インディアナポリス研究会コルツ部

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2021シーズン

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1/2/3/4/5/6/7/8/9

SuperBowlLIX
2月9日
KCvsPHI
@NO
22−40
 そこらに転がっていたカレッジフットボールのイヤーブックを何気なく開いたら、ジェイデン・ダニエルズの名が。前年活躍したルーキーつう事で、ちょいと記事になっていた。年度を確認すると、2020年。

 この年ブイブイ言わせていた選手はトレヴァー・ローレンス、それに続くQBはジャスティン・フィールズ、そんな年である。

 その他、注目されているQBだと、我らがサム・エーリンガー君。同じビッグ12のライバルQBがブロック・パーディ。甲乙つけがたいみたいな感じであるが、若干エーリンガーの方が上みたいな評価。プロ入り後は、実力はともかく、スタッツ的実績的には大きく水をあけられてしまったが。トホホ。

 ちなみに、これらのQBの評価は、ポジション抜きの全体評価で、ローレンスが1位、フィールズが2位、エーリンガーが10位、パーディが21位。その他だと、サム・ハウエルが9位。そんな年である

 その他、コルツがらみだと、ミシガン大にキーティ・ペイーの名が。そうして、その反対側にはエイダン・ハッチンソン。有名人の反対側シリーズかい〜〜〜。

 また、反対側ではないけれども、USCの「昨季で去ったプレイヤー」にはピットマンさんの名が。そうして、その後窯というか、後任というか、その前年から活躍してるので反対側というか、そこにはアモン−ラ・セントブラウンの名が〜〜〜〜〜。

 で、コルツ関係ではないけれど、アラバマの当時のQBはマック・ジョーンズ。前任はタゴヴァイオーラ、後任予定はブライス・ヤング。そんな時代である。

 そのブライス・ヤングは、この年アラバマ入学、すなわち高校卒業の年なので、リクルートランキングに名を連ねている。2位。1位はブライアン・ブレシーというクレムゾン入りしたDT。「誰」、と思ったら、2023ドラフトで全体29位でニューオリンズ入り。2023シーズン:4.5サック、2024シーズン:7.5サック。なかなかの活躍。

 また、そのリクルートランキングの41位にはC.J.ストラウドの名が。

 まあまあ、そのランキングの順位はともかくとして、ヤングとストラウド、お前ら、ダニエルズやボー・ニックスの後輩だったんかい〜〜〜。

 調べてみると、ダニエルズとニックスは2000年生まれ、ヤングとストラウドは2001年生まれ。

 ダニエルズやニックスの世代は特殊な世代だという事が分かる。

 その特殊性の大きな要因となった「コロナ」は、このイヤーブックのまさしくこの年、猛威を振るう事となる。まあ、幻想だったかもしれんがな。

 さて、第59回スーパーボウルである。私はチーフス勝利を予想したのであるが、結果は22−40でチーフス敗戦。それも大惨敗。

 つう訳で、今回は大言い訳大会、「チーフスは、俺が勝つと予想したのに、なぜ負けた」大会になるのだ〜〜。

 とまあ、たいそうな書き方をしてみたが、理由は一つ、敗因は簡単である。「チーフスはツイてなかったから、負けたのだ〜〜〜。」である。


 いやまあ、そりゃあそうでしょ。

 まずは最初のタッチダウンとなったイーグルスのシリーズであるが、イイ感じにイーグルスの攻撃を止めたと思ったら、パスインターフェア、つか公式にはアンネクサリーラフネスであるが、それでイーグルスの攻撃は継続、結果タッチダウン献上。

 このファウル自体についてとやかく言っても仕方がない。あの手の「ファウル」は、結局のところは「審判の見方ひとつ」、「恣意的」と言ったら言い過ぎかもしれないけど、「審判の見え方ひとつ」、「審判がいかように見えたか」で決まってしまう。とやかく言っても仕様が無い。

 それ故、「この手のファウル」に関しては「ビデオ判定が出来ない」というか、「ビデオ判定をしない」のである。

 まあ、勿論ガイドライン的なものはある訳だから、ビデオ検証をすれば何らかの結論は出るであろう。でも、そんな事を云ったら、全プレイひとつづつビデオ検証をしなければならなくなってしまう。実際、「ラインメンのプレイなんて、全てがホールディングだ」なんて言われているぐらいである。

 でも、そんな事を逐一検証していたらゲームにならない。ワンプレイごとに15分くらいかかってしまうであろう。そんな事をしていたら、文字通り「日が暮れて」しまう。いや。「夜が明けて」しまうであろう。

 そういう事が分かっているから、コーチも選手も激しく抗議はしない。得した側は「ツイてた」であり、損した側は「ツイてなかった」である。納得するしかない。

 もっとも、このファウル一つぐらいではゲームを左右することは無いであろう。チーフスサイドはそう思ってプレイしていた筈だ。まして、序盤だしね。

 で、次のイーグルスのシリーズは、上手く攻撃を止めたと思ったら、今度はオフサイドでイーグルスの攻撃継続、しかし、結果はインターセプト。ただし、リターンは無く自陣2ヤード。

 で、その直後のチーフスのシリーズはインターセプト、そうしてそのままリターンタッチダウン。ピック6である。

 で、その後の両チームのシリーズはそれぞれパントで0−17で前半の2ミニッツ突入。チーフス的には、タッチダウンはともかく3点ぐらいは返しておきたいところである。ただし、自陣6ヤードからの攻撃。

 で、そこの最初のプレイでインターセプト、そうしてチーフス陣14ヤードからのイーグルスの攻撃。

 正直、私はここで「諦めた」。「今日はそういう日かな」と思った。この時、リードの表情をテレビカメラが捉えていたけど、同じくそういう表情だったと思う。ミスした事を怒るとか反省するとかいうような表情ではなくて、「今日はそういう日なのかなあ」。そんな表情をしていたように私には見えた。私もそういう気持ちだったしね。

 リード以下、チーフスの面々もそういう気持ちだったと思う。

 で、あっけなく次の次のプレイでタッチダウンを献上。私は「終わった」と思った。チーフスのコーチ陣プレイヤー達も同様の心持ちだったと思う。

 通常、前半終了時点で0−24というのは、一般に考えられるほど絶望的な点差ではない。しかも、これはスーパーボウルである。チーフスは本来実力者、いやリーグナンバー1と目されているチームである。十分逆転できるし、イーグルスも細心の注意を払って、後半戦を戦わねばならない。大胆かつ繊細にゲームを運ばなければならない。

 ただまあ、今回は事情がちょっと異なる。技術的戦術的ミスによる劣勢、0−24ではない。「ツキに見放されての」0−24である。

 まあ、諦めちゃうよね。

 技術的戦術的ミスによる劣勢ならいくらでも「アジャスト」出来るだろうけど、「ツキに見放されての」劣勢だと、「アジャストメント」しようがない。「山盛り5トンの塩まいてこい」とか「アメリカ中の神社のお守り買ってこい」とかが数少ない「アジャストメント」であろう。

 後半開始時に、日本の実況が、仕方なしに「アジャストメント」って言葉を使っていたけど、空しく聞こえたのは私だけであるまい。

 実際、あのハーフタイム、あるいは前半終了間際の自陣6ヤードでのインターセプトを喫した段階で、チームを鼓舞する、士気を高めるには相当のヴォイスリーダーが必要であろう。そんな選手は今のチーフスにはいないし、今のNFL、いや過去のNFLまで範囲を広げてもちょっと思い浮かばない。強いて言えばエド・リードか。いや、それでも厳しいだろうなあ。それくらい、人間は「運」に対しては無力なものなのだ。

 まあ確かに、前半終了間際のインターセプトにしても、押し込まれたOLが悪いという事になるだろうけど、チーフスOL陣の劣勢は戦前から分かっていた事であるし、実際ゲームもその予想通りだったし、マホームズも分かっていた事であろう。

 「だから、あそこで投げるべきではなかった」と言えなくもないが、でも、それは完全な結果論であろう。あそこで、投げようとした瞬間に体勢を崩され、パスの軌道が変わり、それがそのままディフェンダーの手に収まるというのは、完全に「運」であろう。
 もしかしたら、イーグルスがゾーンプレス的にそこまで考えてプレイをデザインしていたのかもしれないけど、それがインターセプトになるか否かは、やはり「運」だと思う。少なくとも、私は「運」だと思っている。そこまでコントロール出来ない。

 で、そのインターセプトが自陣14ヤード。もうひとつのインターセプトはピック6。一方で、自軍の奪ったインターセプトは自陣2ヤード。2つのファウルも結果的には、致命傷クラスに痛かった。

 あのオフサイドも、あれが無ければパント、巧いパントでなければ、タッチバックの公算が高かったのであるが、結果は、その「巧いパント」と同等の自陣2ヤードでのインターセプト。第2クォーターにおけるチーフス苦戦の要因となったフィールドポジションの悪さのきっかけとなってしまった。

 まあもう、そういう日だったと諦めるしかないよね。

 ちなみに、私はデヴォンタ・スミスのタッチダウンが出た瞬間に見るのを辞めた。まあ、ベタなコールだけど、あれを防ぐのは厳しいよね。相手側が刻んでくるシチュエーションで、なおかつインターセプト、出来ればリターンタッチダウンが欲しい場面で、ディープ一発。まあ、決まっちゃうよね。

 その後、ゲームがどんな調子だったかは分からないが、実況席的にも厳しい放送だったと思う。G+の放送では村田さん有馬さんの御両人が担当していたけれども、スミスのTDまでの視聴に限っても、御両人ともに結構苦しんでた。

 そりゃそうだよね、何も語るとこないもの。この時点までのチーフスの劣勢、というか事実上敗戦の大きな、というか唯一の理由は「不運」でしかないのだから、そんなゲームを解説しようがない。「ツイてませんねえ。」を連発する訳にもいかんしね。

 実際、このゲームの第一の戦術的課題であった「バークリー問題」は、両軍ともに未解決、というか触れないままに終わってしまった。

 前半、いや、このゲーム全体を通しても、両軍ともに、事実上何もしてないようなもんである。

 前半終了時、「0−24」というスコアが残った訳であるが、チーフス、イーグルス、両軍ともにキツネにつままれたようなもんだったであろう。何か気づいたら、そこに「0−24」というスコアがあった、そんな感じである。

 イーグルス的には、朝、目が覚めたら、枕元に100万円があったみたいな感じ。あるいは、朝、目が覚めたら、枕元にPS5があったみたいな感じ(えっ、そんな嬉しくないの。)。あるいは、朝、目が覚めたら、AV嬢が横に寝ていたみたいな感じ(いや、これは嬉しいでしょう。)。
 チーフス的には、朝、目が覚めたら、横にクソババアがあ〜〜〜。いや、これは嬉しい人は嬉しいらしいが。


 そんな日もあるさ。


 いや、そんな日はねーーーー。これ、スーパーボウルだろーがーーー。

 いやもうこれ、「天の意志」を感じたよね。イーライの時も同様だったけど、三連覇直前のチームがこういう形で敗れ去るとはね。これがフットボールというゲームの魅力であり魔力であり醍醐味であると思う。そういえば、両ゲーム共にスパグニュオーロが参加してるな。一方は勝者として、一方は敗者として。

 いやもう、「天の意志」を感じたよね。何が何でも三連覇はさせないという。いや、これ「天の意志」じゃないのか。やりやがったか、イーグルス。裏で手を引きやがったか。ベリチックから「チート」を学びやがったか。
 この2週間、「チーフス、審判判定有利説」がアメリカのマスコミを賑わしていたらしいが、やりやがったのか、やりやがったのか。

 まあまあ、チート問題はともかくとして、NFLで3連覇がなく、2連覇も難しいっていうのは、これが理由だよね。他のスポーツだと2連覇3連覇がザラにあるのに対し、NFLでそれらが無い、あるいは少ないっていうのは、フットボールが他のゲームに比較して、「運」すなわち、選手やコーチ、更にはレフリーにもコントロールできない部分が大きいからである。

 まず、ボールが楕円形であるし、屋外スポーツであるから天候の影響も受けやすい。そうして、ケガも多く、そこに審判の笛が加わり、更にはファンブルロストやリターンといったプレイヤーがコントロールしにくいプレイ迄ある。そりゃ、安定して勝つのは難しいよね。

 「NFLの『戦力均衡化政策』が特定のチームに勝ちを独占させないようにしている」とはよく言われているけど、「サラリーキャップ」導入以前から3連覇が無いのであるから、そもそもフットボールというスポーツ自体が連覇を許さぬ性質を持っているのであろう。

 ちなみに、近年のメジャーリーグで連覇が無いのは、これは完全に「選手が移籍しすぎ」。これが唯一の理由である。

 でも、そう考えると、ビルズ「4年連続スーパーボウル出場」というのは、なかなかの偉業だったのだと思う。いいぞ、ポリアン。ま、4連敗したけどな。

 今回のスーパーボウルは、ゲーム自体は論評することの厳しい内容だったけれども、こういう形で「三連覇が潰えた」という事で、歴史的なスーパーボウル、伝説的なスーパーボウルではあったと思う。語り継がれるんじゃないかな。

 今回のチーフスは「運悪く」優勝を逃したけれども、前々季はともかく、前季は多分に「運に恵まれた」面もあったので、そういった意味では「三連覇」の大チャンスだったんだけどなあ。昨季の払い戻しをこういう形でするとはな。フットボールって、怖い。

 あっ、そうそう、リード以下チーフスの面々は、こういう内容というか、こういう形で敗れ去ったことで、「来年以降もまだまだできる」、「スーパーボウル優勝のチャンスはいくらでもある」と思っているかもしれないけど、案外、これが最後になってしまうかもしれないのが、NFLに限らず、プロスポーツにおける「優勝」って奴だからね〜〜〜。これを専門家はアーロン・ロジャース現象、あるいは前田智徳現象と呼びます。まあ、長嶋茂雄現象王貞治現象、ビル・ラッセル現象もあるけどな。

 そういえば、ビルズは「チーム解散」を免れたな。ちっ、運のいい奴。いや、悪運の強い奴。

                            キーボードを見つけた。2025/2/16(日)
2月 補習  ちょい前の記事で、「仮面劇」としての「パーマン」について触れたので、それについて。

 本来、「仮面劇」は「恋愛もの」に向いている。なぜなら、恋愛というのはお互い仮面をつけて付き合うものだからである。えっ、違うの?。

 仮面を付けてお付き合いしつつ、最後の最後の瞬間、互いの仮面を外す。それが恋愛というものである。まあ、「お互い仮面を外した時から、真の恋愛が始まる」とも言えなくはないが、それはまた別の話。

 ところが、「仮面劇としての恋愛もの」は非常に少ない。つか。聞いたことが無い。そりゃそうであろう。ちょい前の記事でも触れたが、「仮面」にリアリティを与えるのは非常に困難、というか、事実上不可能だからだ。強いて挙げれば、プロレスのマスクマン同志の恋愛ぐらいであろう。まあ、それにしたって、素顔を誰も知らないマスクマンなんて、「タイガーマスク」や「キン肉マン」のようなマンガならともかく、現実にはありえないであろう。業界の内外を問わず、素顔は知られている。

 つう訳で、「仮面劇としての恋愛もの」というのは、映画や小説のような、ある程度のリアリティを求められる芸術形式ではなかなか難しいのだけれど、マンガという形式だからという訳でもないが、うまい具合に「仮面劇としての恋愛もの」を成立させてしまったのが、「パーマン」なのである。意図的というよりは、偶然に、ではあろう。

 「パーマン」の「仮面劇としての恋愛もの」として非常に優れている点は、まず「非常に複雑」という点であろう。そもそも「仮面劇」自体が複雑なのであるが、「パーマン」は、それがより複雑化している。

 なぜなら、パー子が三つの仮面を被っている、すなわち三つの人格を有しているからである。

 まず、一つ目は、当然ながら、自分自身「小学生の星野スミレ」としての人格である。これそのものは仮面を被っている訳ではないけれど、ひとつの人格、すなわちひとつの仮面である。

 二つ目は、「パー子」としての人格である。

 そうして、三つ目は「アイドル星野スミレ」としての人格である。「アイドル」が「仮面」であることは、論を俟つまい。

 そうして、星野スミレはこの三つの人格を使い分けて、時には、使い分けきれずに小学校の友人や芸能関係者、パーマン関係者と付き合っていくのである。

 そうして、星野スミレはミツ夫の事が好きなのだけど、そのミツ夫君も「須羽ミツ夫としてのミツ夫」が好きなのか、それとも「パーマン1号としてのミツ夫」が好きなのか、スミレ自身も混乱しているのである。

 これに加えて、上には挙げなかったけど、厳密にいうと、もう一つの人格、第四の人格がある。それは、小学生でもなくアイドルでもなくパー子でもない、誰にも見せない本当の自分、素顔の自分、仮面を外した自分である。

 そして、ここが「パーマン」というマンガの秀逸なところであるが、この「本当の自分」は「コピーロボットの自分」と対話するのである。なんと素敵な設定、なんとアラベスクな構造。

 一方で、ミツ夫は「アイドル星野スミレ」は好き、というか、これは恋愛感情とはちょっと異なるものかもしれないが、当然好きな訳である。その一方で、「パー子」は嫌い、嫌いは言い過ぎかもしれないが、少なくとも恋愛対象としては見ていない。友人、あるいはビジネスパートナーといったところであろう。そうして、「小学生としての星野スミレ」は知らないし、「第四の星野スミレ」、「誰にも見せない素顔の星野スミレ」は、当然知らない。

 また、ミツ夫の現実的な恋愛対象としてはミチ子がいる。そのミチ子は「パーマン1号」に憧れている。が、ミツ夫はただのクラスメート。

 こういう複雑な構造に星野スミレはヤキモキしている。そうして、それを楽しんでもいるし、愛してさえいる。

 こういう複雑な構造を幼き日の私、10歳前後の私は楽しんでいたのだ。胸をトキメかせていたのだ。しかも、その後日譚は「ドラえもん」で語られるのである。これを超える「恋愛もの」を私は未だ知らぬ。

 さて、「Jリーグの悪口」である。

 スキラッチの訃報に端を発したこのマクラ(?)であるが、とうとうシーズンが終了してもうた。残業、というよりは居残り補習みたいな気分であるが、あと5,6回で終わると思うので(多分)、お付き合いくださいませ。

 Jリーグファンあるいはサッカーファンの口吻で私が昔から疑問に思ってきた事のひとつに、「サッカーは世界一の人気スポーツである。野球は日本だけ。」というのがある。

 この主張自体に不満はない。異議もない。まあまあ、確かにその通りであろう。もっとも、厳密に考えて、果たして本当に「サッカーが世界一の人気スポーツ」かというと、多少疑問は残る。例えば、「やるスポーツ」としては、ゴルフやテニスの方が分があるように思う。少なくとも、20歳以上のプレイヤー人口という点では、ゴルフやテニスの方が上であろう。あなたの身の回りに、サッカーをプレイしている人いますか。町のテニスクラブのように、町のサッカークラブがありますか。

 まあ、そもそも「『人気』とは何ぞや」という問題もある。プレイヤー人口なのか、テレビ視聴者数なのか、熱狂度なのか、厳密には定義しきれないものであろう。

 しかし、とりあえず、それらはいい。「サッカーは世界一の人気スポーツである。野球は日本だけ。」を、私も概ね肯定する。

 ただ、私が疑問なのは、多くのサッカーファン、Jリーグファンが、それを「サッカーを見る理由」、「サッカーをやる理由」、「サッカーを推奨する理由」としている点である。

 自分が何かをしようとする時、あるいは人に何かを奨める時、「人気」なんて指標になるの。私はならない。むしろ、恥ずかしいとさえ思う。

 例えば、「マイケル・ジャクソンは世界一の歌手だから(毎度、譬えが古くてスマン。)、俺、マイケル・ジャクソン聴いてんだ。」とか「カローラは世界一売れている車だから、俺カローラを買ったんだ。」とか「ルイヴィトンは世界一のバッグだから、ヴィトンのバッグを買ったんだ。」とか、人は言うだろか。いや、言うの。

 普通は言わんでしょ。仮に、その人気を理由にその商品を購入したとしても、そういう言い方は絶対にしないであろう。「ヴィトンって縫製がしっかりしているし、大きさも手頃だし、ポケットの数や配置も気が利いてるので、買ったんだ。」とか、「履き心地もいいし、足も疲れないし、色も好きなんでニューバランスにしたんだ。」みたいな言い方をするであろう。このレトリックを私は散々耳にしてきた。本当は「人気」、つうか「ブランド」でその商品を贖ったくせに、あたかも「『機能』や『デザイン』等々の『品質』でその商品を選んだら、たまたま『人気ブランド』だった」みたいな言い方である。

 また、実際にその商品の品質でその商品を選んだとしても、このように言うであろう。「いや、俺、マイケル・ジャクソン大好きなんだけどさ。あんまり人に言えないから、家でこっそり聞いてんだよね〜。ウォークマンを使うのもちょっとビビるぜ。」とか、「いやまあ、いろいろ検討したんだけど、値段とか燃費とかアフターサービスとか色々総合したら、カローラになっちった。」。その言葉に私はこのように返すであろう。「色々考えたら、最終的にはカローラだよね。だから、世界一売れてんだもん。まして、日本で乗るとしたら、カローラ一択だよ。」。

 つう風に、「人気」というのは、その商品を選択する際の第一の理由にはならないし、むしろ消極的な理由にさえなるものであろう。その商品を選ばない理由になる。

 えっ、違うの。最近の人は「人気」を第一の理由にするの?。世代論は私はあまり好きになれないし、信憑性も疑わしいと思っているが、購買意欲に関する世代論として以下のようなものがある。

 「今の70代以上の人たち(団塊の世代)は『人と同じ事をしようとする』、今の60代の人たちは『人と違う事をしようとする』、今の50代の人たちは『モノの選択に際し、人と比べない。他人を基準にしない。』」というのがある。30年くらい前の説なので、今の40代以下の人たちは考察の対象となっていない。

 私は勝手に、今の40代以下の人たちも50代と同じ、すなわち「モノの選択に際し、人と比べない。他人を基準にしない。」だと思っていた。それが豊かな時代に生きる人々の当然の選択だと思っていたし、高度文明社会の必然、結論だと思っていた。いや、違うの。今の人達は「人気」を基準にモノを選んでいるの。

 まあ確かに、サッカー問題に限らず、最近の人達はやたらと「人気」という言葉を使うからな。「人気」を議題にするからな。「人気」を重視しているのかもしれん。

 ただし、サッカーファンやJリーグファンが盛んに「人気」を話題にするのには、はっきり理由がある。それは、Jリーグ創設時に盛んに鼓吹されたからだ。当時のテレビ局や広告代理店が「サッカーを観るべき理由」「Jリーグを観るべき理由」として第一に鼓吹したのが、「サッカーは世界一の人気スポーツである。野球は日本だけ。」だったからだ。

 いやまあ、仕方ないんだよね。当時のテレビ局や広告代理店は日本サッカー協会からの依頼でこの仕事を始めた訳であるけれど、では具体的に「サッカーを観るべき理由」「サッカーを勧める理由」を考えたら、これくらいしか浮かばなかったのであろう。GT-Rや霧ヶ峰、マクドナルド等々は「薦める理由」が色々あるのだろうけど、サッカーの場合、「奨める理由」がこれくらいしか思いつかなかったのであろう。

 まあ、仕方ねーけどな。サッカーに限らず、スポーツの美点欠点なんて、そんなもん誰にも分からんよ。とういうより、それは「個々による」でしかない。点がたくさん入るスポーツが好きな人もいれば、点があまり入らないスポーツが好きな人もいる。個人スポーツが好きな人もいれば、団体スポーツが好きな人もいる。動きの速いスポーツが好きな人もいれば、動きの遅いスポーツが好きな人もいる。

 一般的な商品ならば、「速い」とか「よく冷える」とか「安い、早い、美味い」とか明々白々な美点もあるだろうけれど、スポーツは徹底的な嗜好品である。好き好きでしかない。多くの日本人は、サッカーではなく、野球が好きなのだ。それは優劣でも美醜でもない。好悪だけの問題である。明治時代、数多くの文明や文化とともに様々な「スポーツ」が日本に上陸した。野球、サッカー、バスケットボール、バレーボール(これらは明治じゃないか)、ラグビー、テニス、ゴルフ等々。その中で、当時の日本人の多くは「野球」を選んだのだ。そうして、それは今も続いている。

 そういう事は勿論、当時のテレビ局や広告代理店の担当者の方々も重々承知していたであろう。でまあ、そこでやむなく、「安易に」とも云えるが、押し出したコピーが「サッカーは世界一の人気スポーツである。野球は日本だけ。」であったのであろう。

 で、このコピーをサッカーファンやJリーグファンは、今以って後生大事にしているのである。金科玉条としているのである。一向宗である。

 故に、今以って、サッカーファンやJリーグファンは、何かつうと、「人気」を話柄にするのである。

 ちなみに、Jリーグ創設時、サッカーの美点として「人気」の他にもう一つ挙げられたものがあるのだが、それは次回に。今回はこのへんで。

                           私はガメラ派。2025/2/23(日)
2025年
3月
補習2  生島淳が生島ヒロシの実弟であることを最近知った。苗字も同じだし、顔も似ているし、同じく中身空っぽだし、気づいていてもよさそうであるが、全然気づかなかった。不覚。

 NFLやNBAのファンであるため、アメリカンスポーツ関係の番組はちらほら見ており、この生島淳も知ってはいた。当時、こんな生島淳のような中身空っぽの人間がどうしてこの手の番組に出演しているのか、不思議であったが、そういう事だったのね、納得。生島ヒロシの営業力、畏るべし。NFLの解説もやっていたと思う。

 まあ、こういうのは、芸能界に限らず、至る所にいる。学生の皆さんはピンとこないかもしれないが、社会人なら、皆、一人や二人、この手の人間と職場で遭遇している筈である。

 この手の、その能力が無いにも拘らず、その職に就いている人間というのは、この生島淳や吉本芸人、ジャニタレ等々に限らず、遅かれ早かれ消えていくものである。ある意味、自滅といっていい。

 本当に怖いのは、その逆。本人の能力をはるかに下回る職に就いている人間である。例えば、吉良吉影。こういう人間が最も怖い。まあ、前者と違って、滅多にいないけどね。

 生島ヒロシは典型的な久米宏フォロワーである。久米宏も、生島ヒロシ同様、中身空っぽであるが、久米宏はそれを一つの芸にまで高めた。一方、生島ヒロシのみならず、多くの久米宏フォロワーはそれを芸にまで高められず、散っていった、消えていった。生島ヒロシは、そこを自前の営業力でなんとか芸能界にかじりついたのであろう。すっごい隅っこだけどな。

 久米宏は、自身が中身空っぽであることを自覚していた節がある。自演していた節もある。少なくとも、「テレビの世界では、中身空っぽでないと人気が出ない」事を知ってはいたであろう。

 最近、みのもんたが逝去したが、彼もまた、多くの久米宏フォロワーと同じく、中身空っぽであった。みのもんたは、ナンシー関が正しく指摘したように「チャチを入れるしか能のない男」である。「チャチを入れる」もまた、中身からっぽのひとつの形であろう。みのもんたは、プロ野球にチャチを入れ、芸能ニュースにチャチを入れ、経済ニュースや社会ニュースにチャチを入れ、芸能界を生き抜いたのだ。

 生島ヒロシやその他の久米宏フォロワーには何の芸もなかった。

 その元凶である久米宏は功罪半ばと評されているが、まあ、罪の方が多いよね。この手の久米宏フォロワーはともかくとして、ニュースショーを日本に導入した張本人である。その罪は重いと思う。

 とりわけ、選挙をテレビショー化した罪は大変重いと思う。今の人は知らないかもしれないが、「誰が勝った、誰が負けた」と選挙をスポーツのように報道する、所謂「選挙特番」の元祖は久米宏だからな。この罪は重い。

 その久米宏の隣で、したり顔で選挙を解説していた白鴎大学の先生、お前も同罪だからな。

 「久米宏の隣」と云えば、黒鉄ヒロシもいたけど(またも「ヒロシ」)、あれもホント中身空っぽだった。野村克也の台頭とともに、入れ替わるように、消えてったけどな。今、何してる。

 あと、そうそう、「久米宏の隣」といえば、朝日新聞の論説委員がいたな。「天声人語」みたいな、あんな駄文を書いていたのがこんな連中だと知って、当時の私は「さもありなん」と思ったものだ。

 と、こんな事を書くと、私が「反朝日新聞」「反左翼」であるかのように勘違いする御仁もおられるかもしれないが、全然違うからな。朝日新聞がくだらない新聞であることは異論の余地がない、というか、あるゆる「新聞」はくだらないものであろう。私は、新聞は中学生の時に卒業した。その「新聞」の命運も、もうそろそろ尽きそうであるけれども。

 つう訳で、「朝日新聞」や「左翼」はくだらないものであるけれど、「産経新聞」や「右翼」は更にその下、もっと下だからな。

 あと、「久米宏の隣」といえば、栗山英樹な。これもやっぱり中身空っぽだった。栗山は別当に似ていると思う。この件については、いずれ時宜を得た時に。

 こういう「中身空っぽ」をそろえた所謂「ニュースショー」は、久米宏フォロワー同様、というか久米宏フォロワー以上に増えに増えた。先に挙げたみのもんたを始め、その後は松本人志や太田光のニュースショー。こんなくだらないものを見ている連中が最も悪いのだけど、売れるからって作ってる連中も同様に悪い。まさしく、久米宏の罪である。

 あと、ビートたけしも同罪だからな。私は芸人ビートたけしを礼讃してきたので、この発言を意外に思われる方もいるかもしれないが、私がビートたけしから離れた理由というのは、その芸人としての力の衰えもあるけれど、もうひとつはこれ、社会や経済、政治について発言しだしたからである。実際、ニュースショーみたいな番組もやってるしな。そうして、みのや松本同様、トンチンカンな発言の連発。

 言っとくけどな、そうして、分かり切っていることだけどな、政治は芸能じゃないからな。「ヤオ」じゃないからな。徹頭徹尾「ガチ」の世界だからな。政治が変われば、生活が変わる。税金は上下するし、水道が流れたり流れなくなったりするし、道路が直されたり直されなくなったりするんだよ。そのひとつが戦争だよ。死ぬんだよ。「ヤオ」なんか何一つないんだよ。「中身空っぽ」じゃないんだよ。

 そうして、その極みが「選挙特番」。「選挙」を「ショー」にするなよ。

 あと、「選挙に行こうキャンペーン」な。いいか、選挙は音楽コンサートやスポーツ大会じゃないんだよ。自身の政治的判断力に自信が無いのなら、確信が持てないのなら、むしろ選挙に行くべきではないだろう。
 たとえ、その結果、投票率0.3%になったとしても、それが「自身の政治的判断力に自信がある、確信がある投票率0.3%」なら、それは「自身の政治的判断力に自信がない、確信がない投票率58%」よりはるかに価値がある。まあ、「投票率50%を切ったら、それは選挙制度そのものの否定だ」という誰かさんの意見もあるけどな。

 選挙制度を導入しようとした時、反対派が主張した、それもかなり強力な反論の一つとして主張したものに、「もし選挙制度を導入したら、代議士は芸能人だらけになってしまうだろう」というものがあったけど、ものの見事にそうなったよね。

 東京都知事なんて、もうかれこれ30年以上、連続して芸能人である。テレビでは、これを絶対議題にしない。そりゃそうだよね、自分たちのお得意様なんだから。同業者なんだから。

 幸い芸能人首相は誕生していないけれど、これは首相が間接投票であるからで、直接投票、あるいはアメリカのような直接投票に近い形の投票であるならば、たちまち芸能人首相が誕生するであろう。それこそ、山田花子とかが首相になるぜ。「花子ちゃんはウソつかないからね〜。」とか言って。

 世界に目を向ければ、事はもっと深刻であろう。アメリカやウクライナはその両巨頭といっていい。

 芸能人には被選挙権どころか選挙権も与えるべきではないと思う。その芸能人には、テレビタレントやスポーツマンのみならず、小説家や映画監督、マンガ家等々も当然含まれる。なぜなら、彼らは中身空っぽだからだ。

 「選挙をすると芸能人ばかりになってしまう」というのは、勿論、選挙民の罪だけど、その罪の一端は選挙を主宰する側、選挙管理委員会の側にもあると思う。

 それは候補者の情報が少なすぎるって事だ。現状、あの政権放送とポスターだけ。あとは各候補者の選挙活動のみである。そんなもん、中立者である選挙管理委員会が各候補者のそれなりの資料を作成提出しろっつの。

 出身地や生年月日、学歴職歴ものみならず、どのような事を学んできたのか、どのような仕事をしてきたのか、ちゃんと書け。また、特徴的なエピソード、逸話も必須であろう。

 また、現役だったら、当然、過去、どのような法律に賛成してきたのか反対してきたのか、また、その法律の顛末も詳しく記述すべきであろう。

 また、本を出版しているのなら、その本の内容。あと、書棚の公開な。どんな本を読んでいるかで、その人の知性や嗜好、思想は丸分かりだからな。これも必須。精神のストリップ。慌てて、飾り立てても、それはそれですぐ分かっちゃうぜ。

 そういった資料を、まあそうだな、A4サイズで100ページくらいにまとめた小冊子を各候補者づつ作り、選挙1か月前、あるいは2か月前くらいに全選挙民に配布すべきである。

 現状は、選挙のための情報が少なすぎる。

 あと、選挙制度のもう一つの問題、というか傾向は、どうしても「右翼的な人」が選ばれやすいという点であろう。トランプとゼレンスキーなんて、この点においても、両巨頭である。

 その理由ははっきりしていて、ショーペンハウアーの言う通り、「自身に褒められることのない人間は自身の所属している集団を誉めたがる。家庭、学校、会社、地域。それらに褒められることが無くなると、今度は国を誉めだす。どんな国にも一つや二つ良いところがあるからな。」。

 私の身の回りにも、それこそ靖国神社とかに行っちゃう人がいて、この人も二言目には「これは僕のおかげなんだよ。」とか「僕はもっと褒められて然るべきなんだよ。」とか言ってた。「褒められたい」という欲求が満足させられていないのである。
 「なるほど、こういう事か。」と私は思ったものである。学而時習之。悪い人じゃないんだけどねえ。

 また、この手の人たちが「優生思想」に飛びつくのも、全く同じ理由で説明がつく。「成長した結果は悪くても、種は良いのだ」って事だよね。でも、種が良くても、結果が悪くてはねえ。良い食材を使っても、結果不味い料理が出来上がってしまったら、それはやっぱり「不味い」のである。

 そうして、この手の人間の最悪に事例がヒトラーであろう。なるほど、「褒められたことの無さそうな」人物である。褒められることのない惨めな前半生を生きてきたのだと思う。まあ、結局、褒められない、というか、人類史上、最も叱られる人間となった訳であるが。

 それはともかくとして、この世の大多数の人物は「褒められたことが無い」ので、同じく「褒められたことが無い」人物を選んでしまうのである。むしろ、「褒められることの多い」人物は彼らの敵、宿敵であろう。いや、理解しがたい人間といったところか。

 ヒトラーを独裁者なんて言ってるのは、大きな間違いだからな。ヒトラーを選んだ、ヒトラーの政治思想を選んだのは、当時の大部分のドイツ人の意志だからだな。トーマス・マンなんていうのは、多くの文学者がそうであるように、例外的なドイツ人だからな。文学と政治が対立概念であるというのは、こういう点からもよく分かる。中身空っぽと中身ぎゅうぎゅう。

 ちなみに、「独裁」なんていうのは、ヒトラーに限らず、ほとんどの政治家にとって不可能事である。それは絶対王政でも共和制でも皆同様である。国王でも首相でも大統領でも、国家の政治担当者は常に国民の声にビクビクしているのである。そりゃそうだろう、国民の方が圧倒的大多数なのだから。勝てる訳がない。勝負にならない。

 国王の意志、独裁者の意志でする戦争なんて、ほとんど無い。そりゃそうだろう。戦争の際、矢面、まさしく矢面に立つのは自分自身何だからな。戦死しなくとも、戦争に負けたら、その多くの場合、処刑されてしまう訳である。

 戦争をしなければ、贅沢な暮らしを継続できたのに、それでも戦争をせざる得ないのは、貧しい国民の声に押されたからである。イヤイヤ戦争をするのである。多くの貧しい国民は、戦争により豊かになることを望んでいる、あるいは空想している。国民の声無しに戦争をする王様は、上杉謙信のような戦争キチガイだけであろう。

 日本史において、「独裁」に近かったのは、ある時期の織田信長ぐらいだろうけど、独裁に近づいた瞬間、暗殺されとる。そういうもんである。一時期の大久保利通もそれに近かったろうが、やっぱりあっさり暗殺。そういうもんである。世界史にも、そういう事例は山ほどあるであろう。それくらい「独裁」は不可能事なのだ。

 だから、忘れんなよ。人類、この場合は、ヨーロッパ人が普通選挙制を布いて、最初にしたことは世界大戦だからな。しかも、ご丁寧に二度やったからな。
 日本人も同様だからな。普通選挙制を布いて最初にやったのは日中戦争、太平洋戦争だからな。まあ、もっとも、この「普通選挙」は「男性のみ」であったから、女性も選挙に参加していたら。違う結果になったかもしれんけどな。いや、案外同じだったかもな。

 「選挙制度」については更にその先もあるのだけど、またそれはいずれ時宜を得た時に。そればっか。

 とまあ、冒頭からいきなりプンプン怒った文章となり、大変申し訳ないのであるが、今回は全編こんな調子なので、そこんとこヨロシク。

 前回の記事で、往時の、というか、今現在においても、サッカーファンがよく口にする「サッカーは世界一の人気スポーツである」に疑義を呈したのであるが、当時、これ以外にもサッカー擁護の論述があった。それは、「サッカーはプレイが止まらないので美しい。野球はプレイが止まるから醜い」というものである。なんで、いちいちサッカーを野球と比較するのかという根本的な疑義もあるが、それは「在日本」という事で許しておこう。

 この論述は前記の「サッカーは世界一の人気スポーツである」と違って、ごく一部、というか、玉木正之の主張なので、世間一般に広まってはいない。中身も中身なので広がる筈もないであろう。玉木正之らしい、典型的なバカ主張である。そういえば、玉木も、黒鉄同様、野村克也の台頭と入れ替わるように消えてったな。良貨は悪貨を駆逐す、といったところか。
 ウィキペディア情報によると、某テレビ番組で粗相を犯したらしい。それも一因なのかな。一時期、「オペラ、オペラ」と意気込んでたけど、オペラ業界からも総スカン食らったのかな。草野進なんか有難がっているようじゃあ、お里が知れるよ。

 でまあ、この「サッカーはプレイが止まらないので美しい。野球はプレイが止まるから醜い」というのも、典型的な玉木のバカ主張のひとつなのであるが、当時私は一読して吹いた。所謂「噴飯もの」って奴である。

 ちょっと考えてみれば、この主張がオカシイなんてことはすぐ分かる。

 まず単純に、「見るスポーツ」として考えた場合、「プレイが止まらない」は美点でもなんでもなく、むしろ欠点、いや致命的な欠点でさえある。

 例えば、球場で観戦する場合、飲食やトイレタイムに困るであろう。サッカーの試合においては、球場の内外で飲食店の売り上げが、野球と比較して、少ないとはよく聞く。理由は考えるまでもない。当然の話である。
 
 で、おトイレタイム。サッカーの試合で、ハーフタイムにトイレが長蛇の列、特に女性が困る、とはよく聞く話である。これも理由は考えるまでもない。当然の話である。

 また、球場で観戦しない、テレビ等々での観戦でも、飲食やトイレタイムが重要であることは言うまでもない。テレビの前で正座し、飲食トイレを断って、観戦応援している人は稀であろう。さしずめ、「サポーターの鑑」といったところか。

 また、飲食やトイレタイム以外でも、「プレイが止まるスポーツ」は贅沢な、あるいは我儘な観戦が許される。

 例えば、大谷である。これからメジャーリーグのシーズンが開幕するが、多くの大谷ファンがテレビやスマホに釘付けとなろう。しかしながら、その多くはドジャースのゲームを試合開始から試合終了まで一球たりとも見逃さず見ているかといったら、そんな事はない筈だ。いやむしろ、多数派は「大谷のピッチングだけ」あるいは「大谷の打席だけ」観るのだろう。私もそうしてる。「大谷の打席になったら、お母さん呼んでね。」「ああ、分かった分かった。」。

 また、私は、ヤクルトファンであった頃、ヤクルトのゲームは守備の時だけ観戦応援して、攻撃の時は飲食やトイレタイム、あるいはお風呂タイムですらあった。いや、他のチャンネルを見ていた時もあったかな。
 何故かというと、守備やピッチングが好きだったからでは全然なく、攻撃の時は「負けに近づく事はない」が、守備の時は「負けに近づくことがある」からである。守備の時だけは、「応援」する必要があったからだ。まあ、バカ観戦だけどな。

 というような、珍妙な、あるいは贅沢な観戦が出来るのも、「止まるスポーツ」の代表格である野球ならではであるし、野球が、他のスポーツに先駆けて、プロスポーツとして隆盛した、小さいながらも一因ではあると思う。

 ちなみに、この観戦方法は、フットボールでは、当然ながら不可能である。フットボールにおいては、攻撃の際にも「負けに近づくこと」があるからだ。油断ならねースポーツ。

 あとまあ、民放でのCM問題ね。これも、何だかんだでJリーグの足を引っ張っていると思う。

 ちなみに、このCMが入る事で、「そのスポーツは醜い」としていた玉木は「NFLは試合終了1分前に強制的にCMタイムを入れるので醜い」とどっかの著書で語ってた。まあ、2分前だけどな。悪口言うのは自由だけど、最低限の数字ぐらいは調べておけや。足元すくわれるど。まあ、足元すくうのもバカバカしい程度の本だったけどな。無論、立ち読みなので手元にはない。買う価値、入手する価値は全く無い。

 また、これらは「プレイが止まるスポーツ」の「見るスポーツ」としての利点だけれども、「やるスポーツ」としても「プレイが止まらない」」のは大きな利点であると思う、少なくとも、致命的な欠点にはならない。

 日本において、野球やゴルフといった「止まるスポーツ」が「やるスポーツ」として人気なのは、そりゃどう考えたって、「体力的に楽」だからであろう。子供はともかくとして、大人、とりわけ30歳以上の大人、あるいは50歳以上の老人がサッカーやバスケットボールをフルにプレイするというのは、ケガ云々を抜きにしても、非常に無理がある。

 昔、どっかの掲示板に投稿されていたのだが、その投稿主が職場の同僚とかと草バスケットボールを企画して、プレイしたらしい。NBAっぽくクォーター性を採用したのは良かったのだけど、どこをどう間違えたのか、15分クォーターに設定してしまい、しかも10人ギリギリしかいないので交代要員もおらず、最後の10分間はマジで死にかけたそうである。バスケットボール殺人事件が完成されてしまいそうだったそうである。

 これが野球やゴルフなら、こうはならん。1日2試合3試合、あるいは2ラウンドぐらいは、そこらのおっさんでも十分可能であろう。まあ、水島新司みたいな、70歳過ぎて、1日4試合完投なんて強者、というかキチガイもいるけどな。いや、60歳過ぎてだったかな。さすがに。

 ヨーロッパや南米の草サッカー事情がどんな調子なのか全然知らないが、「フットサル」というサッカーを小型化したようなスポーツが生まれたのは、一つにはこの体力問題という理由があるだろう。

 という訳で、私には「止まるスポーツ」の欠点というのは一つも思い浮かばない。同じく「止まらないスポーツ」の美点も全然思い浮かばない。そもそも、スポーツにおいて「止まる」「止まらない」なんてたいして重要な問題ではないであろう。実際、大概のスポーツは「止まる」。

 野球、ゴルフ、テニス、ボーリング、バスケットボール、バレーボール、卓球、バトミントン、等々。

 バスケットボール、バレーボール、卓球、バトミントンなどは、理論上は、無得点やラリーの状態が続けば「止まらない」かもしれないが、現実的には珍しい。サービスエースのように即「止まる」場合も多い。

 また、ラグビーのように、タッチキックという「プレイを止める」のが一つの戦術として確立しているスポーツもある。

 これらはみな醜いのであろうか。

 「止まらない」スポーツとして挙げられるのは、サッカーの他には、マラソンとかトライアスロンぐらいしか思いつかない。あと、100メートル走とか100メートル競泳のような所謂「スプリント競技」も「止まらない」とは云えるが、そういう事ではないでしょう。

 あとは、F1のようなカーレースも「止まらない」ちゃあ「止まらない」けれど。

 そもそも、「止まらない」サッカーにしても、得点シーンの多くは「止まる」セットプレイからである。

 という訳で、「止まる」「止まらない」なんて、まったく以って内容の無い、まさしく「中身空っぽ」な主張であることは明々白々である。実際、当該の文章で、何を根拠に「サッカーはプレイが止まらないので美しい。野球はプレイが止まるから醜い」としていたのかは、きれいさっぱり忘れてしまった。記憶できるようなレベルの論拠ではなかったのだろう。「現実の時間は止まらないのに、スポーツの時間が止まるのはオカシイ」とかその程度の論理、思考であったろう。

 では何故、当時玉木がそんな事を云いだしたのかというと、当時圧倒的追い風であった「Jリーグブーム」に乗った、ただそれだけであろう。
 でも今更、広告代理店等々の掲げる「サッカーは世界一の人気スポーツである」を借用するのも癪に障るので、つうかプライドが許さないので、みずからサッカーと野球を比較してみた結果、「サッカーは止まらない、野球は止まる」という重大な相違点に気付いたのだろう。んで、あの文章。バカ丸出し。

 ちなみに、当時の玉木は、いや今でもかな、「プロ野球は親会社の広告塔にすぎない」という幼稚極まる主張をしていたけれども、いやいいでしょう、広告塔で。何の問題があるの。

 プロ野球というのは、いや、プロ野球に限らずプロスポーツというのは全て、広い意味での、いや普通の意味でも広告産業なのだから、広告塔であるに決まってる。

 産業革命により、必要以上にモノを作り過ぎた人類は、商品としてモノを売らねばならなくなった。そうして、その商品を多くの人に知ってもらうために広告が必要となった。耳目を集める手段が必要となった。その方法として、新聞、雑誌、ラジオ、テレビといった娯楽産業は発展してきたのだ。新聞の半分は広告でしょう。雑誌の3割くらいは広告でしょう。民放のラジオ、テレビにはCMが必須でしょう。まあ、なかにはジャンプみたいにほぼ広告の無い雑誌もあるにあるけれど、それは特殊な例外。

 そうして、そうしたメディアのコンテンツ、耳目を集めるためのコンテンツとして発展してきたのが、各種芸能産業でありプロスポーツである。彼らの高給の根拠はこれである。歌が上手いからとか、速い球を投げられるからとかがその根拠ではない。

 実際、産業革命登場以前には、それらの能力に長けた人もいるにはいたけれども、決して高給では無かった。河原乞食同然の人もいた。江戸時代の力士は、その多くは殿様のお抱えである。

 また、共産主義社会、必要以上にモノを作らない社会、計画経済の社会、すなわち広告の必要のない社会では、スポーツマンの収入は、資本主義社会に比べ、信じられないほど低い。キューバの野球選手は、メジャーリーガーと同等の技量を持っているけれども、その給料はメジャーリーガーの1000分の1、1万分の1、10万分の1。同じく、旧ソビエト連邦のバスケットボール選手はNBAのプレイヤーと同等の技量を持っているけれども、その給料は同じく1万分の1、10万分の1。

 まあ最近は、その手の広告産業から完全に独立して、完全自主営業を成立させようとするプロスポーツ団体もちらほら出てきているようだけど、そうはいっても、プロスポーツがビックビジネスであるためには、現時点では、どうしたって広告産業が必須であろう。広告産業の一因とならねばならない。馬場や猪木が「テレビがプロレス経営の生命線」と言っていたのは、これである。

 こんな事はちょっと考えれば、先の「止まる止まらない」同様、誰でも分かるような事であるし、自身もその広告産業の端くれであるのに、あんな事を云っているのである。バカとしか言いようがない、最低レベルの思考力もないのが玉木正之である。そういうのに限って、「美しい」とか「醜い」とか言い出すんだよね。美的判断力なんて無いくせにさ。

 それに関連してという訳でもないが、プロスポーツチームに会社名が付くのを嫌がる人は多い。私もどちらかといえば「反対派」ではある。「強固な反対派」ではないけどな。そういえば、ニュースステーションでも、プロ野球チームをニックネームのみで呼称表記していたな。「ヤクルトスワローズ」ではなく「スワローズ」と呼称表記したり、「西武ライオンズ」ではなく「ライオンズ」と呼称表記したり。まあ、別にいいけどな。中身空っぽではあるけれど。だって、自身が「民放」なのにさ。あっ、だから久米はCMを「トイレタイム」と言ってたのか。

 で、その流れにあるのが、当時発足したJリーグで、ベルディの一件は有名な話であろう。でも、チームに会社名をつけなくても、ユニフォームがスポンサーのロゴでベタベタじゃねえ。「美しい」とは言えないと思う。「醜い」であろう。

 ちなみに、私は先述した通り「会社名反対派」ではある。何故かと言えば、、「金儲け云々」では全然無くて、そもそもプロスポーツチームのオーナーなんてタニマチ業、金持ちの道楽なんだから、広告費云々みたいな小さい事言いなさんなってぐらいの理由である。

 でもまあ、「阪神」とか「中日」なんて、それがほとんどチーム名みたいになっちゃてるから、今更変更すると、違和感あるよねえ。今更「名古屋ドラゴンズ」とか「大阪タイガース」とか「西宮タイガース」とか言われてもねえ。

 また、「読売ヴェルディ」にしたって、企業名ちゃあ企業名だけど、「読売サッカークラブ」っていうのは純然たるクラブチームだったのだから、その名を残しても良かったと思う。日本サッカー史から外すわけにはいかない名前でしょう。

 つかまあ、この読売に限らず、ヤンマーにしたって日産にしたって、当時のサッカー人気を鑑みれば、「広告塔」として各チームを、日本のサッカー界を利用した訳ではないであろう。ボランティア、支援、慈善活動、好意善意程度の意味であったろう。基本的には「会社のクラブ活動」だしね。それを今更「企業名を外してくれ」と言われても、彼ら、日本を代表する大企業からしてみれば、ちゃんちゃらおかしい、ヘソで茶の沸く話であったろう。オメーらなんか、そもそも「広告」になってねーよ。

 つかまあ、同じことは、当時の巨人以外のプロ野球チームにも言えるよね。ライオンズなんて、一時買い手がつかず右往左往してたのは、そういう理由だろうし、ヤクルトやロッテ、日本ハムなんかも、「広告塔」としてというより、「業界内の付き合い」でチームを購入したのだろう。

 西武に関しては、これは完全に「西武沿線開発事業」の一環として購入したのだと思う。「広告塔」というよりは「行楽地」として購入したのだと思う。阪急と同じ方法である。阪神はともかく、南海、近鉄は成功したとは言いにくいが。ただし、「西武ライオンズ」は完全な成功、見事な成功だったと思う。良くも悪くも、「西武線沿線」というのは、この手の開発事業の見事な成功例、教科書的な成功例ではある。

 という風に、日本のスポーツチームが企業名を冠するのには、いろんな事情、歴史があるのに、それを単調極まる、しかも根拠薄弱な「広告塔」という概念で攻撃していたのは、いかにも玉木らしい軽率っぷり、というかバカ丸出しな言動であったろう。

 また、この手の「広告塔云々」というような議論には、「金儲けに対する嫌悪感」、「金儲け=悪」みたいな論理というか、気分みたいなものがあると思うけど、それについては「打順論」で書きたいと思います。

 今回はこのへんで終わりにしたいのであるが、今回この記事を書くにあたって、玉木正之についてちょろちょろネット検索したのだけれど、やっぱりというかなんというか、評判悪いね。

 最近は、かつてと違って、テレビ出演や雑誌寄稿も少なくなって、ネットにちょろちょろ書いてるみたいだけど、そこまでも批判されとる。そりゃまあ、ここでも書いたように、ちょっと考えればオカシイと気付きそうなことばかり言ってるんだから、そりゃそうなるよね。そのくせ、自分は特別な地位にいる、人を指導する地位にいる、あるいは優れた知性、見解を持っているみたいな書き方をするんだから、呆れられるのも無理はない。典型的なバカである。自分を利口だと思っているバカである。

 ちなみに、この人は「長嶋礼讃者」としても有名だけど、これも寺山修司のパクリだからね。

 いまでこそ長嶋礼讃は一般常識化しているけれども、かつては長嶋を誉めるのは恥ずかしい事であった。「長嶋や巨人は子供の好きなもんだ。」みたいな論調、というか気分である。それこそ一般常識である。「長嶋より三宅の方が守備は上手い。」である。

 そうした情勢の中、例の調子で「王や野村のホームランより、長嶋の三振の方が美しい。」みたいな事をぶっ放したのが寺山修司である。それに、当時、中学生高校生ぐらいであったろう草野進や玉木正之はガビ〜〜ンとなってしまった訳である。

 んで、そのお追従、フォローをいまだに続けているのだ。その論調、というか気分が破綻してるのはご覧のとおりである。当の寺山自身、今現在、というか90年代00年代を生きていたら、草野や玉木とは正反対の事を述べていただろう。いや、述べないかな。

 ちなみに、寺山の「競馬論」は箸にも棒にもかからないらしく、どこぞの専門家が酷評してた。競馬に関しては私は完全に門外漢なので、それらについて批評する資格はない。

 まあ、「競馬論」はともかくとして、寺山の一連の発言というか、その存在は、田舎者の僻み、田舎者の寝言だよね。まあ、それらにも一定の価値はあるけどさ。「書を捨てよ、町へ出よう」なんて、よくそんなコッ恥ずかしいこと言えるよね。

                               私はロッテリア派。2025/3/9(日)
補習その3  先日、たけし軍団のYouTube番組を見ていたら、ビートたけしがたけし軍団から独立した(?)時の話が出た。その際、ビートたけしはつまみ枝豆を軍団の会社の社長に指名したそうである。

 すると、枝豆は、「いやいや僕なんか無理ですよ。タカさんの方が年上だし、今まで軍団を仕切っていたんだから、タカさんを社長にすべきでしょう。」と抵抗したそうであるが、たけしが「いやいや、タカじゃ無理。社長が務まるのは枝豆、お前だけだ。」みたいな感じで押し切り、そのまま「枝豆社長」誕生(「変なの」とか言わないよーに。仕方ねーだろ、そういう芸名なんだから。)と相成ったそうである。

 この人事に軍団の内外を問わず、多くの人は賛同し、今に至っている。

 たけしとたけし軍団から遥か遠くにいる私には、この人事の正否は分からない。でも、周囲の多くが賛同しているところを見れば、順当な人事なのであろう。

 でもこれ、「選挙」をしていたら、タカが社長になっていたよね。年長であるし、今まで軍団を仕切っていた実績もあるし、恰幅もいい。軍団から遠く離れた人々が、「タカと枝豆、どちらかを社長に選べ」と問われたら、多くの人がタカを社長に選んでしまうだろう。それを覆して、ビートたけしがその一存で枝豆を社長に選んでしまったら、「忖度だ」とか「大人の事情だ」とか「裏がある」とか色々騒ぎ立てる人も出てくるだろう。

 でも、周囲の人々から見たら、これは順当な人事なのである。

 これが「選挙の怖さ」だよね。容姿や印象といったごくわずかな判断材料で重大な人事を決定する「選挙の怖さ」である。

 とまあ、前回に引き続き、選挙への悪口の付けたし。

 んで、もひとつ、前回の話の続き。

 前回、「ニュースショー」についてあれこれ書いたけど、それから改めて考えてみたら、これもやっぱし「『ヤオ』と『ガチ』を近づける」なのである。「ニュース」という「ガチ」に「ショー」とい「ヤオ」を混ぜ込んだのが、すなわち「ニュースショー」なのである。

 この「『ヤオ』と『ガチ』を近づける」という手法が強力、つうか凶悪であるという事は、これまで何度も書いてきたので、今更繰り返さないが、ここでもその凶悪な力を発揮してたのね。

 この手のエンターテインメント、フィクション的な娯楽にとって、この手法は非常に強力かつ凶悪なのであるけれども、その頂点は、やはり宗教であろう。あっ、書いちゃった。まっいっか、この世に未練はねーし。

 宗教の信者とアニメや漫画、あるいは映画、小説等々のフィクション的な娯楽のファンの言動がよく似ているという事には前々から私は気づいてはいた。そもそも、この「信者」って言葉も今ではアニメや漫画のファンによく使われている。

 また、映画や小説はともかく、アニメや漫画には所謂「神様」が頻出する。なにかっつうと「神様」、あるいは「神様的なもの」が良く出てくる。

 また、「聖地巡礼」なんつう言葉や行動も、今ではすっかりアニメファンや漫画ファンのド定番である。

 そうして、フィギュアやポスター、それらはまさしく、仏像やマリア像、各種の宗教画と同等のものであろう。

 そうして、漫画やアニメの登場人物の行動や言葉を人生に指針としている人も多い。イタリアの女性バレーボール選手が、「私の人生にとって最も大切な二冊の本」として提出したのは、「聖書」と「アタックNo.1」であった。いや、「サインはV」だったかな。

 これら両者は構造的には見事に相似形を描いている。同等と言っても良いくらいである。

 そういえば、「リアルロボット」もまた、「『ヤオ』と『ガチ』を近づける」手法でありましたなあ。

 「『ヤオ』と『ガチ』を近づける」、すなわち「現実と空想を曖昧する」を、優れた作家は重大な問題として自覚していたのだろう。太宰治は、その晩年(短編集のタイトルじゃないよ。)、「言行一致」なんて事を言い出したし、三島由紀夫もその晩年、「知行合一」なんて言い出している。

 トルストイが若い頃からの「芸術嫌い」をこじらして、最終的には筆を折ったのも、その自覚があったのだろう。

 さて、サッカーの話である。ここのところ、サッカーの悪口というか、サッカーファンやサッカー関係者の悪口を書いてきたので、その罪滅ぼしというか、ゴマすり的に私のサッカー観的なものを書いてみたい。サッカーの美点とまでは云わないけれど、サッカーの特徴的なものを書いてみたい。っつても、例によって例の如く、たいそうなもんじゃないので期待しないよーに。

 そもそも、というか大前提として、私はあまりサッカーを見た事がない。プレイ経験は体育の時間や休み時間の娯楽、あるいは放課後の遊びとして学生時代にそれなり、つーか人並みにあるけれど、サッカー観戦の経験はほぼ無い。試合開始から終了まで1試合丸々見たのは、ただの1試合のみである。Jリーグは無論の事(つか、ただの一度も見た事ない。ゴメン。)、日本代表のあれこれも、この記事の冒頭に書いたイタリアW杯のゲームも1試合丸々観た事はない。それら全部合わせても5時間くらいかも。いや、さすがに10時間はあるかな。ちなみに、MADDENプレイ時間は5000時間。その内訳の詳細はヒ・ミ・ツ。恥ずかし過ぎて、公言出来ん。

 ちなみに、私が唯一1試合丸々観戦したサッカーの試合というのは、いつぞやの帝京vs市立船橋の高校サッカー決勝。市立船橋が5−0で勝ったゲームである。

 この試合はほんとにたまたま、鼻クソほじりながら見てたんだけど、このゲームは、ご承知の通り、前半終了時点で市立船橋が4−0でリード。

 ハーフタイム終了後、両チームのベンチレポートが入る訳であるが、帝京サイドからは「古沼監督は一言、『帝京魂をみせろ』」。

 で、そのレポートが入った直後に市立船橋が5点目のゴール。いやあ、痛快だったね。

 いや、別に私は市立船橋のファンでもないし、アンチ帝京でも全然ない。単に得点が多くて面白かったので、最後まで見てしまったのである。

 この「得点不足」というのはサッカーの致命的欠陥のようによく言われており、私も全く以ってその通りだと思う。その改善策として、「オフサイド云々」とはよく言われるが、私は、この「得点不足」解消には「オフサイド云々」より「キーパー廃止」の方がよほど効果があると思っている。キーパーがいなくなれば、両チーム合わせて平均5点ぐらいは入るのではないだろうか。3−2ぐらいが、サッカーの基本のスコアになるのではないだろうか。5点入れば、おおよそ20分に一回ぐらいは得点シーンが生まれるので観客も退屈しないと思う。

 それに「キーパー」は、野球の「キャッチャー」同様、誰もがやりたがらないポジションだし、プレイヤー、観客双方にとってもウィンウィン、吉報、あるいは名案だと思う。でも、FIFA、つうかFAは異常なほど頭カチカチ、それこそカッチン鋼より頭の硬い集団だからなあ。まず変えないだろう。

 さて、その「得点不足」はさておき、サッカーの特徴であるが、まず誰でも分かるというか、当然ながら、「ルールがシンプル」であろう。ほとんど本能レベルの単純なルールである。「犬やサルでも出来んじゃねーか」は大袈裟だけど、アメリカあたりでサッカーが「女子供のスポーツ」と言われている理由はこれであろう。

 今、全女性の「キーーー」って声が聞こえたけれども、「サッカーが女性のスポーツ」であるのは、無論「サッカーが犬やサルでも出来るレベルのルール」だからでは全然なく、「接触が少ない」あるいは「接触が原則的に禁じられている」からである。「女性がバカだから」では全然ない。念のため。

 サッカーが子供、とりわけ10歳以下、あるいは5歳以下の子供、すなわち児童や幼児のスポーツであるのは、これ「ルールがシンプル」だからである。

 また、それに付随して、という訳でもないだろうが、「道具が少ない」、すなわち「ボールひとつで出来る」というのもサッカーの特徴のひとつであろう。ボールスポーツの中では、当然ながら、最も道具の少ないスポーツである。

 ちなみに、これを「サッカーが世界で一番の人気のスポーツである」の根拠にする人がいる。「ボールひとつで出来る」、すなわち「貧乏人でも出来る」、故に「サッカーが世界で一番の人気のスポーツである」という論理なのだけど、私はそれは違うと思う。

 なぜなら、他のスポーツにしても、貧乏人はプレイするからである。例えば、戦後の日本は非常に貧しかった。それでも、全国津々浦々の日本の貧しい子供たちは、そこらに転がっている木をバットに、新聞紙を丸めてボールにして、野球を楽しんだ。

 また、フットボールなんかも、非常に道具の多い、すなわち「金のかかる」スポーツだろうけど、アメリカの貧しい子供たちは、そこらに転がっているボールでフットボールっぽい事をして楽しんでいる。貧しければ貧しいなりにスポーツは出来るのである。

 まあ、ゴルフあたりになると、なかなか難しいかもしれないけど、それっぽい事なら十分可能であろう。掃除の時間のゴルフ、日本の男子なら皆経験したことがある筈だ。「先生、長谷川君が掃除してませ〜〜ん。」。

 もちろん、本格的にプレイしようとすれば、野球やフットボールはそれなりの道具と設備が必須になるであろうが、それならサッカーも同様であろう。あのゴールは、貧乏人には贖いがたい。

 という訳で、「ボールひとつで出来る」、更には、ここで理由は示さないが「シンプルなルール」も「サッカーが世界で一番の人気のスポーツである」の理由にはなっていないと私は思う。

 私の考える「サッカーが世界で一番の人気のスポーツである」理由は他にある。それは「足と頭しか使えない」、すなわち「手を使うことを禁じられている」スポーツだからである(「腕」もダメなんだっけ?)。

 これは勿論、サッカーを特徴づける唯一にして最大のルールであるけれど、それは強力かつ非常に有効的なルールでもある。なぜなら、このルール「手を使えない」は、サッカーに非常に分かり易い「難しさ」を与えるからである。

 どんなスポーツも、当然ながら、「難しい」。例えば、野球におけるバッティングは、どこぞの誰かさんの言うように「世界で一番難しい技術」かもしれない。でも、それは周囲の人に伝わりやすいものであろうか。パッと見、打つのはともかく、当てるくらいなら誰でも出来そうである。

 でも、サッカーは、それこそリフティングひとつでその「難しさ」が周囲に容易に伝わる。リフティングを50回もすれば、周りの人は「おお」となるであろう。ブラジルだと1000回くらいは必要かもしれんが。そうして、周囲の人は「ちょっと、俺もやってみたい」と思うであろう。「難しさ」が容易に伝わるのである。

 サッカーと似たようなスポーツにハンドボールがある。その名称から容易に想像できるように、「手を使えるサッカー」として考案されたものであろう。

 このハンドボールというスポーツが、サッカーに比べ、いまいち人気が無いのは、理由は色々あるのであろうが、その一つ、もしくはその最大のものは「難しさが伝わりにくい」であると思う。私がこのスポーツを初めて知ったのは、小学生とか中学生とか、その頃であろうが、初めて見た時は、「なんなの、こんなの簡単じゃん。ツマンネー。」と思ったものである。「あのボールをあのゴールに投げ入れるなんて、誰でも出来るし、あとはキーパーとの駆け引きだけである。心理的な難しさ面白さはあるだろうが、物理的身体的には難しくない、面白くない。」と当時の私は思ったのである。

 ハンドボール関係者からは、色々な反論もあろうし、それは正当なものだろうけど、少なくとも、初めて見た人が「難しい」、そうして「面白そう」と思うようなスポーツではないと思う。ハンドボール関係者はどういう理由であのスポーツを始めたのだろう。

 また、バスケットボールというスポーツは、恐らくサッカーに次いで、あるいはサッカー以上に人気のスポーツであろうが、その理由は、「ドリブルが好き。あのリズムに中毒性がある」なんつうのもあるだろうが、その最たるものはやはり、あのゴールの「高さ」であろう。

 10フィート、およそ3メートルほどに設置された、あのゴールの「高さ」こそがバスケットボールの人気の最大の理由だと思う。あのゴールが身近にあり、ボールがそこにあったら、多くの人がごく自然に、それこそ本能的に、ボールをゴールに投げ入れようとするであろう。そうして、入るようになったら、少しづつ距離を遠ざけていくであろう。それは、まさしく自然な、本能的な「面白さ」である。そうして、最後には「ダンク」しようとする。

 あのゴールが、もしも3フィート、1メートルぐらいに設置されていたら、誰もボールを投げ入れようとしないであろう。んなもん、誰でも入る。「難しくない」のである。

 バスケットボールと似たようなスポーツにポートボールがあるが、あれがバスケットボールに比べ人気が無いのは、やはり「ゴールしやすそう」、「難しくなさそう」だからである。その「難しさ」を加えるために、キーパーを導入しているけれども、それはやはり、先のハンドボール同様、心理的な難しさ面白さであって、物理的身体的な面白さ難しさではない。

 また、バスケットボールの「高さ」の代わりに「遠さ」を与えたのが、申す迄もなく、ゴルフである。

 そのゴルフと似たようなスポーツ、構造的には全く同じい「遠いゴールにボールを当てる」スポーツであるボウリングが、ゴルフに比べ、いまいち人気が無いのは、それはやはり簡単だから、「ゴールがゴルフより近いから」、すなわち「難しくない」からであろう。

 ボウリングというスポーツは、ちょっと上手くなったら、あとは「レーンの状態とボールの完成度が全て」みたいなスポーツである。もしも、完全なレーンと完全なボールがあれば、ほとんどの人がストライク連発、パーフェクト連発のスポーツである。あとは「体調」とか「調子」とかだけ。そりゃ、つまらんよね。

 つうわけで、スポーツにおいては、「難しさ」、すなわち「難易度」は非常に重要、ある意味、最も重要な要素である。

 例えば、野球の「難しさ」、すなわち「面白さ」のひとつは、それはテッド・ウィリアムズの言う通り「バッティングの難しさ面白さ」であろう。

 ちなみに、野球というスポーツにおいて、バッティングはその根幹ではない。バッティングは、缶蹴りの「缶を蹴る」と同じく、ランナーが塁を回る時間を得るためのタイマー的なものでしかない。そのタイマーは、「ボールを投げる」でも「ボールを蹴る」でも何でも良いのである。極端な話、「だるまさんがころんだ」でも良いのである。「ベースを回る」ことが野球の根幹であるからこそ、「ベースボール」な訳である。「バットボール」でも「ピッチボール」でもない。

 実際、アメリカの小さな子供、10歳以下ぐらいの幼児や児童は、ホームベースの上にティーを置いて、それを打って野球をしている。それでも、十分「ベースボール」であるし「野球」である。

 それでも、「ベースボール」と「野球」から、バッティング、ピッチングまで含めたバッティングが無くならないのは、それが「楽しい」から、「難しい」からに他ならないであろう。「缶蹴り」や「だるまさんがころんだ」とは違うのである。

 ちなみに、昨今は、ピッチャーの肘肩肘肩やかましいが、そんなにケガが怖いなら、「ピッチャー」を廃止してしまえばいいのにねえ。アメリカの子供みたいに、「ティー野球」をやればいいのにねえ。それでも「野球」ですよお、「ベースボール」ですよお。おっと、口が、いやキーボードが滑っちゃった。それはいつもの事か。

 この「難しさ」、すなわち「難易度」は、スポーツのみならず、広くゲーム、体を使わないゲームにおいても同様の事が云える。

 例えば、オセロが、将棋や囲碁に比べ、今一つ人気が無いのも、それは、オセロが、将棋や囲碁に比べ、「簡単そう」「難しくなさそう」に見えるからであろう。オセロファンの皆様、ゴメンナサイ。

 ちなみに、羽生永世七冠が将棋を続けた理由は色々あるが、そのひとつは「必勝法が分からないから」だったそうである。羽生少年は、「将棋の必勝法」を見つけようとしていたのだ。今でも、探してんのかもしれんけど。楽しい人生だよね。

 また、テレビゲームの世界でも同様の事が云える。

 テレビゲームの要素は、「ゲームそのもののアイデア」「グラフィック」「操作性」等々色々あるだろうけど、その中で最も重要なもの、芸術的技術的にはともかく、商業的に最も重要なものは「難易度の調整」だとはよく言われる。

 洋ゲー、すなわちアメリカ製のゲームが、日本のみならず、本国アメリカ、いや世界中においても、今はともかく、かつて80年代ごろ、全然人気が無かったのは、申す迄もなく「難易度の調整」がデタラメだったからである。異常に易しいか、異常に難しいゲームがほとんどだった。いや、全部だったかもしれん。

 それ故、テレビゲーム、アメリカで云うところのビデオゲームそのもののみならず、シューティングやアクション、RPG、シュミレーション等々、様々、つうかゲームのほぼ全てジャンルを発明開発したのはアメリカ人であるにもかかわらず、日本、つうか任天堂の後塵を拝する結果となった訳である。そうして、それは今でも続いているかもしれない。

 「ゲーム&ウォッチ」が売れた理由は色々あるけれども、その最たるものは「絶妙な難易度」だったとはよく言われるところである。「難しそうで易しい」「易しそうで難しい」、すなわち「出来そうで出来ない、出来なさそうで出来る」。任天堂はこの「調整」が絶妙だった。

 そうして、その精神は今でも任天堂のゲームに生きているし、任天堂を世界一のゲーム会社にした唯一にして最高の理由であろう。セガ、そうして後にはソニーが任天堂に敗れ去っていったのは、これが唯一にして最大の理由である。セガは、デザインセンスも負けてたけどな。

 また、更に言えば、この「難易度」というのは、スポーツやゲームといった「勝敗を競う遊び」のみならず、広く「趣味一般」にも言える事であろう。

 例えば「釣り」。私は「釣り」を全然しないので、「釣り」が好きな人には、決まって「あんなの網で獲ればいいじゃん」とイヤ味を言うのであるが、申す迄もなく、それでは「趣味」、「遊び」にはならない。釣り竿で釣るから面白いのである。実際、魚獲りを生業にしている人、すなわち漁師は、釣り竿はまず使わない。基本は網、あるいは何らかの仕掛けであろう。釣り竿で釣るのは、わざわざ難しくしているのである。無論、「面白くするために」である。

 また、「プラモデル」や「編み物」といった工芸的手芸的な趣味も同様であろう。

 2パーツしかないプラモデルなんて誰も作らないし、同様に1億パーツもあるプラモデルも誰も作らないである。いや、「誰も」じゃないかな。キチガイはいるからな。

 ちなみに、タミヤ模型が「世界一のプラモデルメーカー」になったのは、先の任天堂同様、この「難易度の調整」が絶妙だったからである。

 先のテレビゲームほどではないにせよ、アメリカやヨーロッパのタミヤに先行するプラモデルメーカーのプラモデルは、難し過ぎたり、易し過ぎたり、すなわち「難易度の調整」に無頓着であった。「模型の精神」に固執して、そこが謂わば「盲点」となっていた。そこに絶妙の匙加減を加えたのがタミヤ模型であり、それがタミヤ模型を世界一のプラモデルメーカーに押し上げたのである。

 「編み物」についても同様の事が云えるであろう。「編み物」に関しては、ここまで挙げた趣味と違って、「実用」の側面も大きいので単純比較はできないけれど、それに「模様」があったり「刺繍」があったりするのは、やはりそれが「面白い」「難しい」からであろう。同じ色の毛糸で同じ編み方を続けているだけであったら、誰も「編み物」を「趣味」にはしない。

 ことほど左様に、スポーツやゲームに限らず、ほとんどの趣味において、「難しさ」、あるいは「難易度の調整」というのは非常に重要な要素なのであるが、サッカーというスポーツは、それを極めて簡単、実に簡単極まるルール「手を使ってはいけない」で獲得してしまっているのである。そうして、その「難しさ」は非常に伝わりやすい、分かり易い「難しさ」である。。パッと見で分かる、直観的に分かる。これが、サッカーのスポーツとして、趣味としての最たる優秀性だと思う。こんなスポーツ、他にない。

 このように、極めて単純、誰もが思いつくような極めて単純なアイデアでありながら、非常に強力な効果、極めて有効な力を発揮するアイデアというのは、この世にいくつかあるが、そのひとつがこのサッカーのルール「手を使ってはいけない」だと思う。この手のアイデアは、例えば野球マンガ界だと、「ストレートしか投げないドアホウ」であろう。

 今回はこのへんで。

 次週からは、この「補習シリーズ」はちょいとお休みです。次週は意外な記事を予定しています。乞うご期待。いや、期待するほどのもんじゃねーー。

                                        2025/3/16(日)

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