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G.Brackett |
![]() らとがーず。 |
ゲーリーゲーリーホームラン、ゲーリーゲーリーホームラン。 訳の分からない書き出しですみません。生まれてすみません。疲れてます。 というわけで、2005年の開幕戦からスターターとして颯爽と登場。「ゲーリー・ブラケット?誰じゃそりゃ、ロブ・モリス出さんかい。プレシーズンは先週で終わっとるんやど。カレンダー見たらんかい。」(にせ関西人風に。)という私を中心とした極々一部のファンの短絡的批判をINT連発で封殺、現在までの3年間、見事スターターを守り続けているゲーリー・ブラケット君である。 スターターとして使われ出した当初は背の低さもあり前記の通り「誰じゃそりゃ、Who are you.」みたいな印象であったが、最近ではその機動力の高さを遺憾なく発揮、独特の動きの求められるいかにもカバー2のMLBらしくなってきた。アーラッカーほどではないにせよ、私は隠れた名選手だと思っている。コルツの選手は他チームからは妙な人気があるがカバー2を採用しているチームは彼こそ狙うべきであろう。多少無理をしてでも獲るだけの価値のある選手だと思う。私が保証します。←無責任。 またチーム内の位置としても、私は密かにディフェンス陣の中ではフリーニーやサンダースよりも上だと思っている。カバー2のMLBはそれだけ特徴的な、ある意味カバー2を象徴するポジションなのである。まえにも何処かで書いたが、ノーハドルオフェンスの象徴であるJ・サタデーとそういった意味でも良く似ている。 そのサタデー同様、チームは早い段階(スターター獲得1年目でのオフだった筈。)での彼との長期契約(4年10億円ぐらいだったかな。)に踏み切ったのであるが、その当時は私は「なんでかなあ。」などと思ったものであるが、結果的には大正解だった。私の不明を恥じ入るばかりである。 この早い段階での長期契約も含めて、G・ブラケットのスターター登用はフリーニー指名と並んでダンジーのコルツに於ける最大の功績だと思う。フットボール初心者の私はフリーニーとG・ブラケットを通じてカバー2の何たるかを学んだと思う。ありがとう、カバー2マスターことダンジー。よもやダンジーの発案ではないということはないだろうが。トム・ムーアの差し金だったら、死ぬほど笑えるが。 まあ実際、前任者のR・モリスのいかにも1.5列目といったプレイ振りにはダンジーもイライラしどうしだったんだと思う。ルーキーFAのブラケットが2年間クビにならなかったことからみても、いかにも2.5列目である彼のスターター登用は今から考えるとチームの既定の方針だったのかもしれない。見える人には見えていたのだろう。 また彼の通算成績を調べてみると、私は今回はじめて知ったのであるが、2.5サック10インターセプトといういかにもカバー2のLBらしい成績が残っている。しかもその10インターセプトのうち3つは、私の記憶にないのであるが、なんと2005年以前、すなわちスターター獲得以前に記録されているものである。しかも2004年の最終戦はスターターである。したがって、正確には2004年度の最終戦からスターターを守り通していると表記すべきだったろう。 最近チラチラと今年のドラフトレビュー誌を見ているのであるが、その中に「G・ブラケットは良い選手であるが本来バックアップのMLBであり、コルツは今ドラフトで彼に代わるスターターのMLBを指名すべきだろう。」というものがあったが、これはコルツのゲームを見たことのない者の意見である。でなければ所謂節穴だろう。アーラッカー級のプレイヤーならともかく、G・ブラケットと同じ程度の選手はそれこそ掃いて捨てるほどいるだろうが、彼以上の選手などはそんなにはいない筈である。よしんばいたところで、ドラフト上位を使って指名するほどのものではない。そういうものである、カバー2のMLBとは。 恒例のフルネームは Gary Lawrence Brackett。ローレンス。 申す迄もないことであるがディフェンスのでこっぱちでもある。 2008/3/23 マニング騒動に巻き込まれてという訳でもないが、同時期にコルツから解雇、つか確か契約切れだったような気もするが、記憶は確かではない。いずれにしても2012のオフにコルツを去り、どっか他のチームと契約するのかなとも思っていたが、年齢や怪我もあってか、どこのチームとも契約に至らぬまま、引退した模様である。 まあ、プレイスタイルは典型的な同チームのファンには分かるが、他チームのファンには分かりづらいというそれなので、コルツ後即引退というキャリアもやむなしであろう。MLBはライバルも多いし。 また、その後継者がジェレル・フリーマンというCFL上がりの所謂叩き上げで、プレイスタイルまでクリソツなので、「MLBやILBにドラフト権はいらんな。」という私も気持ちはますます強まっている次第である。 ちなみに、ウィキ情報によると、ブラケットは「Winning:From Walk-On to Captain, In Football and Life」なんつうベタな題名の本を出版しているみたい。やっぱ「叩き上げ」を売りにしてるのな。興味のある方はどうぞ。無論。邦訳は無いだろうけど。つか、大学もWalk-Onなのな。分かりづらい才能なのかも。 2014/7/9(水) |
D.Brown | ![]() モデル出身。 |
オースティン・コーリー、ジャコブ・ラーシー、パット・マカフィー、ジャラウド・パワーズ、カーティス・ペインター等々、なかなか多士済々の’09ルーキー組の中にあって、今ひとつ影が薄いのが、このドナルド・ブラウンです。でもドラフト1巡です。 プレイスタイル的には先輩のジョセフ・アダイとドド被りなのであるが、唯一の違いはアダイの名人芸、ブリッツ・ピックが下手ということである。 しかし、その課題のブリッツ・ピックもシーズン終盤に入り、なかなかの成長を見せ、プレイオフのBAL戦ではアダイ直伝の根性のブリッツ・ピックを見せている。 来シーズンは是非ともアダイとキャリー数、つうかプレイ数を分け合う、つうか凌いで欲しいものである。でないと、アダイがプレイヤーとしてではなく、人間としてホントに死んじゃう。いや、マジで、ほんと。アダイ以上に酷使されているロニー・ブラウンの二の舞は避けたい。 アダイとほぼ丸被りといわれているドナルド・ブラウンであるが、唯一にして決定的な相違点が実はひとつある。ルックス、顔である。何気にチーム一の男前である。 ストークリーが抜けて以来、ほとんどブ男しかいないコルツ・プレイヤーの中にあって、実に貴重な人材である。目指せ、ジェイソン・テイラー。 アダイがリアルに嫉妬しているという情報もある。←もちろんウソ。 フルネームは Donald Eugene Brown II。2世。バビル2世。 2010/1/20 コルツ在籍5年間、活躍したような活躍していないような微妙な成績を残し、ルーキー契約の切れた2014オフにチャージャーズにFA移籍。コルツ側からオファーがあったか否かは不明。私個人的にも残したいような残したくないような微妙な気持ちだったので、この移籍もまた、満足のような不満足のような微妙な心持ちではある。 ちなみに、何故にブラウンがチャージャーズと契約に至ったかというと、勿論多くの理由が考えられるだろうが、もっとも大きな理由はGMトム・テレスコに引っ張られたのだろう。 このテレスコというGMは長らくコルツのフロントにいた、というかポリアンの元で長らく働いていた人で、ビルズでおインターンとしてキャリアを開始し、パンサーズを経てコルツというその経歴が示すとおり、ポリアンの右腕といったら大袈裟であろうが、典型的なポリアン門下生の人物である。2013ドラフトでのキーナン・アレンの指名にその影響が感じ取れる。 また、昨オフのフリーニー獲得に続き、今オフのこのブラウン、カベル・コナーの獲得などは、純然たる戦略的な理由というよりは、むしろコルツ時代の知己として彼らと契約したという側面もあるかと思われる。情実人事といったら言い過ぎだろうが、縁故採用の側面が無いかと言ったら嘘になろう。 今後、こういった形で元コルツがサンディエゴに終結するのかまでは不明である。 さて、ドナルド・ブラウンに話を戻すと、この5年間、ブラウンのプレイを見続けてはっきり分かったのは、彼が典型的なスキャットバックだったという事である。スキャットバックの定義も色々あるだろうが、私なりに定義すれば、オープンフィールドで本領を発揮するタイプ、チームがオープンを作ってナンボ、そうして何といってもスクリーンプレイでその真価を発揮するRBである。 そうして、このプレイスタイルこそが、彼のキャリアをイマイチにしたと私は考える。まあ、致命的にブリッツピックが下手でマニングに干されたという側面も大きいが、もうひとつの理由が、スキャットバックというブラウンのプレイスタイルにあったと思う。 何となれば、スキャットバックはこの5年間、あるいは10年間といっても良いと思うが、急激に絶滅種になってしまったからである。何で絶滅種になってしまったかといえば、その花形プレイ、RBへのスクリーンパスがいまやほとんどコールされなくなってしまったからである。あっても、せいぜい味付け程度のコールであり、オフェンスの中心的なプレイではなくなってしまったからである。 2000年代前半は花形プレイであり、その代表的な選手はマーシャル・フォークであり、そのスクリーンプレイが最後に輝きを放ったゲームは第39回スーパーボウルのNE対PHIであった。このゲームでベリチックとブレイディはジム・ジョンソンDCのヘビーブリッツをことごとくRBスクリーンでかわし攻略してしまった。ビデオの件はしばらく措く。 ところがスーパーボウルでこれだけ派手にプレイが成功すると、当然その対策を全チームが敷く訳で、この年あたりから徐々にスクリーンプレイは減っていった。その対策は色々あるだろうが、何と云っても、それは戦術的なものというより、パスラッシャーの意識の変化が大きかったと思う。それまでのパスラッシャーというのは、ブリッツの指令が出たら、あるいはDLだったら通常のパスラッシュにおいて、頭の中は100%サックしか狙っていなかった。ところがこの年辺りから、パスラッシュ時でも10%、あるいは30%ほどはスクリーンを念頭においてパスラッシュするようになった。パスラッシャーのパスディフレクトが増えたのである。結果、RBスクリーンはコールしづらくなり、スキャットバックはその職場を失った。 その割を喰った一人がこのドナルド・ブラウンであろうが、何と云ってもその代表格、象徴はレジー・ブッシュであろう。2006年、ブッシュがドラフトされた、ちょうどその頃から、スクリーンプレイが減少の一途を辿るのである。ドラフト時、ブッシュに期待された数字を彼が残せなかったのは、彼個人にも責任は勿論あるだろうが、大半の理由はその時代にあったと思う。もし彼が10年早く、それこそ1996年辺りにドラフトされていたら、マーシャル・フォークの位置にいたのはレジー・ブッシュだったかもしれない。 時代とプレイスタイルの齟齬というのは、他のスポーツでも大なり小なりあるだろうが、それが最も顕著に現れるのが、このフットボールというスポーツの面白さのひとつだと思う。 例えば、ロニー・ブラウンなどは、ブッシュとは逆にもう少し遅く10年あるいは5年でも遅くドラフトされていたら、また違ったキャリアになっていたと思う。もし、2010年辺りにドラフトされていたら、あるいは強力なQB、理想的にはマニングのいるチームにドラフトされていたら、彼のキャリアは全然違っていたものになっていたと思う。 また、面白いのは、ブッシュと同じ年(ちなみにアダイも同じ年)にドラフトされたデアンジェロ・ウィリアムズで、彼の場合は、ドラフト時にはスキャットバックどころか、典型的なサードダウンバックみたいな評価であり、私も同じく考え、5年くらいでNFLから去ってしまうのかなと思いきや、9年を経た今でもパンサーズ一筋で頑張っとる。ジャニーマンになりつつあるレジー・ブッシュとは対照的である。ウィリアムズの場合は、ジョナサン・スチュワートという良い相棒を得た事が大きかったのであるが、先に挙げた時代のほかに、チームやコーチに恵まれるか否かでキャリアが大きく変わるのもフットボールの面白さであろう。しかも、パンサーズがスチュワートを1巡13位で指名したのは、そもそもウィリアムズのプレイに不満を持っていたからで、それが却ってウィリアムズに奏功するのだからフットボールは面白い。 ドナルド・ブラウンもトレント・リチャードソンという思わぬ相棒を得て輝きを取り戻したけれども、ライアン・マシューズとの相性は如何に。 しかし、チャージャーズはセインツと並んで、スキャットバック好きだよね。両方ともブリーズのいた、あるいはいるチームであると云うのは面白いところである。ブリーズがクイックヒットのパスの代わりにスクリーンを使わざるを得ないというのは分かるが、リバースには必要ないと思うのであるが、ブリーズ時代のプレイブックをまだ使ってんのか。 とまあ、ブラウンについて、思うところを書いてみたが、正直言ってあまり興味は無い。NFLのトレンドというのは刻一刻と変化していくものだから、また何かの拍子にスキャットバックが劇的に復活するかもしれない。しないかもしれない。 しかしこれでポリアン後期時代(スーパーボウル制覇以降。すなわち2007ドラフト以降。)にドラフトした選手でコルツに残っているのはマカフィーとカスタンゾぐらい。リーグでスターターを張っているのもギャルソンとポラック、ウィーラー、パワーズぐらい。ポリアンの眼力どうこうと言うよりは、このリーグの変化の早さに改めて驚く。NBAだと懐かしい選手がひょっこりスターターを張っていたりして驚かされる事もままあるが、NFLではまず無い。かつて、ベリチックがNFLは好む好まざるに関わらず5年でチームがガラッと変わると述べていたけれども、全くその通りだと思う。まあ、それが面白さの一因でもあるのだが。 2014/7/24(木) |
P.Garçon | ![]() でも、生まれは ニュー・ヨーク だったりする |
さて、問題のピエール・ギャルソンである。なぜ問題かというと、長くなる事が必定だからである。本来、このアクティブ・コルツの項は、スタータークラスのプレイヤーは皆掲載する予定であった。んで、このギャルソンは09シーズン、10シーズンと丸2年、スターターを張り続けて来たのであるから、もっと早めに記事を作っても良かったのであるが、それをしなかったのは、先に書いたとおり、長くなる事が必定だからである。なぜ長くなるかというと、それは追々説明します。 という訳で、本来は昨年のオフにでも書きたかったのであるが、昨オフは「ランとパス」で丸々一月使ってしまって、このギャルソンの記事を作る時間も根性も無くなってしまったのである。 では、始めます。 まずはドラフト時の評価から。このサイトも丸4年近くやっているので、だんだんドラフト時の記事が残っているプレイヤーが増えてきた。さて、その記事は以下の通りである。 「 6巡205位 Pierre Garcon WR 6巡多過ぎ。 205位は202位と打って変わって、聞いた事もないような大学出身である。NFL公式サイトによると60TDsしているらしい。そうしてその成績はジェリー・ライスのそれによく似ているなどと天につば吐くような事が書かれておる。空恐ろしい。 話は変わるが、 Pierre Garcon とあるけれども、この Garcon のCはCではなくフランス語のセディーユ付きのCではないだろうか。そうしてギャルコンではなくギャルソンと呼ばせるのではないだろうか。ピエール・ギャルソンならば超格好ええ、マービン・ハリソンの後釜即決定である。速攻でファンになる。いやまじで。 話はまた変わるが、この位置でのWR指名と言う事はハリソンはまだまだいけると言う事か(さっそく事件起こした。続報を待て。)。またムーアヘッドとかでお茶を濁す気じゃないだろうな。」 聞いた事も無い大学と3年前の私は書いているが、ギャルソンの卒業したマウント・ユニオン大というのは、確かにディヴィジョンⅢ所属の大学ではあるけれども、その中では強豪で、たまにひょっこりNFLプレイヤーを輩出するような、そこそこの実力校である。今調べてみて分かったのだが、昨季パッカーズの優勝に大きく貢献したDCのドン・ケイパースも、このマウント・ユニオン出身である。「聞いた事も無い」と書いたのは、単に3年前の私が無知だったからに過ぎない。マウント・ユニオン大出身の皆様、ごめんなさい。 ちなみに、このギャルソン、出身はマウント・ユニオン大であるが、入学はノーウィッチ大だったりする。アメリカ人には、よくあるパターンとはいえ、ややこしいのお。 さて、更にその続きを読むと、ジェリー・ライスに似ているなんて記述も見られるが、まあ確かに、この2年間のプレイを見ていると、瞬間的には、ジェリー・ライスのそれを髣髴とさせるものがあるにはある。しかしながら、NFLに入ってくるようなWRは、皆瞬間的には大概ジェリー・ライスであろう。ジェリー・ライスのジェリー・ライスたる所以は、勿論常にジェリー・ライスだったからである。 ギャルソンの選手としての評価はというと、ハンド、ルートランニング、スピード、クイックネス等々、WRに必要な能力は、どれも皆高いレベルで保持しているが、かといってエースレシーバーを任されるほどの力があるかというと、そこまではいかない、といったところだろう。 彼と同じドラフト下巡指名のWRとしては、コルストンやマイク・ウィリアムズ(もち、TBの方)、マイルズ・オースティン(彼はドラフト外だけど、)などがいるが、彼らと比較すると、さすがにワンランク落ちる感じは否めない。 彼らとの決定的な違いは、やはりセパレート能力という事に尽きるだろう。それはエースレシーバーに必須の能力である。コルストンのような体の使い方の上手さや、マイク・ウィリアムズやマイルズ・オースティンのような絶対的なアビリティと体の強さいったものは、ギャルソンには無い。彼がCBからセパレートする為には、プレイブックの勝利や相手CBのズッコケ等、ギャルソン以外の力が必要になると思う。すなわち、彼自身の力でCBからセパレートする事は出来ない。すなわち、エースレシーバーにはなれないという事である。 ギャルソンと前後してコルツを退団した選手にアロマショドーがいるが、もし彼らの入団時期が逆転していたら、今のギャルソンの地位にいるのはアロマショドーだったと思う。アロマショドーがスーパーボウルでタッチダウンを決めていたかもしれない。何事によらず、運命とは面白いものである。 閑話休題。もしかしたら、これから、そういう能力をギャルソンは身に付けるかもしれないが、私はこの手の能力は天稟だと思っているので、将来的にもなかなか厳しいと思う。極端な云い方をすれば、やっぱりマニングあってナンボの選手だと思う。 さて、プレイヤーとしての能力話はこれくらいにして、いよいよ、この項の本題とも云うべき、その名前、ピエール・ギャルソンである。 ドラフト時の記事でもちょっち触れているように、そのCはいわゆるセディーユ付きのCで、正確にはçである。ちなみに、この文字を表記する為には特別なフォントが必要らしく、このページは他のアルファベットも妙な書体になってしまった。パソコンはいろいろ面倒くさいのお。 で、ギャルソンが何でそんな面倒くさい文字を使っているかというと、昨年、我が国同様、大地震&大津波を喰らったハイチが、彼の親だか祖先だかの出身地だからである。んで、そのハイチは旧フランス領であるため、彼もそんなフランス人っぽい名前を持っているわけである。 そんなフランス人っぽい名前を持ったギャルソンであるが、アメリカでは当然、そんな仏蘭西被れは許されるはずも無く(ここらへんはテキトー。真に受けないように、)、ピエール・ガーソンと呼ばれているようである。 で、昨年のコルツのスーパーボウル進出の立役者の一人でもあるので、日本語表記もピエール・ガーソンで統一されつつある。たまにガーコンという表記も見られるが、少なくともピエール・ギャルソンと表記しているのは、どうも私だけのようである。 そこで、この際、良い機会なので、当サイトにおける「外国語の日本語表記法の原則」みたいなものを表しておきたいと思う次第である。んで、これが長くなる理由である。 ギヨオテ、ゴウグ、アネルセンの時代以来、日本人がこの手の欧米文化についてあれこれ書く場合、日本人を悩ませてきたのが、この外国語の日本表記法である。古くて新しい問題でもあると思うので、これといった妙案が私にある訳でもないが、当サイトを運営するに当たっての、「外国語の日本語表記法の原則」みたいのものを、ここにまとめておきたい。 その1 伝統的なもの、一般化したものについては、それに従う。 日本に欧米文化が入ってきて、なんだかんだで200年近く時間が経過している。その中で、数多くの欧米語の日本語表記が一般化、伝統化している。それらについては、当然の事ながら、それらに従う。 例えば、コルツのHCコールドウェルであるが、これは現地の発音から云っても、アルファベット的に云っても、カルドウェル、ないしキャルドウェルが適当であろうが、何故か知らぬが、この綴りは昔からコールドウェルと呼び習わしているので、これに従う。 確か、100年前くらいに、同じ綴りの学者だか作家だかがいて、その著作物を翻訳する際に、当時の訳者がコールドウェルと表記したのだと思うが、その時何故に「コールドウェル」と表記したのかはよく分からない。当時は、そんな風な発音だったのかも知れぬ。 とにかく理由はよく分からんが、それ以降、このCALDWELLはコールドウェルと表記されるようになったようなので、私もそれに反対する理由は無いので、従う。 そのほか事例はいくらでも挙げられるだろうが、例えば我等がマニングも、現地の発音的にはマーニングと表記すべきだろうが、そんな事をする人はほぼ皆無なので、私もマニングと書く。アダイなんかも、現地の発音的アルファベット的にはアッダーィであろうが、そんな表記をする人はほぼ皆無なので、私もアダイと書く。あれ、アダイはみんなアッダーィと書いているのか。アダイのことを書いている人なんて、日本にはほとんどいないので、よー分からん。 この手の所謂アクセントは、日本語表記においては大概オミットされるようである。クロマティなんかも、クロマーティなんて書く人はほとんどいない。 この手の日本語表記の一般化について、何かしら法則めいたものがあるのかもしれないが、私には、よー分からん。とにかく、言葉は庶民が決める、のである。 また、この手の言葉の問題になると、学者やNHKのアナウンサーなどが、自分の学習してきた事や読んできた本と現実が違うからといって、現実の方をピーピー批判するが、そんなのは全く以って愚かな話である。バカヤロウのすることである。本に書いてある事と現実が何故違うのかを考えるのが、本来学者の為すべき事であろう。 例えば、これは英語とは全然関係ないが、独壇場という言葉がある。これは、本来、よく云われる様に、独擅場が正しいであろう。しかし何故に「どくせんじょう」ではなく、「どくだんじょう」という読み方が定着したのかといえば、それは誰がどう考えたって、「どくせんじょう」より「どくだんじょう」の方がホシイママにしている感じが出るからである。 同じような事例に「大舞台」という言葉があるが、こちらはNHKあたりの無意味なアナウンスにより、「おおぶたい」という読み方が定着しつつあるが、こちらだって、どう考えたって、「だいぶたい」という読みの方が「大舞台」という感じがする。「だい」で始まり「たい」で終わる言葉を「ぶ」という濁音で結び付ける。気合が入るではないか。「おおぶたい」では気が抜けるっつの。だいたい歌舞伎用語なんていうのは妙竹林な腺病質な言葉なのであるから、そんなのは一般化する必要は全然無い。「弁当を使う」なんて云い方、気持ち悪りーだろ。 だいたい、言葉なんていうのは、上に挙げた二例にも見れるとおり、大概、音に支配されるのである。音声心理学的なものが、言葉を支配しているといっても良いと思う。それを語源的に、あーだこーだ云ったところで何の意味も無いと思う。 金八あたりが、漢字を文字の形で解釈して得意になっているが、あんなのは全然間違っている。文字の形の道徳的意味なんか無いっつの。だいたい中国なんていう国は、つい最近まで、9割が文盲だったのだから、漢字なんてほとんど知らねっつの。彼らの言葉を支配してきた法則のほとんどは音である。 言葉というのは、その他の多くの学問と違って、どんなバカでもマスター出来るほとんど唯一のものであるから、こういう金八やNHKのアナウンサーみたいなポピュラー・エティモロジーを生みやすいのであるが、それこそ、宣長ではないが、初心者に限って何とやら、である。 その2 アホみたいなローマ字表記。 一般的伝統的表記に従うといっても、勿論アメリカの全ての英語に一般的伝統的表記法がある訳ではない。つーか、ほとんど無いといってよいだろう。普通名詞に限っても、1000分の1どころか、1万分の1も無いのではないだろうか。まして、固有名詞まで入れたら、ある方が珍しいくらいである。 で、そういう時はどうするかというと、つーか、それ以外に無いのであるが、「アホみたいはローマ字表記」という事になる。つーか、ならざる得ない。 例えば、昨ドラフトでコルツが2巡で指名したIJALANAであるが、こんなのはとりあえず、イジャラナと表記するしかない。どうも公式サイトを見ると、アイジャーラーナーが正しいっぽいが、そういうのが分るまでは、とりあえず、このイジャラナで押す。 この場合、先にも書いたとおり、アクセントの扱いに苦慮するのであるが、それは、とりあえず、入れたり入れなかったりにする。イジャナーラと書いたりイジャナラと書いたり併用である。 また、このイジャラーナの場合、語頭のアイがアイバーソンと同じパターンでアイと読みそうな匂いもするが、一方では、イバニエスやイグダーラのように、そのままイと読みそうな匂いもする。そういう場合は、仕方が無いので、アホみたいなローマ字表記法により、そのままイと表記する。 また、レイダースのASOMUGHAなんていう名前も、このGHは経験的に読まなそうな感じはするものの、とりあえずは「アソームガー」と「アホみたいなローマ字表記」をする。だって、正解が分らないんですもの、そうするしかないでしょう。 まだまだ続くのではあるが、眠くなってきたので次回。 2011/7/14 さて、その続きである。 その3 俺は俺の好きなようにやる。 原理がどーの、原則がどーの、云ってきて、最後がこれではドッチラケなのであるが、仕方が無い、世間が何と言おうと、俺は俺の好きなようにやるのである。この項の主役、ピエール・ギャルソンとかンダマコン・スーとかが、この口である。 ピエール・ギャルソンは、上記の通り、ピエール・ガーソンないしガーコン、ンダマコンはエンダマカンあたりに落ち着きつつあるが、私は、それぞれ、ピエール・ギャルソン、ンダマコン・スーと表記する。だって大好きなんだもん、ンから始まる名前が。ギャルソンで響き、カッコいいんだもの。私のサイトなので、好きなように書かせて下さい、宜しくお願いします。 とはいうもの、JOHN・WILLIAMSという綴りをアルビン・スミスとか読むような、無茶な読み方はしないので、そこは御安心ください。って、当たり前だ。まあ前後関係から、何とはなしに分るような範囲内での逸脱ですので、そこは類推を楽しみながら御理解頂くよう、宜しくお願い致しまする。 とまあ、以上3点が当サイトにおける日本語表記法の、いわば3原則になる。とは言っても、三つ目が出た段階で、立憲君主制を装った絶対王政みたいなものなので、実も蓋も無いのであるが、仕方が無い、個人サイトなのでお許しください。お付き合い願います。 しかしながら、試みに挙げてみた3原則であるが、改めてよく考えてみると、結局のところ、外国語の日本語表記法はこの3原則、つーか、この3方法しかないと思う。この3つのうち、どれを重視するかは、個人によってそれぞれ濃淡があるだろうが、結局はこの3つしか方法は無いと思う。 更に、よく考えてみると、2つ目のローマ字表記法は、あくまで暫定的緊急避難的措置だから、結局のところは、その1とその3しかなくなる。しかも、その1とその3も、よくよく考えてみると、それが集団的なのか個人的なのかの違いだけで、内容的実質的には全く同じである。 新しい外国語の日本語表記を日本人が迫られた場合、まず個人個人が好きなように日本語表記をし、それらの中から、良さそうなもの、座りの良さそうなものが自然に残る、自然淘汰的に残るということなのだろう。その残ったものが一般的表記法になり、更に時間の経過に耐えれば伝統的表記法ということになるのであろう。 また、それらは1度決まったからといって、完全に固定するかというと、そうでもない。例えば、長母音を示す「ー」であるが、これは一昔前まではあまり使われていなかった。例えばコクトゥとかゲエテ見たいな書き方のほうが一般的だった。だが最近はコクトー、ゲーテのように、長母音記号を使う方が専らである。先にも書いたように、言葉は庶民が決める、のである。 ちなみに、私は当サイトでペーサーズとかペイサーズみたいな書き方を併用しているが、これは特に意味は無い。なんとなく、その時のノリである。深読みしないよーに。 さて、以上が当サイトに於ける「外国語の日本語表記法の原則」なのであるが、それら以外の方法、当サイトでは採用しない方法について、それらを採用しない理由、批判、つーか悪口を書いてみたいと思う。 まず一つ目は「現地発音重視法」である。これは、一見すると最も合理的な方法のように思えるが、実際は最も非合理的な方法なので、これは採用しない。以下、その理由を三つばかし挙げてみる。 その1 そもそも現地の発音が一定していない。 単純に英語の発音といっても、男と女、子供と大人、大人と老人、南部と北部、西部と東部、金持ちと貧乏人、ブルーカラーとホワイトカラー、黒人と白人と黄色人とヒスパニック等々では、それらの発音発声が微妙に異なる。また個人レベルで云えば、それらはまさしく千差万別であろう。 当サイトの主題であるNFLやNBAに限っても、例えば、解説者席いるマッデンと、サイドラインレポートをしている女子アナでは、発音がだいぶ違う。これを、マッデンの方がNFL歴が深く広いからと言って、マッデンの発音を採用していたら、当サイトの英語表記はモグモグモグモグ・ンゴンゴンゴンゴだらけになってしまう。 また、これもアメリカ人によるアメリカ語の発音だけの限れるのなら、まだ問題は小さいが、アメリカ人による外国語の発音、当項の主題であるピエール・ギャルソンがまさしくそれに当たるのであるが、事態は更にややこしくなる。最初の方に書いたギヨオテ、ゴウグ、アネルセンも皆同様の問題である。外国人による外国語の発音を外国人が聞いたらどうなるかという問題である。ややこしい。松井秀喜のことをイッデーキ・アッツーィと日本人は書くべきなのかという問題である。 そもそもアメリカ人の英語とイギリス人の英語では微妙に異なっていたりするのである。 その2 我々の耳が標準化していない。 仮に第一の問題、すなわち発声の問題が、アメリカの文部省みたいなところが、全ての英語に対して標準基準発声法みたいなものを設定し、解決したとする(もう、既にあるのかも、)。 しかしながら、今度はそれを聞く我々日本人の耳が一定していない、標準化していない。 「そんなバカな話はあるか。例えばアップルは誰が聞いたってアップルだろう。」と云う反論があるだろう。しかし、それは違う。それは、人によって、というか、この場合は、それぞれの耳によって、アポーと聞こえたり、アプルと聞こえたり、細かく云えば、それこそ千差万別の音で聞いている。ではそれを何故皆一様にアップルと認識しているのかといえば、それはシチュエーションで判断しているからである。 これは日本人が英語を聞く場合のみならず、アメリカ人が英語を聞く場合でも同様であろう。果物の話やコンピューターの話、あるいはキリスト教の話をしている際に、アポーやアプルという音を聞けば、それはアップルの事なのだと人間の頭は認識するからである。これが自動車の話をしている際に、アポーやアプルという音を聞いたら、大概の人は「何だい、それは。そんな部品でもあるのかい。」というような質問をするだろう。 日本でも事は同様である。朝、人と擦れ違って「あ~よ~」と云う音を聞けば、多くの人の頭脳は「おはよう」と変換する事であろう。人は、音とシチュエーションで言葉を認識するのである。音のみ、すなわち耳のみで言葉を認識するという事は、まず不可能である。一般に考えられている程、人間の聴覚は優れていない。 この音とシチュエーションで人間は言葉を認識するという原理を利用した遊びが、誰でも子供の頃に一度はやったであろう、伝言ゲームである。10個くらいの単語で構成された文章でも、それを間に7,8人挟んで伝言すると、最初と最後でまるで違ってしまう。その違いを楽しむのが伝言ゲームなのであるが、これは一般に人間の記憶力のあやふやさを楽しむゲームのように思われているが、じゃあ何故に人間はたかだか10個ほどの単語で構成され文章を覚えられないのかというと、あの文章にはシチュエーションがないからである。シチュエーションから完全に独立した10個くらいの単語、30個前後の音の羅列に過ぎないからである。しかも人間の聴覚は、それらを完全に聞き取る事は出来ないから、聞き取れた音を組み合わせて、なんとなくそれっぽい文章を人は捏造してしまうのである。で、それが7,8回繰り返されれば、最初と最後で全然違う文章になってしまう。コピーを7回繰り返したら、よほど優秀なコピー機で無い限り、原稿を再現するのは不可能であるのと同じ事である。 ちなみに、この伝言ゲームであるが、これは感覚器官と記憶力がまだ衰えていない子供がやるから遊びになるのであって、これを感覚器官と記憶力がすっかり衰えてしまった大人がやったら、とても「遊び」にはならない。笑えない。60過ぎのおっさん、それは会社重役とかを務めている社会的地位の高いおっさん、つーかおじいさんに伝言ゲームをやらしたら、見るも無残な、全然笑えない結果になるだろう。株主総会なんかで、それを披露したら、多分全員クビになる。 ことほど左様に人間の聴覚というのは、一般に考えられているより、はるかにいい加減に出来ている。更に云えば、聴覚のみならず視覚や嗅覚といった、全ての感覚器官も、一般に考えられているより、はるかに粗雑なものであろう。その粗雑な感覚器官が収集してきた音や画を補整して、まあまあ人間の認識に役立てるようにするのが頭脳の役割という事になるのだろう。感覚器官の補助装置として発達してきたのが頭脳というものなのだろう。動物や昆虫が人間よりはるかに粗い認識しか出来ないのは、それだけ頭脳が未発達という証左であろう。 で、その補助機能にはいろいろあるだろうが、そのひとつがシチュエーション、状況による予想という事になるのだと思う。果物の話をしている時、「り~」という音を聞き取れば、それは「りんご」と認識し、「す~」という音を聞き取れば、それは「すいか」と認識し、「み~」という音を聞けば、それは「みかん」と認識する。 ところが、これが外国語になると、この方法がなかなか通用しない。シチュエーションごとの予想がなかなか困難になるからである。しかも、こればかりは、現地で、実地でしか学習出来ない。外国語教室や学校では学習不可能である。なぜなら、それらはあくまで個別だからだ。そうして、学校では、あくまで一般的なことしか教えられない。外国語学習は、あくまで技術であって、学問では無いといわれるのも、これがそのひとつの理由である。学問は常に一般的でなければならないからだ。普遍性というのが、そのひとつの特徴だからである。 例えば、一口に挨拶といっても、実際それらは千差万別である。無限とまでは云わないが、相当数の挨拶があるし、そこに一般的な法則は無い。学校では仕方が無いので、それを「ハロー・アイム・ファイン・サンキュー」と一口で教えるが、それを念頭に於いて、アメリカに云って、そこらのアンチャンにいきなり「ワッツ・アップ」と言われて動転してしまうのが、よくある話、外国語あるあるである。 上司への言葉使いひとつ取ったって、そこには無数のパターンがあるだろう。くだけた上司、頭の堅い上司、男の上司、女の上司、うだつの上がらない上司、出世街道まっしぐらの上司、好きな上司、嫌いな上司、それらにたいしては、それぞれ微妙に言葉の使い方が異なるだろう。そうしてそれらを学校で教えるのは事実上不可能である。外国語教育にはいろいろな難しさがあるが、そのうちのひとつ、というかその際たるものが、これだと思う。すなわち、言葉はシチュエーションである。 その3 日本語の文字では表現できない。 仮に、その1の問題が解決され、その2の問題も、日本の文部省みたいなところが、全ての英語に対し標準聞き取り音みたいなものを設定したとする。 すなわち上記二つの問題を完全に解決したとしても、今度はその音を完全に表記する文字が日本には無い。当たり前の話であるが、ひらがなカタカナでは、英語の全ての音を表記できない。つーか、ほとんどの音を表記できない。今使われているのも、あくまで近い音に過ぎないからである。LやR、T、D、S、M、Nあたりの音はカタカナひらがなには無い。有名なLRが日本人の耳に聞き取れないというのは、上にも述べたように、人間の耳の粗悪も原因のひとつだろうが、更には、それらを表現する文字が無いというのも、その理由のひとつだと思う。文字が無いという事は、すなわち、その音が日本語には無いという事である。ラは、あくまでRAであって、Rでは無い。スは、あくまでSUであって、Sでは無い。 以上3つが「現地発音重視法」の不可能の理由である。理由は3つあり、その3つがそれぞれクリアするにはハードルが高い。「現地発音重視法」を押し通そうとすれば、破綻は必定と思われる。もちろん、私とて現地の発音は参考にはする。しかしそれはあくまで「参考」であって、「重視」はしない。むしろ「軽視」する。 さて「外国語の日本語表記法の原則」のうち、私の採用しない方法がこの「現地発音重視法」のほかに、もうひとつ「アルファベットでそのまま表記法」というのがあるのであるが、これについての批判つーか悪口は、長くなってきたので次回にします。 この項、もうちっと続きます。あと少々お付き合い願います。 あともう少しでアナログ放送が終わる。ちと楽しみ。2011/7/21 んで、第3回目である。一応今回で最終回である。お付き合い、ご苦労様。 で、今回は「アルファベットそのまま表記法」への批判つーか悪口である。 この「アルファベットそのまま表記法」というのは、一見したところ、というか何度見ても、完全無欠な解決法であるかもしれない。何しろ、アルファベットをそのまま書くのだから、聞き方も書き方も何も無い、「読者の皆さん、好きなように自由に読んでくだされ。」というのであるから、なるほどこれは確かに完全無欠な外国語表記法である。誤解や誤読が生まれようが無い。 しかし、私の思うに、この「アルファベットそのまま表記法」には重大な欠陥がある。それは、書きづらく読みづらい、という点である。 まずは「書きづらさ」から。まあ、この「書きづらさ」に関しては、パソコンによる書記が一般的になっている昨今では、あまり大きな問題ではないかもしれない。とはいうものの、個人的には、この半角と全角をちょこちょこ使い分けていくのは、正直しんどい(剛風に、)。 また、横書きが随分増えてきたとは云うものの、まだまだ日本語は縦書きが一般的である。すると、この「アルファベットそのまま表記法」場合、紙をちょこちょこ横にしたり縦にしたり、あるいはアルファベットをそのまま縦書きしたり、やはりこれは、正直しんどい(剛風に、)。 まあこの、「書きづらさ」の問題は、どちらかと云えば、個人の技量の問題なのかもしれない。「面倒臭がらず、しっかり書け。」と云われてしまえば、それまでの問題なのかもしれない。しかし、もう一方の「読みづらさ」の問題に関しては、これは私個人の印象だけの問題ではないと思う。 「アルファベットそのまま表記法」に限らず、アルファベットの混じっている文章に於いて、そのアルファベット率が、まあ全体の一割以下では、そんなに「読みづらさ」も感じないが、これが一割を超える、三割近くになると、私は個人的には途端に読みづらくなる。全体の5割近くになってしまったら、それは日本語の文章だか何だか分からない、謂わばヌエのような文章になってしまうと思う。 国際化社会になる遥か昔から、日本語のみならず、ほとんど全ての言語が、その情熱に濃淡の差はあれども、外国語を自国語に取り入れてきた。しかしながら、その文字をも取り入れた事例というのを、少なくとも私は聴いたことは無い。漢字は漢字だけ、アルファベットはアルファベットだけ、ハングルはハングルだけ、デーヴァ・ナーガリーはデーヴァ・ナーガリーだけで表記されている。漢字とアルファベットとハングルとデーヴァ・ナーガリーが渾然一体となっている文章というものを、少なくとも私は見たことが無い。ウムラウトや、今回話題になっているシディーユといった発音記号的なものなどを取り入れている事例はあるが、それは特殊な例外というべきであろう。 それはやはり、私がここで述べたような「読みづらさ」や「書きづらさ」が、どのような文字においても、あるからだと思う。文字には、体系がないようで、あるのである。 例えば、隣の韓国なども、一昔前までは、漢字とハングルを併用していたが、今では、ほとんどハングルのみである。これは、いろいろな理由があるのだろうが、ひとつにはやはり、ハングルと漢字を併用することに「書きづらさ」や「読みづらさ」を感じていたのだと思う。 「じゃあ、我々日本語はどうなるのだ、漢字とひらがなカタカナを併用しているではないか。」という反論があるかもしれない。しかしながら、平仮名片仮名というのは、その名が示すとおり、あくまで漢字の簡易体であって、謂わば漢字の亜種にすぎない。同じ体系の中にいるのである。さしづめ、日本の簡字体なのである。 以上が、私の「現地発音重視法」と「アルファベットそのまま表記法」を使わない理由である。 ちなみに、ここで、ちょっと面白いのは、今私が否定した二つの方法「現地発音重視法」と「アルファベットそのまま表記法」を、ふたつともに森鷗外が採用しているという点である。 明治時代というのは、現代よりも遥かに科学主義的合理主義的時代であるから、その時代の気分の中に育った、というよりは、その時代の申し子たる鷗外が、この一見科学的合理的なふたつの方法を採用したというのは自然な流れだったろう。 しかし、その後、寺田寅彦や高木貞治といった一部の科学者系統の文章を除いては、大正以降、この二つの方法を採用する、いわば鷗外の後継者が皆無だったというのも、私が上記したような理由から、同じく自然な流れだったと思う。 まして、当時は縦書きの時代・パソコンの無い時代なのだから、「読みづらさ」以上に「書きづらさ」はハンパ無かったと思う。特に、校正さんや写植屋さんからは非難囂々だったと思う。まあ、中には職人的に楽しむ剛の者もいたかもしれないが。 私は読んだ事が無いので良く分からないが、一般に鷗外の詩はつまらないと云われる。それにはいろいろな理由があるだろうが、以上のような事例からも分るように、鷗外には、どこか言葉に対する微細な感覚が欠けている所があったのかもしれない。あるいは、意識的に捨てたのかもしれない。 以上長々と御清聴有り難うございました。って、読んでいる人はほとんどいないか。 あっ、そうそう恒例のフルネームを忘れてた。フルネームはPierre Andre Garçon。ピエール・アンドレ・ギャルソンって、ますますフランス人っぽいな。 サタディ、ご苦労様。2011/7/27 先日、SF@INDのゲームを見ていたら、ギャルソンの姿を発見、懐かしくなってしまったので、記事を書きたいと思う。 2008から2011までの4シーズン、コルツに在籍したギャルソンであるが、その2011シーズン後、ワシントンから巨額のFAマネー(5年40億円くらい)を提示され、マニング騒動で盛り上がる陰に隠れて、当然の如く、コルツを去っていった。 その件に関して、私にわだかまりはない。6巡205位でドラフトされて、FA獲得後、ワシントン、そうワシントンから巨額のマネーを提示されれば、誰でも飛び付くであろう。私でも飛び付く。 むしろ、「そんな大金提示して大丈夫なのかな。」とワシントン側の方を心配したくらいである。しかも、QBは新人のグリフィン頼みの状況だったし。まあ、ワシントンだから、いつもの事だけど。 ただ、ギャルソンサイド的には、マニングからグリフィンなので、スタッツ急降下かなと心配していた。 ところが、そんな心配は杞憂に終わった。5年40億円に見合う活躍で、2013シーズンには、ワシントンのレジェンドのアート・モンクのシングルシーズン・レシーブ数のチーム・レコードを破ったりもしている。 そして、5年契約を満了した2016シーズンオフにナイナーズと契約する訳であるが、11月でIR入り。それでも、8ゲーム、40レシーブ、500ヤードである。TDはゼロだけど。 ちなみにキャリア通算だと、ここまで10シーズンで、604レシーブ、7568ヤード、37TDsである。タッチダウンの数が少ないのは、ちと気になるが、十分すぎる数字である。ここ10年では、NFLでトップ5は大袈裟かもしれないけれど、トップ10には入るWRなのではないだろうか。 6巡205位という指名順位を考慮すると、WRとしてはコルストンに次ぐスチールだったのではないだろうか。まあ、最近はアントニオ・ブラウン(6巡195位)ちゅう超大物もいるけど。 ちなみに、ギャルソンが指名された2008年ドラフトのWR陣というと、ドラフト時最も騒がれたのは、たしか、マリオ・マニンガムであったと思うけど、こちらは3巡95位まで落っこちている。 そうして、WR筆頭で指名されたのは、一時コルツにもいたドニー・エイブリーが2巡33位。そして、おそらく、この時のドラフトでWR最大の大物は2巡49位のデショーン・ジャクソンであろう。一時、ワシントンでギャルソンの同僚でもあった。 その他の大物というと、2巡36位で指名されたジョデイ・ネルソンぐらいである。 という訳で、ワイドレシーバー的には外れの年だった2008年であるが、その中で6巡205位のギャルソンはスマッシュヒットだったのではないだろうか。まあ、7巡224位にスティービー・ジョンソンがいたりもするが。とにかく数字的には、この年ドラフトされたWRの中ではデショーン・ジャクソンに次ぐプレイヤーであったと思う。 ちなみに、2008年の全体1位はというと、ジェイク・ロングでマイアミに指名されている。2位はクリス・ロングでセント・ルイス、3位がマット・ライアンでアトランタ、そういう年である。 で、結局、何が云いたいかといと、このギャルソンを6巡205位で指名してしまうポリアンの目の確かさである。まあ、今から考えると、スティービー・ジャクソンも面白そうであるが、それでも、ギャルソンで文句は無い。しかも、マウント・ユニオンである。恐るべき慧眼といってよいのではないだろうか。 私は、かつての記事で、「ギャルソンの選手としての評価はというと、ハンド、ルートランニング、スピード、クイックネス等々、WRに必要な能力は、どれも皆高いレベルで保持しているが、かといってエースレシーバーを任されるほどの力があるかというと、そこまではいかない、といったところだろう。」と書いているが、この見解は今以って変わりはない。 ただ、そこにひとつ付け加えるとするならば、何と云っても、ルートランニングである。これは、明らかに優れている。それも、「上手い」と云うよりは「しっかりしている」といった感じである。ルートランにングがしっかりしているのが、このギャルソンの唯一の武器といったら大袈裟かもしれないが、10年間スターターを張り続けた(1年目は違うので、チョイ盛りです。)秘訣であろう。 最近はめっきり減ってしまったが、一昔前は、レシーバーの評価に「savvy route running」みたいな表現があって、私はいまいちこの意味が分からなかったのであるが、おそらく、このギャルソンみたいなルートランニングの事を「savvy route running」と表現するのであろう。そうして、おそらく、というか、はっきりポリアンの目を付けたのがギャルソンのこの美質だったのであろう。いかにも、ポリアン好みであり、同じく、私好みでもある。 話は変わって、私は先に、このギャルソンはコルストンに次ぐスチールと書いたけれども、かつての記事を読むと、ギャルソンやコルストンと同じい下位指名レシーバーあるいはドラフト外レシーバーとしてマイク・ウィリアムズやマイルズ・オースティンを挙げているが、その他にも、よく考えてみると、先に挙げたスティービー・ジャクソンやアントニオ・ブラウン、またダグ・ボールドウィン、そうして忘れちゃいけない超大物ウェス・ウェルカーなど、結構多士済々である。その他にも、探せば色々いるかもしれない。 まあ、4WR、5WR当たり前の昨今では、他のポジションよりは下位や外にチャンスの多いポジションなのだろう。 こんなとこかな。 マニング時代のコルトが随分とNFLから去った現在では数少ない現役プレイヤーなので、末永くプレイして欲しいと思う。また、そう思っているコルツファンも多い筈。ハズ。 2017/11/28(火) |