Week16 | 12月20日 木曜日ゲーム DEN@LAC 27−34 |
泣きのもう一発。 前回、っつても「インディアンス同好会」の記事であるが、そこに「ナベツネ」と「球界再編騒動」についての悪口を書いた。 書き忘れた事がある、というか、言い足りないことあり、こんなものを抱えたまま年を越すのも気分が悪いので、年末の土壇場にもう一発記事を書きます。ついでに、って訳でもないけど、我が愛するハーボーとチャージャーズ(おいおい)についての感想も少しばかし。 「球界再編騒動」時のナベツネ以下オーナー連中についての悪口は前回書き尽くした筈だけど、それ以外について、ひとつ書き忘れてた。 それは球界のOB連中についてである。 あの時、古田が事実上ひとりで頑張っていたけれど、私がそこで大いに不満であったのは、オーナー連中と同等、というか、ある意味それ以上に球界のOB連中である。私の知る限り、ダンマリを決め込んでた。 球界のウルサ型である広岡や野村、あるいはご意見番的な大沢や張本、ガヤの金田等々、皆ダンマリを決め込んでた。これを銘記しておく。 いや、オメーら、なんか言えよ。いや、なんかやれよ、アクション起こせよ。 古田を始め、現役選手は個人事業主とはいえ、事実上はオーナーと労使関係にある。なかなか言いにくい事、やりにくい事もあるだろう。当然、生活もかかってる。オーナーのご機嫌を損ねたら、いきなりオマンマ食い上げも十分あり得る。「個人事業主」であるが故に、かえってクビが切られやすい。一般的な労使関係と違って、単に「契約切れ」「契約違反」で処理できるからだ。 そこで、現状、オーナーと労使関係にない球界OBが何らかの発言をするなり行動を起こすなりするのかと私は思っていたら、なんもなし。私はガッカリした。失望した。反オーナー的な態度をとったところで、何の支障もないのだから、何らかの発言なり行動なりがあって然るべきであろう。普段は、あれだけ言いたい放題なんだから。ところが、何も無し。お前ら、何にビビってんの。 まあ、分からんよ。もしかした水面下で活発に動いていたのかもしれない。その活動の結果、「12球団」が維持できたのかもしれない。 でも、それ「水面下」である必要性は全く無いでしょう。公言すればいいでしょう。自慢すればいいでしょう。あんだけ「自慢大好き」な連中なんだから。そういう「公言」や「自慢」が何もなかったって事は、「結局、何もしてなかった」って解釈しちゃうよ。それとも、ここでは「謙虚」になるの?。意味が分からん。どういう精神構造。 あと、長嶋・王だよね。誰が考えたって、彼等こそが「球界の王」なんだから、何らかの発言や行動をすべきだった。でも、何も無し。 まあ、長嶋は、結局は巨人の犬なんで、ナベツネというか、巨人軍の意向には一切逆らえないんだろうけど。我が巨人軍は永久に不滅です。 あっ、そうそう、堀内は発言してたな。確かオーナー側で、ナベツネ側で。まあ、どんな意見を持とうが「本人の自由」だけどさ。 あと、巨人つながりで云うと、高橋由伸な。当時、「自分が選手会長の時、こんな事件が起きて、メンドクサイ。迷惑だ。」みたいな事を云っていたらしい。 そういうとこだぞ。そういう一事が万事「及び腰」、「腰砕け」、「腰が据わらない」、そういうとこだぞ。まあ、これは高橋の精神の根っこに由来する問題だから、改善は不可能だけど、そういうとこだぞ。お前の「人格」を決めてるのは。 そういう「腰砕け」の人間が監督をしたら、「結果」は付いてこんよね。そういう事は、周り、とりわけ選手に急速かつ簡単に広がっていくものである。そういう事に、選手、あるいは部下は非常に敏感である。断固たる決意が必要なんだ。 もっとも、これは高橋みたいな人間を監督にした巨人の側にも問題はあるけどな。お得意の「社内人事」か。先の記事でこのことに触れるのを忘れたけど、この「社内人事」って言葉、ナベツネは好んで使ってた。自分がどの程度の人間か、自覚はしてたという事であろう。 最後にもうひとつ、宮内オーナーな。この「球界再編騒動」では表舞台には全然出てこなかったけど、真の主役はこの人でしょ。何故、表舞台に出てこない。 この宮内オーナーはプロ野球のチームを3つ潰してる。「オリックスブレーブス」、「オリックスブルーウェーブ」、「近鉄バファローズ」の3つである。「オリックスバファローズ」も潰すかもね。あと、「グリーンスタジアム神戸」も捨てている。 中内オーナーと宮内オーナー、どちらが実業家として優れているのか、私には分からない。でも、プロ野球チームのオーナーとしては、はっきり優劣がついている。中内が上、宮内が下だ。 中内功は厳密にいうと「オーナー」ではないけれど、事実上の「オーナー」って事で。あと「功」の字が違うのは、ゴメン。 あと、「分配ドラフト」も忘れんなよ。あれ、日本プロ野球史の汚点だから。見てるこっちが恥ずかしかった。挙句、楽天が先に優勝するという見事なオチ。 以上、悪口はこれくらいにして、本題のチャージャース戦。この日はプレイオフを争うブロンコスとのゲーム。結果は34−27で大勝利〜〜。パチパチパチパチ。 っつても、プレイオフ争いにはあんま関係ない。負けたブロンコスもかなりの高確率でプレイオフに進出できるであろう。というのも、今季のAFCは上と下、すなわち7位以上と8位以下がくっきり分かれていて、よほどの事のない限り、現時点(第16週終了時点)で7位以上のチームはプレイオフ行きがほぼ確定であるからだ。ちなみに、昔日の恋人コルツはその8位。つまり、下。トホホ。 でも、この第16週段階でプレイオフレースがほぼ決定しているというのは珍しい。私の20年近いNFL観戦歴でも初めてかもしれん。この時期は、例年、両カンファレンスともに混沌としているものである。こんな年もあるんだね。 ちなみに、NFCも、AFCに比べれば、まだプレイオフ争いはしているけれども、例年に比すと、混沌感は薄い。西と南の優勝争いくらいである。今季は計算機不要のシーズンかな。 んで、その白熱しないプレイオフ争いの一戦を制したのが、この週のチャージャーズだった訳である。スコアは34−27。 何週か前のチーフスvsチャージャーズの記事で、「得点差は2点差だけど、実力的には両チームに開きがあった。チーフスは終始安定して試合を運んでた」みたいな事を私は書いたけれども、この試合は、その逆。「得点差は7点だけれども、両チームの実力は拮抗していた。ブロンコスに勝ちの目があってもおかしくない試合だった。」。スコアでゲームを測ることの恐ろしさだよね。数字で現実を見ることの恐ろしさだよね。実際に見てみないと、何も分からない。数字はその裏付けのひとつでしかない。 その試合内容については、ここに詳述する暇も気力もないので、各自、観戦、検討してください。 ここでは、私はハーボーに入れ込んでいる理由、好きな理由をちょいと述べてみたい。 私は、そもそも、こういう戦略戦術型の極みみたいな監督・ヘッドコーチが大好きなのである。実力をつけて、あるいは戦力アップして、ゴリゴリ力押しで勝つ、あるいは勝とうとする監督・ヘッドコーチより、こういう、なんかうまいことやって、最終的にちょいと出し抜けばいい、みたいな監督・ヘッドコーチが大好きなのである。 私は、かつて監督・ヘッドコーチを三種に分類した。戦力アップ型、練習型、戦略戦術型の三種である。 戦力アップ型というのは、監督・ヘッドコーチというよりはGM的な仕事になるであろうが、日本のプロ野球でいうと、鶴岡、根本、星野が、その三巨頭。日本プロ野球三大GMである。 練習型は、西本、広岡、落合といったところであろう。 そうして、戦略戦術型の代表は、なんといっても野村克也であろう。 その戦略戦術型のNFL版がハーボーであり、私は、その試合っぷりを全然見た事がないけれど、そのメジャーリーグ版がビリー・マーティンだと思う。リアルタイムで見ていたら、私はビリー・マーティンの大ファンになっていただろう。 で、この手のタイプというのは、「ギリギリで勝てばいい」という考え方であるから、勝つにしろ負けるにしろ、どうしてもゲームは劇的、エモーショナルになりやすい。野村の代表例だと「杉浦の代打サヨナラ満塁ホームラン」とか「小早川の開幕戦三連発」であるし、ビリー・マーティンだと「レジー・ジャクソンの三連発」という事になるであろう。ハーボーだと、カレッジ時代は全然知らないのだけど、ナイナーズ時代だったら、例のシーホークスとのカンファレンス決勝でのゴアの決勝タッチダウンランである。以前、どこかに書いたが、私のNFL観戦歴20年で最も好きなゲームである。 ただまあ、この手の監督・ヘッドコーチというのは、エモーショナルなゲームになりやすいが故に、それが時として逆噴射する場合も多い。故に、辞任時はどうしても感情的になる。野村、ハーボーともに、そういう辞め方が多いし、ビリー・マーティンについては、説くまでもないであろう。 ま、そういう面も含めて、大好きなんだけどね。 以前書いた「ハーボーのイカれたコール」も、その典型的な顕れである。 そうして、もうひとつ、私がハーボーを好きな理由は、その「ラン大好き、それもパワーラン大好き、オフタックル、オフガード大好きスタイル」である。 それは、この試合でも出た。事実上ゲームを決定づけた第4クォーターでのガス・エドワーズの43ヤードランである。 オフガードというよりはオフセンターみたいなプレイだったけど、典型的なハーボー好み、私好みのランである。まさに、ハーボー印が刻印されている。あれ、ゴアなら一発タッチダウンだった。 っていうか、ジョナサン・テイラー様でも一発タッチダウンだったと思う。まあ、ハーボーがいかにも好きそうなタイプだしな。要求してきたら、献上すっか、ハーボーに。その方がテイラー様も喜ぶだろう。このままコルトで燻っていてもなあ。でも、これを認めちゃうと、ネルソン様とバックナー様も「オレもオレも」になるからなあ。オレオレトレードになるからなあ。まっ、いっか。このままコルトで燻って(以下同文)。 まっ、そんな戯言はともかく、典型的なハーボーのゲームでした。プレイオフも楽しみ。 あと、この試合のトピックスとしては前半終了時のチャージャーズのFGね。 これ、記録的にはただの「ディッカーの57ヤードFG」であるが、実際は結構珍しいプレイなので、ここに記載、感想を述べておきたい。 まず、このプレイの直前は「デンバーのパント」。で、それをデンバー側が反則、フェアキャッチ・インターフェアランス。 で、その地点がチャージャーズ陣38ヤード、そこから15ヤード罰退なので、デンバー陣47ヤードでのボールオンとなる。 で、残り時間は0:00。そう、残り時間無しなのである。そもそも先のパントで残り時間は無くなっており、反則があったが故に、もう1プレイが追加されたのである。 そうはいってもデンバー陣47ヤード。FGだと+17ヤードなので64ヤードキックとなる。普通に考えれば、決めるのが難しい距離であるが、残り0秒でのラストプレイなのでチャージャーズはFGを蹴る、もしくはヘイルメアリーしかない。あと、ニーダウン。 そこで64ヤードFGを選択すると、外れるどころか届かない可能性すらある。で、それを見越したデンバーサイドは、FGのブロッキングチームではなく、リターンチームを投入。リターンタッチダウンに賭けたのだ。 すると、それを見越したチャージャーズサイドは、FGチームではなくキックオフのカバーチームを投入。無論、ロングスナッパーはいない。フォルダーがボールを支持。 で、キックオフのようにボールを蹴り、ボールはそのままゴールポストを通過。3得点と相成る訳である。 スナップ無しでボールを蹴っているので、7ヤード分下がることななく、「57ヤードFG成功」となった訳である。 これ、デンバーはリターンチームを入れる必要なかったよね。リターンタッチダウンの可能性は無くは無いけど、その可能性は低い、それもかなり低いのだから、普通に64ヤードFGを蹴らした方が良かったと思う。距離は無論の事、ブロッキングチームの有無もキッカーには大きいだろうしね。 実際、57ヤード、しかもブロッカー無しなので、ディッカーは楽々57ヤードFGを成功。ボールはど真ん中、距離も十分だった。そりゃそうだよね。通常のキックオフはあんな調子で蹴ってんだから、楽勝だよね。 ちなみに、この時点でのスコアはデンバーから見て21−10。このFGや幻のリターンタッチダウンがあったとしても、試合を左右するほどでもないので、こういうプレイ、結末になったのだと思う。 これが、第2クォーターではなく、第4クォーター、すなわち試合最後のプレイで、1点差とか3点差とか僅差だったら、また違う決断になってたと思う。皆様なら、どうしますか。私なら、訳分からなくなって、AT様のご神託を待ちます。こういう時こそのコパイロットだろう。 あー、一応やっとくか。ここんとこのコルツコーナー〜〜〜〜。 第15週はデンバーに13−31で敗戦、第16週はテネシーに38−30で勝利。んで7勝8敗。 まずはデンバー戦から。 この試合、前半は13−7でリード、そうして後半開始早々、インターセプトを奪い、そこからのドライブでテイラー様の41ヤードのタッチダウンランが出たかと思いきや、ファンブルで取り消し、タッチバック。そこから成す術なく24失点して敗戦。 つう訳で、このファンブルが敗因とされ、内外で批判されている訳であるが、結果は13−31。あんま関係なくね。敗因の一つではあろうけど、真の敗因は別にあるような気がする。 まあ、試合は見ていないし、「モメンタム云々」言われたら、返す言葉もないのであるが、13−31じゃねえ。テイラー様への身びいき、贔屓の引き倒しだけどさ。 で、その「ファンブル」なのであるが、パンチングとかを食らってのファンブルではなく、ゴールライン直前でボールを離しちゃう、最近流行りのアレである。他のチームでも流行ってるよね。 ビデオで見る限りだと、ゴールライン上で離してる、コントロールを失ってる感じなので、ギリギリタッチダウンのようにも思うが、そういう判定なら仕方ない。甘受しましょう。強く反論、猛抗議出来るほどでもねーし。つか、13−31だし。 でも、これ流行ってるよね。なんなの。数年前のNFLでは絶対なかったシーンなんだけど。どういうこと。ゆとり。アメリカにも「ゆとり」があんの。 んで、これを猛省した訳でもないだろうけど、つか、猛省したんだろうけど、翌週のタイタンズ戦では、テイラー様、218ヤード3タッチダウンの大爆発。勝利に貢献しましたとさ。シーズンスタッツも1000ヤードを突破。 まあ、ここで勝ってもねえ。 で、残りがジャイアンツ戦とジャガーズ戦という事で、勝っても全然おかしくない相手。連勝すると9勝8敗でフィニッシュ。う〜む。「う〜む」としか言いようがない。 んで、小言。アンソニー・リチャードソンへの小言。 まあ、ハイライト映像しかは見ていないので断言はしかねるけど、インターセプト多くね。毎試合のように3インターセプトくらい食らってるような気がする。 で、調べてみたら、ここまで11試合12被インターセプト。1試合3被インターセプトじゃなかったのね。ゴメン。 いや、「ゴメン」じゃねー。 1試合1被インターセプトペースじゃねーかよー。しかも、パッシングタッチダウンは8。でも、ラッシングタッチダウンは6。ちなみにファンブルは9、ロストは3。「ファンブル王」の名を欲しいままにしているテイラー様は4、ロストは1。 テイラー様より多いじゃねーかよーー。 いやまあ、ファンブルはともかくとして、いや、それも問題だけど、タッチダウン8、被インターセプト12って。パス成功率は余裕の47.7%。レイティングは、まさかの61.6。喩えも出てこねぇ。 タッチダウン数と被インターセプト数を対照する事には私は常々疑問を感じているのだけれど、それはともかくとして、被インターセプト数がタッチダウン数を上回っているQBがいるかと調べてみたら、さすがにいねーー。 有力候補のカイラー・マレー君ですら16タッチダウン9被インターセプトとなかなかの数字。 で、ようやっと見つけたのがガードナー・ミンシュー君の9タッチダウン10被インターセプト。コルツはどういう教育してんじゃ〜〜〜い。 そのほかは、ほぼ皆無。泡沫QBのみ。目立つのはドリュー・ロック様の1タッチダウン4被インターセプトくらい。ドリアン・トンプソン=ロビンソンの0タッチダウン5被インターセプトというのも、あるにはあるが、これは「別枠」って感じ。 ちなみに、ラマー・ジャクソンは39タッチダウン4被インターセプト。アーロン・ロジャースじゃないよ。ラマー・ジャクソンだよ。アーロンじゃないよ、ラマーだよ。いつの間にか、スゲー事になってんな。 ラマーの件はともかくとして、8タッチダウン12被インターセプトというのは、なかなかにぶっちぎりの数字。 昨今、というか、以前からずっとかもしれんけど、「インターセプトを極度に恐れる」っていうNFLの常識に、私はどちらかといえば「否定的」である。もう少し、勝負して良いんじゃないかと思っている。 昔も同様だったかもしれないけど、昨今はそれがより強力になり、「インターセプトさえ避けられれば、何でもいい」ぐらいのクォーターバッキング、プレイブック、プレイコールである。「株式投資なんてもってのほか、銀行預金さえ怖い、郵便貯金一択」みたいなリスク管理が、昨今のNFLのオフェンスコーディネートである。 実際、一昔前にはちょろちょろ見かけた「フラットパスからのインターセプト・リターンタッチダウン」なんで、まず見ない。絶滅種である。とりわけ、ゴール前1ヤードでの「フラットパスからのインターセプト・リターンタッチダウン」、すなわち「フットボールにおける究極の天国から地獄」なんて、最後に見たのが何年前みたいな話である。 ちなみに、私はMADDENを遊び始めた当初、何度もこれを食らった。まあ、さすがにコントローラーをモニターに投げつけるとかはしなかったけどね。貧乏だから、私は貧乏だから。 まあ、それはともかくとして、それくらいインターセプトを恐れるのが昨今のNFLなのであるが、その中にあって、この威風堂々のプレイっぷり。 リチャードソンの処遇はどうなるやんしょ。 あと、何か知らんが、イーグルスとテキサンズがチームロゴを変えてた。何故に、この時期、このタイミング。クリスマス・プレゼントみたいなもんか。 こんな感じか。 いや、これでホントに今年最後です。もう記事はアップしません、書きません。よいお年を〜〜。 でも、来年は2025年か。世紀末から四半世紀。世紀末の焦燥が懐かしい。ただただ懐かしい。 2024/12/28(土) |
Week18 | 最終週あれこれ | 新年あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。 年末年始は毎年恒例渋々帰省した。 無論、やることはない。 一日中読書していても良いのであるが、さすがに厭きる。 而して、毎年恒例、気まま列車の旅に出かけた。時間とお金の許す限りフラフラして帰って来る気まま旅である。昨年の千葉県一周はちょいと記事にした。 んで、今年も出かけたのであるが(場所はヒ・ミ・ツ)、いるな、外国人。 いや、ほんと何処にでもいる。日本人にしたって、地元民しか利用していなさそうな駅でも普通に乗降車してくる。近辺に職場っぽいものも見当たらないので、何らかの観光なのであろう。 いや、ほんと、全人種全民族がいる。白人黒人黄色人種、アングロサクソン、ゲルマン、ラテン、スラブ、アラブ、ペルシア、インド、モンゴル、中国、韓国、ベトナム、インドネシア、ほぼ網羅してるといっても良いと思う。いないのは北朝鮮人くらいか。いや、北朝鮮人もいるのか。 隔世の感である。 私の子供の頃は、外国人はまだまだ少なかった。中学の修学旅行で京都に行った際には、私のクラスメートのバカどもは、外国人を見ると、「ホームランホームラン」「ファーボールファーボール」「ピッチャーピッチャー」「サンシンサンシン」。ぬな調子である。サンシンは日本語だっつーの。念の為、ツッコんでおきました。 それくらい外国人は少なかった。当時、私の町にいた外国人といったら、所謂「ジャパゆきさん」、フィリピン人女性くらいだったと思う。中国人や韓国人ですら、ほとんど見かけなかった。 まして、白人は黒人なんて皆無だった。私がプロ野球の球場にいる白人や黒人、すなわちプロ野球選手としての白人や黒人以外の白人や黒人、すなわち町でプラプラしているような普通の白人や黒人を初めて見たのは、それこそ20歳過ぎだったと思う。10代の頃は普通の白人や黒人を見たことが無かったと思う。あと、20歳過ぎてからはイラン人はよく見たな。 それが今や、外国人に遭わずに街を歩く事すら難しい。 まさしく、隔世の感である。 今、世界中の「おのぼりさん」と「貧しい人々」が東京、というか日本に向かっているのである。 日本が世界一の大都会になったという事なのであろう。と、言いたいところであるが、世界一の大都会になる為には、もうひとつ別種の人間達が必要である。すなわち、「夢を抱く人々」である。 この三種の人間達、「おのぼりさん」と「貧しい人々」、そうして「夢を抱く人々」の3種の人間たちが日本に向かい、集結するようになって初めて、日本は「世界一の大都会」になったといえるであろう。ニューヨーク、パリ、長安、ローマ、アレキサンドリア、皆同様であった。 現今の日本の場合、「おのぼりさん」と「貧しい人々」は日本に集結しつつあるが、「夢を抱く人々」が日本に向かっているという話は聞いた事がない。「世界一の大都会」にはあと一歩、といったところか。 その小旅行のほかには、老母の隣でテレビを見ていた。 「七人の侍」を見た。 もっとも、「見た」といっても、最後の20分くらいを見ただけである。ちなみに、「七人の侍」全編は、高校生くらいの頃に一度見たきりである。 この世界的傑作に今更私が口を挟むつもりは無い。感想も批評も不要であろう。「語るに落ちる」である。 んで、次にって訳でもないけど、「男はつらいよ」の第1作を見た。 私は、「男はつらいよ」、というか山田洋次をバカにしていた口なので、ちらほらしか見ていないのだけど、冷静に考えると、「第1作」を見たことが無かったので、見た。 「第1作」のメインストーリーのひとつは「さくらとひろしの結婚話」なのだけど、なんやかんやあって、結婚式となり、そこで、ひろしの父親が登場してくる。 この父親は、かつてひろしと折り合いが悪かったらしく、ひろしは勘当同然で家を出てきたらしい。そうしたら、ひろしの結婚式を聞きつけ、この父親、というか夫婦は居ても立ってもいられず、呼ばれてもないのに(多分)、結婚式に出席してきた。 そうして、父親の感動のスピーチとなる訳なのであるが、この父親、演じるのは何と志村喬。 出てくるな、志村喬。先の「七人の侍」に「ゴジラ」、ヒット作には必ず出てくる。まさか、「男はつらいよ」、それも第1作に出演していたとは、知らなかった。 でも、こういう役者、いるよね。大ヒット作にことごとく出演している役者。一枚かんでる役者。他には、石坂浩二とかね。何が優れているのかよく分からんが、出演する作品がことごとく当たるタイプ。 芸能の世界に限らず、こういう人っているよね。「のほほんとしているけど、ことごとく結果を出すタイプ」。その逆は「何かにつけて理屈っぽいけど、結果が全然出ないタイプ」。 後者は、役者で云うと、三國連太郎。最後の最後で「釣りバカ日誌」がようやっと当たった。まあ、「男はつらいよ」ほどじゃないけどな。 あと、この「第1作」には、秋野太作こと津坂匡章も出てた。なんと、寅さんの舎弟役。知らんかった。そうして、「第2作」も続けて見たのだけど、そこで堅気になってた。 まあ、津坂匡章の場合は、ヒット云々に関係なく、当時の映画やドラマにはことごとく出てくるからな。ギャラが安かったのかもしれん。 で、「男はつらいよ」を見ていて、ちょっと思ったのであるが、渥美清の芝居はビートたけしのそれによく似ている。たけしが渥美清を意識していたとは考えにくいので、これは浅草芸人の芝居のひとつの「型」なのかもしれない。勉強になった。 それから、ドラマを見た。 所謂「推理もの」であったのだが、10分ほどで見るのを止めた。ヒドすぎる。 容疑者側も捜査側も、あまりにリアリティがない。 私も無論、現実の捜査に立ち会ったことはないけれど、そういう目で見ても、あまりにリアリティがない、心理的にも論理的にも。 「も少し、マジメにやれ」といいたい。どうせ作るのなら、チャンと作れ。「綿密な取材」とまではいわないが、ちょっと考えれば心理的にも論理的にもオカシナ事だらけのドラマだった。まあ、仕方ないけどな。とにかく「枠を埋める」で精一杯なのだから。「とりあえずテープを上梓すれば、それでいい」という作りのドラマだった。 あとまあ、このドラマに限らず、「推理もの」と「医療もの」が多過ぎる。「命」以外にドラマを感じられないのだろうか。 例えば、山田太一などは、「警備会社」に「元不良の良妻賢母」に「三流大学生たち」にドラマを感じてきた。鎌田敏夫なども同様だけど、かつての脚本家達は、そういう人間生活の細かいところにドラマを感じ、ドラマを作ってきたのだ。 橋田壽賀子とか三谷幸喜あたりからかな、ここ30年くらいのドラマは、脚本家に限らず、粗すぎる。雑といってもいい。 同様に、演出も芝居も雑、粗である。 みんながみんなショーケンをやられても困るけど、も少し細かくやれ。雑に過ぎる。 あと、これはドラマには少ないけれど、映画やマンガ、アニメで、ここ最近多用される「タイムスリップもの」な。もういい加減気づけよ、タイムスリップは物語を破壊するって事に。ドラマを破壊するって事に。物語は時間の表現なんだぜ。 とりあえず、この手の「映画」や「ドラマ」、「マンガ」「アニメ」等々の、所謂「ストーリー」を扱う芸術な、「推理もの」と「医療もの」、そうして「タイムスリップもの」、この三種を禁忌にしろ。そうすれば、だいぶ変わるから。 それから、バラエティ番組を見た。 最近のバラエティ番組を見て、しみじみ思うのは、「やっぱりビートたけしは面白かったんだな。」って事だ。 最近の、というか、ここ30年くらいのバラエティ番組というのは、何らかの形で素材を撮ってきて、それに加工編集を加えるという、まあ要するに「元気が出るテレビ方式」、「ヤオガチ論」的に言えば、「ガチ」に「ヤオ」を加えるという形式がほぼ全て、というか全てであろう。 30年間一歩も進歩していないというのも、それはそれで問題であるが、それだけこの「元気が出るテレビ方式」が強力であるともいえよう。まあ、全世界を席巻している「リアリティ番組」の形式である。 この形式の場合、撮ってきた映像、すなわち「ガチ」をいかに加工編集するかという「ヤオ」の能力が番組スタッフ、および出演者に強く求められるのであるが、スタッフ能力はともかくとして、出演者、すなわちテレビタレントやテレビ芸人のツッコミやコメントがホント下手、つまらん。 こういうところも、ビートたけしは天才的にうまかった。 私の記憶している印象的な、たけしのツッコミやコメントをいくつか紹介しよう。 「お笑いウルトラクイズ」の「人間性クイズ」(つか、「クイズ」じゃねー。)で、井出らっきょがいよいよ女性タレント、つかAV女優を押し倒そうとするその時、たけしが乱入する訳であるが、そこでまず、らっきょに「何してんだ、コノヤロー。カメラ回ってんだぞ」と一ツッコミ。 まあまあ、これは誰でもやる。 ところが、ビートたけしは、ここで返す刀でAV女優もハリセンでツッコむ。「てめえもAV女優なんだから、オッパイのひとつも揉ませろよ。」 いや、そっちもツッコむんだ。私はほとほと感心した。 また、「ガンバルマン」のツッコミでは、ピコピコハンマーを手に東を呼び出し、「おい、東、来い。」。そうして、ハンマーの柄でツッコむ。「いやいや、柄はやめてください。柄は固いです。」。 また、「○○のようだ」という喩えもたけしは抜群にうまかった。水道橋博士が感心していたのは、「師匠は僕に何て言ったと思います。『お前は死んだシーラカンスみたいな目してるな』。『死んだ魚みたいな目』じゃなくて、『死んだシーラカンスみたいな目』ですよ。」。 この手の比喩もひとひねり加えてくるのがビートたけしである。 更に得意の喩えに、「ほぼ誰も知らない芸能人で喩える」がある。「お前は○○○○みたいだな」。聞いた事もない名前である。すると、後ろでベテラン女優がくすくす笑っている。「たけしさん、○○○○さんのこと知ってるんだ。あなたって、物知りねえ。」。○○○○は実在しているのである。 本来、喩えというのは多くの人が知っている名前で喩えてこそ意味のあるものである。そこも、たけしはひねってくるのだ。ツッコミを笑いに変えてしまうのである。ツッコミがボケなのである。 また、60歳くらい、すなわち芸人としては現役引退している頃である。それでも、まだまだ面白い。 当時、60歳前後でもそういうお店、すなわちソープランドに通っている事をタカに注意される。 「もう、いい年なんですから、そういうお店行くのはやめてくださいよ。」 それに対するたけしの返事は、 「無理がきくだろ」 いや、「無理」って。タカがすかさず、「無理って、あなた何してるんですか。天下のビートたけしなんですから。ちゃんとして下さいよ。」「いや、それ以上は言えねえだろ。」。 この手の言葉の選び方のセンスっていうのは、若い時から絶賛されていたものだけど、60歳くらいになっても、まだまだこれくらいの事が言えるのが天下のビートたけしである。 ちなみに、いまここで「現役引退」って言葉を使ったけれども、ビートたけしの全盛期は80年代、それも前半であり、後半はだいぶ衰え、90年代以降は事実上「引退」である。 ビートたけしの「衰え」はオールナイトニッポンの最後の2年くらいで私は感じ、そのあたりで私はビートたけしを卒業した。こちらも「ビートたけし引退」である。 「こっちの精神的な成長もあって、つまらなく感じるようになったのかなあ。」なんて、当時思っていたのであるが、数年前、たけしがこの「衰え」を自覚していたと発言していて、私は驚き、感心した。いや、自覚してたんだ。 なんでも、オールナイトニッポンの最後の2年くらいは「力の衰え」を感じて、リスナーに済まないと思い、オールナイトニッポンの終了を自ら申し入れたそうである。さすがだね。 もっとも、この「衰えた」くらいがテレビ的お茶の間的にはちょうどベストフィットだったようで、たけしの番組「アンビリバボー」とか「TVタックル」とかは数字的には安定していく。80年代前半の「笑ってポン」的な感じで次から次へと番組を潰していたのとは、いかにも対照的である。 私は、もちろん、この90年代以降の番組「アンビリバボー」とか「TVタックル」とかはあまり見ていない。「北野ファンクラブ」も見たり見なかったりである。全盛期を知ってるだけに、辛いのだ。ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンみたいなもんである。 映画を作り出したのも、この「衰え」を隠すためというのが理由のひとつであろう。 まあ、なんつーか、プロスポーツマンが現役引退後、「解説者」に転身したような感じが、「90年代以降のビートたけし」である。 ちなみに、こういう処世術の巧さというか、芸能活動的な身の振り方の巧さを、松本人志がかつて褒めていた。確かに、上手い。ビーとたけしの芸能人としての真骨頂は、この身の振り方の巧さ、セルフプロデュースの巧さであろう。セルフイメージのコントロールが抜群にうまい。フレームインとフレームアウトを明確に自覚している。 とまあ、こんな事を書くと、「昔は規制が緩かった」とか「コンプライアンスが無かった」とかみたいな話になるのであるが、いや、あったよ、昔だって、規制が、良識が。いや、昔の方が今よりはるかに元気だったよ、矯風会のおばさん、PTAの皆々さん。意気揚々、意気軒高だったよ。そういえば、私の近所のとある駅に悪書追放の真っ赤な箱がまだあるけど(恥ずかし、キャ。)、あんなのがかつてはあちこちに設置されていた。「チャタレイ裁判」や「サド裁判」もあったしね。 つう訳で、昔だって、今と同様、いや、今以上に、規制だの良識だのが大手を振って歩いていた訳だけど、そういうのを踏みにじった奴がいたんだよ。永井豪大先生が踏みにじったんだよ。 「ハレンチ学園」で、矯風会のおばさん、PTAの皆々さん、規制や良識にガミガミ言われた我らが豪ちゃん、何をしたかとうと、謝罪するどころか、逆ギレ、「ハレンチ大戦争」(紛うことなき傑作!!!)を描きやがった。 それでも、怒りが収まらない豪ちゃん、ついには「デビルマン」を上梓するに至ったのである。 で、我らが豪ちゃんが、矯風会のおばさん、PTAの皆々さん、規制や良識を踏みにじった結果、今度はヌードが全面解禁。安易に数字が取れるという事で、70年代から80年代中盤くらいまでは、女性キャラクターのヌードが乱発、当時の主要女性キャラクターのほとんどが脱がされてたんじゃないかなあ〜。矯風会のおばさん、PTAの皆々さん、規制や良識への芸術家の怒り、では全然なく、営業部からの強い要請によって。 水原勇気(もち、女優じゃない方ね。女優の方も脱いでるが、)も脱いでたからね。どこに需要があるんだか。 また、エスパー魔美とかしずかちゃんが脱がされていたのも同様の理由である。セイラやミライが脱がされていたのも同様だね。さすがに「ゴレンジャーごっこ」はやり過ぎだと思うが。弟子の豪ちゃんに負ける訳にはいかなかったのだろう。 故に、たとえば「スラムダンク」も70年代の連載だったら、まず間違いなく彩子さんや晴子ちゃんは脱がされていただろう。もしかしたら、藤井ちゃんも。まあ、さすがに松井さんは無いだろうけど。いや、あるか、マニアックヌード。 80年代中盤以降、この風習というかムードが薄れていくのは、自主規制という側面もあろうが、漫画家サイドだ単純に「恥ずかしい」と思っての事であろう。漫画家が営業部に反発したのだと思う。 つうのが、70年代の豪ちゃんの反発、というか怒り大爆発で、これに続くという訳でもないけど、80年代で怒り大爆発したのが、ビートたけしである。 これについて、すなわち「わッ毒ガスだ」については今更説明不要であろう。寝る前に、忘れず締めよう、親の首。ば〜さんが、タンポン買って、見栄を張り。 ちなみに、「1990年あたりでビートたけしは現役引退した」みたいなことを書いたけれども、これが仮に90年代でもたけしが現役引退していなかったら、おそらく「オウム真理教事件」は徹底的に笑っていたと思う。「金属バット事件」や「佐川事件」と同等の事をしていたと思う。まあ、さすがに「神戸大震災」や「東日本大震災」は無理だろうけどな。 そういえば、このビートたけしを松本人志の例の事件と比較する向きがあるが、これらは全然違うからな。たけしは、紛う事なき「前科二犯」だからな。傷害罪と飲酒運転だからな。 特に後者の飲酒運転はああいう顛末だったので、なんか死生を彷徨った美談みたいに語られているけれど、全然違うからな。ただの飲酒運転だから。しかも、女の家への行きだか帰りだかでの飲酒運転だからな。全然褒められるところ無いからな。被害者がいなかったから良かったけれども、これで被害者がいて、しかも死んでしまったら、完全アウトだから。もっとも、その場合は、自決はともかく、芸能界は自ら引退していただろうけど。 あと、前者の傷害事件は、フライデー側というか、当時の写真週刊誌の傍若無人にも問題があったので、多少情状を酌量する余地はあるだろうけども、当時の北野さきの言葉は、「死んで、詫びろ」。これが正解。大正解。 これに比して、松本の事件は不倫と乱交パーティーなので、厳密も何も、法に触れない。不倫は夫婦間の問題だから、当然民事だし、乱交パーティーはそれこそフリーセックスというだけの話であろう。当人たちの自由である。現代日本に姦通罪は無い。 強いて言えば、強姦があったか否かであろうが、これははっきり刑事だけど、現状警察が介入していないところを見ると、強姦の可能性は低いのであろう。 それを裁判するしない言ってんだから、何をか況やである。 つか、そんなの、それこそテレビでやれ。「公開テレビ裁判ショー」をやれっつの。それが芸人の心意気だろーが。 A子さんB子さんが出演拒否というのなら、文春の記者だけでやればよいし、文春の記者も厳しいというのなら、それこそ関東芸人を代理人、すなわち弁護士にして戦えばいい。太田とか塙が喜んでやるだろう。まあ、視聴率は保証しないがな。構成作家や芸人の腕の見せ所である。裁判長は、それこそビートたけしに依頼すればよいであろう。ちと、高齢ではあるが。 もっとも、こんなのは、たけしはすでにやってるけどな。ノックバット大道事件で。つか、こっちは完全に刑事事件だからな。完全な傷害罪だからな。警察がすっ飛んできても全然おかしくない事案である。裁判ショー、やってる場合かっつの。 とまあ、こんな事を書くと、「不謹慎だ」等々言い出す人がいるけれど、本来、娯楽というのは「不謹慎」なものである。謹まず慎まぬものである。 かつて、鳥嶋和彦がジャンプの創成期の2大ヒット作が「ハレンチ学園」と「男一匹ガキ大将」だったことに触れ、「娯楽の基本、エンターテインメントの基本はセックス&バイオレンスだ」と説いた。 まったく以ってその通りである。故に、この手の抗議は、性に関するものか、暴力に関するものとなる訳である。それ以外の抗議は聞いた事が無い。まあ、「食べ物を粗末にしてる」とか「交通ルールを守っていない」等々はあるけれど、大問題にはならないだろう。 そうして、もしも、この「セックス&バイオレンス」に対して強い反感を感じるのなら、もう娯楽を身辺から遠ざけるしかない。実際、アメリカあたりでは、そういうピューリタン的宗派の人々が、ほぼ娯楽の無い生活、人生を送っている。慎ましい人生である。 娯楽を求めているくせに、「セックス&バイオレンス」を非難否定するというのは、卑怯だと思う。笑うのはいいが、笑われるのは嫌だという事である。たまにいるよね、そういう人。ほんと卑怯だと思う。それこそ人倫に劣るであろう。 もし、笑られるのが嫌なら、笑うのも控えるべきであろう。実際、侍はそういう生き方をしていた訳である。大久保利通や武市半平太のような人格は、あそこまで極端でないにせよ、それなりにいたのだ。そうして、彼らは、笑われたら切腹した。 つー訳で、今の芸能界やテレビ業界、とりあえず「勝ち抜きブス合戦」やってみたら。そうして、それを深夜枠なんかで放送するのではなく、昼の時間帯、あるいはゴールデンタイムで放送すべきであろう。 素人の女性の参加が難しいというのなら、それこそ、うじゃうじゃいる女芸人を使えばいい。はっきりさせておくべき事だろう。誰が美で誰が醜かを。そのカーストを。 ちなみに、本物のというか、かつて放送されたというか、ビーチたけしが司会をした「勝ち抜きブス合戦」の優勝者は、泣いたらしい。無論、悲しくて。 ついでに、ビートたけしの優れている所をもひとつ書いとくか。それは「全てできる」という点である。ボケてよし、ツッコんでよし、コントが出来て、漫才・漫談も出来る、落語はよく分からんが、持ちギャグ(コマネチ)、持ちキャラクター(鬼瓦権蔵)もある、そんな芸人、他にいないでしょ。オールイン、ファイブツール芸人がビートたけしなのである。 こんなことを書くと、私がビートたけしを史上最高の芸人のように思っているかのように思われるが、史上最高は他にいる。由利徹である。たけしもあの域を狙っていたようであるが、それはさすがに無理だったみたい。あの領域とは、「何もしなくても面白い」「居るだけで面白い」という領域である。まあ、由利徹の場合は、石井輝男の指導もあったのかと思う。芸人の努力や才能だけでは、あの領域は難しいだろう。 あともひとつ、ビートたけしについて書いておくか。これは最近の人は知らないであろうビートたけしの美点なのか短所なのか、よく分からない特徴というか、習慣というか癖というか、何というか、当時のたけしは番組をよく休んでいたのだ。遅刻とかじゃなく、本当に欠席、収録に来ないのである。後期の「オールナイトニッポン」なんか月イチペースくらいで休んでいたし、「俺たちひょうきん族」なんか、ひどい時は月に3回くらい休んでいた。4回のうち3回休んでんだよ。明石家さんまがガチキレしてたよ。「たけしさん、いい加減にしてくださいよ。」。 今、そんなタレント、いないよね。いや、いても困るが。 ちなみに、この「ビートたけしの休み癖」、90年代に入るとピタリとやんだ。心境の変化か、めっちゃ怒られたか、契約が変わったか、はたまたオバケが出なくなったか。 話はちょっと変わるが、「石井輝男」の名前が出たので、石井輝男の面白エピソードをひとつ。 とある映画に、石井輝男はなんと、あの阿部定にガチで出演オファーした。当時60代くらいで、まだご存命だったのだ。 そうして、撮影現場に来た阿部定を、なんと土方巽とならんで二人して鑑賞(?)、感想を述べ合ったそうである。「意外に普通なんですねえ」とか「意外に若いんですねえ」とか。 まあでも、本物の阿部定を映画に出演させるあたり、石井輝男もまた、「ガチとヤオの問題」をはっきり意識していたという事だろう。彼の演技理論も、まさしく「ガチとヤオの弁証法」である。 まあ、石井輝男は、あの有名なスチール写真一枚あれば、十分だけどな。あれが全て、本当にすべてを物語っている。 とまあ、「ガチとヤオの問題」という言葉が出てきたので、続いて「ヤオガチ論争」について。 私が、この数か月、プロレスや「ヤオガチ論争」についてダラダラ書いてきたのは、ここら辺にかかわる言葉、概念、すなわち「ヤオ」や「ガチ」、「アングル」「ギミック」等々が、プロレスのみならず、広くエンターテインメント全体に応用が利くからである。そうして、そういうエンターテインメント全体の構造をもっとも端的に、はっきりと表象している、輪郭を露わにしている、あるいは問題化しているのがプロレス業界であると思っているからだ。 たとえば、この記事の冒頭でテレビドラマを話題にしたけれども、昨年の同時期、話題にしたテレビドラマは「孤独のグルメ」である。この10年くらいでは最も成功したテレビドラマといってよいであろう。なにしろ、ほとんどテレビを見ない私ですら知っている、あるいは視聴しているテレビドラマである。大成功といってよいであろう。 そうして、このドラマは、つまり、従来のテレビドラマより「ガチ」を強めにしたものである。すなわち、「ガチ」成分を強めたドラマ、「ガチ」成分を濃くした「ヤオ」といってよいであろう。そうして、それがこのドラマの成功の大きな理由のひとつである。 また、この50年くらいで登場したまったく新しいエンターテインメントにテレビゲームがある。これまた、「ガチ」成分を強めた「ヤオ」、「ガチ」との距離を縮めた「ヤオ」といってよいであろう。 確かに、ゲームそのものは「ヤオ」である。「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」のようなRPGであれ、「MADDEN」のようなスポーツゲームであれ、「R−TYPE」のようなシューティングゲームであれ、それ自体は「ヤオ」であろう。 ところが、そこに「プレーヤー」という「ガチ」が加わることによって、まったく新しいエンターテインメントが生まれるのである。すなわち、それぞれのゲーム「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」、「スーパーマリオブラザーズ」等々は皆共通というか、皆同じであるが、そこに個々の「プレーヤー」が加わることによって、それぞれにまったくオリジナルな唯一の物語が生まれるのである。受容の仕方はともかくとして、結局のところ単一の物語でしかない「小説」や「映画」、「漫画」等々から多くの人々が離れていったのも当然であろう。だって、そこにあるのは自分だけの物語、冒険なのであるから。 まあ、アドベンチャーゲームのように、マルチエンディングが用意されていても、事実上唯一、あるいは有限の物語しかないテレビゲームもなくはないが、それは特殊な例外とみるべきであろう。 ちなみに、出来の悪い将棋ゲームは一本道になるよね。出来というよりは、マシン、プログラム等々のレベルの問題なのだろうけど。 また、「アングル」や「ギミック」といった言葉も非常に便利、あるいは有意である。 たとえば、「ジャンプ漫画史上もっとも優れたギミックを3つ挙げよ」という問いの答えはこうなるであろう。 「サイコガン」、「秘孔」、「スタンド」の3つである。 「サイコガン」の元ネタ、アイデアの源泉は「座頭市の仕込み杖」だろうけど、「杖」に「刀」が仕込まれているのと、「腕」に「ガン」が仕込まれているのではインパクトが全然違う。しかも、そのエネルギー、弾丸は「サイコ」、「精神エネルギー」だというのだから、恐れ入る。素晴らしいアイデア、「ギミック」だと思う。 実際、その後、体の部位を武器にするという「ギミック」は、マンガに限らず、あらゆる作品でパクられている。ただ、「サイコガン」を超える「ギミック」には未だ誰も到達していない。 次の「秘孔」。 これの元ネタというか、アイデア自体は、もしかしたら「必殺」の制作グループがそこに到達していたかもしれない。ただまあ、それを実写にされてもねえ。まあ、さすがに「放送禁止」であろう。 さらに、もしかしたら、この「アイデア」が何らかの形でジャンプ編集部や原哲夫に到達したのかもしれない。 まあ、そのへんのオリジナル問題はともかくとして、素晴らしいアイデア、「ギミック」であり、「お前はもう死んでいる」というセリフと合わせて、この手の「殺し方」としては最高のものであろう。この手の作品を制作している世界中の人々の悔しがる姿がはっきり目に浮かぶ。そうして、現時点でも、これを超える「殺し方」、「ギミック」はない。 んで、「スタンド」。 これについては以前どこかで書いたので、再述はしない。「超能力」を表現する、現時点においても最高の「ギミック」である。 この3つはジャンプ史上最高というか、もしかしたら日本マンガ史上最高、いや世界エンターテインメント史上最高の「ギミック」かもしれない。私はこれ以上のものを知らない。 このいずれもが80年代のジャンプから生まれたというのは、いかに当時のジャンプの編集部が優れていたかを示す数多い証左の一つであろう。 この3つに対抗しえる「ギミック」として、強いて挙げるなら「バルキリー」「ヤマト」といったところか。ちなみに、この2者、いずれも「ヤオとガチを近づけたもの」である。ここでも、「ヤオ」と「ガチ」は出てくるのだ。 で、この3つ、「バルキリー」と「ヤマト」を含めた5つといっても良いが、「アングル」に優れているかといえば、決してそんな事はない。いずれも「アングル」そのものは平凡、凡庸である。 「コブラ」はアングルそのものは、どこにでもある典型的な「スペースオペラ」であるし、「北斗の拳」は単なる「勧善懲悪もの」、「ジョジョ」はコテコテの「バトルもの」である。 「マクロス」は、これは単純な「ロボットもの」とは言えない、というか、種々雑多は「アングル」や「ギミック」を詰め込んで収拾がつかなくなった作品であり、それを唯一優れた「ギミック」といっていい「バルキリー」が救った作品といえるであろう。仮に、この作品にジャンプ編集部が関わっていたとしたら、もっと整理整頓して「単純な話」にしていただろう。そういった意味では、「マクロス」は若気の至り、典型的な若書き、若いエネルギーの充満窒息した作品だったとも云える。 「ヤマト」のアングルに関しては、優れているかと言えば、微妙だろうけど、斬新なアングルだったとは言える。前例は、ちょっと思いつかない。ジャンル的には「お使いもの」になるのだろうけど、それを宇宙規模でやり、そこにミリタリー的味付けをしたのは「ヤマト」が初めてだったと思う。しかも、その後もない。かなり独特な作品ではある。 そのへんのニュアンスの違いはあるが、「マクロス」「ヤマト」も含めて、これら5作品のヒットの理由は、誰がどう考えたって、「サイコガン」「秘孔」「スタンド」「バルキリー」「ヤマト」という「ギミック」である。 実際、これらの作者、制作者たちは、これを超える「ギミック」を考え出せず、苦しんでいる。荒木飛呂彦が「ジョジョ」、すなわち「スタンドが出るマンガ」しか書かない理由は、これである。 では、「マンガやアニメ史上に残る優れたアングルは何か」と問われたら、それはもう「沢山あって優劣が付けられない」と答えるしかない。そもそもヒットするマンガやアニメというのは「巨人の星」であれ「ベルサイユのばら」であれ「キャプテン」であれ「うる星やつら」であれ、大概「アングル」に優れているものだ。まあ、「プロット」といっても良いかもしれない。 勿論、鳥山明やちばてつやのように「アングル」的にも「「ギミック」的にも全然優れていないにも関わらず、大ヒット、メガヒットしてしまう作家もいるにはいるが、それは特殊な例外といってよいであろう。鳥山明については「打順論」の方で書いてますので、そちらをご参照ください。まだ、途中だけど。 ちなみに、優れたとは違うかもしれないが、前代未聞空前絶後の「アングル」は「ど根性ガエル」だと思う。この「シャツの中で生きているカエル」が「アングル」か「ギミック」かは微妙な問題かもしれないが、私はとりあえず「アングル」だと思う。 にしても、前代未聞空前絶後唯一無二の「アングル」である。似たようなものがまったく思いつかない。 一方、プロレスの世界で最も成功した「アングル」はといえば、これまで再三再四書いてきたように「長州力と維新軍」、すなわち「勝利・友情・努力」という鉄板、あまりに固い鉄板アングルであろう。 一方、優れた「ギミック」はというと、これは色々意見が分かれるであろうが、私なんぞがパッと思いつくのは、やはり「アブドーラ・ザ・ブッチャー」である。 黒人の空手家、なのにアラブ風の名前、しかもデブ。そうして、何といっても、その名「ブッチャー」。アメリカ人、というか英語がネイティブの人の耳に如何様に聞こえるのかは分からないが、日本人、とりわけ日本の子供たちの耳には、一度聞いたら忘れられない名前であろう。ブッチャー。 ちなみに、私が、そのブッチャーの意味が「肉屋」だと知ったのは、高校生くらいになってから、いや二十歳を過ぎてたかもしれん。それくらい、当時を子供として生きていた日本人にとって「ブッチャー」という言葉は、「頭から血を流している黒人のデブ」だったのである。 まあ、そのアラブ風のイメージは「タイガー・ジェット・シン」と同様なので、そういうギミックなりアングルなりが、当時のプロレス界で流行っていたのであろう。モハメド・アリの影響もあったのかもしれない。また、オイルマネーを武器に中近東諸国がアメリカの新しい敵としてのし上がってきたというのも遠因ではあろう。 アングルの徹底、効果という意味では、シンに軍配は上がるだろうけど、ギミックの面白さ、キャラクターの強さという意味では、ブッチャーに軍配が上がると思う。 実際、当時、というか、今でもそうだろうけど、「ブッチャー」という言葉やイメージは、プロレス以外の世界でも多用されている。有名処では「ザンボット3」。 そうして、「キン肉マン」に元ネタとして登場しなかった(初期の「怪獣」にいたかもしれない)数少ないプロレスラーでもある。「本物」のイメージが強烈過ぎて、使いづらかったのだと思う。「ブッチャー」それ自体が、完成した「超人」、キャラクターである。 また、「キン肉マン」とは逆に、「マンガ」を現実の「プロレス」に持ち込んで大成功したギミックと云えば、それは、申す迄もなく、「タイガーマスク」である。 当時、私は「タイガーマスク」を見てた、いや、期待して見てたくらいだけど、正直言って、あまりノレなかった。子供心に「なんか違うな〜」と思ってた。 このプロレスの「タイガーマスク」が「『タイガーマスク』なのか『タイガーマスクU世』なのか」という大問題があるし、「フジヤマ・タイガーブリーカーを使わない」という大問題もあるけれど、それらはともかくとして、このプロレスの「タイガーマスク」にはアニメの「タイガーマスク」のもっとも肝心肝要なアングルがごっそり欠けていたからである。当時、アニメの「タイガーマスク」が大好きだった私には、その点がもの足りなかったのだ。全然足りなかったのだ。 「タイガーマスクは大人気だった」とはよく語られているし、まあ実際その通りだろうけど、私のような心持の子供も少なからずいた筈である。このタイガーはテレビのタイガーじゃない。 では「テレビのタイガー」の最も重要な「アングル」は何かといえば、それは、申す迄もなく、「『虎の穴』を裏切った伊達直人が、『虎の穴』で学んだ反則技を使わずに、『虎の穴』の刺客と戦う。そうして、その象徴として『タイガーマスク』がある」という、このようにタイピングしてても興奮必至の素晴らしい「アングル」、「プロット」である。 すなわち、本来「悪の象徴」、あるいは「悪役の象徴」として与えられた「タイガーマスク」、「虎の仮面」が、ここでは「ベイビーフェイスの象徴」、「善の象徴」に転換しているのである。なんと素晴らしい「アングル」、そうして、なんと素晴らしい「ギミックの用い方」。 故に、最終話で、「タイガーマスク」をはぎ取られた、あるいは、はぎ取った伊達直人が反則技、残虐技を用いて、敵を倒すことに、素晴らしいカタルシスがあるのである。元祖「リミッター解除系」でもある。まさしく、物語の終わりである。私はどこかで「最終回は難しい」と書いたけれども、これは見事な成功例であろう。「タイガーマスク」が消滅したことで、物語は終わるのである。「機動戦士ガンダム」の最終回で、ガンダムがア・バオア・クーの闇に消え、コアファイターが乗り捨てられたのと同じである。 そう、「タイガーマスク」は優れた仮面劇でもあるのである。このほかに、優れた仮面劇というと「パーマン」があるが、それについては、いずれどこかで。 あと、「仮面ライダー」もあるにはあるけれど、あれは「仮面」というよりは「変身」の物語だからねえ。仮面劇ではない。 文学の世界だと、パッと思いつくのは「仮面の告白」であろう。まあ、こちらは三島由紀夫の作品なので、先に挙げた2作品に比して、複雑怪奇、魑魅魍魎であり、作者三島のその後の事跡、顛末を合わせて考えなければ解きほぐせない物語、つうか小説である。ヒマな方はいかが。俺はしねー。 そのほか、世界に目を向けると、パッと思いつくのは「黄金仮面の王」あたりだろうけど、誰もショオップなんか読んでねー。 まあ、「仮面劇」というのは、題材が題材なだけに、「小説」や「映画」のようなそこそこのリアリティが求められる芸術形式には扱いづらいテーマではあろう。我々が普通に生活していて、「仮面を被る」事はほぼ無い。大昔のヴェネチア人や現代のプロレスラーくらいであろう。三島由紀夫の「仮面の告白」にしたって、登場人物が仮面を被っている訳ではない。あくまで、象徴としてのタイトルである。いや、被ってんの。高校生の頃の読書なんで、全然覚えてねー。 という訳で、仮面劇というのは「漫画」や「アニメ」のような、ある程度の荒唐無稽が許される芸術形式じゃないと難しいかもしれない。あとは、ある種の推理小説、探偵小説ね。「佐清」とか「怪人二十面相」とか。 いや、実際、現実の世界で、いくら正しい人間で正義の使者だといったって、スーパーマンとか月光仮面とか仮面ライダーとかゴレンジャーとか、あんな珍妙な恰好をしていたら、それ以前の問題でしょう。警察が格式ばった格好をしているのにも、当然意味はある。 この「ヒーロー」の異常性、フリーク性に勘付いたのは、さすがティム・バートンといったところであろう。 そうそう、有名な「仮面」といえば、「シャア・アズナブル」がいる。 シャアの仮面の面白さは、なんといっても、視聴者は無論の事、登場人物の多くがその正体を知っているという点である。そんな仮面、意味ねー。 そうして、シャアというキャラクターの面白さは「仮面」よりも、「素顔」の方が全然分かんねーって点である。何をしたいのか、何を目的にしているのか、全然分かんねーのが「素顔」のシャア・アズナブルである。 まあ、オリジナル、つうか所謂「ファースト・ガンダム」だけなら、「ザビ家の滅亡」というはっきりした目的があっただろうけど、その後の「Z」や「逆襲のシャア」は全然説明がつかねー。 何が何やら分からない、目的や動機が全然分からない、なんなら当の本人や富野由悠季ですら分かんないっていうのが「シャア」の魅力、特異性なのかもしれん。 まあ、尤も、普通の軍隊なら、あんな仮面を被っている奴を士官にはしないけどな。下っ端兵士だって厳しいだろう。 ちょっと話は逸れるが、「ガンダム」というと、何から何まで富野喜幸が作ったという事になっており、本人もそのつもり、あるいは、そういう風に振舞っているけれど、「ガンダム」って作品の作者は富野喜幸じゃないよね。少なくとも、藤子不二雄の「ドラえもん」とか鳥山明の「ドラゴンボール」とか宮崎駿の「風の谷のナウシカ」とかと同じ意味、同じレベルで「作者」「原作者」とは言えないであろう。 「ガンダム」の企画に、富野喜幸がどの段階で参加したかは分からないけれど、「ガンダム」という作品の1/3は確かに富野喜幸作であろう。でも、残りの1/3は「スタジオぬえ」、残りの1/3は「クローバー」の作品だったと思う。この点については、いずれ書くであろう「機動戦士ガンダム論」で詳述したい。いつになっか分かんないけどな。 ちなみに、「Zガンダム」以降の「ガンダム」の作者は、これはもうはっきりしてる。「バンダイ」である。異論の余地がない。完全に「ガンプラを売るための作品」、それが「Zガンダム」以降の全ての「ガンダム」である。 例えば、何故、「ZZガンダム」のプラモデルの変形が容易いのであろう。理由は簡単である。「バンダイがZガンダムで懲りた」からである。Zガンダムが、当時というか、現在においても同様だけど、非常にプラモデル化しにくい構造のため、それに懲りたバンダイが、プラモデルで変形可能なデザインとして制作したのがZZガンダムである。富野喜幸の意向は全くない。 そのバンダイ制作のモビルスーツをアニメに登場させたのが「Zガンダム以降の全てのガンダム」である。 一方、初代の「機動戦士ガンダム」、所謂「ファースト・ガンダム」に登場するモビルスーツをプラモデル化したのが、当時の、すなわちガンプラブーム時の「ガンプラ」である。ベクトルが逆である。 まあ、このへんの関係は「イデオン」の「イデ」だよね。バンダイという「イデ」に右往左往するのが、富野喜幸以下制作者陣であり、更には視聴者達といえるであろう。このへんのアニメ業界、とりわけロボットアニメ業界の状況を戯画化したのが「イデオン」という作品だったともいえるかもしれない。こういう構図、制作者のその時の状況を戯画化する、作品化するという意味では、先に挙げた「デビルマン」に似てるともいえる。 でも、オリジナルの「機動戦士ガンダム」という作品は、こうした状況への猛烈な反発、出来る限りの反発というのが作品の大きな原動力、魅力となっていた作品だけに、それが完全に失われた「Z以降のガンダム作品」を同じガンダム作品としてみるのは、どういうもんかとも思う。「機動戦士ガンダム」と「Z以降のガンダム」って全然違う作品でしょ。まあ、「ガンダム」という「仮面」を被ってりゃあ、皆同じか。 ちょいと話は逸れたが、アニメの「タイガーマスク」の魅力は、そのエッジの利いた作画も無論の事、その「仮面劇」としての面白さにもあったと私は思うのだ。 ちなみに、この「アングル」あるいは「プロット」は当時の制作陣も気に入っていたらしく、「タイガーマスク」終了後、その「アングル」をそのまま連続採用して作ったアニメが「デビルマン」なのである。「悪から力を得た裏切り者ヒーロー」というプロットはまったく同じでしょ。もっとも、「仮面」という「ギミック」がないために、その点の魅力は失われたが。 「デビルマンの原作は永井豪ではないか」という反論もあろうが、このへんの経緯は部外者の私には分からん。一般に、というかジャンプアニメ以降しか知らない世代は「漫画のアニメ化」というと、「必ず漫画が原作」という固定観念があるかもしれないが、ジャンプアニメ以前は、そこまで確固たる関係、どちらが主でどちらが従かはともかく、明確な主従関係は無かった。タイアップ、あるいはメディアミックスの一環として「アニメ」と「漫画」がそれぞれに存在する場合もあった。 「デビルマン」は企画というか、発案自体は東映側だったかもしれない。それを異常に膨らませたのが「漫画版、あるいは永井豪版デビルマン」だったといえるとも思う。 ちなみに、この「悪から力を得る」という「アングル」は当時流行っていたらしく、「仮面ライダー」も同様である。もっとも、それを最もドラマチックにしたのは「タイガーマスク」だったといえよう。そうして、そこには「仮面」という「ギミック」が必須だったのである。「デビルマン」と「仮面ライダー」に、「仮面」は無い。 「デビルマン」は正体を隠してはいるけれど、それを脱ぎ捨てることができない。確か、最終回で正体を明かしたと思うけど、「タイガーマスク」ほど劇的でないのは、その象徴としての「仮面」が無いからである。 「仮面ライダー」は「仮面」を被ってはいるけれど、こちらは、敵も味方もほとんどがその正体を知っているので、「仮面」としての機能は皆無である。あくまで「変身もの」であろう。 つー訳で、アニメの「タイガーマスク」の面白さには、これらの「アングル」「ギミック」が必須だったわけだけど、現実の、というかプロレスの「タイガーマスク」には、当然ながら、これらはごっそり欠け落ちている。あるのは「覆面」としての「タイガーマスク」という「ギミック」のみである。 そうして、その人気の理由は、言うまでもなく、アニメの「タイガーマスク」的な「アングル」や「ギミック」では全然なく、その唯一無二の「四次元殺法」である。 「虎の覆面」はかえって、邪魔なくらいである。実際、それ無しでも佐山はイギリスで人気爆発だった。 で、これを勘違いしたのが、プロレス的アングルやギミックにはまるで鈍感なジャイアント馬場である。タイガーマスクの人気の理由を、その「虎の覆面」にあると思ったのだ。 で、三沢に被せたのであるが、全然人気は出ない。かえって、三沢を苦しめただけに終わった。もっとも、その三沢が「マスクを脱ぎ捨てる」という「アングル」が大いに受けたのだから、結果オーライだったとは言える。まさか、そこまで計算しての「アングル」ではなかったろう。 ちなみに、このアニメや漫画といったフィクションを現実化する「アングル」は他にもあって、「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」がそれである。当然、不発である。子供達の失笑を買うだけに終わった。 「キン肉マン」を現実化するという「アングル」もあったらしいけど、これはジャンプ編集部の反対にあって、ポシャッたらしい。当時のジャンプ編集部の優秀性を示す数多いエピソードの一つであろう。同じような事をして失敗したのが、ビートたけし。 ダラダラ書いてきたけど、事程左様に、プロレス的な考え方、プロレス的構造というのは、エンターテインメント一般を考えるのにも非常に役立つものなのである。それには、プロスポーツまで含まれる。 「アングル」や「ギミック」というのは、もしかしたらアメリカあたりの演劇用語なのかもしれない。その語源はともかくとして、エンターテインメントという業界の輪郭をものすごくはっきり顕すのがプロレス業界なのである。故に、そこで使用される言葉はエンターテインメント業界を理解するのに非常に有益である。役立つ。「人気者」や「ベイビーフェイス」「ヒール」といった概念も同様だよね。 そうした「アングル」の中で最も強烈であり、功罪半ば、というか罪の方が多いアングルが、これまで何度も語ってきたように「ガチとヤオを近づける、曖昧にする」なのである。 その後遺症に苦しんでいたのが90年代00年代のプロレス界であり、昨今のテレビ界であるともいえるだろう。「ダマされていた」事に気付いてしまうからだ。 そういう、「ダマされていた」事に気付いてしまった業界のひとつが「Jリーグ」であると言おうとして、そのままになっていたのが、いつぞやの記事。続きを書こうと思ったら、こんなになっちゃった。次回こそ書きます。次回こそ。 ついでに、NFLね。 最終週のゲームは「バイキングス対ライオンズ」を見た。 ダーノルドのおよそ上等でない、というか不細工なクォーターバッキングを堪能した。バイキングスはどうするんでしょ。「ダーノルドが結論」っていう訳にはいかなかいだろう。 でも、そのバイキングスは14勝3敗でフィニッシュ。何故か。答えは簡単。AFC三波伸介地区と当たっているからだ〜。しかも、調べてみたら4戦4勝。あと、NFC西寛一地区とも当たっているのだ〜。調べてみたら3勝1敗。これもデカい。あと、何気にジャイアンツやジェッツと当たっているのもデカい。2戦2勝。別に非難するつもりは無いけど、こういう「スケジューリングの妙」ってあるよね。 「スケジューリングの妙」っていえば、ブロンコス。 第16週の「ブロンコスvsチャージャーズ」の記事で、「よほどの事のない限り、両チームともにプレイオフは安泰」みたいな事を書いたら、よほどの事が起きた。 その第16週から、ベンガルズが、「まさかの」って訳でもないけど、3連勝。第16週のブラウンズはともかく、第17週でブロンコスとの直接対決を制し、最終週ではスティーラーズも撃破。プレイオフをぐっと手繰り寄せた。ブロンコスが負ければ、プレイオフ進出決定である。 ブロンコス、つうか私は窮地に追い込まれた。でもダイジョーブ。私には安心保険があるから。絶対安心保険があるから〜。それは最終週の「チーフスvsブロンコス」があるから〜〜。 まあ、このカード、第17週以前にスケジューリングされていたら、ブロンコスはチーフスに軽くひねられていたよね(失礼)。でも、ダイジョーブ、絶対安心保険が発動してま〜〜す。最終週のチーフスは完全消化試合で〜〜す。結果は、まさかのというか、やっぱりというか、38−0でブロンコス勝利。絶対安心保険、発動しました〜。 いや、この結果、おおよそ予想がつくとはいえ、ベンガルズ関係者、ベンガルズファン、キレるよね。とりあえず、「八百長だ〜〜。」で叫ぶよね。でも仕方ない、それが「スケジューリングの妙」だから。 一応、プレイオフの予想しとくか。 今季は両カンファレンスともに、上位2チームが頭一つくらい力が抜けていると思う。ビルズのゲームは全然見てないけど、チーフスvsビルズ、ライオンズvsイーグルスの決勝にそのままなるんじゃないかなあ。 AFCは、そこに我らがハーボーがどれだけ絡むか、いや、ちょっかいを出すかという展開になると思う。あと、ベンガルズが出てたら、面白かったよね。でも、出れませ〜ん。それが「スケジューリングの妙」で〜す。 あと、仕方ない。コルツについても触れておくか。 最後の2試合は、何故かフラッコーが先発(リチャードソンがケガしたらしい。どうでもいいや。)、結果は1勝1敗。んで、8勝9敗でシーズンフィニッシュ。 感想は、ありません。 報道によると、アーセイは、来季もバラード体制継続を宣言してるらしい。正気か。正気か。 アーセイも老いたのかと思い、「オーナー70歳定年制」をぶちあげようかと思ったが、アーセイの年齢を調べてみたら、まだ65歳、1959年生まれ、わけーよ。痴呆か、痴呆なのか、若年性痴呆症か。 昨年の夏に大病を患ったらしいけど、にしてもだ。コルツの来季は暗い。アステロイド・ベルトより暗い。 こういう時は、我らがハリソンJr.様のスタッツでも見て、自らを慰めよう。 シーズンスタッツは、17試合出場、62レシーブ、885ヤード、8タッチダウン。 悪くはない、悪くはないが、しかし。 一方、ライバルと目されていたマリク・ネバースのスタッツはというと、 15試合出場、109レシーブ、1204ヤード、7タッチダウン。しかも、ジャイアンツ。 前にも、どっかで書いたけど、レシーバーの成績って、あんまQB関係ないんだよね。 いや、分かってたよ。スカウティングレポートを一目見た時から、イヤな感じはしてたよ。心の奥の奥、最深層心理、心の闇、イドのレベルでは、「ネバースかな〜」って思ってたよ。 いや違う、断じて違う、ハリソンJr.様絶対主義じゃ〜〜い。 うるさい。 ずいぶん長々と書いちゃいました。「新年特大号」って事で許してチョ。 では、本年もよろしくお願いしま〜〜す。 2025/1/11(土) |