに不安があるのかもしれない。化けの皮が剥がれるのか剥がれないのか、要チェックや〜〜。 あと、パチェコはいい。気合と根性だけの男。大好き。「The足掻く」って感じがたまらない。 あと、最後のライクリーのは惜しかったよね。開幕戦だから、あの程度の悔しがり様で済んだが、これがスーパーボウルの逆転サヨナラタッチダウンだったら、あの5ミリ、一生悔やんでも悔やみきれないものになったろうな〜。 あと、も一つ見たのはLAR@DET。既視感アリアリのカード。いやまあ、ベタは強いのかもしんないけど、先の開幕戦といい、このサンデーナイトといい、もう一工夫あってもいいんじゃねーの、このスケジューリング。 試合の方は、まあ、あまり見るべきところ、というか、語るべきところは無かったかな。ライオンズは、昨季同様、選手の個々の力は秀でているけれども、チーム全体としては何かが足りないように映った。戦略なり戦術なりで、オッと思わせるものが欲しい。それが見つからないと、スーパーボウルは厳しいかな。現行のOLが解体する前に、スーパーボウルにたどり着きたいだろうけど。 あと、ダヴェンポートは、今ライオンズにいるのな。結局、開花せずか。 あっ、試合結果は26−20で、ライオンズのOTサヨナラ勝ちです。 我らがコルツは、これから数年間に勝負をかけるテキサンズ戦。いやまあ、それはコルツも同じだけど、恥ずかしくて、とても公言できない。 で、余裕の27−29で負け。いやまあ、試合観ていないから、何とも言えないけどさ。多分、余裕の負け。 リチャードソン君は2タッチダウン。ピアースへのディープが機能したみたい。とりあえず、ディープに放り込んで、ピアース唯一の武器である「競い合いの強さ」に賭けるのも一つの戦略としてありなのかもしれん。悲しい戦略だけど。 でも、9/19、47%。う〜む。 期待の超大物新人ライアツ・ラツは、スタッツがねーー。試合出てたんかい。おかしい、ノーサックはおかしい。 個人的に気になっているハーボーはレイダース戦に10−22で勝利。 ボックススコアしか見ていないので、何とも言えんが、スタッツを見る限りは、ランベースのオフェンスで要所でパスを決めるという、いかにもハーボーなゲームだった模様。多分、時折、イカれたコールを混ぜてんだろうな。 でも、こういうのを見てっと、あんとき、ラックともどもハーバーも強奪してれば良かったなとしみじみ、いや強く思う。さすれば、ラックのキャリアも違ったものとなっていただろう。 あと、なんか、ミンシューの野郎が先発してやんな。お前、先発か、また先発か。 で、今週のハリソン様コーナー、パチパチパチパチ。 1回4ヤード。 てめえ、いい加減、この野郎、分かってんのか、カイラー・マレー。ハリソン様の数字が伸びないのは全部お前の責任だからな。ガンガン誹謗中傷するから。覚悟しとけよ。そうして、活躍したら、全部ハリソン様の御力。 2024/9/15(日)暑さが和らがない。 |
|
第2週 あれこれ |
大谷が52本塁打52盗塁を達成しましたね。 大谷については、シーズン終了後にでも触れたいと思うが、ここでは、今回のニュースで気になった事について、ちょいと述べたい。 それは、大谷の50本塁打がドジャースのフランチャイズ記録だというものである。 フランチャイズ記録という事なので、ロスアンジェルス移転後の記録という事であろうが、ドジャースのロスアンジェルス移転は1958年の事なので、かれこれ70年近く、50本塁打達成者がいなかったという事になる。ブルックリン時代は、調べてないっス。興味のある方は、ご自身でお調べください。 にしても、である。まあまあ、ドジャースの場合は所謂「ドジャース戦法」を使っていた時期もあるので、伝統的に「長打」を重視してこなかったのかもしれないけれど、にしてでもである。 なんだかんだ言って、「シーズン50本塁打」はなかなかに厳しいという事だよね。ハンク・アーロンでさえ、シーズン50本塁打は記録していないし、フィルダーがアメリカのタイガース(涙by阪神ファン)に復帰して、51本塁打した際に、ン年ぶりの50本塁打だと話題になっていた。今、ウィキペディアで調べたら、13年ぶりという事である。 翻って、日本のプロ野球界を調べてみても、シーズン50本塁打達成者は、小鶴、野村、王、落合、松井、村上の6名のみである。なんだかんだで、100年前後の歴史、現行の2リーグ制後でも70年以上の歴史がありながら、たったの6名ぽっち、2リーグ制後で計算すると、10年に一人ぐらいしか達成者がいないという事となる。 外国人は、バース、カブレラ、ローズ、バレンティンの4名のみ(誰か忘れていたら、ゴメン)。あのホームランしか能のないブライアントすら達成していないのである。 やっぱり、ホームランって打つのが難しいって事だよね。通算600号も、メジャーリーグでは少しづつ増えてきているけれど、日本では野村が達成して以降50年近い歳月が経過しているが、以降皆無。 大谷は、それに加えて、50盗塁までしているのだから、何をかいわんや。同一シーズンでなくても、ボンズ以来二人目じゃなかったかな。他にいたかもしれない。 その昔、「県立海空高校野球部員山下たろーくん」っていうマンガがあって、その主人公「山下たろーくん」の口癖は「おでは史上最高の野球部員になるど〜」だったけど、大谷はリアル山下たろーくんかもね。ルックスは似ても似つかんが。おっと、大谷ファンを敵にまわしちゃったかな。 さて、話は変わって、マイケル・ジョーダンの家、もち豪邸が1480万ドル、現行の日本円にして凡そ21億円で売却されたらしい。 もともとは2900万ドルで売りに出されていたのであるが、家のあちこちにあるジョーダン的意匠が嫌われ、まあ、それだけが理由ではないだろうけど、12年間売れず、値を下げ続けて、ついに1480万ドルで売却に成功したらしい。 いや、ジョーダンの家が21億円って、安くね。いや、市場価値は全く分からんけどさ、あのマイケル・ジョーダンの住んでいた家、つうかジョーダンの建てた家に21億円で住めるんじゃ、安くね。 ジョーダン関連のバスケットボールシューズやユニフォームがン億円で取引されているんだから、それと比較したら21億円って、安くね。大谷なら、楽々買えちゃうよ。いや、村上でも、分割払いなら、買えそうだ。3億円の7年払いなら、楽勝でしょ。 しかも、バスケットボールシューズやユニフォームは、それ自体ではただの靴や衣服であるにすぎないけれども、この豪邸は、マイケル・ジョーダンを抜きにしたって、豪邸なのだから、そう考えれば、安くね。いや、豪邸の相場は全然、ホンットに全然知らんけどな。ゲームパスの37200円ぽっちにグチグチ云ってた男だけどさ。 そういえば、同じマイケルつながりで云えば、マイケル・ジャクソンのの豪邸、つか遊園地はどうなったんだろ。次の所有者は決まったのかな。こちらは、ジョーダンの豪邸とは違って、「遊園地」として営業もできるから、収益も見込める物件だぞ。まあ、犯罪行為の現場という、「遊園地」としては致命的なミソがついているけどな。ちなみにバブルス君はまだ生きているらしい。5年くらい前の情報だけど。いや、10年くらい前の情報だったかな。ウラを取る根性は無い。自分で調べてちょ。 そのバブルス君はともかく、ハゲラッチ、もといスキラッチが死んだ。「まだ生きとったんかい、われ〜〜」シリーズでは全然ない。享年59歳。若過ぎるとまでは言えないけど、死ぬには早い年齢である。ご冥福をお祈り致します。 サッカーとは無縁のサイトで(まあ、自由なサイトだけどな。)、何故にいきなりハゲラッチの事に触れたかというと、私が唯一熱狂した、といったら大袈裟だけど、そこそこ観戦した唯一のサッカーW杯が1990年のイタリア大会であり、その大会で活躍し、得点王に輝いた選手がスキラッチであるからだ。 当時の日本では、その後の日本とは全然違って、サッカーのワールドカップなんて全然注目されておらず、確かNHKで夕方4時くらいから放送されていたと思う。多分、録画だったと思う。 しかも、その放送の解説は、王、あの世界の王貞治がやっていて、「今のスライディングは、野球でも通用しますね。」なんてやって、全サッカーファンから総スカンを食らっていた。もっとも、私はその解説(?)は聞いていないので、もしかしたら都市伝説の類かもしれない。 また、当時のナンバーでも「イタリア・ワールドカップ特集」をしていたけれども、井上ひさしがPKで勝敗の決まるゲームに関してトンチンカンなエッセイを書いていたと思う。とにかく「イタリア・ワールドカップ特集」とは思えないほど、テンションの低い「イタリア・ワールドカップ特集号」であった。まあ、仕方ないよね。当時は「サッカーライター」なんて職種は無かったしね。 ちなみに、当時、このイタリア・ワールドカップをテレビで話題にした芸能人は、私の知る限り、3人しかいない。明石家さんまととんねるずである。 その後、Jリーグブームに便乗して、石田純一を中心に「サッカー好き」を公言するタレントが、口に出すのも憚られるような虫の如く、湧いて出てくるのであるが、上記の3名は別枠である。混同してはならない。 そうして、その後、同じくJリーグブームに便乗して、このイタリア大会で活躍した選手の多くが、大挙日本、ちゅうかJリーグに押し寄せてくるわけである。リネカー、リトバルスキー、ブッフバルト、ストイコビッチ、ドゥンガ、カレカ(このブラジル代表二人は、「活躍」はしてないか。)、ハシェック等々である。あと、オシム監督も、その一人だよね。来なかったのはロジェ・ミラくらいか。あと、バッジオか。ロマーリオとバティストゥータは活躍してなかったと思う。って、今調べたら、バティストゥータは出場もしてなかったみたい。いたような気がするけどなあ。勘違いか。 あ、そうそう、この大会の最大のスターは、申す迄もなく、マラドーナ様であるが、マラドーナ様もJリーグには来てないよね。Jリーグ入り、つか、入国すら出来なかったんだけどな。 で、そういうJリーグ入りしたイタリア大会のスター選手の一人がハゲラッチ、もといスキラッチなのであるが、そのスキラッチが中山あたりに「ハゲラッチ、ハゲラッチ」と揶揄われているのを見て、私は正直悲しかった。「いや、中山、てめー。お前とスキラッチとじゃあ、格が違いすぎんだよ。中畑とマッティングリー(インディアナ州出身!!!)ぐらいの差があんだよ。気易く話しかけんな。ハゲをいじるんじゃねえ。」と憤ったもんである。 尤も、ハゲラッチもハゲラッチで、当時、ハゲを全面的に売り出し大成功していた、つかボロ儲けしていたアルシンドから、その座を奪うべく奮闘していたのではあるが。これがイタリア人の悲しさ。 また、ちなみに、私の実家の地域にはJリーグチームがあるのだが、そこにイタリア大会で活躍した選手(名前を明かしても良いのであるが、所謂「身バレ」が怖いので、その名は伏せさせてください。いや「身バレ」してもいいけどさ。私は隠れて生きていたいのです。)が入団し、なんと実家の近くの中古車センターで「サイン会」を開いたのである。それを公示するポスターを見た時、私は本当に二度見した、いや三度見した。しかも、そのポスターは「町内会掲示板」みたいのに貼られているのである。 イタリア大会を観戦していた当時、私にとって、というか、私に限らず、ほぼ全て、いや全員と断言しても良いくらいであるが、全日本人にとって、サッカーのワールドカップなんていうのは、夢のまた夢、いや夢のまた夢のまた夢くらいの距離であった。昨今流行りの言葉で言えば、まさしく「異世界」、およそ現実離れした距離にあったものである。実感としては、大リーグの、更に向こう側にあるようなものだった。バイストンウェルである。 そのバイストンウェル、いやサッカーワールド杯イタリア大会で活躍した選手が、それから数年後に、俺んちの近くの中古車センターで「サイン会」を開いているのである。「驚いた」なんて言葉では言い表せなかった。私の人生でも、1,2位を争うぐらいの「不思議」な出来事であった。まさしく「異世界転生」といっても良いくらいだった。 ちなみに、その「サイン会」には行かなかった。その選手も生では見たくなかったし、握手もしたくなかった。「夢」は「夢」のままであって欲しかったからだと思う。「イタリア大会」を観戦した時の気持ちを大切にしたかったからだと思う。 そうして、その後、ワールドカップは見ていない。理由はただ一つ、「Jリーグブーム」に辟易したからである。 Jリーグブーム以前、私はサッカーを嫌っていたわけでもないし、「サッカーは世界では人気ナンバー1スポーツなんだ。」とブツブツつぶやくサッカーファンを好ましく思っていた。トヨタカップなんかもちょこちょこ見てた。 ところが、あの日1993年5月15日、世界は一変した。右も左もJリーグ・Jリーグ。サッカー・サッカー。サッカーにあらずんば、スポーツにあらずみたいな様相となった。「野球なんて、終わりよね〜。私もJリーグの好きなチームを見つけなきゃ。」なんて、そこらのOLがほざいていた。 そうして、テレビも、無論、おんなじ調子。フジテレビ、ちゅうか関西テレビの梅田アナウンサーなんか、「これからはJリーグですよ。野球はどーするんですか。」。今でも、しれっと「プロ野球ニュース」に出演しているけれど、俺はお前のあの発言、一生忘れないからな。お前の事は一生信用しないからな。 まあ、それでも、サッカーがJリーグ誕生以前から人気があったのなら、分かるよ。その人気に押されてJリーグが誕生した、誕生させざる得なかったっていうのなら、私も不満は無い。人気には栄枯盛衰がある。私はこれから日陰者の野球ファンになるってだけの話である。サッカーファンと野球ファンの立場が入れ替わるっていうだけの話である。それは受容する。甘受する。 でも、それ以前は人気ねんだもの。当時は、よくパシフィックリーグの閑古鳥っぷり、その惨状が話題になっていたし、笑いになっていた。「テレビじゃ見れない、川崎劇場」なんていうのも、その頃のコピーだったと思う。 でも、サッカーの日本リーグの惨状はその比じゃないからね。だ〜〜れも見てなかった。パシフィックリーグはギャグになったけれども、日本リーグはギャグにもならなかった。かわいそ過ぎて。 だいたい、当時は、「釜本と松尾の区別がつかない」って言われていたくらいだからね。でも、ラグビー界に失礼だよ。なぜなら、当時のラグビーの日本リーグは、サッカーのそれとは比較にならないくらい、客が入っていたのだから。松尾対平尾なんていうのは、ちょっとしたイベントだったし、大学ラグビーも今とは比較にならないくらい盛り上がっていた。堀越や今泉、吉田、ラトウ、そうして清宮の父ちゃん。そうそう、日本代表がスコットランドに勝ったのも、この頃だったと思う。宿沢監督、懐かしい。若くして亡くなってしまったけれども。ご冥福をお祈り致します。 また、バレーボールの日本リーグも川合だ米山だで女子中高生を中心に盛り上がっていた。中学時代、私のクラスメートの女の子達もキャッキャ云ってた。 それらに比べて、サッカーの日本リーグは悲惨そのものだった。な〜〜んも話題にならない。たま〜に読売クラブが話題になる程度。例の木村のフリーキックにしたって、ほとんどの日本人は知らなかった。 当時のサッカーでマスコミが大きく取り上げていたのは、高校サッカーと前記のトヨタカップくらいだったと思う。でも、このトヨタカップって、今から考えると偉い大会だったとよね。世界ナンバー1のクラブチームを日本で決めてたんだからさ。これも一つのバブル的事象だったと思う。ユベントスやリヴァプールが日本で本気で試合してたんだぜ。 まあまあ、トヨタカップはともかくとして、その人気皆無の日本のサッカーが一夜にして、まさに一夜にして、まあ、カズの日本帰還とか準備期間はあったけどさ、一夜にして、突如人気スポーツに変わったんだよ。野球以上みたいな扱われ方をしたんだよ。テレビでも新聞でも街中でもJリーグ・Jリーグ。上記のOLや梅田アナみたいなのがあちこちから湧きだした。明石家さんまととんねるず以外にもサッカー好きを公言する、サッカーを語り出す芸能人が湧き出した。いや、お前ら、日本リーグなんか全然見てなかったよね、木村もラモスも水沼も知らなかったよね。 私は我が目を疑った、我が耳を疑った。我が手を疑った、我が足を疑った。 「昭和20年8月15日を境に、私は人間を信用することをやめた」という人は多々いるけれども、そこまで大袈裟でないにせよ、私もそれに近い心持になった。平成5年5月15日を境に、私は人間を信用することをやめた。 いや、だって、これ明らかにテレビの力でしょう、広告代理店の力でしょう。人は、宣伝広告によって、その好悪や意見を自由に操作されてしまうって事だよね。私ははっきり悟った。その後の私の人生においても、このJリーグ体験ほどでないにせよ、近いことは何度か起こった。最近じゃ、コロナ騒動がそれにあたる。 でも、これってナチスだよね。ナチスのやった事、あるいはナチスの始めた事だよね。信長の安土城という先例もなくはないが、世界史的に始祖はナチスであろう。 ナチスの行った悪行というと、例のアウシュビッツ関連が有名であるし、その筆頭であろうし、呪われて然るべきであると、私も強く思うけれども、ただまあ、あれはかなり特殊な悪行だよね。ある特定の民族を根絶やしにしてしまおうなんて、私の知る限り、人類史において唯一の事例であるし、今後早々起こるとも思われない。かなりの異常事だと思う。 私は、もうひとつの悪行の方がよほど質が悪いと思う。それはすなわち「宣伝広告により人心を左右する」っていう事である。 何故これが悪質かというと、アウシュヴィッツ関連とは違って、その後、多くの政府やマスコミ、企業、広告代理店等々がこの方法を踏襲拡大しているからだ。「Jリーグブーム」も、その数多い事例の小さな小さな一つに過ぎない。 しかも、第2次世界大戦後は、映画やテレビが更に発達して、更に容易にそれを可能にしている。印刷物主体の牧歌的なものとは異なり、強い光と大きな音は人心の操作をより容易にする。Jリーグ開幕時の派手な演出などは、その典型といってよいであろう。ただのサッカーの試合に過ぎないのにさ。 この手の宣伝広告を大量に投入した最初のスポーツ大会こそ、1936年のベルリン・オリンピックであろう。ただの擬古的総合スポーツ大会に過ぎなかったオリンピックを国威昂揚祭に完全に変えてしまったのはこの大会だと言われている。そうして、現行のオリンピックもその基本フォーマットはこのベルリン大会に倣っている。ブロッケンJr.を否定するなら、現行のオリンピック・フォーマットも全面的に改めるべきだと思う。とりわけ、国別にメダル数を競うなんて愚の骨頂だと思う。スポーツと国籍には何の関係もない。大谷の活躍を、国籍が同じというだけで、自分の活躍のように思う人は図々しいと私は思う。 また、最近、「火垂るの墓」がネットフリックスで世界中に配信されているらしく、例によって例の如く、「泣いた。私は戦争を許さない。」みたいな感想が世界中に湧いて出てきているけれども、あれに泣いて感動する人は、同じく神風特攻隊を見ても「泣いた。私は戦争を許さない。」って言うんだよね。いや、神風特攻隊は戦争肯定論者、何なら戦争賛美者だから。まあ、「紫電改のタカ」みたいなギリギリのところを突いてくる作品もあるけれども。 そうして、反戦を掲げている人達だって、いざ戦争が始まれば、「非国民と罵られるくらいなら、軍隊に入って外国人を殺した方がマシだ。」となる。実際、太平洋戦争時には、大規模な反戦運動は国内では起きなかった訳であるから。せいぜい一部の共産主義者が騒いだくらいである。 そのくせ、戦争が終了したら、つうか敗戦したら、すなわち「昭和20年8月15日」を境に、「いや、俺は戦争反対だったんだ。」「軍部に騙されたんだ。」「私は反戦主義なんだ。」。太宰治じゃないけれど、心ある人だったら、「天皇陛下万歳」を叫ぶよね。 アメリカにしたって、目先の給料にひかれて入隊、戦地に送られて、腕や脚、命を失う人は後を絶たずなんだから、「反戦思想」なんて、何をかいわんやである。 ちょっと話は逸れたが、人間の心なんていうのは、ちょっとした演出で右でも左でも自由に操作できるし、粘土のように四角にも三角にもなるのだ。 それこそ、高畑勲のような優れた演出家なら、反戦思想者も好戦思想者も自由に誕生させ得るであろう。かつて、庵野秀明が例の座談本でしみじみ語っていた。「宮さんは只の気のいい友達だけどさ。高畑さんは怖いよ。演出家は人の心を操る仕事だからね。高畑さんは、ホント怖いよ。」。措辞は多少異なっているかもしれないが、そんなような事を庵野秀明は語っていた。 「人は人の心をいとも簡単に操作できる。」、これって非常に重要な事なんだけど、自覚している人は案外少ない。みんな、自分の好悪や意見は自分のものだと思っている。案外、操作されてんだぜ。自分の好悪や意見は、案外他人のものなんだぜ。 実際、テレビ局や広告代理店に勤めている人達の中には、自分たちの思う通り、計画通りに、視聴者が、はっきり言えば、大衆が動いていくことを目の当たりにして、人間不信になり、退職していく人もいるらしい。 「現実と空想の区別がつかない」というのは、人間性を考える上において、重要な事なのだけど、案外マジメに考えた人は少ない。世界最初の小説がそれをテーマにしているにも関わらず、である。 ちなみに、ちょいと話は変わるが、「火垂るの墓」って、高畑監督本人も語っているらしいけど、「戦争映画」でも「反戦映画」でもないよね。あれは、「社会に背を向けた少年の物語」だよね。「社会に背を向けた人間の顛末」だよね。身も蓋もない書き方をすれば、「ニート映画」だよね。 世間には、この手の勘違いは多々あって、例えば、「巨人の星」は「野球マンガ」ではなく「忍者マンガ」、いや「エディプス・コンプレックス漫画」だよね。だからこそ、「売れた」訳である。 また、これも最近どっかで書いたけれども、「映画」や「アニメ」のような形式で「戦争もの」はやはり難しいと思う。「戦争モノ」は「政治モノ」の一形態であるからだ。そうして、「映画」や「アニメ」は「政治モノ」には向かない形式だと思う。 「戦争」を描こうとしても、結果的には「死ぬのは怖いモノ」、あるいは「人を殺すのは楽しいモノ」に堕してしまうと思う。それはそれで、「映画」や「アニメ」の面白さではあるだろうけど。セックス&バイオレンス。 また、「火垂るの墓」は「ニートもの」でもあるだろうけど、一面「妹死んじゃうモノ」でもあるよね。でも、このジャンルの傑作は「現約聖書」だと思う。三島の「私は号泣した」も捨てがたいが。 ちなみに、私は「火垂るの墓」には、あまり入っていけない。高畑作品で関西弁でしゃべる女の子というと、どうしても「じゃりン子チエ」を連想してしまうからだ。そうして、チエちゃん、つうかチエちゃんとテツなら、あんな状況、屁でもない。「だって、しゃーないやん。」とか云って、何とかしちゃうだろう。いざとなりゃ、テツの拳骨もあるし。そうそう、「じゃりン子チエ」は「ニート」から最も遠い作品でもあるよね。もっとも、テツは究極の「ニート」かもしれんが。「働いたら、負け」みたいなことも言ってるしね。 「じゃりン子チエ」と「火垂るの墓」を絡まして論じている人、いないだろうなあ。意外と共通項は多いのだけど。そこに、「アラレちゃん」、千兵衛とアラレを絡ましても、面白いよね。 つかまあ、「火垂るの墓」は、「火垂るの墓」を観る事よりも、「火垂るの墓」を観ている人を見る方が面白いんだけどね。 「火垂るの墓」はともかくとして、以上が、私がワールドカップを見なくなった、というかJリーグとサッカーが嫌いになった理由の一つであるが、理由はもう一つある。それは当時の、サッカー選手、所謂Jリーガーが軒並みアマチュアだったからだ。まあ、さすがにカズや全ての外国人選手はプロフェッショナルだった。ただし、彼ら以外の選手、すなわちほとんど全てのJリーガー、木村や水沼、武田や北澤等々はアマチュアだった。 いや、私だってアマチュアスポーツマンを否定している訳ではない。尊敬している。先にも匂わせたけど、オリンピックはアマチュアの大会に戻すべきだと思っている。私が、当時のJリーガーで許せないのは、技術的にはともかくとして、精神的には完全にアマチュアであるにもかかわらず、プロ扱いされていた、プロ面してたって事である。 フィールド外はまだいい。それも問題だけどさ。それ以上の問題はフィールド上もアマチュアって事である。 それが如実に表面化したのが、あの「ドーハの悲劇」であったろう。私は、あの「ドーハの悲劇」の翌日、職場で「ザマーミロ」と言い放ち、同僚等々をドン引きさせた、職場を凍り付かせた経験があるが、それは今でも後悔していない。誇りにすらしている。それくらい、アマチュア臭い、素人臭いプレイが、あの「ドーハの悲劇」のセンタリング(死語)であったからだ。 私はかつて「プロとアマ」というコラムを書き、そこでプロとアマを以下のように定義した。すなわち、「他人のために活動するのがプロ」、「自分のために活動するのがアマ」である。 そのコラムでお弁当屋のパートのおばさん、いや妙齢の女性をプロの代表として「例え」に使っていたので、今回もその「例え」を踏襲する。 そのおばさん(いや、結局使ってるやん。)が、ある時、なんでもいい、仕事でミスったとする。「お醤油を10グラム多く入れちゃった」とか、「味の素を入れ忘れた」とか、「唐揚げを1分長く揚げちゃった」とかである。 その時、そのおばさんはどうするだろう。普通に考えれば、「作り直す」よね。理由は何でもいい。良心の呵責、店長に怒られるから、味へのこだわり、理由は何でもいい。とにかく「作り直す」であろう。場合によっては、自身の休憩時間を削っても、「作り直す」であろう。それが「プロ」だからである。「お金をもらって仕事をする」っていうのは、そういう事である。 ただし、これが家庭での料理、すなわち自分や家族のための料理なら、「作り直す」ことはまずしないであろう。中には、「味へのこだわり」から作り直すおばさんもいるかもしれないが、まあまずそれは少数派であろう。大概のおばさんは作り直さない。「ちょっと味濃いけど、まっいっか。」「うま味無いけど、まっいっか。」「焦げてるけど、食べられるっしょ。アイツらグチグチ言ってきたら、『なによ、嫌なら食べないでよ。晩飯抜き』で押し切っちゃお。」となるだろう。この「まっいっか」がアマチュアなのである。アマチュア、すなわち自分や家族のための料理だから、「まっいっか」が許されるのである。 そうして、武田のセンタリングも、その「まっいっか」の精神で放たれたものである。「相手にボールを渡しちゃうかもしれないけど、まっいっか。」。 あれは「プロ」なら絶対にしない。ボールをポゼッションしていれば勝ち確定、ワールドカップ確定なのだから、何らかの形で奪われたのならともかく、自分からボールは放つことは、「プロ」なら、絶対にしない。レシピ通りでない料理を絶対お店に出さないのが「プロ」である。 でも、武田は出しちゃった。だって、「アマ」だから。 当時、私はこのゲームをリアルタイムで見てはいなかったと思う。もしかしたら、例のシーンだけは、ちょうどうまい具合にリアルタイムで見たかもしれない。 ただ、当時の私は、Jリーガーの多くがアマチュアだってことが分かっていたので、この大会、ああいうアマチュア臭い素人臭いプレイで負けるだろうなと予想していた。ただ、それがなかなか発生せず、諦め気分にもなったのであるが、土壇場であのプレイ。私は「ザマーミロ」である。 また、その「ドーハの悲劇」で試合終了後、選手たちがフィールドにへたり込むシーンも私は好きになれなかった。「アマチュアくせーな。」と思った。 というのも、「プロ」はどれだけショッキングな負け方をしても、意外にショックは受けないのである。なんか、変な言い方だけど。 例えば、高校球児は甲子園で負けたら、泣きじゃくりながら甲子園の砂をかき集めるものであるが、「プロ」は日本シリーズで負けても、泣きじゃくりながら球場の砂をかき集めたりはしない。ベンチでボ〜として、軽く取材を受けて、あとは帰宅するのみである。まあ、さすがに飲みにはいかないかな。「慰労会」ぐらいはあるかもしれないけど。 「いや、甲子園と日本シリーズでは価値が違うだろう」という反論もあるかもしれないが、そんな事は無い。なぜなら、日本シリーズだって、ほとんどの選手の出場機会は限られているからだ。長嶋や王のように10回以上出場する猛者もいるけれど、多くの選手は5回未満、下手すりゃ、キャリア20年で未出場なんて選手もいる。更にワールドシリーズやスーパーボウルとなれば、未出場のまま、引退する選手も多い。 でも、泣かない。 「プロ」っていうのは、意外に、「勝敗」や「成績」には、「アマ」ほど頓着しないものなのである。「プロ」が頓着する事、へたり込むほどショックを受ける事、怒り狂う事は、たったひとつだけある。それは「契約更改でダウン提示を受ける事」である。この時は、泣く、怒り狂う。 何故か。「プロ」は「他人のために活動」しているからである。と書くと、何やら美徳のように聞こえるけど、詰まるところ「自分に報酬を与えてくれる他人のために活動」しているのである。 よくプロスポーツマンが、「球場に来てくれるファンのために」とか「子供たちに夢を与えるために」な〜んつって、なんか殊勝な感じを演出しているけれど、これはつまり、それを指しているのである。「入場料を支払ってくれる人のために」あるいは「入場料を支払ってくれる親のいる子供のために」プレイしているのである。勝敗や成績は、あくまで「商品」なのである。「売りたいもの」なのである。 一方で、「アマ」にとって勝敗や成績は、自身の望むもの、欲しいもの、断じて「売りたいもの」ではない。故に、負けてしまうと、高校球児や「ドーハの悲劇」のように泣き崩れてしまうのである。 このへんの事情、プロスポーツビジネスというものを分かっていない人は意外に多い。試合に負けたら、「アマ」も「プロ」も同じように悲しむと思っている人が、意外に多い。極端は話、「プロ」の場合、仮に負けたとしても、その「負け」が商品価値の高いものであったら、それは喜ぶべき事であるし、また勝ったとしても、その「勝ち」が商品価値の低いものであったら、それは悲しむべき事なのである。 故に、「ドーハの悲劇」なんていうのは、「プロ」的視点から見れば「大成功」なのである。実際、高視聴率も叩き出している訳だし。ただまあ、当時の選手はほぼ「アマ」なので、その辺の事情が分からず、悲しくてへたり込んでしまうのである。あれがプロスポーツマン、例えば、金田や野村、長嶋のような、「プロ」の中でもすれっからしの連中だったら、表面上は悲しんでいても、心の中ではガッツポーズであろう。アントニオ猪木だったら、それこそ祝杯を挙げるかもしれない。実際、アントニオ猪木が最も気にしているのは自身の勝敗では全然なく(まあ、プロレスだしね。)、テレビの視聴率である。「それしかない」といっても良いくらいである。 これって、プロスポーツの世界だと奇妙に感じるかもしれないが、一般社会、一般の商売では当然の事でしょう。寿司屋がおいしい寿司を握るのも、大工が立派な家を作るのも、ホテルマンが最高の接客をするのも、あくまで、それらを「売る」ためでしょう。「旨い寿司が握れたら、それは食べさせたくない」とか、「完璧な家が作れたら、そこに人は住ませたくない」とか、「究極の接客に客はいらない」とか言い出す人も、いないとは言えないが、それは狂人か芸術家だよね。先のお弁当屋さんの譬えで言うなら、「この唐揚げは完璧なので、売りたくありません」とか言い出したら、店長はそのパートのおばさんをクビにするでしょう。 そのへんが1周回っちゃって、つか5周も100周も回っちゃって、「巌流島の決戦」なんつう「プロレス」もあったけどさ。 「巌流島」はともかく、プロスポーツマンだと、マイケル・ジョーダンなんかは、その領域に行っていたかもしれない。何のためにプレイしているのか分からない領域に入っていたかもしれない、一度目の引退は、父親の件もあるが、それも理由の一つだったと思う。二度目の引退は、完全にそれが理由だったよね。「自身が史上最高の選手であることを証明してしまった」、つまり「自身が史上最高の選手であることを証明する事が出来なくなってしまった」のが引退、というかフェードアウトの唯一の理由だったと思う。 そうして、もうひとつ、私が当時のJリーガーを好きになれなかった、そのアマっぽさを許せねかった点がある。これは、以前どこかで書いたかと思うが、その口調、そのタメ口である。これがホントにアマチュア臭くて、私は大嫌いだった。 「カメラの向こう側、新聞記者の向こう側に、何百万もの視聴者や読者がいるって事がどーして分からんのかね。」って思ってた。まあ、人の見ている前でサッカーをしたことが無いから、衆人環視の中でプレイしたことないから、仕方ないのかもしれんけど。 プロ野球でも、金田あたりは敬語を使わないけれども、それ以外は、プロはみんな原則敬語だよ。長嶋見てみい、絶対敬語だよ。長嶋なんていうのは、本来千葉の田舎者なんだから、ズーズー弁とまではいわないけど、日常生活で敬語を使う環境ではない。それが常に敬語を使う人間になったのはプロ野球選手だからだよ。スーパースターだからだよ。衆人環視の中、タメ口を使う事の恐ろしさを身に沁みて知っているからだよ。 その象徴が、例の口癖「いわゆるひとつの〜」である。あれは別に、あの言葉自体に意味がある訳ではない。あの言葉を使って、これから発するであろう自身の言葉を校正しているのである。誰が聞いても不快にならないようチェックしているのである。その時間稼ぎが例の口癖「いわゆるひとつの〜」なのである。まあ、考え過ぎて、訳分からなくなって、「我が巨人軍は永久に不滅です」になっちゃうのが、長嶋茂雄の長嶋茂雄たる所以なのであるが。 以上が、当時の私がJリーガーとサッカーを嫌っていた理由の、全てではないであろうが、概そである。 ちなみに、もう一度念のために書いておくけれど、ここまで私は散々アマチュア・アマチュアと書いてきたけれども、決して、というか断じてアマチュアスポーツとアマチェスポーツマンを軽蔑している訳ではない。尊敬している。 ただ、当時のJリーガーで私が許せなかった、憤慨していたのは、先にも書いているけれど、「アマ」のくせに「プロ」面、あるいは「プロ」待遇を受けていたからである。それが許せなかったのだ。憤慨していたのだ。「プロ」面していない、「プロ」待遇を受けていない「アマ」だったら、「ドーハの悲劇」で心ゆくまで悲しめばいいし、タメ口で話しても良いであろう。でも「プロ」待遇を受けているのだから、形の上では「プロ」なのだから、「プロ」として振舞って欲しかった。 もっとも、これは過渡期特有の現象であるから、そこまで強く反感する必要はなかったと、今になっては思う。私も若かったのだろう。ただ、広告代理店の作り出した人工Jリーグブームに対する反感と相混じって、当時の私はJリーグとJリーガー、そうして何よりJリーグファンを忌み嫌っていた。軽蔑してた。 その憎悪が最高潮に達したのは、なんといってもやっぱり日韓ワールドカップだったよね。サッカーのルールも知らないような人間がユニフォームを買っているような異常事態だったよね〜。一着2万円だったっけ〜。4回しか着なかったのにね〜。 当時の私は、さすがに露骨に嫌悪感を示しはしなかったが、大会は無視してた。反ワールドカップの総大将であるナンシー席が大会期間中に急逝したのも悲しかったね〜。ちょっと笑っちゃったけど。「そこまでワールドカップの邪魔せんでも、」とは思った。 その前のフランス大会で、ナンシー関がはしゃぐサポーターをバカ・サポーター、通称バカサと呼んでいたのも懐かしい。その大会での日本の対戦相手のクロアチアを、どこぞのアナウンサーだか解説者だかが「若いチーム」といっていたのも懐かしい。若くねーよ。旧ユーゴスラビアなんて、日本なんか問題にならないくらいのスポーツ大国だよ。んで、クロアチアはその大会3位。多くの日本人は「勝てる」と思ってたよね〜。 つう感じで、今に至るまで、サッカーというゲーム自体に興味がないわけではないけれど、その後の私は、ワールドカップも含めて、サッカーをほとんど観ていない。Jリーグも1試合も見た事ない。実家の近くの中古車センターでは世界的スターがサイン会を開いていたのにね〜。 あっ、そうそう、「Jリーガーはアマチュアアマチュア」と書いてきたけれども、それはあくまで当時の話で、最近のJリーガーやプロサッカー選手は無論「プロ」だと思う。中田あたりからプロっぽくなってきた。 とまあ、日本のプロサッカー選手は「プロ化」したとは思うけど、Jリーグという組織は未だ「アマチェア」だよね。 昨今、Jリーグは「税リーグ税リーグ」と揶揄されているらしいが、「企業スポンサー依存」「公金依存」「国際大会だけが盛り上がる」、これって、完全に「アマチェアスポーツ」の特徴だよね。 「プロ」は「入場料収入依存」「国際大会より国内リーグ重視」である。 アメリカのプロ野球、すなわちメジャーリーグが、他のスポーツに先駆けて、プロスポーツとして成功したのには理由が二つある。 一つ目は「試合数が多い」という事。 競技の性格上、年間150試合、冬が無ければ、それこそ年間300試合でも試合のできる野球は、サッカーやバスケットボール、フットボールに比べて、非常に有利な位置にあった。 試合数が多ければ多いほど、入場料収入を増せるからだ。今でも、「試合数増加」は各競技団体と選手会の常なる議題である。 かつては「一年を八日で暮らすいい男」と謳われた相撲取りも、今では年間6場所90取組。これも、もっぱら上記の理由である。ボクシングも、100年前は、それこそ年間100試合ほどこなしたらしいが、今となっては狂気の沙汰である。まあでも、それくらいの試合数をこなさないと、「食っていけなかった」のであろう。プロレスも、全盛期は年300試合近い時もあったらしい。これならプロレスラーも羽振り良く暮らせるであろう。 野球がプロスポーツとして最初に成功した理由の二つ目は「間接的な入場料収入」、すなわち「ラジオ放送」である。 野球は、他の競技に比べて、ラジオ向きとまでは云わなくとも、ラジオでもある程度は伝わるものだった、これも大きかったと思う。 サッカーやバスケットボール、フットボール等々は、ラジオでも分からないことは無いけど、やはり厳しい。特に、サッカーをラジオで知るためには、実況者、聴取者ともに、相当の強者であることが要請されよう。 NFLがメジャーリーグに代わって、アメリカの人気ナンバー1プロスポーツになった理由は、それはもう一つしかない。テレビである。テレビの普及である。 「適度に休憩が入る。すなわちCMを入れやすい」「コンタクトスポーツという事で絵的に面白い」「戦略・戦術を説明しやすい」等々、テレビの申し子といっても良いくらい、非常にテレビにマッチしたスポーツ、それがフットボールだった。 そうして、これが、NFLのプロスポーツとしての致命的欠陥である「試合数の少なさ」を補ったのである。大きく補ったのである。莫大な放映権料という形で。まさしく「野球はラジオの時代のスポーツ、フットボールはテレビの時代のスポーツ」である。 その形はともかく、「入場料収入で食える」というのがプロスポーツの特徴、というか唯一の条件である。これをクリアできないと、「アマチェア」に留まらざる得ない。すなわち「企業スポンサー依存」「公金依存」である。 もうひとつ「国際大会より国内リーグ重視」、こちらは条件、というよりは特徴である。多くのファンにとっては、通常営業が、まず第一。当然だよね。それがプロスポーツの唯一の「商品」なのだから。 「国際大会」というのは、あくまで「オプション」みたいなものであろう。アニメで例えると、通常の「テレビ放送」に対する「映画版」みたいなものである。ファンが、どちらを大事にするのかは、自明であろう。 とまあ、スキラッチの訃報から始まって、Jリーグとサッカーについて色々書いちゃった。いつもの事なんで堪忍してね。まあでも、プロアマ論を考えたのは、当時のJリーグがきっかけだったかもしれない。違うかな。 さて本題のNFL第2週あれこれである。 まずはCHI@HOUについて。 結果は13−19でテキサンズの勝ちなのであるが、注目はやはり全体1位のカリブ・ウィリアムズであろう。 で、その感想を書きたいのであるが、シカゴのOLが酷すぎて、それ以前の問題。何も分かりませんでした。 ここ数年、ずっと私は言っているけど、「QBは1年寝かすべき」とは、このゲームを見ても思った。ラインがこの状態だと、ホント潰されちゃう。ただ、逃げまくっているだけで1試合、というか1シーズン終わってしまうであろう。学べるものは何もない。 そのシカゴの次戦は我らがコルツ戦。両チームの関係者&ファンが、「ここだけは勝てそう」あるいは「ここだけは勝ちたい」と思っているカード。エバーフィルズ、勝ちを譲ってくれ〜。 で、そのコルツ。今週のコルツコーナー。 10−16でパッカーズに負け。 ジョーダン・ラヴがケガで出場しないパッカーズに10−16で負け。 テイラー様が12回103ヤードは知ったのに負け。 先週、ラヴの負傷退場を知った時、私は思いっきりガッツポーズをしたのであるが、そのガッツポーズは空振りになっちゃいました。すまん、ラヴ。 で、その主犯であろうリチャードソンであるが、この2試合、あくまでハイライトシーンを見ただけでの判断だけど、なんつーか、そのクォーターバッキング、パスが通るにしても通らんにしても、私の頭に思いつく言葉はただひとつ、「テキトー」である。リチャードソンのクォーターバッキングは、「テキトー」である。 マニングやラックが1ミリ単位でフットボールを捉えているとするならば、リチャードソンは、1メートル単位は大袈裟としても、10センチ単位でフットボールを捉えてる。最近流行りの言葉で言えば、「解像度が低い」。 ちなみに、ミンシュー君は1センチくらい。ただまあ、1センチ単位でフットボールを捉えても、それを活かす技術、コントロールとか強肩が無いって感じ。リチャードソンの場合、コントロールはともかく、強肩は持ち合わせているものの、いかんせん、10センチ単位のフットボール、クォーターバッキング。「テキトー」である。 まあ、はっきり言って、プロレベルのクォーターバッキングじゃない。 実際のゲームを観れば、また印象が変わるのかもしれないけど、このハイライト映像を見る限りにおいては、正直、何を買ってドラフトしたのかよく分からない。まあ、下位指名ならいいよ。あるいは、ラマー・ジャクソンのように全体32位でも、ギリギリ許せる。でも、全体4位だからね。良さの分からないQBを指名して良い順位ではない。 まあ、なんつーか、散々、それこそ散々散々書いてきたことだけど、QBの良し悪しは、ほとんどのアメリカ人、それもフットボール関係者を含めたほとんどのアメリカ人にも分からないって事だよね。このリチャードソンが4位で指名されるって事は、そういう事だと思う。4位って事は、バラードのみならず、多くのフットボール関係者がこのリチャードソンのクォーターバッキングを良いと判断したという訳だから。そりゃ、上位指名QBは死屍累々となる訳だ。 日本とは比較にならない程、QB論の議論や意見、書物が山ほどあるにもかかわらず、この体たらくなんだから。なかには、アンディ・リードのように、QBの良し悪しがはっきり分かっている人もいるんだろうけど、それは極少数、いや極々少数って事だよね。 私は以前、NFLの先発RBの務まる人は、全米に1万人は大袈裟にしても、1000人100人くらいはいるだろう、みたいなことを書いた。それに倣って言えば、NFLの先発QBの務まる人は、一時代に、全米に、つまり全世界で10人くらいしかいない、となる。その10人を運よく、あるいは精査して、獲得できたチームが、その時代時代のプレイオフ常連チームとなるのだろう。 ライアツ・ラツ様、待望の待望の1アシスト・タックル〜〜。よし、NFLに慣れてきた。って、バカ。 で、今週のハーボー様コーナー、パチパチパチパチ。 キャロパン(死語)に26−3でがっつり勝利。パチパチパチパチ。 つか、ブライス・ヤング、大丈夫。プロ入り以来、一貫して超低空飛行なんだけど。これだけ安定した超低空飛行を続けられるって、飛行機なら超高等技術なんだけど。未来兵器レベルなんだけど。 スタッツを見る限りでは、活躍したと言えそうなのは、昨年の第16週のパッカーズ戦の312ヤード・2タッチダウンくらいなんだけど。あとは、ギリ第5週のライオンズ戦247ヤード・3タッチダウン・2インターセプトと第8週のテキサンズ戦235ヤード・2タッチダウンぐらいなんだけど。 って心配してたら、来週から先発剥奪みたい。しかも、早くもトレードの噂まで出てる。死屍累々ですなあ。 そうして、今週のマーヴィン・ハリソンJr.様〜〜。 4レシーブ・130ヤード・2タッチダウンの大爆発〜〜。 いや、大爆発つう程でもないけどさ。通常運転だけどさ。 でも、ハイライト映像を観ていると、やっぱりA.C.グリーン、もとい A.J.グリーンによく似てる。 そのルートランニングも、ジェファソンのように「切れ味鋭い」ていうよりは、「しなやか」って感じ。 父親とは、またちょっとタイプが違うかな。父親は系譜的には、セント・ブラウンとかアントニオ・ブラウンに連なるチビッコレシーバーなんだけど、グレードは2つも3つも上。 「いや、そんなことあり得んの。」って思われる方もいるかもしれないが、いや、ほんと、そんな選手だったんだよ。ルートランニングなんか普通に走ってりゃ自然にフリーになる、そんな感じの選手だったんだよ。まあ、本来、「ルートランニング」っていうのは、そういうもんだろうけど。そういう風に設計されているものなんだろうけど。「ルートランニング」については、いずれまとまった記事を書きます。いつになるかは分からんけど。3年後くらいかなあ。 んな感じかなあ。 2024/9/22(日) |