インディアナポリス研究会コルツ部

歴史

2021シーズン

TOPページへ

コルツ部TOPへ

1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11

2025年
暑い8月
補習その4  いや〜、暑いですね。こりゃ来たね、日本、じゃなくて地球を脱出する日が。

 大昔、「人類の宇宙開発が進展しないのは、宇宙に行く理由、住む理由が無いからじゃ〜〜。」みたいな事を書いたけど、出来たね、行く理由が、住む理由が。

 月でも火星でも、どこでもいい、地球を脱出せんと、この暑さから脱出せんと、死んじゃうよ〜〜。

 金星は、地球より太陽に近いからダメだな。火星でも木星でもなんでもいい、太陽から遠ざからんと。木星帰りの男になりたい。

 やっぱ、正しかったんだな、ジオン・ズム・ダイクン、シャア・アズナブル。

 空調完備のスペースコロニーでもいいや。そんなの出来たら即刻移民します。

 空調は20℃固定でお願いします。いやもう、飽き飽きしたよ、四季には。ちょっと前まで「寒い寒い」云ってたのに、今度は「暑い暑い」。この永劫回帰に飽き飽きした。いやもう季節はいらん。20℃固定で春なり秋なりが無限に続く感じでお願いします。夏冬はいらん。もう懲り懲り。気温に左右されるの。

 あと、出てくるな、この温暖化した地球に最適化した新生物が。進化してくるな。そうして、この100万年くらい、いや1万年くらいかな、地球の王だった人間をむしゃむしゃ食べちゃうだろう。それを避けるためにも宇宙移民。

 話はうって変わって、「2万円給付」の話。前回の記事(ココ)でその話をした訳であるが、その続報って訳でもないけど、テレビのニュースで識者だか街の人だかがこんなような事を云ってた。「賃金の上昇が物価の上昇に追いついていない」。

 いや、追いつかないっつの。そんなのは、まさしく「ロバの鼻先に付けたニンジン」みたいなもんで、いつまでたっても追いつかねっつの。賃金が上がれば物価は上がるし、物価が上がれば賃金も上がる。つかまあ、賃金もひとつの「物価」だしな。

 ただまあ、例外的、あるいは実験的ではあるが、「賃金が上がりつつ、物価が上がらない」パターンも無くは無い。ものすごく単純化したモデルで説明する。

 例えば、この世に商品Aと商品Bの2種があるとする。そうして、賃金、すなわち可処分所得が100万円とする。この額は何でもいいのだけど、とりあえずね。

 そうして、この可処分所得100万円で商品Aと商品Bを購入するとする。この場合の構成人員は何人でも良いのだけど、分かり易くするために1人とする。すると、商品Aと商品Bの価格はそれぞれ50万円となろう。この場合も、合計が100万円なら、30万円と70万円でも、95万円と5万円でもなんでもいいんだけど、分かり易くするために、それぞれ50万円とする。

 そこで、可処分所得が20万円アップ、すなわち120万円になったとする。すると商品Aと商品Bはそれぞれ60万円づつ、すなわち10万円分物価が上昇したという事になろう。昨今の日本の状態がこれである。

 ただし、ここで商品Cが開発販売されたとする。すると可処分所得120万円で三つの商品A、B、Cを買う事となり、個々の価格はそれぞれ40万円づつとなる。すなわち、10万円分物価が下降したという事となる。あら不思議、可処分所得、すなわち賃金が20万円アップしたにもかかわらず、物価は10万円ダウンしたという事となる。

 つう事は理論上は可能だし、また、それに近い事も現実にあっただろうけど、さすがに昨今の日本では不可能に近い。

 ものすごく小さい市場だったら、それは可能かもしれない。例えば、コーラ市場である。コーラ市場は、現状コカ・コーラとペプシコーラが独占しているが、そこに第3のコーラ(クラフトコーラしかない!!!)が登場、地位を確固たるものとすれば、先の理論で、コカ・コーラとペプシコーラは値下げせざる得なくなるだろう。まあ勿論、「コーラしか飲まない人」は極めて少数であり、市場に影響を与えるほどの数ではないので、仮に第3のコーラが登場したところで、物価に影響を与える事は無いであろう。コーラ市場なんてものはなく、現実に存在しているのは清涼飲料水市場だからだ。とりあえず、日本ではね。

 つう感じで、ものすごく小さい市場だったら、新製品の登場が物価に影響を与えるであろうが、現行の日本のようにとんでもない数、まさしく数えきれない程の商品が、種類的にも個数的にも存在流通している経済圏で、物価に影響を与えるような商品を投入流通させる事はほぼ不可能であろう。そして、おそらく理論的にも不可能だと思う。

 つかまあ、ごく最近気が付いたんだけど、今の日本ってモノ多過ぎない。

 最近、ニュース動画で中国の大学生くらいの女の子が自室で取材を受けていたんだけど、その部屋、ほとんどモノが無いんだよね。机とベッドくらいしかない。あと教科書とノートくらいか。

 その他の中国人、50代くらいの日雇いのオッサンの部屋も、他の動画で見た事あるけど、やっぱモノはない。机とベッドと簡単な食品くらい。

 「ひとりもんだからかな」と思って、今度は6人家族の中国人の家の映像を見たのだけど、そこもほとんどモノが無い。家具と電化製品くらい。

 「いや、これは中国だからかな。」と思って、ほかのアジア地域やヨーロッパ、アメリカ等々の家や部屋も注視したんだけど、大体こんな感じ。強いて挙げると、アメリカのヲタクの家はモノに囲まれている。ゲームとかDVDの山に囲まれて暮らしている。そうはいっても書架等に収められているけどな。日本のように床に山積みって事は無い。

 そう、日本だったら、少なくとも昨今の日本だったら、ヲタクに限らず、多くの日本人がモノに囲まれて、いや多くのモノに埋もれて暮らしていると思う。

 まず、俺んち。ゴミ屋敷とまでは云わないけど、ゴミ屋敷一歩手前の状態ではある。何が散乱しているかは口が裂けても言えない。生首とかじゃないよ、勿論。念のため。

 また、私は、人の家にお邪魔する仕事、引っ越し屋みたいな事をちょろっとやってた時期があるが、あがる家あがる家、モノだらけだった。本、ビデオ、衣料等々。また、使ってもいない家具や家電を後生大事に抱えている家も多かった。

 また、最近、私の叔父が死去して、その葬式に行ったという話をちょろっとしたけど、そこで親戚の家に一泊した訳であるが、ゴミ屋敷という訳でもないけど、「えっ、ここ物置?」みたいな部屋に泊まらされた。俺んちも似たようなもんだから、文句言えんけどな。

 かつて、宮崎事件があった時(覚えてる?)、ナンシー関が、その宮崎の部屋の公開とそれへの批判嫌悪に対して、「いや、あたしンちも、ビデオとかエロ本は無いけど、似たようなもんだよ。」って、宮崎ではなく、自身を擁護していた。同じような気持ちになった人は私だけではあるまい。というより、あれを非難嫌悪する人が多いって事は、多くの家が整理整頓されてんだなと思って、ビビったもんである。その後の人生で、そうでない事を知るのは先に述べたとおりである。

 J太郎先生の至る所にエロ本が山積みにされている家も大概びっくりしたし、これは特別だろうけど、現代日本人がモノに囲まれて、モノに溺れて暮らしているのは間違いないと思う。

 そのひとつの証拠は、ハードオフやセカンドストリート等々の隆盛であろう。家具や家電製品の量も大概だけど、私がとりわけ驚くのは衣料品、いや、どんだけあんだって量である。といいつつ、今年の春先に250円でジャンパー買っちゃった。イトーヨーカドーとかで2万円くらいで売られてそうな奴。モノは悪くなかったんだけど、デザイン、特に色が酷かったので、その値になってしまったのだろう。作業着みたいなジャンパー。私はファッションには全然興味が無いので、値段だけで買ったけどな。しかも、愛着してる。2500円じゃないよ、250円だよ。そりゃ、イトーヨーカドーも潰れるよね。

 いやまあ、実際、総商品数となると、インドや中国のような人口の多い国、あるいはアメリカのような経済大国の方が、日本より多いだろうけど、総商品種類となると、日本がもしかしたら世界一位、ダントツ一位なのではないだろうか。二桁はともかく、本当に一桁違うのかもしれん。

 例えば、来日する外国人が、洋の東西を問わず、コンビニの商品点数の多さに等しく驚いている。でも、日本人にとって、コンビニは商品点数の少ないとこである。「コンビニだし、こんなもんか。」。

 また、もひとつ例を出すと、日本人の食生活である。現代日本のような雑食、いや悪食は世界に唯一なのではないだろうか。どこの国でも、原則的にはその国の伝統的な料理を食べる。中国人は中国料理、フランス人はフランス料理、トルコ人はトルコ料理、イタリア人はイタリア料理、インド人はカレー、アメリカ人はハンバーガー、イギリス人は何か食えるもの等々である。

 ところが、現代日本人はホントに何でも食べる。猿のように雑食、悪食である。ラーメンを食った翌日にスパゲティを食べ、昼にホットケーキを食べて夜にお好み焼きを食う。朝食をパンかご飯かで迷う。そんな国、他にないのではないだろうか。

 そう、これが、先に説いたように、この30年間の日本で物価が上がらなかった最大の理由なのである。

 「失われた30年」とか言われているけど、その間でも日本人はせっせとモノを作っていたのである。「モノづくり」だけが景気回復の唯一の道だと信じてね。そういえば、「ものつくり大学」ってどうなったの。まだ、あんの。

 「でも、せっせとモノを作るのは労働者なのだから、せっせとモノを作る事により賃金は上がるのではないか」と疑問を持つ方もあろう。ところが、ここにカラクリがある。団塊ジュニアである。

 この30年間、労働者としても消費者としても主役は団塊ジュニア、労働意欲は極端に低いが、消費意欲だけは極端に高く、そうして数が多いという、あの悪名高い団塊ジュニアである。ニートだ、フリーターだとか云って労働を嫌悪しつつ、その一方ではヲタク世代なのでモノは買う。自身の金が無くなれば、親の金を頼る。まさしく、ごくつぶし世代である。AKB48のCD騒動なんていうのは、その醜態の極みであろう。まっ、俺もその一人だけどな。さすがに、AKBのCDは買わんが。

 「でも、労働を嫌悪していたら、モノは作れないのではないか。」という疑問もあろう。そこで中国である。この時期、上手い具合に、いや、不味い事に中国が経済開放し、日本企業の工場が大挙中国で建設された。そこで、大量の中国人が日本人の10分の一、いや100分の一くらいの賃金で、せっせとモノを作り、それを団塊ジュニアがせっせと購う。日本人が商品を企画開発し、中国人が安い人件費で大量生産し、日本人が安価に大量に買う。

 よって、ここに世界史でも稀な「給料は上がらないのに、物価は安く、モノに溢れる社会」が出来上がってしまったのである。おそらく、人類史上初の現象だと思う。様々な偶然(「巨大ヲタク世代の発生」、「中国の経済開放」等々)が重なり合って成立した、世にも奇妙な経済現象だったと思う。

 もっとも、この時、せっせとモノを作った中国人がお金持ちになり、日本に来て、所謂「爆買い」をして、わずかながらも物価を押し上げている訳であるから、大きな経済圏で捉えれば、賃金と物価の法則は成立している訳である。ただ、日本のみに経済圏を限って考えてしまうと、一般的な賃金と物価の法則に反する事象が成立してしまう。

 「いや、同じような事はアメリカやヨーロッパでも起きて然るべきではないか。」という疑問もあろうが、アメリカには団塊ジュニアがいないんだよね。ニートやヲタクみたいな人達は、それなりにいるだろうけど、数が少ないので経済に影響を与えるまでには至らない。また、中南米はともかくとして、アフリカは、中国の工場のようにはいかないだろうし。強いて言えば、70年代80年代のアメリカはそれに近い状態だったかもしれないが、団塊ジュニアほどの数が無いからなあ。

 日本においても、団塊ジュニアの親の世代、団塊の世代となると、この世代も団塊ジュニア同様、というか団塊ジュニア以上に数が多いのであるが、彼らは優秀な労働者でもある。自分たちでせっせとモノを作り、自分たちでせっせとモノを買った世代である。従って、一般的な「賃金と物価の法則」通り、給料がアップした。すなわち経済が成長した。

 また、先にハードオフやセカンドストリートの隆盛についてちょっと触れたけど、考えてみれば、ブックオフのような大型古書店、古CD店、古DVD店、古ゲーム店が成立したのも「失われた30年」特有の現象だったかもしれない。以前にどっかに書いたけど、この「団塊ジュニア世代」「巨大ヲタク世代」というのは、経済学社会学的に見て、非常に特殊な影響を社会に与えた世代だったと思う。

 もっとも、この「団塊ジュニア世代」「巨大ヲタク世代」も、もうそろそろ社会的にも生命的にも、死滅絶滅してしまうであろうから、これからの日本社会、日本経済がどうなるかはそれは分からない。

 続く世代は、「労働意欲が低い」という点では「団塊ジュニア」と変わらないが、「団塊ジュニア」と違って、「購買意欲が低い」っぽいので、その辺がどう影響するかは分からない。また、「失われた30年」と違って、「中国の工場」も無いしね。そして何より、人口ピラミッドを歪にするほどの人口は無い。まあ、普通の「経済学」で解される世代、時代かもね。もっとも、この世代の経済活動に何らかの結果が出る頃には、私はもうこの世にいないけどな。

 で、この後、これまで書いた事とは何の脈絡も無く「商売は立地が全て」についての悪口を書くつもりであったのだが、疲れちったので次回。その後、「ワンピース」と「Jリーグ」の悪口へと続く。

 なんか最近疲れが取れん。暑さか、暑さが原因なのか。暑さを憎む。

                                      2025/8/3(日)
補習その5  前回の記事の補足という訳ではないけれども、その後、ちょいと思うところがあったので、それを付記したい。

 前回、「『失われた30年』というのは、日本人がモノを中国で作ったために、その賃金の多くが中国へと渡ってしまったのが、その原因のひとつだ。」みたいなことを書いたのだけど、よく考えたら、「バブル期」も同じなんだよね。

 ただ、「バブル期」は「失われた30年」とは向きが逆で、日本のモノがどんどん外国、とりわけアメリカに渡り、ドルを中心とした外貨が日本に流入してきた時代だったと言える。

 そういった意味では、70年代、あるいは80年代くらいからかな、この50年40年というのは、日本経済が否応なしに国際経済に巻き込まれていった、参入していった時代だったといえよう。それは日本のみならず、北朝鮮のような特殊な一部の国を除いて、世界中のほとんどの国々に云える事なのだろう。まさしく、「経済の国際化は完了した」である。

 にもかかわらず、あるいは当然の結果として、「国内経済云々」云ってるトランプ大統領のような呑気な御仁もいる訳だけど。そんなものは、もう無いのにね。

 さて、話は打って変わって「商売は立地が全て」である。

 最近、Jリーグの悪口を書く必要から、その資料集めという訳でもないけれど、サッカー関係Jリーグ関係の記事を渉猟している。

 そこには、例の「税リーグ」なんかもあるけれど、そのうちのひとつにサッカー関係者の「街中スタジアム構想」とか「駅近スタジアム構想」とかがある。要するに、繁華街や駅周辺といった人通りの多いところ、アクセスの良いところにスタジアムを作れば、集客力が増すだろうという構想、ないし期待である。

 更には、そこから転じて、サッカースタジアムに限らず、あらゆる商売は立地が全て、すなわち「商売は立地が全て」を強力に主張する人たちもいる。

 ホントにそうか。私は、この私のしょっぱい人生ン十年のうちでも、その反証、すなわち「商売は立地が全て」に対する反証をいくつか知っている。それをここにご紹介したい。

 まずは、私の最寄り駅ではないけど、そこそこ大きい駅の駅前にあった「長崎屋」である。この時点でピンと来た人、それ正解です。大正解です。

 20年くらい前かな、その駅前に「長崎屋」があった。で、50年前ならともかく、20年前の「長崎屋」なので、店内は当然閑散としてた。私は空いている店が大好きなので(コラコラ)、たまに下着などを買ったりしてた。ちなみに、その4階だか5階だかは家電製品売り場だったのだけど、それがなんとも微妙な家電製品売り場で、微妙に型落ちの家電製品がそこそこの値で売られていた。当然、家電量販店の敵となる品揃え・値付けではない。私は面白がって、電気ポットくらい買おうかなと思っていたんだけど、そのうち、その「長崎屋」は閉店してしまった。

 それから、1年後くらいかな、分かってる人は分かっていると思うが、あの「ドンキホーテ」が居抜きで開店した。すると、「押すな押すな」は言い過ぎかもしれないけれど、大繁盛。まあ、ああいう陳列方式なので、実際の入店者数より、印象的には多く感じるのだろうけど、それでも旧「長崎屋」よりは明らかに繁盛してた。というか、今でもしてる。食料品売り場のレジも、ほぼ途切れない。その他のレジは、客足が絶えないって感じでもないけどな。でも、フロアに客は必ずいる。旧「長崎屋」の家電製品売り場とは全然違う。

 次は、私の近所のスーパーマーケットである。こちらは実名は伏せるが、とあるスーパーマーケットが20年前くらい営業していた。こちらは、上述の「長崎屋」のように閑散としている訳ではないけれど、かといって盛況しているという訳でもなかった。

 私は普通に利用していたのだけれど、15年くらい前に閉店してしまった。営業成績だけが理由だったかは、それは分からない。チェーン店なので、総合的な判断という事であろう。

 で、それから1年後くらいかな、こちらも実名は伏せるが、とあるスーパーマーケットが居抜きで開業した。ところが、こちらも客足は伸びない。前店より商品の質も落ちたせいか、前店より更に閑散としてた。私も足が遠のいた。

 で、3年後くらいにこちらも閉店してしまった。私はそれこそ「立地が悪いのかなあ。」なんて思っていたが、それから1年後くらいに、こちらは伏せる必要が無いので公表するが、あの「業務スーパー」が居抜きで開店した。こちらは、本当に「押すな押すな」の大盛況。駐車場もひっきりなしで、土・日などは警備員を置くくらいである。前の2店ではありえなかった事である。

 そうして、それはそれから10年、変わらず続いている。開店当時の勢いはさすがに失ってしまったものの、客足が途絶えることは無い。

 その他の事例だと、これは私の近所という訳ではなく、直接見聞している訳ではないけれど、所謂「行列のできるラーメン屋」も、その多くは結構意外な立地だったりする。住宅街の真ん中にポツンとあっても、それでも行列は出来ている。

 また、大昔、どこぞのテレビで「山奥にある蕎麦屋」というのを放送していた。そこの「蕎麦屋」はなんとヘリコプターで、現地にまさしく「飛ぶ」のである。まあ、テレビ番組なので多少の演出もあろうが、そういう立地でも、商売、とりあえず「蕎麦屋」は成立する訳である。もっとも、こちらは「飲食店」というよりは「レジャー施設」かもしれんが。

 という感じで、私のしょっぱい人生でも、「商売は立地が全て」への反証はいくつかある。商売において、「立地」は成功要件のひとつに数えられるかもしれないけど、絶対条件ではない、「全て」ではない。

 「いや、それらは食料品店や飲食店のような商売に云えるのであって、サッカースタジアムは違う。」という反論もあるかもしれない。だが、私は、サッカースタジアムは知らないが、スポーツ施設、球技場に関しては、「立地が全て」への強烈な反証を知っている。それはかつて、80年代90年代の巨人以外のプロ野球の試合会場である。

 70年代は、私はリアルタイムではないので断言は出来かねるが、80年代90年代同様であろうと、これは容易に想像できる。70年代はともかくとして、とりあえず80年代90年代の巨人以外のプロ野球の試合会場はガラガラだった。これは断言できる。また、反論する者もいないだろう。反論する者は狂人である。

 そうして、どの球場も概ねアクセスは良く、好立地である。

 私は関西の地理には明るくないので、そちらは断言できかねるが、関東の諸球場、すなわち神宮球場、川崎球場、横浜スタジアムは、皆アクセスが良い、好立地である。これは断言できる。なのに、ガラガラ。さすがに東京スタジアムは知らんけどな。

 なかでも、神宮球場なんて、信じられないような好立地、いや野球なんかして良いような土地ではないだろう。不動産関係者は一人残らず全員歯ぎしりしている筈である。あそこでマンション建てたら、億ションじゃないよね、10億ションだよね。おそらく日本最高の高級住宅街になる筈である。なのに野球、しかもヤクルト戦。一坪1000万円(いや、これは大袈裟)ぐらいの土地で八重樫がバット振ってた。それが80年代90年代のプロ野球である。今は多少情勢が変わったとはいえ、それでも野球、しかもヤクルト戦をやっていい土地ではないだろう。

 ヤクルトに限らず、当時のプロ野球は全体そんな調子だった。

 こんなことを書くと今の阪神ファンは吃驚するであろうが、当時、阪神は暗黒期だったこともあって、甲子園もガラガラだった。ファンはスタンドの最上部でラッタッラーをやってたものである。

 当時のプロ野球は、巨人以外は、開幕時とゴールデンウイーク、あと夏休みぐらいが満員に近くなる感じで、あとは原則ガラガラである。阪神、中日、広島、皆同様。南海やロッテなんて、夏休みでもガラガラだったと思う。ロッテ戦見るくらいなら、そりゃ海行くよね。楽しい事、いっぱいあるよね。変な妄想は広げないように。

 当時のプロ野球観戦なんて、巨人戦以外はそんなもんだった訳である。それが今や、全カードプラチナチケット化してるつうんだから、変われば変わるもんである。

 ただ、そういった情勢の中、当時、巨人を除いて、比較的最も集客で健闘していたのは、おそらく西武ライオンズだったろう。あくまで、比較的だけどな。

 そうして、その西武ライオンズの球場は、ご存じ西武球場、所沢在住である。当時、プロ野球11球場の中で、おそらくもっとも立地が悪い、アクセスが悪いのが西武球場であったろう。

 そもそも、所沢市なんて、西武ライオンズと所ジョージが出てきて初めて有名になった土地である。それまで、多くの日本人はそんな土地は知らなかった。アントラーズが鹿嶋市を、レイソルが柏市を、ジュビロが磐田市を有名にしたのと同じ理屈である。

 そんな鄙びた土地でも、巨人に次ぐ(大きく引き離されてるけどさ、)集客力を誇っていたのが、当時の西武ライオンズだった訳である。もっとも、西武ライオンズの選手の多くがFAをするのは、これが原因であると巷間噂されているけどな。所謂「ジャバー問題」である。

 まあまあ、それはともかくとして、プロ野球の集客と立地やアクセスは関係が無いというのは、ここでも証明されている。そもそも、もし立地やアクセスがプロ野球興行の重要な要件であるというのなら、西武ライオンズ、というか西武グループ、というか堤義明は、池袋駅周辺に西武球場を建設していただろう。さすれば、とりあえずFA流出はだいぶ防げたと思う。そうして、それは堤義明の財力をもってすれば、十分可能だった筈だ。

 でも、堤義明はそれをせず、池袋駅周辺には西武百貨店、つかPARCO(これは堤義明は関係ないかな。)を建設し、その反対側、すなわち西武線の終点に西武球場を建設した。

 何故か。そりゃ、野球観戦が「レジャー」だからである。野球観戦なんていうのは、どんなに好きな人でも、年に1回2回ぐらいであろう。月に1回っていったら、なかなかの狂人である。週一といったら、それこそ精神病院送りだろう。いや、そこまではいかないか。

 その頻度と狂気はともかくとして、多くの精神的健常者(しつこい)にとっては、野球観戦なんていうのは、年に一度のレジャー、ちょっとしたイベント、お出かけである。日常、ではない。

 それこそ、家族連れであったら、西武線沿線の住民でも、わざわざ池袋駅まで戻って「レッドアロー号」に乗り、車窓を楽しみ、デーゲームだったら、そのまま球場へ、ナイトゲームだったら「西武園遊園地」でちょっと遊んで、「おっ、もうそろそろ清原のバッティング練習始まるぞ。」ってタイミングで球場入りする(いや、実際、打撃練習を公開してたかは知らんけど、)。そうして、試合終了後は、同じく「レッドアロー号」で家族そろってスヤスヤという「レジャー」がプロ野球観戦である。

 「アクセス」や「立地」なんて、どうでもいい事である。むしろ「遠い」ぐらいの方が良いくらいであろう。「レッドアロー号」に乗れるのだから。まあ、「遠い」っつても「網走」とか「西表島」とかは厳しいだろうけどさ。そういった意味では「所沢」というのは上手い距離、絶妙な距離だったと思う。首都圏在住者が日帰りで楽しめる絶妙な距離だったと思う。ナイターは、西武線沿線住民以外だと、ちょっと厳しいかな。

 このへんを勘違いして、「アクセス」や「立地」で球場を選んだり建てたりして失敗したのが、かつてのプロ野球関係者、あるいは、それを望んでいる現在のJリーグ関係者であろう。

 「駅近」や「街中」に球場がある利点といったら、パッと思いつくのは「フラっと入れる」である。それこそ会社帰りのサラリーマンが飲み屋を探してたら、ふと神宮球場が目に入り、「おっ、野球やってんじゃん。」「おっ、そうだ、たまには野球見ながら飲もうぜ。」「いいねいいね。」みたいなノリで入場、外野のいっちゃん安い席で飲めや唄へやのどんちゃん騒ぎ。そういう観客(?)は確かに見込めるだろう。実際、神宮や川崎には、そういう輩はいた。

 でも、それって球団経営の正しい姿じゃないよね。そういう観客はシャットアウトしないと。いや、倫理的にという意味ではなくて、そういう観客が入場しようとしてきた時、先の譬えを用いれば、「おっ、野球やってんじゃん。」「おっ、そうだ、たまには野球見ながら飲もうぜ。」「いいねいいね。」から、「あれっ、満員だって。」「じゃあ、ダメか。」「人気あっからなあ、ヤクルト戦。」つうのが正しい、というか理想のプロ野球経営であろう。それこそ、ひと月前にチケット完売がプロ野球経営の理想の姿であろう。

 もし、私がプロ野球チームの営業部長で営業部員が「フラっと入れるプロ野球」を提案してきたら、ぶっ飛ばす。ぶっ殺す。モギリからやり直させる。「てめえ、明日からモギリじゃ〜〜。売り子の女の子に手出したら、ぶっ殺すからな。男なら良し。」。無論、私はパワハラ営業部長ですよ、社会の敵ですよ。でも、会社の味方。

 そのほか、「駅近」や「街中」に球場がある利点といったら、「毎日来場するお客様には有利」というのはあろう。岡田さんみたいな人ね。あの人は確か、球場に電車で30分くらいのとこで暮らしていて、仕事(自営業)が終わったら、神宮球場に駆けつけて、応援していたという話である。だから、8時くらいに来場すんだよね。私も何回か見た事がある。やっぱ、盛り上がんだわ、これが。内野席だけどね。

 こういう狂人、もとい岡田さんみたいな人にとってはともかく、先にも書いたように、多くの観客にとっては野球はレジャーなのだから、プロ野球経営的にはどーでもいい、無視していい顧客であろう。いやまあ、感謝してもしきれんけどね。謝礼出してもいいくらいだろうけど。でも、岡田さんは断るだろうなあ、江戸っ子だから。

 とまあ、ここまで球場と集客力について語ってきたが、お気づきの方は既にお気づきだと思うが、あえて外してきた話柄がある。すなわち、後楽園球場、あるいは東京ドームと巨人と日本ハムの問題である。

 この両チーム、同じ事(野球)を同じ場所(後楽園球場、あるいは東京ドーム)で行っているにもかかわらず、集客力は雲泥の差であり、集客力ダントツ第1位と最下位の関係である。

 何が違うのだろう。当然、立地ではない。だって、同じ場所なのだから。売ってるモノやサービスでもない。同じ事をしているのだから。

 「いや、日本ハムと巨人は全然違う」という人もいるかもしれない。でもまあ、顔ぶれ的には、一プロ野球ファンの目には、ほぼ同等である。ファーストは柏原と中畑。同等か柏原であろう。セカンドは白井と篠塚。やや篠塚かな。サードは古屋と原。あるいは片岡と岡崎。これは原と片岡か。ショートは高代と河埜。これは互角かな。あるいは田中と川相。これは田中か。広瀬は、まあいい。外野は島田と松本。まあ、互角であろう。外国人はソレイタとクロマティ。あるいはウィンタースとモスビー。そうしてクルーズとクルーズ(これをやりたかった。)。それぞれ互角かな。

 まあ、このへんの比較対照は、それぞれ異論反論色々あるだろうけど、そうじて互角ではあろう。実際100回対戦すれば、55勝45敗とか、そんな数字になる筈である。40勝〜60勝の間で推移する筈である。20勝とか10勝とか、そんな事は絶対ない。ドラフトとか抜きにしたって、同じプロ野球なのだから、実力的にはほぼ同等である。野球のレベル、すなわち「商品の質」はほぼ同等という事である。

 でも、人気、すなわち集客力は段違い桁違い。先の100回対戦でいうなら、1勝99敗どころか。100戦全敗だろう。いや、どっちがとは敢えて、まさしく敢えて書かないが。いや、1000回対戦しても1000戦全敗かも。1億回でも厳しいか。1兆回なら、間違いがあるかもしれんけどな。

 何故か。勿論、理由はハッキリしている。片方、すなわち巨人は連日テレビ放送、まさしくレギュラー放送されている、というか、されていたからである。すなわち、ここでも「商売は立地が全て」の反証がある訳である。だって、同じとこで同じ商売してんだからな。

 ただ、ここで一つ疑問が生まれるのである。それは、「巨人はテレビのレギュラー放送があったから、人気があった」のか、それとも「巨人は人気があったから、テレビのレギュラー放送があった」のか、である。Jリーグ関係者は前者を推したがる。すなわち、「巨人はテレビのレギュラー放送があったから、人気があった」だから、「Jリーグもテレビのレギュラー放送があれば、人気が出る」という論理、主張である。

 一見すると、「タマゴが先か、ニワトリが先か」みたいな問題だけど、でも違うんだよね。答えは出てる。後者、すなわち「巨人は人気があったから、テレビのレギュラー放送があった」んだよね。より正確に言えば、「長嶋が人気があったから、巨人のテレビのレギュラー放送があった」、これが正解である。

 テレビだって、というかテレビこそ人気商売である。それだけの商売と言っても良いくらいである。人気の無いものは放送せんよ。勿論、テレビで盛んに放送することで、人気を獲得することもあろう。でも、そんなのは一時的なんだよね。それこそ、かつての「Jリーグ」とか、今度書く予定であるが「ワンピース」とか、テレビの力で一時的に人気を博すことはあろう。でも、所詮は一時的である。幻想である。いずれ、というか、あっさり化けの皮は剥げる。人を長くは騙せないものである。その極端な事例は、まさしくナチスであろう。ナチスの敗北は軍事的な敗北も勿論あろうが、ひとつにはナチスの施した幻想が溶けてしまったという点もあろう。ドイツ人は気付いてしまったのだ。その幻想そのものは今現在も燻ってるけどな。

 その辺の問題は次回に書くが、それはともかくとして、日本の各テレビ局が巨人戦を連日連夜放送していたのは、結局、長嶋茂雄である。長嶋がいたから、各テレビ局が巨人戦を連日連夜放送していたのだ。各テレビ局は長嶋茂雄を連日連夜放送していたのだ

 その明々白々な証拠は、巨人戦のテレビ中継が減少していった時期である。それは、はっきり第2次長嶋監督退任後である。あのあたりから、徐々に減っていき、いつしかレギュラー放送は消滅してしまったのである。

 このあたりから、インターネットの台頭隆盛があるから、人気低下は一概に巨人のみの責任ではないだろうが、人気低下と軌を一にしているのは長嶋監督退任なのだから、やはりそういう事なのだろう。結局、多くの巨人ファンは、巨人が好きだったのではなく、長嶋が好きだったのだ。長嶋を見たくてチャンネルを合わせていたのだ。

 「巨人戦のテレビ視聴率というのは、巨人ファンの視聴率ではなく、全プロ野球ファンの視聴率であり、それがインターネットの台頭隆盛によりバラけた。」という説もあるが、それは違う。

 なぜなら、80年代90年代においても、巨人戦以外のプロ野球放送は皆無ではなかったからだ。少数ではあるがちらほら放送してた。でも、視聴率的には苦戦してたんだよね。「南海−日本ハム」なんて、私のような狂人以外はチャンネルを合わせなかったのだ。

 「いや、それらは時間帯が悪かったのだ。」という反論もあろう。でも、それも違うんだよね。かつては、TBSとかフジテレビが、事実上日本テレビが寡占しているプロ野球中継を奪おうと、巨人戦に代わるプロ野球中継を模索していた。その有力候補が、先にも述べた西武ライオンズで、「西武−ダイエー」みたいなカードをそれこそ巨人戦の裏に時折、ホントに時折だけどぶつけていた。でも、数字的には惨敗。レギュラー枠を獲得するには至らなかった。 「巨人戦のテレビ視聴率というのは、巨人ファンの視聴率ではなく、全プロ野球ファンの視聴率であり、それがインターネットの台頭隆盛によりバラけた。」ではなかったって事である。やっぱり、巨人戦は巨人ファン、すなわち長嶋ファンが見てたって事である。実際、他チームのカードは、テレビはともかく、ラジオなら聞けたんだから。全てとは云わないけど、巨人戦の視聴率は、やっぱり巨人ファン長嶋ファンの視聴率だった訳である。

 また、時間帯が悪くたって、人気があるものは視聴率取れるからね。分かり易いのが大谷のゲームであろう。早朝みたいな訳の分からん時間帯でも数字は取れている訳である。だから、各テレビ局は争って放送している訳である。事実上、NHK独占だけどさ。

 あと、かつてのサッカー日本代表も同様だよね。深夜の訳の分からん時間帯でも凄い数字を叩き出していた訳だから。時間帯は関係ない。見たければ、人はチャンネルを合わせるのである。それこそ、学校や会社を休んでもね。

 で、そういう人気的側面から見て、戦後最高の視聴率男が長嶋茂雄だったという訳である。全盛期の欽ちゃんが視聴率男といわれていたけど、真の圧倒的な視聴率男は長嶋茂雄をおいて他にはいない。

 「では、80年代はどう説明するのだ。長嶋は巨人にいなかったではないか。」という反論もあろう。でも、この頃のファンは惰性もあるが、なにより「長嶋が巨人に復帰するかも」と期待して、チャンネルを合わせ続けていたのだ。
 で、実際、復帰する訳である。そうして、これはおそらく、少しづつ降下していく視聴率と巨人人気に対する、最後の切り札としての起用だっただろう。んで、10年持った訳である。

 で、長嶋監督退任後は、長嶋ファンも「長嶋復帰」が年齢的に不可能であることを悟り、巨人戦から、テレビから徐々に去っていった訳である。

 そうして、それを食い止める力は原監督には無かった。ここでも、原は長嶋の後任、というか長嶋の影的な位置にプロ野球史には座る事となる。選手時代と同じ事を繰り返す。

 いや、同じじゃないか。監督としての成績は、圧倒的に原の勝ちである。なのに視聴率的には惨敗。レギュラー放送枠を失う始末である。

 長嶋の後任って、不運だよね、不幸だよね。この点について、原は口が裂けても公言しないだろうけど、長嶋の後釜として、選手としても監督としてもキャリアを過ごしたというのは、原にとっては不幸な事だったと思う。

 巨人に入団した当時、すなわち「長嶋後継者レースの最終的勝者」に決定した時は、それこそ飛び上がらんばかりに喜び、本人もその気になっていたと思うが、それは原辰徳という人間そのもの、人生そのものにとっては不運でしかなかった、不幸でしかなかったと思う。「チャンスに弱い」という原定番の悪口にしても、あれは結局「お前は長嶋じゃねえ」って事だもんね。そりゃそうだよ、原は原辰徳であり、長嶋茂雄ではない。

 話はちょっと逸れるが、原の性格あるいは特徴について、原の入団時に山際淳司が面白い事を云ってた。「原というのは、耐えに耐えて最後に大爆発するタイプである。」と。実際、そんな選手だった。そういうシーン、多々あった。ただまあ、見ている方としてはイライラするタイプではある。なまじ最後に結果を出すだけに、余計にイライラすんだよね。出来んなら、サッサとやれっつの。そうして、それは長嶋とは対極にある性格である。山際淳司は「原のナチュラルポジションはファーストだ。」とも云ってた。全く以って、その通りだと思う。まあ、「長嶋後継者レースの最終的勝者」がファーストに就く訳にはいかないけどさ。

 この二人、これはあくまで憶測だけど、反りが合わなかったんじゃないかな。長嶋が最も理解しがたいタイプが原だったと思う。

 以前もどっかで同じようなことを書いたけれども、「長嶋と原」の関係というのは、「ジョーダンとレブロン」あるいは「鳥山明と尾田栄一郎」の関係によく似ていると思う。偉大な、あまりに偉大過ぎる前任者の直後にキャリアをスタートさせたというのが、一見すると幸運なようで、実際幸運な点もあったけど、結果的には不運だったという点ではよく似ていると思う。

 仮に違う時代や違う場所に生きていたら、また違ったキャリアだったと思う。

 例えば、レブロンがジョーダンと同時代に生きていたら、ジョーダンのライバルになっていたかもしれない。なっていなかったかもしれない。「1on1」でボコられて終了だろう。そういった意味では、ジョーダンと同時代でなくて良かったか。
 また、ジョーダンの前の時代に生きていたら、Dr.Jの位置に就いていたのはレブロンで、プレ・マイケル・ジョーダンみたいな言われ方をしていたかもしれない。

 尾田栄一郎は、これはハッキリ鳥山明直後が彼の不幸の源であったろう。鳥山明の後任の位置を押し付けられて、水曜7時の所謂「鳥山明アワー」をいただくも、あっさり陥落なんて憂き目にあう事は無かったろう。
 仮に、同じ時代のジャンプで連載していたら、鳥山とは違う独自の地位を得ていただろうし、マガジンやサンデーで連載してた方が面白かったかもしれない。また、尾田の場合は、ストーリーテリングが月刊向きなので、それこそ別冊少年マガジンのような雑誌で連載していた方が、本人にとってもファンにとっても幸福だったと思う。第一の「進撃の巨人」になってたかもね。

 同んじような調子で云えば、原もまた違う時代、いや何より違うチームに入っていたら、全く異なるキャリア、地位を得ていたと思う。それこそ、大洋、あるいは横浜あたりに入団していたら、地元のヒーローとして神格化されていたかもしれない。まさしく、ハマの若大将としてね。まあ、それでも巨人の方が良かったのかな。

 つう訳で、ちょっと話は逸れたが、「商売は立地が全てではない」というお話でした。

 いや、勿論、全て、あるいはほぼ全ての商売もあるよ。例えば、コンビニエンスストアとか、「吉野家」や「餃子の王将」、「サイゼリア」といったフランチャイズ制の飲食店。これらは、さすがに「立地が全て」といえなくはない。モノやサービスで他店舗というか、他の同店舗と差を付けられないからだ。「良い立地のセブンイレブン」と「悪い立地のセブンイレブン」なら、営業成績は前者の方が良いであろう。

 まあそれでも、モノやサービスで全く差を作られないっていう訳ではない。気の利いた店長なら気の利いた発注をして他店と差を付けるし、あと店員だよね。美男美女を集めちゃう。まあ、誰が人気が出るかが分からないのが難しいとこだけどな。

 以上で「商売は立地が全てではない」というお話を終えるが、こんなのちょっと考えれば誰でも結論出せんだよね。「おかしい」って気付くんだけど、それでもまだまだ「商売は立地が全て」論者は多い。自陣満々で主張してくる。バカなのに。実際、「街中」や「駅近」をJリーグ関係者は強力に主張している。そんなの集客力とは何のは言い過ぎだけど、ほとんど関係ないのにねえ。

 Jリーグが客を集めるために最も必要なもの、最も効果的なものは結局のところ、一人の長嶋茂雄だよ。まっ、それがなかなか難しんだけどさ。

 あっ、そうそう、最近のプロ野球は、一人の長嶋茂雄もいないし、テレビ視聴率も惨憺たるものだけど、何故か各球場連日満員である。しかも、チケットはプラチナ化しているという。1万円超えもザラらしい。理由は分からん。私には全く分からん。フランチャイズをバラしたのが一番大きな要因だろうけど、それだけじゃあ説明がつかない。まあ、モノやヒトの価値、モノやヒトの人気というのはそういうもんだろうけどさ。

 プロ野球のチケット代はともかくとして、こういう「ちょっと考えれば、違うと分かる」シリーズは、これからもちらほら書いていく予定です。今までも書いてたけどさ。世の中、ちょっとも考えない人が多過ぎる。

                             ようやく雨が降った。2025/8/10(日)
補習その6  前回の記事にも書いたように、ここ最近Jリーグの悪口を書くためにインターネットを漁っている。そのついでという訳でもないけど、「ワンピース」関連の動画等々も見た。

 そうして、そこで少なくない人々が、「ワンピース」の作者の尾田栄一郎に対して「もっと面白く描け」とか、その編集者に対して「編集、仕事しろ」とか毒づいていた。

 まあまあ、インターネット上の罵詈雑言なので、そこまで深刻にとらえることは無いが、これにはいささか驚いた。

 私も幼少の折からマンガやマンガ家に対する数々の発言や批評批判等々を見たり読んだりしてきたけれども、このような「面白く描け」的な発言悪口批判は初めてである。

 これに類する批判はスポーツの世界にはよくある。「がんばれ〜」とか「勝て〜」とか「打て〜」とか「死んでも勝て〜〜」等々である。でも、これらは大くくりにして「応援」「叱咤激励」の類であって、先のワンピースファンのような「命令」や「脅迫」の類ではない。

 まあ、わたくしお得意の「死んでも勝て〜〜」も「命令」や「脅迫」といえなくもないが、これは一種のジョークやギャグであって、仮に負けたとしても、監督や選手の「死」を望んでいる訳ではない。「あれっ、お前ら負けたのに何で生きてんの。さっさと自害しろや。」。いや、これは使える。今度使おっと。

 ただまあ、例外的にJリーグのファン、つまりサポーターは、この手の「命令」や「脅迫」をしているらしい。「ワンピース」と「Jリーグ」の共通点がこの点に、というか、この点にこそあるのだが、それは後述する。今回の記事のメインテーマである。

 サポーターの「命令」や「脅迫」はともかくとして、その他のスポーツファンの「応援」「叱咤激励」的な事はスポーツの世界、とりわけプロスポーツの世界では日常茶飯事、日常であろう。というのも、プロスポーツは「勝利」を売りにしている、「勝利」で商売しているからだ。勝てなければ不満が出るのは当然だし、観客、すなわち顧客は「勝利」を強く求めるであろう。

 一方で、マンガ等々の芸術的エンターテインメントの世界はそれとは異なる。そこで売り物にしているのは「勝利」ではなく、「面白さ」であるからだ。故に、「面白さ」が無ければ、現今の一部のワンピースファンのように「面白さ」を作者や編集者に求めるのは当然の権利と云えるかもしれない。

 だが、それが違う。「面白さ」は「勝利」と異なり、人それぞれに異なるものであるからだ。「勝利」は、プレーヤー的にも監督的にも観客的にも明々白々なものであるけれども(「『試合』には勝ったが『勝負』に負けた」的なものはともかくとして、)、一方で、「面白さ」は作家にとっても読者にとっても、それぞれに異なるものであるからだ。しかも、それは、作者も読者も刻一刻と変化していく。

 それはあたかも「リンゴの味」のようなもので、同じリンゴでも人それぞれによって「美味しさ」は異なる。しかも、その「美味しさ」は昨日と今日では異なってしまう。それでいながら、おおよそ一般の「美味しさ」も厳然として存在している。「面白さ」はそれに類するものである。

 一方、「勝利」はリンゴと桃を間違えるようなもである。それは誰の目にも、いつでもどこでも明々白々に異なる。まあ、たまにいるけどな、リンゴと桃の味の区別がつかない奴が。

 それがマンガの「面白さ」であるから、仮にそのマンガがつまらなくたって、怒り出す奴はいない。「このマンガ、つまんないな。」、あるいは「このマンガ家、つまんなくなったな。」で終わりである。リンゴが不味かったからといって、返金を要求する奴はいない。まして、農家に「美味しく作れ」と怒り出す奴はいないであろう。まあ、もちろん、袋を開けて、桃が出てきたら返品だけどな。桃の方が高価だったら、「儲けた」っつって食べちゃうけどな。

 実際、かつて面白かったマンガ家、好きだったマンガ家が、つまらなくなった、面白くなくなったからといって怒り出す奴はいないであろう。

 例えば、手塚治虫は50年代60年代一世を風靡したしたものだけど、70年代に入ると、種々の理由で、少なくとも人気面では落ちぶれた。

 また、そういった人気云々とは全く別に、年齢的に画力、単純に画を描く力やコマ割り等々の構成力、物語を編む力、セリフやナレーション等々の文章力、そういった一切を含めたマンガを描く力、創作力そのものが落ちるという事はあるかもしれない。

 でも、それは80歳過ぎはともかくとして、40代50代のマンガ家に創作力の低下が起こるという事はちょっと考えられない。とりあえず、私の狭い、ごくごく狭い見聞の範囲では実例を知らない。

 ただ、80歳を過ぎると、確かにそれはあるかもしれない。ちばてつやにはそれを感じたし、水島新司も80歳が近づくにどんどん厳しくなり、80歳を機に自ら筆を折った。

 ちなみに最近、2,3か月前くらいかな、「王家の紋章」の最新話(!!!)をなんとなく書店で立ち読みして、ビックリした。本人がどこまで描いているのかは分からないけれど、「御年90歳のおばあちゃんがマンガを描くと、こうなる」という異常な説得力があった。「珍重に値する」とか「奇貨居くべし」とは、まさしくこういう事を云うのだろうと思った。興味のある方、一読をお勧めします。

 それはともかくとして、50年代60年代の手塚の愛読者達、60年代70年代のちばの愛読者たち、70年代80年代の水島や細川の愛読者たちが、彼らに「面白く描け」なんて命令脅迫はしなかった。「時代に合わなくなってきたなあ。」、あるいは「俺も大人になったからなあ。」、そうして「老いたなあ。」で終わりである。当然である。作者も読者も時代も歳を取っていくからだ。それはやむを得ない事であろう。誰の罪でもない。

 また、私の世代にとっての手塚は鳥山明だった訳であるが、どこかで書いた通り、私は「ドラゴンボール」を面白くは思っていなかった。勿論、それが素敵に面白いマンガだという事は分かっているけれど、「Dr.スランプ」のように熱中は出来なかった。そりゃそうだろう、中学生の時に私は既に「少年」を卒業していたからだ。

 ちなみに、所謂「ジャンプ漫画」というものはどういうものかというのは、鳥嶋和彦がはっきり定義している。鳥嶋がジャンプの編集長に就任した頃、ジャンプは「ドラゴンボール」も「スラムダンク」も失い、マガジンに肉薄されオロオロしていたらしい。そこで、鳥嶋はこう言ったという。

 「いいか、お前ら、マガジンは気にすんな。あれはジャンプのライバルじゃない。ジャンプっていうのはな、コロコロを卒業した10歳前後の男の子のハートを鷲掴みにして、生涯離さない。それがジャンプだ。」

 全く以って、その通りだと思う。その典型が「ドラゴンボール」であり「ワンピース」であり、その他数多くの「ジャンプ漫画」な訳である。

 ただまあ、そうはいっても、私のように鷲掴みにされなかった読者もいる訳で、そういった読者はごく自然にジャンプから離れるであろう。でも、そういったかつてのジャンプの読者たちが、鳥山明を、あるいは永井豪を、本宮ひろ志を、車田正美を、ゆでたまごを、井上雄彦を、和月伸宏を非難罵詈雑言命令脅迫するかといったら、そんな事は絶対にしないし、しなかった。

 私にしても、「ドラゴンボール」にまつわる所謂「大人の事情」は全部分かっていたから、「ドラゴンボール」を心から好きにはなれないにせよ、「鳥山明、がんばってんなあ。」くらいの気持ちで応援はしてた。その連載が終了した際には、多くの、実に数多くのドラゴンボールファンの皆々様には大変申し訳ないけど、祝福した。「お疲れさまでした、鳥山明先生」てな感じである。

 ところが、尾田栄一郎はそれら前任者たちとは大いに異なり、かつてのファン、いや今現行のファンに非難罵詈雑言命令脅迫されているのである。

 何故か。

 それは勿論、作品そのものに内存する問題もあろう。ちなみに、「ワンピース」という作品そのものについての批評とまでは云わないけど、感想、あるいは思うところは、「打順論」でねちねちと書くつもりです。来年くらいかなあ。オイオイ。

 でも、その最も大きな理由は、私見によれば、外在している。

 それは2010年ごろの降って湧いたような、まさしく降って湧いたような「ワンピースブーム」である。より正確に言えばフジテレビで沸き起こった「ワンピース面白いブーム」である。

 どんな事情があったのかは私には皆目分からないけれど、突然、本当に当然、フジテレビの出演者たちが「ワンピースは面白い面白い」と言い出し、「ワンピースに泣いた」「ワンピースに感動した」と言い出した。そうして、「ワンピース」の愛読者たちの姿を画面に映し出した。その中には、今でもはっきり覚えているけど、20歳前後の男性で「私は『ワンピース』を読むのを日課にしています。」「『ワンピース』を読む度に、泣きます。」「『ワンピース』は人生を、世界を教えてくれます。」という御仁もいた。

 ヤラセだとは思うけど、私は正気を疑った。

 そうして、そのうちの一人に、あの木村拓哉がいた。例の調子で、「ワンピっていいよね〜〜。俺、大好きなんだ。」って言ってた。

 こちらは本気で正気を疑った。木村拓哉はこの時、既に40歳前後である。「ワンピース」連載開始時は25歳前後である。その年齢の男子が、典型的な「ジャンプ漫画」を好きになれる訳が無い。全員、卒業している年齢である。仮に好きだとしても、面白いと思っていても、注釈付きであろう。「ワンピースは面白いよ。」ぐらいの距離であろう。「ワンピっていいよね〜〜。俺、大好きなんだ。」はあり得ない。

 キムタクは日韓ワールドカップも観戦に来てたよね。ナンシー関が最後の記事でそれを揶揄ってた。

 キムタクの「サッカー好き」も大概驚いたもんである。あの伝説の「夢がモリモリ」でも、「サッカー好き」的な発言は一切発していなかったと思う。キックベースの主力は、あの森くんだったと思う。まあ、数回しか見てねーけどさ。

 当時は、あの石田純一を頂点に「サッカー好き」を公言しだす芸能人は腐るほど、まさしく腐るほどいたので、それ自体を云々するつもりは無いけれど、ここで「サッカー好き」「ワンピ好き」を正々堂々公言できるのが、キムタクのキムタクたる所以であろう。

 よく、いけしゃーしゃーと云えるよね。さすが、芸能活動に身も心も、まさしく字義通り、肉体も魂も売っただけの事はある。

 ここ数年のジャニーズ騒動で、SMAPを始め、多くの、というか、ほとんど全てのグループやユニット、タレントが廃止消失の憂き目に遭う中、一人しっかりイケシャーシャーと芸能界に生き残っているのは、この如才なさ、処世術の上手さにあるのだと思う。私は木村拓哉の芸能活動や、その実績には何の関心もないけれど、その処世術にはほとほと感心する。凄みすら感ずる。

 普通言えねーよ、好きでもないものを好きなんてさ。中居くんは、「サッカー、好き。」とか「ワンピ、好き。」とか口が裂けても言えねーよ。だから、奈落の底に落ちたんだけどさ。まっ、キムタクも落ちるかもしれんけどな。別のルートで。

 まあ勿論、芸能人というのは、以前にどっかで書いたと思うけど、楽しくも無いのに笑ったり、悲しくも無いのに泣いたり、「好き」でもないものを「好き」と言ったり、「嫌い」でもないものを「嫌い」と言ったりする仕事であるから、キムタクのそれも芸能人としては当然至極の言動だとは云える。

 でも、木村拓哉は度が過ぎる。ニヒリズムの域に達していると思う。楽しくも無いのに笑ったり、悲しくも無いのに泣いたり、「好き」でもないものを「好き」と言ったり、「嫌い」でもないものを「嫌い」と言ったり、俺にはそんな生き方、絶対できねー。そんな生き方、真っ平御免である。
 つう訳で、当サイトにおける私の喜怒哀楽、および「好き」「嫌い」は嘘偽りの本心です。衷心より発した言葉です。ご安心ください。とはいえ、「好き」「嫌い」は時ともに変わっていくけどね〜〜。

 そんなニヒリストのキムタクも動員するくらいであるから、フジテレビに、東映に、集英社に、どこか知らんけど広告代理店に、それ相応の理由があったのだろう。結果、ワンピースブームが発生した訳である。んで、単行本は売れに売れ、キャバ嬢まで買ってた。ちなみに、「キャバ嬢が知る」というのは、ブームや知名度が最深部まで浸透した証である。ブームのリトマス試験紙といってよいであろう。広告代理店の目指す最終到達地点である。「ウルトラマン」の時も、スナックのママやチーママまで知ってた。まあ、子供にせがまれてたんだけどさ。

 当時の私は、無論それに恣意的なものを感じていた。「Jリーグの時と同じだぞ。」って訳である。

 Jリーグのようなスポーツ関係はともかくとして、マンガやテレビ番組の「ブーム」というものは、一般に、というか、ほぼ全て、発表直後公刊直後にいきなりドカンと来るものである。「アトム」然り「オバQ」然り「ウルトラマン」然り「アラレちゃん」然り「セーラームーン」然り「妖怪ウォッチ」然り、「全員集合」然り「ひょうきん族」然り「ピンクレディ」然り「おニャン子」然りである。
 「ガンダム」と「ポケモン」はやや遅れたが、発表後1年過ぎには大ブームが来ている。「モーニング娘」も路線変更とともにドカンと来た。

 ところが、「ワンピースブーム」は発表後15年程経過しているのである。そんなの、他に聞いたことが無い。「Jリーグ」も同様ちゃあ同様だけどな。あれも、サッカー渡来後、100年経過してからのブームだからな。ちなみに、野球は、渡来後すぐに大人気であった。

 「ワンピース」は「サッカー」とは異なり、連載開始直後から、当然人気はあった。故に、あの「鳥山明アワー」を引き継いだ訳である。ところが、それはおよそ2年半で陥落、日曜夜に移行、それも5年半程で終了、日曜朝に移行、「エンディング」も無ければ「次回予告」も無いという、アニメ番組としては悲しい仕様で20年近く続き、今度は日曜深夜に移行である。とてもじゃないが、「Dr.スランプ」や「ドラゴンボール」のように人気があった作品とは言えないだろう。「ワンピース」が終了する際には、フジテレビや東映、集英社が動くであろうか。

 ところが、降って湧いたような「ワンピースブーム」。完全にテコ入れだよね。そうして、それは功を奏した訳である。そうして、それから15年後、当時のファンたちは、「Jリーグブーム」同様、その副作用に苦しんでいる訳である。

 だからこそ、尾田栄一郎に「もっと面白く描け」、その編集者に「仕事しろ」、と命令脅迫をする訳である。なぜなら、「『ワンピース』は世界一面白いマンガ」「世界一売れているマンガ」と教えられたから。「ワンピース」は世界一面白いマンガでなければならぬ。世界一売れているマンガでなければならね。

 Jリーグファン、サポーターにも同じ事は言える。「サッカーは世界一人気のあるスポーツである。故に、日本でも一番人気のあるスポーツでなければならぬ。」。だって、そう教えられたから。

 まあ、サッカーについてはともかくとして、「『ワンピース』は世界一面白いマンガ」かと問われれば、それは微妙どころか、完全否定であろう。世界は当然の事、日本のマンガTOP100だって到底不可能であるし、ジャンプ漫画TOP10だって、厳しいかもしれない。

 まずは当然、「Dr.スランプ」と「ドラゴンボール」がワンツーフィニッシュだろう。「週刊少年ジャンプ」というのは、結局のところ「週刊少年鳥山明」だったのだから。
 で、それに続くのが、ジャンプ最初のヒット作「ハレンチ学園」と「男一匹ガキ大将」であろう。そうして、ジャンプ漫画をジャンプ漫画たらしめた「キン肉マン」が続き、ジャンプ漫画のひとつの典型を作った「アストロ球団」と「聖闘士星矢」がそれに続くと思う。そうして、それに続くのが「ワンピース」であろう。対抗馬は「北斗の拳」や「ジョジョ」「ナルト」あたりかな。順位的には8位前後となるであろう。

 「いや、お前はついさっき、『「面白い」は人それぞれに異なる』といったではないか」という疑義が聞こえてくる。言い訳めくが、先に書いた「面白い」と、ここで論じられている、少なくとも「『ワンピース』は世界一面白いマンガ」の「面白い」は内容的概念的に異なる。先の「面白い」は結局のところ「好き嫌い」であり、後の「面白い」は「良し悪し」である。

 芸術作品の議論でこの両者を混同する人は非常に多い。故に、ここに示したように「面白い」が全く異なる二つの意味で用いられている訳である。前者の「面白い」、すなわち「好き嫌い」は個人の好みであり、後者の「面白い」、すなわち「良し悪し」は完全に作品の優劣である。これは、見る人、すなわち芸術が分かる人が見れば一発で分かる。はっきり白黒が付く。グレーは無い。一個づつ事細かにランキングされている。

 ちなみに、先に挙げた私の「ジャンプ漫画TOP10」つか「TOP8」は人気や内容、歴史的意義を総合的に加味したものであり、単純に作品の優劣ならば、私の知る限りジャンプ史上最高のマンガは「ドリーム仮面」である。2位以下は知らん。候補は、今のところ無いかな。ギリギリ「Dr.スランプ」か、あくまでギリギリだけど。

 一方で、「ワンピースが世界一売れているマンガ」に関しては、肯定せざる得ないであろう。数字にはっきり出ているからだ。ただ、「公平な競争」ではないと思う。市場規模が違うからだ。

 日本のマンガの歴史というのは、市場規模拡大の歴史でもある。縦軸(時間)、横軸(空間)ともに確実に拡大してきた歴史である。

 「アトム」の頃は年齢的な上限が「10代」、それもローティーンだったのが、「あしたのジョー」の頃にはハイティーンになり、青年誌の誕生とともに20代30代となり、それから徐々に、そうして確実に上がっていき、今現在は60代、あるいは70代前半かもしれない。

 一方、横軸、空間の方は、最初期は大阪や東京といった都市部に限られていたものが、アッという間に日本全土に広がり、90年代はアジア圏、00年代10年代はヨーロッパ圏や南アメリカ圏、20年代は北アメリカ圏へと拡大していった。おい、アメリカ、お前らは一番最後だからな。

 現時点において最後発であり、長期連載している「ワンピース」が発行部数競争で有利なのは当然至極であろう。ちなみに、史上初めて初版100万部を突破したマンガの単行本は「キャンディキャンディ」の第7巻だそうであるが(ウィキ情報)、だとしたら、「キャンディキャンディ」は当時最高のマンガという事になるんですかねえ。

 そういう不毛な議論はともかくとして、現在の「ワンピース」のファンの多くが、往時の広告宣伝と現今のワンピースの状況の相違に苦しんでいる訳である。それは「Jリーグ」のファンと構造的には全く同じであるし、構造は少々異なるが「プロレス」のファンも同様であろう。要するに、「ダマされた」のである。

 そうして、その「ダマされた」から解放されたいがために、尾田栄一郎や編集者に命令脅迫をしたり、他のスポーツのファンに毒づいたり噛みついたり、「ヤオガチ論争」に勤しんだりする訳である。そうして、それは、以前も書いたけれども、宗教や政治信念の転向者の論争によく似ている。

 「好き嫌い」を他人に委ねてしまった事の悲しさだよね。自分自身で好きになったり嫌いになったりしたら、それがある時期に変わったとしても、特別不愉快ではないだろう。「飽きちゃった」とか「最近ハマってんだ」とかで終わりであろう。

 ただし、それが他人の力による「好き嫌い」だったら、話は異なる。「ダマされた」という心の傷が残る。それは、「プロレス」や「ワンピース」「Jリーグ」といった感動を売り物にするような大きなモノのみならず、ごくささやかなモノでも同様だろう。例えば、蕎麦屋に入って、自分で選んだカツ丼が不味かった場合と、人に勧められたカツ丼が不味かった場合では、怒りは後者の方が強いだろう。「金返せ」とまでは云わないけどな。その巨大なものが現今の「プロレス」や「ワンピース」「Jリーグ」のファンなのである。悪態をつくのも無理はない。

 いや、俺も気をつけよっと。ひねくれ者の私は今まで一度も経験ないけど。いや、待てよ、コルツやペイサーズ、そんな事は無いと思うが、インディアンズまでもが、アメリカの広告代理店の差し金、陰謀じゃねーだろーなー。やられてたか、俺。気が付かないうちに、ダマされていたのか、俺。なんかオカシーなーと思ってたんだ。衛星放送代やケーブルテレビ代、ゲームパスやダゾーンの代金、各種雑誌代、返しやがれ〜〜〜。あと、時間もな〜〜。膨大な時間もな〜〜。

 とりあえず、今回はこれでおしまい。次回は10月くらいかな。NFLも開幕するし。いや、ダマされていたのに気づいたから、もう見ないぞ〜〜〜。

 「打順論」の続きは来年かなあ。オイオイ。この「補習」は、あと2,3回予定してます。いや、4回かな。

                                       2025/8/17(日)

1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11