インディアナポリス研究会コルツ部

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2024年
10月
第3週第4週
あれこれ
 ヤッターー、ホームドラマチャンネルで「大都会PARTU」放送開始〜〜〜。

 10年位前にどっかのチャンネルで放送されていて、その後、また放送されないものかと待ち構えておったのであるが、私の監視下には入らず、10年近い歳月が流れた。いや、正確な歳月は分からん。とにかく永い永い歳月。

 松田優作といえば、「工藤ちゃ〜ん」とか「鳴海さ〜ん」とか言ってる奴は甘い、甘っちょろい。一部、いや、極々一部の優作ファンの間では、「徳吉功」こそ最強なのだ〜〜〜。これ常識。

 いやだって、背広の襟を立ててんだよ。コートじゃないよ。背広の襟だよ。そんな奴いるかっつーの。そんなファッション流行らねーーっつの。

 その他にも、「徳吉」には言いたい事がそれこそ山ほどあるのであるが、とりあえずこんな刑事が実在したら、私は警視庁に鬼電する。すぐ辞めさせろっ。毎日100通、抗議の手紙を送る。すぐ辞めさせろっ。

 倉本聰も逃げ出す、そんな最低刑事が登場するのが「大都会PARTU」なのであるが、その他の見どころは、つうか全話面白い。

 そんなバカエピソード、バカシーン満載の「大都会PARTU」、中でも見逃せないのは、やっぱ三上寛だな。2回出てくる。

 この三上寛、杉作J太郎先生の情報によると、なんと、あの「探偵物語」(無論、映画じゃない方)で「工藤ちゃんの相方」として予定されていたらしいのだ〜〜。

 んで、事実上のプロデューサーである松田優作が出演交渉したらしいのであるが、そん時の三上寛の回答は「音楽に集中したいから」。そうだよね、三上寛は歌手だもんね、音楽に集中しなきゃね。

 って、バカ。三上寛が「工藤ちゃんの相方」として出演していたら、「探偵物語」の目の上のタンコブであろう「傷だらけの天使」のを超えたと思う。超えないまでも肉薄したと思う。萩原健一&水谷豊に対抗できるコンビは松田優作&三上寛しかいないよね〜〜。まあ、二代目イレズミ者くんも良くやってたけどな。三上寛とは比べらんね〜。

 あと、松田優作といえば、この女、風吹ジュンもしっかり出演しております。しかも恋人役で。しかも大物ヤクザの娘で。

 申し訳ございません、つい取り乱してしまいました。大変失礼いたしました。

 つか、俺の髪型、気が付いたら、石橋蓮司みたいになっとる〜〜。ヤバいよヤバいよ、刑法に触れちゃうよ。懲役18年だよ。ヤバいよヤバいよ、どげんかせんといかん。


 さて本題、と言いたいところであるが、例によって例の如く、またも永い永い前置き。

 前回の記事で「プロアマ論」的な事について書いたのであるが、その後色々思うところもあったので、付け足しという訳でもないが、一種の補遺として、この事について、もう少し書きたいと思う。お付き合い願いたい。「いい加減にしろっ」つう声も聞こえるが…。聞こえない聞こえない。

 数年前の事であるが、プロ棋士の藤井七冠(当時は八冠、つうか全冠だったかな。)が、「今の目標は、」みたいな質問に、「もっと強くなりたい。」と答えていた。

 七冠ないし八冠、つうか全冠の棋士の目標が「もっと強くなりたい。」というのは、受け取り様によっては、強烈な皮肉であるが、中村太地八段(当時は七段だったかな。)は真摯に受け取っていた。非常に感銘を受けていた。

 「もっと強くなりたい。」というのは、プロ棋士、というかプロスポーツ選手である以上、当然至極な「目標」、というか「基本姿勢」であろうが、中村八段は、すっかり忘れていたのであろう。いや、多くのプロ棋士が失念してしまった言葉のであろう。そのすっかり忘れてしまった言葉を棋界の頂点に立つ棋士から、ごくごく自然に発せられた事に、感銘を受けた、というよりは、ショックを受けたのである。

 ただまあ、仕方のない側面もある。というのも、多くの棋士、いや、ほとんど全ての棋士が、プロ棋士になった瞬間、つまり奨励会の三段リーグを抜けた瞬間、「もっと強くなりたい。」という目標ないし基本姿勢を捨ててしまうからだ。というより、「強くなる」必要性を失ってしまう。

 ひとたび「プロ」になってしまえば、「タイトル戦常連」から「万年C級」までレベルは色々あろうが、「プロ棋士」としての地位は、まずまず「安泰」であろうからだ(まあ、刑法レベルの問題を起こして、「退会」せざる得ない橋本八段みたいのもいるけどね。これは特殊な例外。)。相当「弱い」棋士でも40歳前後まで「プロ棋士」としての地位は安泰だろうし、平均的な棋力の棋士は65歳前後、すなわち一般社会人、公務員やサラリーマンと同等の年齢まで地位は保証されている。喰いっぱぐれることはない。

 しかも、一般の社会人、すなわち公務員やサラリーマンと違って、「副業」が認められている。というか「推奨」されている。すなわち「普及活動」である。大山名人の「プロ棋士は対局より普及の方が大事」という言葉が大きな後押しになっているのだ。もっとも、この単純な「言葉」は、いかにも深慮遠謀な大山名人らしく、よくよく考えてみると、ただ事ならぬ「意味」があるのであるが、それはまた別の話。いずれにせよ、多くの棋士はこの言葉「プロ棋士は対局より普及の方が大事」に後押しされ、というか後ろ盾にして「普及」に勤しんでいるのである。小遣い稼ぎ、というか生活費を稼いでいるのである。

 ちなみに、この「普及活動」であるが、過去100年近いプロ棋士の歴史の中で、最も大きな、というか巨大な成果を上げたのは、申す迄もなく、藤井全冠である。かつて先崎九段は語っていた。「オレが40年かけても成し遂げられなかったものを、藤井君はたった半年で成し遂げちゃった。」。これは無論、「戦績」ではなく、「普及」の話である。

 この「プロ棋士」の現況をどう見るかについては、意見が分かれるところであろうが、現状のプロ将棋界が、ほぼ「競争」の場ではなくなってしまっている事は間違いない。

 証拠はいくらでもある。例えば、「かつては強かった棋士が齢30を超えるあたりから成績が降下する」なんていうのも、これを裏付ける証拠の一つである。彼らは実際は強いのである。

 例えば、井上慶太九段が、それこそ藤井全冠と対局した際に、なんとなく指していたら、自分が優勢になっていたというのである。そこから、「読みに読んだ」らしい。それこそ20年振りくらいに「読みに読んだ」らしい。そうして、結局(この言葉の使い方、おかしいかな。)、藤井全冠に勝ってしまうのである。

 同じような事は森下九段も言っていた。「自分の昔の棋譜、それこそ20代の頃の棋譜を調べると、当時の自分がすごく読んでいた事が分かるんですよ。でも、いつ頃からか、読めなくなってしまったんですよねえ。どうしてでしょうかねえ。」。

 「読めなくなった」のではない、「読まなくなった」のである。

 ただまあ、これは仕方のない側面もある。棋士も30歳を超えたあたりから、「家庭」を持つであろうし、「普及活動」も忙しくなるであろう。また、「連盟の経営」や「後進の指導」など、「対局」以外の「日本プロ将棋連盟員としての仕事」も増えていく。所謂「社会人」になっていく訳である。純粋に「対局」に費やす時間は減っていく。

 かてて加えて、上記したような「プロ将棋界」のぬるま湯状況が、多くにプロ棋士をますます対局から遠ざけていく。奨励会時代のように、あるいは将棋を初めて覚えた10歳前後のように「強くなりたい」という気持ちは日々薄まっていくし、人によっては、完全に消失してしまっているであろう。なにしろ、井上九段や森下九段のような実力者、かつてのA級棋士ですら、あの体たらくなのだから、それ以下の凡百の棋士達は…。

 そうした中で、藤井全冠の「もっと強くなりたい」である。中村八段ならずとも、ショックを受けたと思う。

 ただまあ、先に挙げた諸々の事情を抜きにしても、藤井全冠が今後「もっと強くなれる」かは微妙なところであろう。他の棋士と棋力の差があり過ぎるからだ。しかも、ここで述べているように「目標」や「基本姿勢」が他の棋士とは全然違う。「もう、この人たちと指していても強くなれないなあ。」と思い始めているからもしれない。口が裂けても公言はしないだろうけど。でも、もしかしたら、「プロ棋士は引退します。これからはAIとのみ将棋を指します。」って言いだすかもね。

 ちなみに、同じような問題を羽生永世全冠はどのように解決したかというと、「もっと強くなりたい」をいくらか抑えて、そこに「もっと将棋を知りたい」を混ぜ込んで、気持ちを紛らわせたのだと思う。納得させたのだと思う。羽生永世全冠が、あるとあらゆる戦法、それこそ「5筋位取り」以外の全ての戦法を、その専門家なみに使いこなす事はよく知られているし、谷川永世名人によれば、明らかにダメな手を1年くらい、それもタイトル戦で使用していたというのである。これはもう「将棋をもっと知りたい」という気持ちの露れでしかないと思う。

 一方で、藤井全冠の使用する戦法は、ほぼ固定、というか、ほぼ限定、であるから、藤井全冠の頭には「もっと強くなりたい」、「もっと勝ちたい」しかないのだと思う。

 ちなみに、羽生永世全冠が「もっと強くなりたい」、すなわち「勝ち」に固執していたら、「勝ち」にのみ価値があると考えていら、今の藤井全冠なみに勝っていたとはよく言われるところである。全盛期の「居飛車穴熊」の勝率なんか10割だったと言われているくらいである。

 とまあ、ここまで「プロ棋界」について語ってきたけれども、同じ事はほとんどのプロスポーツの世界でも云えると思う。

 例えば、「プロ野球」である。

 まあ、二軍の選手はともかくとして、多くの1軍の選手、仮にスターターでなくとも、「左の代打」とか「代走」とか「守備固め」とか、何らかの形で一軍の地位を得ている選手は、その地位が脅かされる時はともかくとして、普通には「もっと強くなりたい」、すなわち「もっと上手くなりたい」という気持ちは、ほぼ失っていると思う。そこから、スターターを狙っている選手は、ほぼいないと思う。

 20歳前後ならともかくとして、25歳を過ぎれば、運動能力は無論の事、技術的な向上は考えにくい。ピッチャーは、変化球ひとつ覚えたり、ピッチングの組み立てを勝てたり等々で劇的に成績が向上することはままあるが、野手だとこれは厳しい。となると、「地位の向上」より「地位の保全」へと気持ちは傾いて行ってしまうものである。あたかも、「プロ棋士」が「普及活動」に注力、あるいは専心するように。

 でも、それが、「プロスポーツ選手になる」という事だし、「社会人になる」という事だし、ひいては「大人になる」という事なのであろう。

 そうして、「大人になったスポーツマン」は自身の所属する「プロスポーツ団体」の「地位の向上」や「増収」に勤しむようになるのである。すなわち、自身の「プレイ」や「ゲーム」が「商品」へと変化するのである。「自分のためのスポーツ」から「他人のためにスポーツ」へと変化していくのである。

 私は前回の記事で「アントニオ猪木」の名前を出した。これは、別に「ギャグ」で出した訳ではない。出すべくして出したのである。なぜなら、アントニオ猪木ほど、「プロスポーツ」の問題、つまり「商品としてのスポーツ」の問題を、世界的にはともかく、日本スポーツ史上、最も深く考えた、考えさせられた、すなわち苦悩したスポーツマンは他にいないと思うからだ。

 「新日本プロレス」設立当初、人気低迷に苦しんだ、というよりは、「プロスポーツ経営」の難しさにぶち当たったアントニオ猪木は、「プロスポーツ経営」に関する様々なアイデアを出した。

 それらは大失敗したものも少なくなかったけれども、そのうちのいくつかはプロレス界のみならず、プロスポーツ界、更にはエンターテインメント業界にまで影響を与えた。

 例えば、「スポーツ番組への芸能人の導入」。これは、もしかしたら、ビートたけしのプロ野球のラジオ実況への登場が元祖かもしれないけれど、同じ時期にアントニオ猪木は芸能人をプロレス番組に登場させている。

 当時、これは非難囂々だったけれども、今では、プロレス業界のみならず、あらゆるスポーツ団体が導入し、常套手段と化している。

 また、所謂「団体抗争」、「長州力と維新軍」である。これは長州力のキャラクターがウケたというのもあるだろうが、なにより、その「団体抗争」が斬新だったのである。

 これは、さすがに他のスポーツ団体では導入しづらいものだろうけど、プロレス業界では常識化し、それこそ全世界の「プロレス団体」が、今でも活用している。

 更には、これを導入して大成功した業界がある。それは「マンガ界」である。「キン肉マン」が「悪魔超人編」という形で導入し、その後人気爆発、今では所謂「バトル漫画」の定番ネタである。これの無い「バトル漫画」を見つける方が難しいくらいであろう。「勝利・友情・努力」を表現するのに、これほど適した形式は無い。

 「団体抗争」の元祖は、もしかしたら、アントニオ猪木ではないかもしれないけれど、現行の「プロレス業界」と「バトルマンガ業界」に広がる「団体抗争」の嚆矢はアントニオ猪木で間違いない。

 また、アントニオ猪木の発案したアイデアの中で、最も重要、かつ賛否の分かれるものは、何といっても「現実と空想の境目を曖昧にする」、すなわち「リング上とリング外の境目を曖昧にする」である。

 「タイガーマスク」なんかも、その一環であろうが、嚆矢にして白眉は、何といっても「タイガー・ジェット・シン」の一連の悪行であろう。また、「ベロ出し事件」も、その一つであろう。

 この「現実と空想の境目を曖昧にする」というのは、その後の「プロレス業界」や「プロスポーツ界」では微妙な扱いとなったけれども、これを最も応用した、というか、これに最も影響を受けたのは「テレビ界」、より絞り込むならば「ビートたけし」である。

 この「現実と空想の境目を曖昧にする」を「ガンバルマン」で踏襲し、「元気が出るテレビ」で発展完成、「電波少年」が受け継ぎ、所謂「リアリティ番組」として世界へと広がっていく。あまり大っぴらには云えないけども、「ソフト・オン・デマンド」の一連のエロビデオも同様のものである。

 この辺の「リアリティ番組」の誕生発展に関しては諸説あるので、私は断言はしかねる。そもそもビートたけしがアントニオ猪木の影響を受けたのかも断定しがたい。まったくの没交渉だった可能性も高い。

 ただし、この「現実と空想の境目を曖昧にする」がプロレス的に、あるいはテレビ的に非常に強力であるという事に最初に気付いた日本人がアントニオ猪木である事は、ほぼ間違いないと思う。実際、それ以前に似たような事をした人、少なくとも、似たような事をして成功した人を私は知らない。強いて言えば、「空手バカ一代」の梶原一騎か。

 ただ、この「現実と空想の境目を曖昧にする」は、プロレス界において凄まじい成功を収めたけれども、強烈な副作用、思わぬ副作用、あるいは後遺症を生んだ。

 所謂「プロレス=ガチ論」である。「現実と空想の境目が曖昧な」プロレスを見た一部の視聴者、特に子供が、プロレスを本物の格闘技、本物の勝負と思い込み、そのまま成長、「プロレス=ガチ論」を強力に主張したり、中には勢い余って、プロレスラーになり「プロレスラー最強説」を唱え、総合格闘家まで登り詰めてしまうのである。

 そうして、90年代の空前絶後の格闘技ブームへと繋がっていく。その淵源は「アントニオ猪木」と「空手バカ一代」、すなわち「現実と空想の境目を曖昧にする」である。

 実際、猪木や梶原に「プロレスラー最強論」「空手家最強論」は無かったであろう。それはあくまで「演出」、「ウソッパチ」、「金儲けのための一つの手法」に過ぎない。前回の記事で、私は「ナチス」や「高畑勲」を持ち出したけれども、「アントニオ猪木」や「梶原一騎」も、彼ら同様に優れた「演出家」であったのである。あと、「ビートたけし」もな。

 そうして、大衆は、前回にも同じ事を書いたけれども、ちょっとした演出で、いとも簡単に「ウソッパチ」を信じてしまうのである。90年代の多くの人々が、「サッカーは面白い」と信じたようにね。

 ちなみに、「プロレス=ガチ論」であるが、これは1960年代70年代生まれに特有の人の主張で、それ以後はともかくとして、それ以前の人には見られない主張である。つまり、1970年代80年代に少年期を送った人特有の現象なのである。

 1950年代以前に生まれた人は、「プロレス=ガチ論」を聞いてもキョトンとしている。なぜなら、プロレスがショー、フェイクである事は常識だからだ。それを疑う人は「頭のおかしい人」、というより「オツムの足りない人」と見られていた。

 プロレスがショーだなんていうのは誰が見たって一目で分かるし、しかも当時は、「実際に人を殺した事のある人」あるいは「人殺しを目の前で見た人」が町中に溢れていたとまでは云わないけど、それなりにいた時代である。所謂「戦場帰り」である。当時は、銭湯なんかで、その手の事を、事実か否かはともかくとして、自慢げに話すオッサンが普通にいたのである。彼等は、所謂「格闘術」や「格闘技」が実際の戦闘では、なんの役にも立たない事をイヤってほど知っていただろう。パンツ一丁のオッサン二人が、レフリーを介在して、素手で戦うなんてシチュエーション、そんな戦闘ねーよ。

 かといって、プロレスを見て熱狂する人々に「あんなものはショーだ。ウソッパチだ。」なんて叫ぶ者は、それはそれで「頭のおかしい人」、「オツムの足りない人」と見なされたであろう。無粋だよね。

 そりゃそうだろう、チャンバラとか剣劇、最近だったら、ヒーローショーかな、それらを見て「あんなものはショーだ。ウソッパチだ。」なんて叫んだら、会場をつまみ出されて、下手すりゃ「精神病院送り」である。

 大人も子供もみんな分かってて「プロレス」に熱狂していたのである、1960年代までは。ところが、それが「演出」一発でいとも簡単に変わってしまうのである。ホント怖いよね、人間の精神って。粘土みたいなものなのだから。四角にも三角にも自由に変えられるのだから。ウルトラマンにもゴモラにもギャンゴにもピグモンにも変わるのだから。

 ちなみに私は子供の頃から、7歳くらいから、プロレスはウソッパチだって知ってた。ブッチャーがテリーの「太もも」にフォークを指しているのを見たからである。7歳の私は「なに、太ももなんて致命傷にならないところを刺しとるんじゃい。心臓刺さんかい。目刺さんかい。」って思ってた。「そもそも反則が5秒まで許されるのなら、ピストルぶっぱなせばいいじゃん。」って思ってた。あと、タイガー・ジェット・シンがサーベルの「柄」で殴るのにもガッカリしてた。「刀身で斬りつけろよ。」って思ってた。

 故に、プロレスは暇つぶし程度にしか見ていなかったし、熱狂もしなかったし、プロレスの「仕組み」についても考えた事は無かった。考える必要もなかった。それゆえ、所謂「高橋本」も面白く読んだ。「へー、そうなってたんだ〜。」ぐらいのノリである。流血はレフリーがカミソリで切っているとは知らなかった。「なるほどね〜、前から不思議だったんだ。」って感じである。

 故に、「プロレス・ヤオガチ論争」なんてのも、そのころ知って、驚いた。あれをリアルだと思っていた人がいた事に、である。勝俣州和が「橋本〜〜。」って涙を流しながら叫んでいるのに、ショックを受けたのもその頃である。なぜ、そんな事で泣く。

 ちなみに、格闘技界におけるもう一つの「現実と空想の境目を曖昧にする」である「空手バカ一代」、これは20歳くらいの頃に一気読みした。何とはなしに、古本屋で第1巻を立ち読みしたら、20分後には、全巻、というか、つのだじろう作画編全20巻を大人買いしてた。いや、1週間ぐらいで揃えたのかな。

 ま、いずれにしても、ほぼ一気読み。読み終わった頃には、「眉毛剃らねーと」と思ってたね。山籠りする山を物色してた。もうハタチ過ぎてんのに。

 ただまあ、あのマンガに関して、今になって思う事は二つ、一つ目は「この世の男のほとんどはケンカが強くなりたいと思う」。そうして、もう一つは「ケンカに強い事は、実生活上は何の役にも立たない。むしろマイナス。」。この二つである。


 それはさておき、「プロレスがショーである」なんて事は、この私をはじめ、多くの人は「知っていた」と思う。1950年代以前に生まれた人は勿論の事、1960年代以降に生まれた多くの人も、「知っていた」と思う。みんな、「知ってて」楽しんでいたのである。極々一部の人達を除いては。

 「プロレス=ガチ」論者が、「昔はほとんどすべての日本人が、プロレスをガチだと思ってた。」なんて主張するのは、大間違いである。自身の恥を、少しでも薄めたい心理から発せられた言葉である。

 あんなの、ほとんどの人が「ショー」だって知ってたよ。

 故に、「プロレスはショーですか」なんて質問に、ジャイアント馬場はキョトンとしていたし、何ならアントニオ猪木さえキョトンとしていた。まあ、勿論「プロレスラーは最強だ。なかでも、『新日本プロレス』は最強の団体だ。」って、「立場上」答えざる得なかったけどね。そうして、最悪なことに、自身や新日本プロレスのレスラー達はそれを証明するために、言葉だけでなく、自身の肉体も使わざる得なくなるのだけど。

 そもそも、もしも猪木青年が「オレは強くなりたい」とか「世界一強くなりたい」とか考えていたら、そもそもプロレスの門はくぐらなかったであろう。柔道や空手、ボクシング等を選んでいた筈だ。

 アントニオ猪木の若かりし頃のスポーツ経験は「陸上競技」であるし、プロレス入りも、その体格を買われて力道山にスカウトされたからである。自ら志願した訳ではない。ジャイアント馬場同様、その立派な体格を生かして成功できる、すなわち大金を手に入れられる「仕事」として「プロレス」を選んだのであろう。どう考えたって、「強くなりたい」訳ではない。「空手バカ一代」のマス大山とは違うのである。

 また、プロレス入りしてから「強くなりたい」という気持ちが芽生えたという説もあるかもしれない。でも、それだったら「新日本プロレス」は設立しないであろう。とりあえずは、打倒ジャイアント馬場を目指すだろうし、その後は世界のレスラー、他の格闘家、そうして猛獣(いや、これは違うか。)打倒を目指すであろう。その為には「新日本プロレス」設立は不要、というか邪魔である。

 猪木が「新日本プロレス」を設立した理由は、ほぼあらゆる「プロレス団体」が設立される理由と同じ、すなわち「自分が団体のエースになって、ヒーローになりたい、稼ぎたい」、これである。

 でまあ、「新日本プロレス」を設立したは良いものの、なかなか経営はうまくゆかず、色々なアングル、ギミックを考案したが、その中のひとつ「現実と空想の境目を曖昧にする」が、タイガー・ジェット・シンという素晴らしい役者、いや素晴らしすぎた役者で大成功。その副作用として、一部のファンが「プロレスラーは本当に強い」と思い始める。

 で、猪木も「あれは全部ウソッパチでした。」とは今更言えず、「プロレスこそ世界最強の格闘技だ」と宣言せざる得ず、それを証明するために「異種格闘技戦」へと雪崩れ込み、あの「モハメド・アリ戦」まで行きついてしまうのである。その後のUWFとか一連の総合格闘技も、元を匡せば、二つのウソッパチ「空手バカ一代」と「タイガー・ジェット・シン」に行きつくのである。

 ちなみに、この「異種格闘技戦」であるが、私は昔から、ちと疑問に思っていた事がある。「異種格闘技戦」というのは、大概、というか、ほぼ全て、両格闘技を総合した微妙なルールのもとに開催されているが、あれは違うと思う。

 「異種格闘技戦」っていうのは、一方が他方のルールでやるべきだと思う。つまり、先の「モハメド・アリ戦」でいえば、猪木は、どちらが先でもよいけれども、「ボクシング」のルールで戦い、そこで勝てば(無理だけどさ。)、そのまま猪木の勝ち、アリが勝ったら、今度は「プロレス」のルールで戦うっていうのを、決着がつくまで、すなわち、猪木が「ボクシング」で勝つまでか、アリが「プロレス」で勝つまで続けるべきであろう。それが「公平」、「フェア」ってもんである。

 現行の、っつか、これまでの「異種格闘技戦」のように、両者のルールをごちゃまぜにしては、いつまでたっても決着はつかないし、真の勝者は決められないと思う。

 そうして、「格闘技世界一」を名乗りたいならば、「ボクシング」の世界大会、「プロレス」の世界大会、「柔道」の、「空手」の、「キックボクシング」の、「サンボ」の、「テコンドー」の、という風に、ありとあらゆる「格闘技大会」で優勝したもの、そこまではいかなくとも、最も好成績を収めたものが「格闘技世界一」を名乗るべきだと思う。

 「いやいや、そういう『あらゆる格闘技のルールをごちゃまぜにしたもの』として現行の『総合格闘技』『MMA』があるのだ。」という説もあろう。

 でもまあ、それはやっぱり、そういう「ルール」だよね。「総合格闘技のチャンピオンが「ボクシング」でボクサーに勝てるかって言ったら、勝てないだろうし、同様に「空手」で空手家に、「柔道」で柔道家に、となる。まあ、なんつーか、陸上競技における「十種競技」みたいなもんだよね、「総合格闘技」って。確かに「十種競技」のチャンピオンは「スプリント」や「ジャンプ」のチャンピオン同様に称えられるけど、どっちが上って話ではない。
 
 「いや『総合格闘技』はケンカや実戦に最も近いから、そのチャンピオンは『ボクシング』や『柔道』より強い」という説もあろう。

 でも、「総合格闘技」はケンカじゃないよね。先にも書いたけど、パンツ一丁のオッサン二人が、レフリーを介在して、素手で戦うなんてシチュエーション、そんな戦闘ねーよ。

 百歩譲って、「ケンカ」だというのなら、「目つぶし」や「噛みつき」「金的蹴り」も認めるべきだと思う。マス大山は、「これらが実戦では最も有効」と語ってた。

 女性が「護身術」として「格闘技」を習えば、痴漢や空き巣ぐらいは撃退できるかもしれない。ただまあ、現実の「ケンカ」においては、「格闘技」は、ほぼ無意味、無価値だと思う。「心の余裕」程度の価値はあるかもしれないけど、「ケンカ」だと、大抵は「体格」で決まっちゃうし、あとは「気合」だよね。あとは「武器」「人数」。まさしく、「ケンカに強い事は、実生活上は何の役にも立たない。むしろマイナス。」。

 まあ、そういう「ケンカ自慢」も、「総合格闘技」に限らず、何らかの「格闘技」のリングなり競技場に上がると、その道の専門家に、手もなく捻られてしまう。これは仕方ないよね、「ルール」を知らないんだから。その「ルール」に則った「技術」がない訳であるから。仮に「目つぶし」「噛みつき」「金的蹴り」等々で勝ったとしても、それは「ルール」違反だって言われちゃう訳だから。まして「武器」や「人数」は御法度な訳だし。

 これも「ケンカ」なら、この程度の差で済むし、「格闘家」にも分はあろう。でも、「実戦」なら話にならんよね、「格闘技」なんて。なにしろ「実戦」では「武器」も「人数」も自由なのだから。

 今現在最強の人間は誰か。答えは簡単、「アメリカ大統領」である。今現在、トランプとハリスが争っているが、その勝者が次期世界最強の人間である。

 まあまあ、そういう「武器」や「人数」は抜きにしても、「実戦」を謳うのであれば、最低限「殺す」必要はあると思う。

 多くの、つか、多分すべての「格闘技」は「ダウン」や「フォール」で以って「勝ち」としているけれども、そんなの分からんよね。「ダウン」している振りをして、近づいてきたところをグサリ、すなわち「死んだふり」なんていうのは、実戦では常套手段であるし、仮に、その場では「ダウン」していたとしても、翌日とか10日後とかに復讐しに来るかもしれない。それが「実戦」というものである。先に、私は「女性が『護身術』として」なんて書いたけれども、あんなのだって「殺し」ておかないと危ないよ。出所後に復讐しに来るかもしれない。「殺して」おくのが、唯一安全を確保できる解決策なのである。「実戦」においては。

 更に云えば、本人を「殺し」ておいたとしても、まだ完全には安心できない。家族や関係者が復讐しに来るかもしれないのである。故に、「警察」だ、「軍隊」だ、「政治」だ、となるのである。それが「実戦」である。まさしく、「ケンカに強い事は、実生活上は何の役にも立たない。むしろマイナス。」。

 まあまあ、そこまで話を大きくしなくても、「格闘技」っていうのは、やっぱり「スポーツ」なのである。

 「格闘技」の起源というと、専門家たちが、「古代中国で」とか「古代ギリシャで」とか言い出すけど、現行の「格闘技」の起源は、これはもうはっきりしてんだよね。江戸時代後期、食いっぱぐれた武士たちが、現金収入を得る仕事として始めたのが「格闘技」の起源、ここでは「剣術」、「剣道」である。

 現金収入を得るのが目的であるから、当然、「殺害」は御法度、「ケガ」すら避けたい。故に、「竹刀」や「防具」を発明したのである。

 かつて、時の剣道チャンピオンに、こんな質問をした人がいる。「宮本武蔵って人は、実際、強かったんですかねえ。」。剣道チャンピオンの答えは「宮本武蔵って人が本当に強かったかどうかは、私には分かりません。ただ、ひとつだけはっきりしているのは、宮本武蔵の『剣術』と我々の『剣道』は全くの別物です。あの人たちの『剣術』では、負ければ、ほぼ確実に死にますし、勝ったとしても、生涯に残る傷を負うかもしれません。防具を被った頭を竹刀でペシペシ叩く『剣道』とはまるで別物です。」。

 『剣術』は、なるほど、紛うことなき「実戦」であろう。故に、宮本武蔵は、時に「二刀流」で戦った、時に「木刀」で戦った。時間だって守らない。まさしく「ルール」無用である。

 でも、それじゃあ、当然「商売」にならないから、千葉道場や斎藤道場では「竹刀」や「防具」を開発し、「ルール」を整備し、「剣道」へと変えていったのである。「柔術」や「空手」は、それに倣い「柔道」や「空手道」を名乗るのである。

 「相撲」は、もともと「お祭りの日の余興」、すなわち「祭事」、すなわち、もともと「スポーツ」である。

 「ボクシング」は、調べた訳じゃないけど、「殴られ屋」の延長線上にあるものだと思う。「殴り殴られ」を楽しむ「ショー」がその起源だと思う。すなわち「スポーツ」である。

 ちなみに、現行の日本語には「真剣に」という言葉があり、「マジメに」とか「本気で」とか「真摯に」というような意味で使用されている。

 でも、この言葉は「剣道」誕生以後の言葉だよね。それ以前には、「真剣」でない「剣」なんてなかったのだから。「竹刀」、すなわち「仮の剣」誕生以後の言葉であろう。「そば」に対する「日本そば」みたいな言葉である。

 あと、「木刀」っていうのも、「剣道」誕生以前にあったけれども、これは、どっちかつうと、「鍛練用」「練習用」の道具であったろう。バットに対するマスコットバットみたいなものである。また、宮本武蔵が使用したように、「真剣」とは別の目的の「武器」として有効だったかもしれない。「竹刀」は、よほど特殊な使い方をしない限り、「武器」にはならんだろうけど。

 また、ちなみに、90年代の日本の「総合格闘技」ブームは、行き着くとこまで行って、最終的にどうなったかというと、これはどこかで書いていると思うが、私の見たところ、二極化したと思う。

 ひとつは「ボクシング」化。すなわち「寝技」はどうしても興行的に地味なので、必然的に「立ち技」重視の「ルール」、あるいは「戦略」へと移行していき、結果「ボクシング」化。キックもなくはないが、軌道が長く、打撃面積も広いので「実戦的」ではなく、ほぼ使われなくなってしまう。

 もうひとつは「プロレス」化。すなわち「曙vsボブ・サップ」。あれ完全にジャイアント馬場の理想とする「プロレス」だよね。曰く「『プロレス』っていうのはね、おっきな人とおっきな人がリングの中央でド〜ンとぶつかる。これが『プロレス』なんだよ。『プロレス』の醍醐味なんだよ。」。「どうしてこうなった」かは説明するまでもあるまい。

 このへんの「総合格闘技」の行き着く先というのは、「本格」「実戦」を謳うある種の「格闘マンガ」のそれを思わせる。

 この手のマンガは、物語序盤は、「本格」的、あるいは「実戦」的な描写に溢れるものの、話が進むにつれ、つか、連載が続くにつれ、いつにまにやら、それこそ「ドラゴンボール」を超えるような荒唐無稽な描写に満ちてしまう。「リングにかけろ」なんていうのは、その典型であろう。その他は…、物議を醸すのでやめておくか。

 それらの「本格」格闘技マンガと比べると、かえって「ドラゴンボール」の方が、よほど理屈っぽかったりする。このへんは鳥山明の資質に由来するものであろうが、詳しくは「打順論」で。何故?。

 でも、そう考えてみると、「あしたのジョー」って、やっぱり偉大な作品だったよね。これは無論、ちばてつやと梶原一騎、いや高森朝雄か、という「リアリティ」に固執する二人の作家により生み出されたもであるという点が大きかろう。これが、車田正美と夢枕獏、だったらね。

 日本のマンガの歴史、とりわけ、その序盤の歴史は「リアリティ」の歴史である。新しい「リアリティ」を導入することによって、進歩してきた歴史である。

 そもそも、手塚治虫が、最も肝心要な「リアリティ」を導入する。すなわち「ナンセンスでない」という「リアリティ」である。手塚治虫以前のマンガ、あるいは手塚治虫の影響下にないマンガというのは、程度の差こそあれ、結局は「ナンセンス」なマンガであった。そこに初めて、「ナンセンス」でない、すなわち「意味のある」、すなわち「ストーリーのある」マンガを描いたのが手塚治虫であったのだ。これは、マンガ史的には、非常に大きな第一歩だったと云えるであろう。

 これは「コマ割り」との絡みもあるのであるが、それはいずれ書くであろう「手塚治虫論」で詳しく。

 その後、多くのマンガ家が様々な「リアリティ」を導入するのである。上記のちばてつやの導入した「リアリティ」は「心理のリアリティ」であるし、梶原一騎の導入した「リアリティ」は「社会的リアリティ」であろう。

 また、水島新司は「野球のリアイティ」を導入したし、宮谷一彦は「背景画のリアイティ」を導入したと云えるであろう。そのほか探せば、色々といると思う。

 ちなみに、梶原一騎の導入した「社会的リアリティ」で最も有名なシーンといえば、何といっても、「巨人の星」の冒頭の「長嶋茂雄入団会見シーン」であろう。そこでの川上のセリフ、いや水原だったかな、「かつて、巨人軍には長嶋茂雄以上の三塁手がいた」というセリフに、それこそ、日本全国のガキンチョ達はガーンとなったのである。

 そのほか、梶原一騎の導入した「社会的リアリティ」としては、「パンチドランカー」とか「アントニオ猪木談」とか色々あるよね。

 ちなみに、「男どアホウ甲子園」の冒頭にも「長嶋茂雄入団会見シーン」があるけれども、これ完全に「巨人の星」のオマージュだよね。意識してるよね。

 閑話休題。

 つう訳で、「剣術」にしても「柔術」にしても「空手」にしても「ボクシング」にしても「レスリング」にしても、起源的には、何らかの「武術」「護身術」であったかもしれない。でも。それらが一度「習い事」、あるいは「ショー」、すなわち「商品」になっってしまえば、もうそれは「格闘技」「スポーツ」である。宮本武蔵や佐々木小次郎が命を賭した「剣術」とは違う。

 「ルール無用」の「剣術」と違って、「ルール」がある。すなわち「スポーツ」である。

 「あらゆるスポーツには『ルール』がある」と言ったのは、」カイヨワだかホイジンガかは覚えていない。大昔の読書なので忘れちった。でも、「ルール」があるのは「スポーツ」あるいは「遊び」の特徴であるし、「ルール」があるから、「格闘技」は「スポーツ」であるし「遊び」であろう。「実戦」、すなわち「現実」には「ルール」は無い。

 「いやいや、『現実」には『法律』という『ルール』があろう」という反論があるかもしれない。でも、「法律」は「ルール」じゃないよね。少なくとも、「スポーツ」のような「完全なルール」ではない。

 勿論、「スポーツ」とて、色々な不平不満から、ちょろちょろ「ルール」を変更する。でも、変更しなくとも「ゲーム」は成立する。少なくとも、「成立」してきた。

 でも「現実」は、なかなか現行の「ルール」、すなわち「法律」では対応できない。成立しない。故に、「裁判」があるし、それだけでは対応しきれないが故に、世界中の国や県、市、町、学校、企業、その他諸々で「法律」を制作廃棄している。日々、「法律」を刷新している。その「法律」を作る、あるいは賛成反対するのが「政治家」であり、各地で重要視されている。

 刷新する必要のない「法律」、すなわち「完全な法律」を作る事は、すべての法律家の夢、あるいは全人類の夢であろう。過去、人類は、「共和制的な法律」「封建制的な法律」「絶対王政的な法律」「中央集権的な法律」「資本主義的な法律」「共産主義的な法律」あるいは「キリスト教的な法律」「仏教的な法律」等々、さまざまな法律を作ってきた。しかし、私の見たところ、どれも不完全なようである。現今、人類が問答無用に従うルールは「自然法則」のみのようである。それを超える「完全な法律」を人類は作れるであろうか。

 ちなみに、お隣の中国は、太古以来は大袈裟だけど、その歴史のある時期から、「人間は完全な法律を作れない」を信条としているようである。人間のあらゆる問題は、その時々、その場その場の、優れたる人間、すなわち行政官が判断すべきという考えのようである。ルール主義ではなく、審判主義といったところか。

 中国人が、上の人間も下の人間も、割合あっさりとルールを破るのは、ひとつにはそれが理由である。それを見た西洋人や日本人の多くがキョトンとしているのであるけれども、まあ。それも統治のひとつの方法ではあろう。

 なんか長くなっちったなあ。ハゲラッチ、もといスキラッチの訃報に端を発したこの稿であるが、まだ書きたい事が沢山ある、言いたい事が沢山ある。「ヤオガチ論争」「オリンピック」「マイケル・ジョーダン」「Jリーグ」「火垂るの墓」について書くつもりである。

 とりあえず、今回はここで筆を擱く。いや、「打順論」も書かないといけないんだけどなあ。泥沼か。

 いや、「筆を擱く」じゃねえー。本題本題。NFLNFL。

 この第3週と第4週はあんまゲームを見てないので、コルツ戦の感想を中心にちゃちゃとやりたいと思います。コラコラ。

 我らがコルツ、第3週は、ここまで全敗のシカゴと全敗対決。結果、21−16で快勝(かな?)。今季初勝利〜〜。

 例によって例の如く、ゲームは観ていないので、何とも言えんが、スタッツ的には、テイラー様が23キャリー・110ヤード・2タッチダウンの通常運転。

 そうして、期待の超大物新人ライアツ・ラツ様がキャリア初サック、よっしゃーーーー!。

 ってバカ。今のシカゴOL相手にサックを奪えなかったら、永遠にサック奪えんわ。

 まあでも、ここまで3試合で1サック。シーズン6サックペース。ってバカ。

 で、第4週は、ここまで全勝のスティーラーズ相手に27−24で快勝(かな?)。分からんもんですな。

 しかも、スティーラーズのQBは、昨季私が酷評したジャスティン・フィールズ。分からんもんですな。

 で、今週、つうか先週と今週のハーボー・コーナーは、スティーラーズ、チーフス相手に2連敗。うむむ、早くも試練か。

 んで、今週、つうか先週と今週のハリソン様・コーナーは、第3週が5レシーブ・64ヤード・1タッチダウン、第4週が5レシーブ・45ヤード・1タッチダウン。

 こりゃ、しっかりせんかい、カイラー・マレー。たいがいにせえ。

 その他のトピックスはというと、第2週限りでブライス・ヤングを諦めたパンサーズは、QBにアンディ・ダルトンを起用して、レイダースに36(!!!)−22で快勝。

 なんなの。なんでフランク・ライクは辞めさせられたの。アンディ・ダルトンを起用しなかったから。これじゃあ、辞めさせられ損じゃん。

 つかまあ、ダルトン・クラスのQBがサイドラインにいる事が間違ってんだよね。まあ、同じことはフラッコーにも云えるが。かといって、出てきて7勝されても困るけどな。

 んなとこか。では、次回「ヤオガチ論争」を乞うご期待。おいおい。
 
                                      2024/10/6(日)
第5週第6週
あれこれ
 最後に新一万円札を入手した。

 新千円札、新五千円札同様、オモチャ感が拭えないのであるが、理由が判明した。メイン、すなわち紙面中央の金額表記がアラビア数字に変わっているからだ〜〜。

 旧札、更には旧々札は、いずれも紙面中央の金額表記が漢数字だった。ところが今回からアラビア数字に変更されていたのである。大蔵大臣である私の許可もなしに。プンプン。

 まあ、国際化への対応って事なのだろうけど、オモチャっぽく見えるのは私だけなのかなあ。そもそも、貨幣って、本来ドメスティックなものでしょ。国際化する必要があるのかしら。つか、一万円札、五千円札は、聖徳太子だろが〜〜〜。それが真の国際化だろが〜〜〜。しつこい。

 さて、本題の「ヤオガチ論争」に入りたいのであるが(本題じゃね〜〜。)、その前に、前回の「プロ将棋界」について補足。

 前回、私はプロ将棋界の万年C級について、ちょいと触れたけれども、読みようによっては、「万年C級、全員クビにしろ〜」論のようにも読めるが、私はそれではない。

 つか、10年位前は、「万年C級、全員クビにしろ〜」論者、「プロは競争の世界じゃ〜〜」論者で私もあったのだけれども、年老いて、という訳でもないけど、最近では、ちょいと考え方が変わっとる。

 この辺の「万年C級棋士」にも、「負け要員」とか「普及要員」以外にも、プロ棋士としてお仕事があるのではないかと思い始めたのである。

 それが何かと問われても、即答しにくいのではあるが、こういうクラスの棋士たちを養っているというのは、それはそれで「プロ将棋界」の豊かさなのではないかと思い始めたのである。

 実際のところ、「万年C級棋士」と「三段リーグ棋士」との間に実力的な差は無いであろう。「運の良かった者」が「プロ棋士」となり、「運の悪かった者」が「夢破れて」となるくらいの差である。

 ただ、その程度の実力でも「プロになれる」、あるいは「プロとして飯を食っていける」というのは、多くの子供たちをプロに向かわせる、結果、才能の集まる、大きな要因となっているのではないだろうか。もしも、A級棋士クラスだけが「プロ棋士」となってしまったら、多くの子供たちは「とてもプロにはなれない」と思って、「プロ棋士」から足が遠のくであろう。

 実際、将棋のような所謂ボードゲームの「プロ組織」は、世界的に見ても(もしかしたら、他にあるかも、)、この「日本将棋連盟」だけであろう。もちろん、チェスの世界にも「プロプレイヤー」はいるけれども、彼らは所謂「賞金稼ぎ」としての「プロ」であり、日本の「プロ棋士」達のような、資格として、あるいはプロ組織に所属する構成員としての「プロ」ではない。故に、最低限の「プロ資格」はあるけれども、はっきり実力主義であり、「万年C級棋士」と「三段リーグ棋士」のような、明確な境界線は無い。「ゴルフ」や「テニス」のそれに近く、「囲碁」も同様である。

 そのように考えると、「日本将棋連盟」は、世界的に見ても、非常に特殊な組織であり、異色の組織であると思う。そうして、「プロ棋士は『対局』より『普及』の方が大事」というのは、いかにも大山名人らしい、含蓄のある言葉と思う。噛み締めるべきであろう。

 「いやいや、日本の『プロ将棋』だって、各新聞社の主催する『将棋大会』の賞金を争う『賞金稼ぎ』ではないか。」という反論もあろう。

 でも、ちょっと違うんだよね。日本の「プロ将棋」と「賞金稼ぎ」は。

 なぜなら、日本の「プロ将棋」は新聞の「コンテンツ」「記事」として成立しているものであるからだ。

 今となっては、すっかり忘れられているけれども、かつて、大正末期から昭和初期、まあ20世紀初頭かな、いや、もっと詳しく言えば、「プロ野球」が台頭してくるまで、「将棋」は日本の各新聞社の、謂わば「キラーコンテンツ」だったのである。将棋欄の充実が各新聞社の売り上げを左右したくらいなのである。

 前回だか前々回の記事で、「野球はラジオの時代のスポーツ、フットボールはテレビの時代のスポーツ」と私は書いたけれども、そういった意味では、「将棋は新聞の時代のスポーツ」だったのである。

 実際、将棋は新聞と非常に相性がいい。毎日、20手ほどの棋譜が掲載、そこに観戦記事が付く。それを読み終わった読者の多くは、「次の一手」を予想するであろう。そうして、翌日答え合わせ、「当たった〜」と喜んだり、「プロは読みが深いな〜」と感心したりする。んで、それが毎日繰り返され、1週間ほどで1局が終了する。まことに、「新聞」に適した「コンテンツ」である。「かつて」と先に私は書いたけれども、「今でも」新聞の将棋欄、あるいは囲碁欄を楽しみにしている人は多いんじゃないかな。

 しかも、これは「日刊」だから成立するのであって、「月刊」は無論の事、「週刊」でも厳しいだろう。1週間前の「次の一手」なんて、大抵の人は忘れちゃってる。覚えているのは、異常な将棋好きくらいであろう。

 そういった意味でも、「将棋」は「新聞」と非常に相性のいいゲーム、スポーツだったのである。新聞社から見れば、まさしく「キラーコンテンツ」だったのである。

 ちなみに、これ、昔どっかで書いたと思うけど、「テレビ」はともかく「ラジオ」の「将棋中継」って無理があるよね。

 かつて、ラジオでも「NHK杯」は放送されていたのだけれど、どうやってたんだろ。聴取者は将棋盤を身近に置き、実況者は常に棋譜を読み上げていたのだと思う。また、途中からの聴取者のために、15分に一回くらい、初手から棋譜を読み上げていたのだと思う。

 でも、「7四歩」と言われてピンとくる人って、そんなにいないでしょ。「5八金」と言われてサッと駒を動かせる人、そんなにいないでしょ。とりあえず、私は無理。

 テレビはともかく、ラジオの「将棋」は無理があると思う。故に、廃れた。

 閑話休題。

 故に、各新聞社がプロ棋士界に支払う報酬は、「スポンサー料」というよりは「独占放送権料」、「独占報道権料」に近いものなのである。各新聞社と日本将棋連盟の関係は「日本テレビ」と「巨人軍」の関係に似ているといってよいかもしれない。すなわち、すなわち、ゴルフやテニス、チェスのような「賞金」ではなく、ゲーム、すなわち「対局」や「棋譜」に支払われる「代金」なのである。すなわち、「日本将棋連盟」所属の棋士の「将棋」は、「日本将棋連盟」所属の棋士の「商品」なのである。

 これが「万年C級棋士」の存在する最終的な根拠であろう。「A級棋士VSC級棋士」、あるいは「C級棋士VSC級棋士」の「将棋」でも、それが面白ければ、それは「商品」としての価値を持つのである。ちょうど、NFLやプロ野球の「最下位争い」も、それはそれで価値を持つのと同様である。まあ、「価値のない最下位争い」がほとんどだけどな。

 また、「だったら、『囲碁』も同じような組織がなったのでは、」という疑問も生まれるが、この点については私も不明である。ただ、これは、あくまで憶測だけど、「人気」という点で「将棋」に劣る「囲碁」は、「独占報道権料」が「将棋」より少なかったのではないだろうか。よって、「日本将棋連盟」のような「プロ組織」を作るに至らなかったのだと思う。あくまで、憶測だけどね。

 もっとも、昨今は、皆様ご承知の通り、「将棋」はともかく、「新聞」の経営状態は非常に怪しい。「先行き不安」どころか、事実上「真っ暗」「闇」である。「インターネットと相性がいい」とも言われているので、それが唯一の希望か。
 
 とまあ、プロ将棋界の未来はともかく、この組織、当時の将棋関係者が、全く独自に、オリジナルに、創案したものではないと思う。範としたものがあると思う。

 それは「大相撲」である。

 例えば、日本のプロ将棋界の屋台骨であろう「順位戦システム」であるが、これは、はっきり「大相撲」の「番付」を範としている。創案者の加藤治郎が明言してる。

 また、「万年C級棋士」でも「食える」のは、「十両」以上の関取が「食える」のと同様であろう。まあ、それ以下の力士でも、なんとか「食える」けどね。でも、それ以下の力士は、「日本将棋連盟」の「三段以下」に立場は等しい。要するに「見習い」である。

 とまあ、ここで突如「大相撲」の話に変わる。この「日本将棋連盟」が範とした「大相撲」であるが、これは事実上、世界最古の「プロスポーツ組織」であろうが、その割に、日本人はこれを誇示しない。代わりに、という訳でもないけれど、私がここでこれを誇示したい。以前、どっかで書いたような気もするが、ここに再録、詳述、決定版。

 まず、基本的に、「相撲」のルールが「プロ格闘技」として非常によく出来ている。私は前回の記事で、「あらゆるプロ格闘技は『ボクシング化』か『プロレス化』に二極化する」と書いたけれども、本当は「大相撲」こそ「プロ格闘技」の極致、行き着く先だと思っている。まあ、さすがに二番煎じする訳もいかないので、他の、そうして後の「プロ格闘技」団体はこれを追随しないだろうけど。

 「相撲」のルールが「プロ格闘技」として優れている第一の理由は「寝技を排した事」。これは当然だよね。多くの観客、っていうか、すべての観客に、「見えない」し、「分からない」。この段階で「プロ格闘技」としては失格である、不要である。だって、「見せる」のがプロとしての第一義なのに、「見えない」じゃ話にならないでしょう。しかも、見た目、「ホモセクシュアル」だしね。その筋の人しか喜ばないと思う。

 つう訳で、「プロ」の技術としては、「寝技」すなわち「関節技」は論外なんだけど、あれって実戦的にもどうなの?。素人目には、とても使える、すなわち、実用的な「技術」には見えないんだけど。「実戦」でも活用されてんの?。

 私は「ケンカ」といったら、それこそ子供の頃の「兄弟ケンカ」くらいしかした事が無く、大人になって、というか、中学生になったあたりから「ケンカ」なぞ、ついぞした事のない軟弱者だけど、「実戦」で「関節技」って使えんの?。登場すんの?。

 あくまで素人考えだけど、「護身術」的な「相手の動きを止める」程度の「関節技」ならともかく、実戦、すなわち「殺す殺さない」の戦いで、あれだけ近づいちゃったら、近接しちゃったら、色々な危険があんじゃないの。懐に忍ばせていたナイフでぐさりとか、そこらの石で頭を殴られるとか、いろんな危険性をはらむんじゃないの。

 実際、武器、あるいは兵器の歴史は、基本的には「破壊力の強化」の歴史であるけれど、もうひとつは「射程の延長」の歴史でもある。すなわち、素手から刀へ、刀から槍へ、槍から弓矢へ、弓矢からライフルへ、ライフルから大砲へ、大砲からミサイルへ、ミサイルから大陸間弾道ミサイルへ、というように「射程の延長」の歴史でもあった。

 すなわち「自分は当たるけど、相手は当たらない」という武器や兵器の開発が、戦いにおいては非常に有効だった訳である。格闘ゲームの「無敵ポジション」なんていうのは、それを端的に物語っているし、将棋で「飛車」や「角」が「大駒」に分類されるのも、「効きが多い」というのもその理由のひとつであろうが、もうひとつはその「射程の長さ」であろう。「遠見の角」なんていうのは、それを指す格言である。

 「じゃあ、香車は?」という反論もあろうが、「香車」の場合は、「戻れない」という強力な弱点があるのに加え、「初期配置が悪い」というのもあると思う。もしも、「香車」の初期配置が3筋とか6筋あたりだったら、「香車」の価値は変わってきたと思う。実際、終盤で、そのあたりに「香車」を置くと、恐ろしい威力を発揮する場合がある。あと、「端攻め」の主役でもあるしね。

 また、森川ショージは「ボクシングはポジショニングのスポーツだ」と語っていたけれども、これもその辺の消息を物語る発言であろう。すなわち「自分は当たるけど、相手は当たらない」である。
 実際、モハメド・アリは、このポジショニングの達人だった。この能力でその地位を得たといっても良いくらいである、自身よりリーチの長い相手にはインファイト、自身よりリーチの短い相手にはアウトボクシング、それは見事だった、

 つう感じで、「距離」っていうのは「戦い」においては非常に重要な要素だと思うんだけど、あれだけ密着しちゃったら危険なだけじゃないの。先に挙げたナイフや石以外にも「噛みつき」があるだろうし、およそ「実戦的でない」技術だと思うんだけど、どうなのかしら。実際のケンカでも「腕ひしぎ逆十字固め」で決着つくことあんの。

 また、仮にこの手の関節技が決まり、相手の関節を折ったとしても、それが肩や手首だったら「決着」とまではいかないと思う。まあ、足を折られたら、ほぼ「決着」かもしれないけど、腕ぐらいなら、まだまだ戦闘可能だと思う。油断できない。

 まあ、あれだけ密接したら、普通は首を折るか、首を絞めるのが「実戦的」だと思う。野生動物も、一様に頸動脈を狙ってくるらしいしね。腕や足を狙うのは、正直愚策だと思う。せいぜい奇策であろう。

 ちなみに、「ドラゴンボール」の戦闘シーンでも「関節技」は、まず出てこないよね。「まあ、マンガだ。」とは言われるかもしれないけれど、鳥山明という人は非常に理屈っぽい人である。かめはめ波的な、所謂「ドラゴンボール」的な攻撃を除いたら、あのマンガの戦闘シーンは案外非常にリアルだと思う。理屈っぽく描かれていると思う。「噛みつき」も出てくるしね。それでも、「関節技」が出てこないというのは、まあやっぱり、「関節技」は理屈っぽくない、非合理的な技なのだと思う。

 これらは、あくまで実戦未経験のヘタレの私の意見なので、実戦では、もしかしたら「関節技」オンパレード、「関節技」の乱舞する世界なのかもしれないけどさ。

 まあ、「関節技が実戦的か」はともかくとして、いずれにしても、「ショー的」なものでないことは確かだと思う。

 故に、「相撲」は「関節技」、すなわち「寝技」を排した。

 更には、「転んだら、」、すなわち「ダウンしたら、即負け」にした。これもなかなかの英断だったと思う。

 ボクシングが危険である事に色々な理由があるが、そのひとつは「10カウント制」だと思う。すなわち、10秒間ダウンしたら負けというルールである。

 という事は、すなわち相手を10秒間ダウンさせなければいけなくなる。となると、必然的に、攻撃は脳震盪かボディブローの二択となろう。その他の攻撃もなくはないが、10秒間ダウンさせるとなれば、この2者が最も効果的かつ効率的である。とりわけ、脳震盪はボディブローよりさらに効果的かつ効率的なので、ボクシングの攻撃の主役となる。結果的に、ボクシングは、いかに効率的効果的に脳震盪させるかというスポーツになってしまう。

 ボディーブローによる種々の健康被害も勿論危険であるが、脳震盪は、ボクシングのみならず、昨今盛んに議論研究されている重大な健康被害である。「ボクシング廃止論」の大元は、ここ「10カウント制」にあると思う。

 一方で、相撲は、ダウンした瞬間に勝敗は決するので、そこまで強力な打撃は必要ない。張り手や突っ張り、すなわち掌底で十分である。そもそも、拳による打撃は禁止されている(筈)。というか、手のケガの不安が大きいので、解禁されても、用いる人はいないであろう。

 また、「キック」、すなわち「蹴り」という「打撃」もあるにはあるが、自身の転ぶ可能性を増すだけなので、解禁されても用いる人は少ないであろう。

 そうして、相撲の場合は、相手を倒すのに「打撃」以外の方法も認められている。すなわち、「投げ」である。

 しかも、この「投げ」に対しても、周到なルールが用意されている。すなわち、「土俵を割ったら、負け」である。これが何故に用意周到なのかというと、「投げ」に対する最も有効な防御方法は「後ろ重心」である。これをされると、よほどの実力差、あるいは体格差のない限り、「投げ」る事は出来ない。柔道で、ポイントでリードした選手が逃げまくるのは、これをしているのである。

 ところが、相撲には「土俵を割ったら、負け」というルールがある。「後ろ重心」の人間は押される事に弱い。すなわち「押し出し」てしまえば良いのである。あるいは「寄り切って」しまえば良いのである。

 事程左様に、「プロ格闘技」として非常によくできているのが「相撲」のルールなのである。これが、世界で最初に「プロスポーツ」として成立した大きな理由であろう。

 ボクシングは「10カウント制」を排したら、非常に安全になるであろう。柔道は「場外即負け」ルールを採用したら、よりエキサイティグになるであろう。でも、しないよね。そしたら、相撲になっちゃうから。

 そうした、プロ格闘技としての完成度の高さがもたらす余裕からか、「大相撲」は、その運営経営は非常に柔軟である。

 昨今スポーツ界で話題の「ビデオ判定」も、世界に先駆けて導入している。私の子供の頃にはすでに導入されていた。今調べてみたら、なんと「1969年5月場所」かららしい。いやまだ、世間に家庭用ビデオが普及するはるか前だろう。早過ぎだよ。プロ野球中継でもビデオ再生が導入されていたか否かレベルの時代の話だろう。

 「物言い」なんて制度も昔からあるしね。

 また、「見づらい」というだけの理由で(安全面もあるかな)、柱を取っ払い、吊り天井にしたのも、「プロスポーツ」としては正しい姿である。ちょっとした変更、特に観客重視のルールやフォーマットの変更にギャーギャーいう他のスポーツ団体の方が、よほど旧態依然である。

 そうして、プロスポーツ団体として当然の事ながら、「入場料収入で飯を食っている」。スポンサー頼みのプロスポーツ団体とは、経営の安定度、自由度が違う。

 一方で、スポンサー収入もちゃんとある。しかも、それらを「懸賞金」とか「化粧まわし」と「呼び出しの衣装」とかで、ひとつのエンターテインメントにしている。ユニフォームや車に企業ロゴベタベタとは芸が違う。

 そうして、「番付け制度」、これも勿論重要。まあ、ランキングというのは、どのスポーツの世界にもあるけれども、「横綱」とか「大関」とか「前頭」のような、意味ありげだけど、意味が全然分からない謎めいた言葉で、そのランキングを現しているのも、大変な名案だと思う。見事なギミックである。

 しかも、「横綱」は、文字通り「横綱」を締めている。世界一の「チャンピオンベルト」であろう。見事としか言いようがない。

 しかも、「大相撲」には、「横綱」、すなわち「チャンピオン」が複数名いる。これも他のスポーツでは見られない一大特長だと思う。そうして、天才的な名案である。

 「横綱」が複数いるため、どの場所でも必ず、多くは千秋楽付近だろうけど、「横綱対決」が実現するのである。これほど見事なアングルは他にないであろう。まあ「チャンピオンvsランキング1位」も似たようなものかもしれないが、「横綱対決」ほどの「有難み」はない。「チャンピオン同士の戦い」という意味では、アメリカの多くのプロスポーツに見られる「スーパーボウル」や「ワールドシリーズ」がそれに近いかもしれない。まあ、「横綱対決」には勝てないけどさ。

 しかも、「国技館」という、事実上、自前の「専用競技場」まで保有しているのである。そんな「プロスポーツ団体」、他には無いであろう。

 唯一の死角は「肥満問題」ぐらいか。

 これは、さすがに「階級制」を導入しないと根本的には解決しないであろうが、それを導入してしまうと「大相撲」ではなくなってしまうので、妥協策として「体重上限制」の導入、あるいは検討ぐらいはしても良いと思う。


 なんか、いつもの調子で長くなってきたな。以下は次回で、こんどこそ「ヤオガチ論争」をば。


 つー訳で、本題の先週&今週のNFLであるが、今回は、第6週のSF@SEAから。

 十数年前、ハーボーとピート・キャロルが対峙していた頃は黄金カードであったが、さすがに今はその面影はないかな。

 そのキャロルがシアトルを勇退するのと入れ替わるような形で、ハーボーがNFL復帰。

 昨季はベリチックが勇退したことで、それに関する記事は巷に溢れたのであるが、ちょうど同じ時期にピート・キャロルも勇退。

 ヘッドコーチを務めた時期が、ちょうどベリチックやセイバンと丸被りしたために騒がれる事は無かったが、ピート・キャロルも、彼らと同じく、NFL史に残る名将だったと思う。

 その最大の功績は、なんといってもディフェンス、「レギオン・オブ・ブーン」と称されたそのディフェンス、とりわけDB陣のディフェンスである。

 その登場を境に明らかにNFLのディフェンスは変わった。それまで、マンツーマンにしてもゾーンにしても比較的単純なものであったのだが、「レギオン・オブ・ブーン」の登場でそれは非常に複雑なものになった。それまでの単純なマンカバー、単純なゾーンカバーは影を潜めた。素人目に非常に分かりにくいものになった。

 それを端的に表すのはスターセイフティの消失であろう。「レギオン・オブ・ブーン」の登場までは、ポラマルとかエド・リードとか、手前味噌になるがボブ・サンダースとかいうような、素人目にも分かりやすい、非常にベタなスターセイフティがいた。

 ところが、「レギオン・オブ・ブーン」登場以後、それらは完全に消え去った。私も毎年「俺オールプロ」で苦労している。

 また、CBの大型化に成功したのも「レギオン・オブ・ブーン」の功績のひとつであろう。

 それまでは、大型CBというのは、私も「反対派」のひとりであったのであるが、なかなか成功しなかった。どうしても、アジリティという点で不利だったのである。それが「レギオン・オブ・ブーン」の登場以後、完全に定着した。いまや6−0以上はCBに必須の時代である。なんなら、スロットすら大型化している。

 また、「レギオン・オブ・ブーン」の功績、というか影響のひとつは、レッドゾーンディフェンスの高度化である。

 私は、この5年くらいコルツのレッドゾーンオフェンスのへっぽこぶりに散々悩まされ、数年前から諦めているくらいなのだけど、それは他チームも事情は同じっぽい。増田さんが「ナイナーズのレッドゾーンオフェンスの苦戦」を何度も話題にしていたけれども、それはNFL全チーム共通の悩みといって良いのかもしれない。

 かつて、すなわち「レギオン・オブ・ブーン」登場以前は、レッドゾーン、すなわち15ヤード付近あたりから、すぱすぱパッシングタッチダウンが決まっていたのであるが、「レギオン・オブ・ブーン」登場以後は、めっきり減った。悪化の一途といっても良いくらいである。

 この手のディフェンスの進化を何でもかんでも「レギオン・オブ・ブーン」に帰するのは間違っているかもしれないけど、私の印象として、それらは「レギオン・オブ・ブーン」登場以後、すなわちピート・キャロルのシアトル着任以後の事であると思う。

 そうして、「レギオン・オブ・ブーン」、最大の精華は、申す迄もなく、第48回スーパーボウルにおけるペイトン・マニングの完封であろう。私の知る限り、キャリアのごく初期はともかく、というか、キャリア全体を通しても、マニングの完封されたのは、ただこの1ゲームのみだったと思う。それはベリチックにも出来なかった事である。

 その偉大なヘッドコーチがNFLから、そうして、もしかしたらフットボール界から去るのである。その功績をもっと讃えても良い

 ちなみに、増田さん情報によると、このピート・キャロルの息子は、今季、ワシントン大学でOCをしているらしい。しかも、DCはベリチックの息子。

 で、今調べたら、当たり前だけど、実際その通り。なにそれ、なんかヤだな。コルツファン的、あるいはマニングファン的には、受け入れがたい、いや、赦しがたいコーチングスタッフ。ぶっつぶす。

 そんな戯言はともかく、いや戯言じゃない、ピート・キャロルの功績は偉大です。これははっきりしてます。NFL史に残るものです。

 で、試合結果であるが、36−24でナイナーズの勝利。

 ただまあ、試合展開的、ナイナーズDB陣のグダグダっぷり的には、シーホークスが勝ってもおかしくないゲームだったと思う。というか、「シーホークスが勝つんかなあ」って思いながら見てた。

 それを台無しにしたのがジーン・スミスの二つのインターセプト。特に二つ目のインターセプトが痛かった。あれがゲームを決したと思う。

 いや、あれは無いわ。1年目2年目ならともかく、キャリア12年目(!!!!)のベテランが、あれは無いわ。視覚的にも予想的にも見えていないのだと思う。

 シアトルはQBを変えたくなったんじゃないかなあ。

 あと、そうそう、そのジーン・スミス。得点したドライブでは、今や懐かしの「ノーハドル」を多用してた。

 「ノーハドル」といえば、マニングが使い倒して、今やすっかり廃れてしまった戦術であるが、あーいうのを見ていると、復活してもいんじゃないかなと思う。各チームのOCの皆さん、いかがざんしょ。

 ナイナーズについては今回は割愛でいいっしょ。昨季、結構書いたしね。今季もこれから書くことになりそうだし。

 次は、同じく第6週のCIN@NYG。

 勝敗は17−7でシンシィの勝利なのであるが、それはひとまず置く。

 コルツファン的に注目は、なんといっても、2年800万ドルの男ザック・モス君かな。

 「結構活躍してんのかなあ〜」なんて楽しみにしていたのであるが、全然活躍してない。それもこの試合に限っての事ではなく、今季ここまでそんな感じらしい。1試合だいたい10キャリー前後・40ヤード前後みたいな感じ。ここまで6試合で63キャリー・224ヤード。

 この試合を見てっと、なんか「パスシチュエーション限定」みたいな使われ方であった。まあ確かに、ブリッツピックは上手いけど、スキャットバックって感じでもないし、シンシィ的には「持て余してる」って感じ。

 コルツ時代、というかコルツはRBをシリーズごとに交代固定しているので、そういう使い方の方が向いているんじゃないかなあ。「シチュエーション限定」より「シリーズ固定」の方が向いているのだと思う。ビルズ時代も、それで失敗してたのかな。よー分からんけど。

 チェイス・ブラウンが活躍しつつあるので、このままだと危ないぞ。2年800万ドルの男が1年452万ドルの男になっちゃうぞ。

 そのほか、気になったところでいうと、ジャマー・チェイスかな。

 これは偶々なのかもしれないけど、私が観戦するシンシィの試合は、ジャマーがあんまり活躍しない。つか、そもそもターゲットにならない。

 キャリアスタッツを確認してみると、数字は残しているので、これは私だけの印象かもしれないけれど、もうちっとジャマーを使い倒しても良いと思う。才能的には、どう考えたって、どう見たって、ティーよりジャマーの方が上なんだから。

 一方、ジャイアンツサイドだと、やっぱダニエル・ジョーンズかな。何気にジョーンズについて書くのは、これが初めてだと思う、たぶん。

 つーことは、これが私が初めて見たジョーンズのゲームという事なのだろう。くわばらくわばら(意味不明)。

 その初めての印象はというと、なんつーか「タッチが悪い」という感じである。「判断力」とか「コントロール」は悪くないのだけれど、「タッチ」が悪いので、「惜しい」という感じである。洋服で例えるなら、「色」「デザイン」「サイズ」に不満はないのだけれど、「肌触り」がなあ、とか、食べ物で例えるなら、「味」「量」「香り」に不満はないのだけれど、「食感」がなあ、とか、乳首で例えるなら、「高さ」「色」「大きさ」に不満はないのだけれど、「舌触り」がなあ、コラコラ。

 なんかそんな感じの、「惜しい乳首」みたいなQBである。いや、そんなQBいねーっつの。

 で、「タッチ」とは何かというと、「速度」とか「角度」とかを総合した「捕りやすさ」みたいなものであろう。故に、WRのハンド次第で補える側面もあるので、このジョーンズの場合、「誰と組むか」は結構需要なポイントになるQBだと思う。

 で、そのジャイアンツレシーバー陣で、最大の注目、というか、それ目当てで私はこのゲームを観戦したのであるが、マリク・ネイバーズは脳震盪を理由にこのゲームは欠場。残念無念四角麺。

 で、そのネイバーズのスタッツを調べてみると、ここまで4試合出場で35レシーブ、386ヤード、3タッチダウン。新人王一直線の数字である。

 で、ここで唐突というか、当然というか、「今週のハリソン様コーナー」。

 第6週のハリソン様はパッカーズ戦、0の0の0。

 なんじゃこりゃ〜〜、カイラー・マレー、死んで詫びろ〜〜、こりゃ〜〜。

 で、この第6週までのハリソン様のシーズンスタッツであるが、ここまで6試合出場で17レシーブ、279ヤード、4タッチダウン。

 なんじゃこりゃ〜〜。親父なら1試合で到達しちゃう数字だぞ。なにやってんじゃ、こりゃ〜、カイラー・マレー、死んで詫びろ〜〜。

 と、かつて一茂の不調、っていうか実力を何でもかんでも野村克也のせいにしていたねじめ正一の如く、何でもかんでもカイラー・マレーのせいにしたいのであるが、ただ私の過去20年のNFL観戦歴から推すると、WRのスタッツって、QBはあんま関係ないんだよね。

 誰と組んでもWRの記録って、大体同じなんだな、これが。

 分かり易いのが、マイク・エバンスで、エバンスの場合、そのキャリア11年で、いろんなタイプのQBと組んでいるけれども、意外に数字は安定している。タッチダウン数は年ごとにバラつきがあるのだが、レシーブ数、ヤーデージはほぼ一定。タッチダウン数の変化は、これはQBの力量やプレイブック、あるいは反対側のWRやTE、あるいはRBの力量に左右されているのだと思う。

 私がこの事を発見したのは、懐かしのピエール・ギャルソンで、マニングを失った2011シーズン、数字を大幅に落とすと思いきや、案に相違して、数字は微増。その後、スキンズに移籍後も、スタッツ的には、あまり変わらず。

 「あ〜、そういうもんなんだな。」と、私は発見した。

 ハリソン息子の大先輩、フィッツジェラルドも同様だよね。エバンス同様、いろんなQBと組んだけれども、数字は一貫してた。

 ハリソン父親も、マニング入団以前から、活躍してたしね。まあ、入団以降、数字は飛躍的に伸びたけどな。これは、マニングがパスキチガ(以下自粛)。

 う〜む、ヤバイぞ。いや、ハリソン様は違〜〜う。

 で、第5週&第6週のコルツであるが、第5週は34−37でジャガーズに負け、第6週は20−17でタイタンズに勝ち。

 第4週は、それまで全勝のスティーラーズに勝ったと思ったら、第5週は、それまで全敗のジャガーズに負けと、何が何やら分からん。

 で、両方とも、というか、第4週からの3戦はフラッコー39歳の先発。んで、2勝1敗。来週、というか本日から、リチャードソンが復帰の模様。

 う〜む、なんつーか、6勝コース7勝コースに嵌っている模様。どーする。

 でも、改めて考えてみると、スーパーボウルで優勝したのは2006シーズン、出場したのは2009シーズン。何気に20年近い歳月が流れとる。

 ラックが電撃引退したのは2019年。もう丸5年の歳月が流れとる。当時90歳のばーさんが95歳、あるいは死んでる歳月である。

 ちょこちょこプレイオフに出場しているので実感がなかったが、何気に暗黒時代?。

                             クーラーを使った。2024/10/20(日)

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