2025年 4月 |
ドラフト 言い訳 |
自称広末涼子が釈放されましたね。いろいろと問題を起こす人だけど、悪い人には見えない。この人の場合、芸能人になったのが諸悪の根源だったように思う。違う生き方の方が良かったんじゃないかなあ。田舎のヤンキーを全うした方が幸せな人生だったように思う。歌手としても役者としても、何の実績も残せなかったしね。 ジョージ・フォアマンが死んだ。遅ればせながら、書店に並べられているボクシング雑誌で知った。 フォアマンといえば、例のキンシャサが有名で、ボクシングに詳しくない人にとっては、いっつもダウンしている弱っちいボクサーのように思えてしまうかもしれないが、ボクシングファン的には「歴代最強論争」には必ずエントリーされる歴史的なチャンピオンである。「アリより強い」という識者も多い。というか、そちらが多数派かもしれない。 でも、世間一般のイメージは「キンシャサ一本鎗」なんだよねえ。アリが偉いのか、テレビって怖いのか。 ご冥福をお祈りいたします。アリやフレージャー、ノートンらと歓談してんのかな。いや、あっちでもボクシングしてたりしてな。戦いは止まず。 さて、ドラフトである。気が付いたら直前に迫ってた。例年だとゴールデンウイークあたりであるが、今年は現地の4月24日から26日までの開催だそうである。危うく、見過ごすとこだった。 例年だと、この時期の私は、ドラフト雑誌をパラパラしたりして、事前調査の余念がない、とまではいかなくとも、それなりの妄想を膨らませて楽しんでいるのであるが、今年はそれが無い。というのも、この時期の我が枕頭の書、ドラフトガイド誌が一冊も無いからだ〜〜〜。 ドラフトガイド誌は、毎年、紀伊國屋書店の通販サイトで購入しているのであるが、今年も3月初頭あたりにリンディ誌が発売されていた。ところが、送料は680円。3500円以上だと送料無料になるのであるが、リンディ誌は3000円ちょいくらい。正確な代金は忘れた。 そこでケチ&貧乏な私めは無い知恵を絞った。そうだ、アスロン誌と一緒に買おう。さすれば、それぞれ別個に購入した際の送料680円×2誌の1360円が浮く。いや、アスロン誌は3500円以上かもしれんけどさ。 ところが、いつまで経っても、アスロン誌が発売されね〜〜。 そうこうするうちにリンディ誌が売り切れちゃった。で、アスロン誌も未だ発売されね〜〜。 という訳で、今ドラフトは諸手で、素手で、マッパで、予備知識無しで、予習無しで、試験勉強せずに臨みたいと思いま〜〜す。 という訳で、今ドラフトにエントリーしているプロスペクトどもは全然知りませ〜〜ん。 NFLドラフトを楽しみだして20年近く経つが、いや20年以上かな、こんなの初めてである。いんじゃないかな、こういうのも新鮮で。と、無理矢理ポジティブシンキング。 いやもう、来年は大丈夫なんだろな。もしかしたら、このままリンディ誌も発売されなくなってしまうんじゃないだろな。安心と信頼のプロフットボール・ウィークリーもとうの昔に発売されなくなってるし。アメリカでも、おんなじ調子なの?。紙媒体絶滅?。ゴロゴロしながら雑誌をペラペラするのって、楽しくないかなあ。みんな、スマホなの?。ゴロゴロペラペラしないの?。 アメリカで発売されているというのなら、アマゾン等々で購うという手段もなくはないが、エアメールだと送料ハンパねーだろ。かといって、船便なら到着する頃にはドラフト終わっちゃてるだろーし。う〜む、詰んでるのか。 20年前が懐かしい、何もかもが懐かしい。あの頃は、この時期になると、八重洲ブックセンターとか三省堂とかの洋書コーナーにこの手のドラフト関連雑誌が平積みされてたよ。いや、山積みされてたよ。10誌って事はないが、5誌くらいは出ていたと思う。んで、中身を確認して、選んで購入してた。ネット通販みたいに、勢い購入ではなかった。 その数の多さに「洋販」の経営事情を心配してたくらいである。「いや、こんなに輸入しちゃって、買う人いんの。日本でNFLに関心のある人、そんなにいるとは思えないんだけど。」。 まあ、NFLに限らず、当時は、洋書や洋雑誌が山のように輸入されてた。その放漫経営が祟ってか、それから数年後に「洋販」は倒産してしまう訳だけど。 もっとも、当時の「洋販」は、そういった損得勘定抜きで洋書の輸入事業をしていたらしい。文化事業として、海外文化の移入に勉めていたらしい。でなければ、あのドラフト雑誌の数量は説明がつかん。NFLに限らず、私もいろいろお世話になりました。ありがとう、「洋販」。あなた方の仕事は、戦後文化史に欠かせないものです。 今はどんな調子なんだろ。当時とは生活事情が変わっちゃって、三省堂や八重洲ブックセンターの洋書コーナーとはとんとご無沙汰であるが、いまでもスポイラとか買えんの。レクラム文庫とか。そういえば、岩波ブックセンターも随分前に閉店しちゃったね。洋書とは関係ないが、書泉ブックマートとかコミック高岡とかもな。紙とペンは遠くなりにけり。 そういえば、当時は、ドラフトガイド誌に限らず、いろんなNFL関連の書籍をちょろちょろ買ってたな。面白そうなところを翻訳して、当サイトの記事にしようとも企画してたんだけど、どんどん先送りされちゃった。気が向いたら、書こうと思います。書き途中の記事を色々と抱えてはいるが。 つう訳で、今ドラフトには私はマッパで臨む所存な訳であるが、仮にドラフトガイド誌を購入してたら、このような文章を私は用意してた。 ”過日、購った各ドラフトガイド誌を、例によって例の如くパラパラしていたのであるが、ひとつ重大な事に私は気が付いた。無いのである、とある項目が。QBとかWR、エッジラッシャーとかCBとか、あまつさえキッカー・パンターといったスペシャルチーマーの項目さえあるのに、「GM」の項目が無いのである。ジェネラルモータースじゃねえ。ゼネラルマネージャーの項目が無いのだ〜〜〜。これは重大事だ。私が今ドラフトで指名したいポジションはただひとつ。GMだけじゃ〜〜〜い。1巡から7巡まで全部「GM」を指名したんじゃ〜〜〜い。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるだろうが〜〜〜〜。” てな感じの文章を用意してた。 私が今年のドラフトガイド誌を購入し損なったのはケチ&貧乏だけだからではない。そもそもあんまり興味なかった。今のコルツは、GMを変えない限り、どんなドラフトも無意味無価値、指名権が100個あっても無駄にするだけであろう。また、昨年の「ハリソン様」のような超超超超目玉がいれば、送料680円も私は度外視して、速攻でリンディ誌を購入、ポストの前で配達員を待機していただろう。 でも、そんな情熱が今年は全く無いので、ドラフトガイド誌を買い逃しちゃった。 また、例年だと、1日目終了あたりで、速報的な記事をアップしていたのであるが、今季は所用もあって、出来そうもありません。もしかしたら、やるかもしれんけど。 つう訳で、過去最低のテンションで臨む2025ドラフト。でも、やっぱり楽しみ。結局、楽しみなんかい〜〜〜〜〜。 「プレー・イン」ってなあに。2025/4/19(土) |
ドラフト 1巡2巡 |
前回の記事で、「所用云々」みたいなことを書いたが、なんと、その後、叔父の訃報。享年84歳。合掌。 という訳で、所用は変更を余儀なくされ、ドラフト初日はなんと葬儀中。坊さんが木鐸叩いてた。 元々の予定としては、所用とはいえ、スマートフォンでドラフトをリアルタイムで追うくらいの余裕はあったのだが、全てご破算。さすがに、葬儀中にスマホチラチラは出来んだろ。人格を疑われてしまう。 んで、所用の件も含めて、ドラフト期間中は実家にいた。んで、恒例のテレビタイム。「スターウォーズ」を見た。 第1部と第2部(所謂「エピソード4」と「エピソード5」ね。ややこしい。)はほぼ丸々。第3部は最後の方を20分くらい。イウォークが活躍してるところあたり。 ちなみに、第3部は大昔、それこそ亡き父や弟(こっちは生きとるよ)と一緒に「映画館で観た」。パンフレットは失くしちゃったかな。ちなみに、ガンダムの第3部(「めぐりあい宇宙」ね。)も、亡父や弟と一緒に映画館で観た。当時の私たちは完全なミーちゃんハーちゃんだったのだ。「ブッシュマン」も観たなあ。 んで、「スターウォーズ」の第1部と第2部であるが、冷静に考えると、この年になるまで、部分的にはともかく、がっつりとは観たことが無かった。この世界一有名な映画を観たことが無いというのは、さすがにこっ恥ずかしいので、鑑賞見物した訳である。まあ、そんなたいそうなものではなく、テレビをつけたら、たまたま冒頭のC−3POとR2−D2の漫才シーンだったので、いい機会だと思って、そのまま見ちゃったのだ。そういえば、高校時代、長身痩躯とずんぐりむっくりの女子高生コンビがいっつも一緒にいて、みんな「スターウォーズ」って呼んでた。「おっ、スターウォーズが来た。」みたいな。 で、「スターウォーズ」をがっつり鑑賞見物した訳であるが、その感想を一言で云うと「チープやなあ」である。ありとあらゆる場面、ありとあらゆるシーケンスが、ことごとく「チープ」。第2部になると、制作費が大幅にアップしたのか、一見豪華に見えるけれども、本質的根本的には、やっぱり「チープ」なのである。 まず、配役が明らかにミスキャストである。 主役のマーク・ハミルは、どう考えたって主役面じゃないし、というか貴種流離譚の「貴種」にはとても見えない。せいぜい「いい味出してる脇役」ぐらいが関の山の役者、顔立ちである。「ガンダム」で云えば、ジョブ・ジョン的役どころクラスの役者であろう。 じゃあ、誰が適役かといえば、私はアメリカ俳優界について詳しくないので、適任を挙げる事は出来ないけれども、ベタな連想だと、それこそジェームス・ディーンであろう。勿論、当時既に死んでいたのでこの配役は不可能、つかギャラ的にも不可能だろうけど、ああいう感じ、ムード、すなわち「気品ある顔立ちで明るく爽やかだけど、時折暗い表情を見せ、内に強いものを秘めているような」役者が適役である。 んで、レイア姫。これ、明らかに「場末のカフェの給仕」(イメージが古くて、ゴメン)でしょう。どう見たって、「お姫様」、それも「戦うお姫様」には見えない。ガンダムで云えば、「セイラ」のキャラシートが「ミハル」になっているようなもんである。 この稿、たびたび、「ガンダム」を「スターウォーズ」の比較対象にしますけど、他意はありません。同じような、パッと見同じような大人気スペースオペラとして、比較対象に使っているだけです。「ガンダム」と「スターウォーズ」は全くの別物、全く別のカテゴリーの作品です。 さて、そのキャリー・フィッシャー扮する「レイア姫」が「ハン・ソロ」と全般通してラブストーリーを繰り広げる訳だけど、これが酷い。そこらのオフィスラブ、そのままやっとる。スターウォーズファンの人達はあれをどう思ってんのかね。歓迎してるのかね。私は邪魔だと思う。 それこそ、「ガンダム」の「スレッガーとミライの恋愛模様」、それこそ「ブライトとカムランも含めた、スレッガーとミライの恋愛模様」と比べたら、雲泥の差である。 そもそも、「姫」は恋愛しねーっつの。「レイア姫」というのは「ガンダム」で云えば「セイラ」にあたるキャラクターだろうけど、ああいう「訳アリのお姫様」、それも「反乱軍の指導者をやってるようなお姫様」が恋愛するかっつうの。 「ガンダム」でセイラが一貫して恋愛とは没交渉、というか人間関係的にも常に「壁を作っている」っていうのは、当然の演出だよ。兄貴がシャア・アズナブルじゃあ、そりゃ恋愛できねーだろ。重すぎるだろ。重すぎる血縁者だろ。自分たちを殺しに来るのが、自分の兄なんだぞ。しかも、ジオン公国創設者の息子。嫡男。 そういうセイラが恋愛をしないのは、当然正しい。「ガンダム」の第2話に有名な「軟弱者」のシーンがあるけれども、あそこでカイが「お高くとまりやがって」と反論するのは正しい指摘、批評なのである。このシーンひとつで、「セイラがお姫様である事」「カイが優れた批評家である事」を同時に表現しているのである。ほんと、この時期の富野演出は冴えに冴えている。 で、その「レイア姫」のお相手である「ハン・ソロ」であるが、これも言わずと知れた、泣く子も黙るハリソン・フォード様である。でもこれ、大胆な発言かもしれないけど、完全なミスキャストでしょ。 この映画に登場する「ハン・ソロ」というのは「道徳や友情に興味のない『プロ』のパイロット」なんだろうけど、全然そんな風に見えない。そういう風に見えるためには、「道徳や友情に興味がない理由が何かあるんだな」と思わせるような演出なり芝居なりが必須になる訳だけど、根本的に大根であるハリソン・フォードにそんな芝居は出来ない。また、そういう顔付きでもない。 比較は適当ではないかもしれないけれど、こういう役には高倉健のような芝居、役者が必須となる。先に挙げた「道徳や友情に興味がない理由」を作品中にセリフや回想シーン等々で説明しなくとも、その芝居、雰囲気で「道徳や友情に興味がない理由が何かあるんだな」と思わせる技術なり素養なりが必須なのである。一連の任侠ものや「幸せの黄色いハンカチ」、「新幹線大爆破」で、健さんはそういう芝居、ムードをむせるほど醸し出していたでしょう。まあ、それの必要でない映画でも、それを示してしまうという欠点もなくはないが、それはまた別の話。 そういう芝居、ムードがハリソン・フォードには全く無いのである。「世間をなんも知らない高校生」みたいな芝居をしとる。故に、第1部の最後で「ルークをやっぱり助けに来るシーン」に感動が無いのである。意外ですらある。本来は「待ってました」みたいなシーンになる筈だけど、私は「えっ、やっぱ来んだ。」と思っちゃった。 この3者に限らず、配役はほとんどがミスキャストだったと思う。オビ=ワンも全然「隠匿の賢者」には見えないしね。「大都市の市役所の課長」みたいな感じだったもんな。 このへんのミスキャストがこの映画を「チープ」にしている一因であろうが、原因はまだまだ沢山ある。 例えば、ライトサーベルである。これはSF映画、スペースオペラ史上最高のギミックといっても良いほどの発明だろうけど、いかんせん殺陣がしょぼいんだよね。「ガンダムvsグフ」とか「ガンダムvs黒い三連星」とか「アムロvsシャア」とかとは比較の対象にもならん。 チャンバラの伝統のない国なので、そのへんの難しさはあるんだろうけど、それこそ勝新でも連れてきて監修指導して貰ったら良かったと思う。第1部の段階だとギャラ的に厳しいかもしれないけど、第2部以降なら呼べるでしょう。いや、第1部の段階でだって、呼べば来るよ、勝新太郎さんは。「こんな面白い映画、タダでもいいから、自腹でいいから、参加させてくれ。」って言ってくるだろう。勝新の演出するライトセーバー、見てみたかったなあ。思わぬ使い方、演出をするんだろうなあ。 まあ、「フォースがあるんだから、そもそもライトセーバーが必要か」つう疑問はあるけどな。 チャンバラは仕方ないにしても、西洋人、つかアメリカ人かな、銃撃戦もしょぼい、しょっぱい。カビの生えたシーケンス、やっとる。 そのほか、この映画を「チープ」にしている要因はあちこちにある。 例えば、そこに描かれている「未来都市」や「宇宙都市」。いや古過ぎんだろ。それこそ手塚治虫が描いたような「未来都市」や「宇宙都市」がじゃんじゃん出て来る。「ガンダム」が見せた「スペースコロニー」とは雲泥の差である。 あと、音楽な。私は音楽に関しては、完全な門外漢なのでこれ以上の言及は避けるが、そんな素人の私が聴いたって、「スターウォーズ」の音楽は「チープ」である。 あと、これは「チープ」とは関係ないかもしれないけど、「照準器」な。宇宙戦争で「照準器」って。さすがに、これは恥ずかしかったのか、第2部ではなくなってた。 いや、「照準器」は必要だろーーーがーーーー。必須だろーーーーーがーーーーーーー。 「Zガンダム」が「ガンダム」に比して詰まらくなった理由は山ほど、それこそ富士山どころかエベレストほどある訳だが、そのひとつ、いや筆頭は「照準器をなくした事」である。 まあ、「ビーム兵器にモニター越しで照準器」っていうのは、そりゃどう考えたって、オカシイだろう。裸視であるガンタンクにしたって、「あんな異常な長射程のキャノン砲に照準器」っていうのはオカシイであろう。そんなもん、コンピューターで計算すれば、自動で合わせてくれる。まして、ガンダムやGファイターはビーム兵器である。照準もクソもない。 でも、照準器は必要なんじゃ〜〜〜〜〜い。必須なんじゃ〜〜〜〜い。男のロマンなんじゃ〜〜〜〜い。松本零士先生の有名なマンガ、知らんのかい〜〜〜〜。 それらを抜きにしたって、「照準器を外して、『当たったか』って言う」のは最高にカッコイイシーンだろーーがーーーーー。子供のころ、トイレでどれだけマネした事か。 「Zガンダム」で照準器がオミットされているのを知った時、私はほんとガッカリしたよ。「Zガンダム」を見切ったよ。あと、「キャノン」も失くしたよね、「Zガンダム」。「照準器」と「キャノン」と「ドリル」は漢の三種の神器だろうが〜〜〜〜。漢の全てだろうが〜〜〜〜〜。 どうも、取り乱しました。大変申し訳御座いません。 その「照準器」に関連してって訳でもないけど、Xウイング等々のコクピットでの操縦シーンな。ハンドルユラユラやっとる。テレビの「探偵物語」のクルマの運転シーンで工藤ちゃんが同じくハンドルユラユラやってたけど、あれは完全なギャグだからな。「スターウォーズ」はマジでやってた。このへんも「ガンダム」とは雲泥の差である。 とまあ、「チープ」な箇所は「スターウォーズ」の至る所に見られる訳であるが、その分かり易い比較対象は「ガンダム」、ではなく、ここまでその名を伏せてきた「2001年の宇宙の旅」であろう。この「スターウォーズ」の凡そ10年前に制作されたSF映画は、「スターウォーズ」と同じく宇宙を舞台としながらも、「スターウォーズ」と違って全然「チープ」ではない。「チープ」どころか「ラグジュアリー」、「高級」ですらある。 10年といえば、所謂「SFX」に限らず、その他多くの撮影技術、映像技術、映画技術においても大きく劣っていただろう。年月の差は如何ともし難い。それでも、「2001年宇宙の旅」の方が「スターウォーズ」より「高級」なのである。いや、「2001年宇宙の旅」のみならず、「ウルトラマン」や「サンダーバード」と比べても、「スターウォーズ」は「高級」でない。「チープ」なのである。すなわち、「チープ」や「高級」は技術的な差ではないのだ。例えば、「ウルトラマン」と同時期の作品「キャプテンウルトラ」は「チープ」であり、「ウルトラセブン」は「高級」である。ジェリー・アンダーソンの作品は、いずれも「高級」であろう。 まあ、東宝や円谷プロの作品はおしなべて「高級」であり、東映の作品はおしなべて「チープ」と云えるかもしれない。これは「社風」なのかもしれない。「沢口靖子」と「池玲子」の違いといったところか。 また、こういう「社風」を嫌って、楠部大吉郎や高畑勲、宮崎駿らは東映を去ったのかもしれない。まあ、他にも色々理由はあるだろうが。 そういう人事の問題はさておき、「スターウォーズ」は「仮面ライダー」等々の所謂「東映ヒーローもの」によく似ていると思う。とりわけ第2部は、「帝国」側の描写が増えるのであるが、それらは「ショッカー」そっくりである。珍妙な姿の「幹部」が埒の明かない会談をしてるし、「戦闘員」はちょこまかしてるし、「影の大幹部」までいる。そもそも、「ダースベイダー」が、もろ「アポロガイスト」である(「『アポロガイスト』は『GOD』だ。」とか、ツッコまないよーに。)。あれ、こっそり入れ替えても誰も気付かないと思う。まあ、さすがに百目タイタンは気付くであろうが。 でも、ほんと、この手の「悪の組織」に「帝国」の描写はそっくり。Wライダーがレイア姫やハン・ソロを助けに来るんじゃないかとヒヤヒヤしたぞ。キングダークには期待してたけどな。 とまあ、こんなことを書くと、私が「スターウォーズ」を腐しているようであり、スターウォーズファンは随分気分を害されたと思うが、私は「チープ」を理由に「スターウォーズ」を腐しているのではない。褒めているのだ。 そうして、ここに論ったような「チープさ加減」というのは、ジョージ・ルーカスは全て承知しており、というか、それを狙っていたのであろう。「チープ」というのは、「スターウォーズ」制作の際の、ジョージ・ルーカスの狙いであり、演出方針であり、態度、倫理であったろう。 「スターウォーズ」という作品は、ジョージ・ルーカスが幼き日々にいくつも見たであろう、「チープ」なSF映画やSFドラマ、ヒーロー映画やヒーロードラマの再現、完璧な再現、復元を狙ったものだったと思う。そうして、それは完全に成功した。世界は歓迎した。 その後、「スターウォーズ」の続編、エピソード1,2,3、エピソード7,8,9(ホントややこしい)が制作されたが、エピソード4,5,6ほどの成功を収められなかったのは、この態度、倫理を欠いていたんじゃないかなあ。「高級」に作ろうとして、失敗したんじゃないかなあ。 例えば、キャスティングなんかも、最初の三作のように「チープ」なものではなく、「本格」的なキャスティングをしてしまったのかもしれない。「芝居の上手い」役者を使ってしまったのかもしれない。 初期三作の「スターウォーズ」の役者が、ハリソン・フォードを除いて、その後パッとしないのは、理由は色々あると思うが、その最大のものは、根本的に「ヘタッピ」だからだと思う。下手で安い芝居しかできないから、役者として大成できなかったのだと思う。そうして、その「下手で安い芝居」こそ、「スターウォーズ」に求められたものだ。 では、ハリソン・フォードの場合は。これは「仕事を選んでいる」からであろう。ハリソン・フォードは芝居に対する情熱も才能もない。手頃な仕事、あるいは「夢のある」仕事として役者をしているのであろう。そういうタイプは、「SFもの」や「冒険もの」にはピッタリなのだ。それも、「チープ」なら尚良しである。所謂「冒険活劇」である。その頂点が「スターウォーズ」であったろうし、「インディ・ジョーンズ」や「ブレードランナー」であったろう。この手の映画に「上手い芝居」は要らない。むしろ、「邪魔」ですらある。 例えば、ロバート・デ・ニーロやジャック・ニコルソンがこれらの映画に出演していたらどうだろう。どっちらけでしょう。楽しくないでしょう。マジメに考えちゃうでしょう。これらの映画に求められるのは「下手な芝居」なのだ。「書き割り感」なのだ。 同じようなパターンとしては、シュワルツェネッガーであろう。シュワちゃんも、本人の意向はともかく、結局のところ、「SFもの」「冒険もの」専門である。理由は、ハリソン・フォードと同様である。 「スターウォーズ」の続編が、どのようなキャスティングをしたのかは知らない。観てないから(オイオイ)。でも、「チープ」を忘れちゃったんじゃないかなあ。 とまあ、このように考えてくると、ちょっと唐突かもしれないが、ティム・バートンの偉さが分かってくる。 「2001年宇宙の旅」、「スターウォーズ」に続く画期的なSF映画(?)はティム・バートンの「バットマン」であるが、この「バットマン」は無論「チープ」ではない。はっきり「高級」である。 「バットマン」といえば、これ以前はテレビ版等色々映像作品はあるだろうが、大概「チープ」である。私は、そのうちのひとつ、おそらく「テレビドラマ版」を観たことがあるが、これは、その下が考えられないくらい「チープ」な作品であった。 ティム・バートンは、この「バットマン」を、「スターウォーズ」同様、「チープ」そのままに映画化することも出来たであろうが、バートンはそれをしなかった。「高級」にした。あるいは「高級」になってしまった。 何故か。それはティム・バートンがこの手の「ヒーローもの」の重大な事実、あるいは秘密に気付いてしまったからである。それは何か。すなわち「ヒーローはキチガイだ」って事である。 「珍妙な恰好をして、悪を退治する」なんて完全に奇行であるし、キチガイの所業である。このバットマン然り、キャプテンアメリカ然り、月光仮面然り、ナショナルキッド然り、仮面ライダー然り。現実にこんなのがいたら、周囲はドン引きであろう。その行いがどんなに正しかろうと、人々の役に立っていようと、まず確実に精神病院送りである。 「ハイスクール奇面組」にウルトラマンのパロディ回がある。そこで科特隊的な集団が電車で現地に直行する事となり、その珍妙な姿を恥ずかしがるというコメディシーンがあったが、「ヒーローもの」っていうのは、そういうもんである。 スーパーマンやウルトラマンは宇宙人という設定なので、その格好にも一応のリアリティがあるが(「宇宙人だから」で一切を片付けるのだ。)、他のヒーローにリアリティはない。まあ、なんか理屈は付けんだろうけど。 仮面ライダーはショッカーに改造されたので仕方ない側面もあろうけど、そもそも、そのショッカーが完全にキチガイ集団である。「科学者を誘拐する」とか、「ダムに毒をまく」とか、「幼稚園バスをバスジャックする」とか、何らかの犯罪行為が彼らの行動目的、動機なのだろうけど、そんな行為に最もふさわしくないのが、あの格好だろーがーーーーーー。 怪人は奇怪だし、戦闘員は高音の奇声を発しているし、何もしなくとも、その風貌だけで逮捕必至のスタイルである。泥棒はスーツを着ている。 つう訳で、「ヒーローもの」に出てくるヒーローや悪は、皆が皆キチガイでなのであるけれど、それに、大げさに言えば「史上初めて」気が付き、映画として表現したのが、ティム・バートンであり、その「バットマン」なのである。 故に、ティム・バートンは「バットマン」を「ヒーローもの」としてではなく、「キチガイもの」として制作したのだ。となれば、キチガイを演じさせたら天下一品のジャック・ニコルソンが出演してくるのは当然であろうし、コメディ俳優のマイケル・キートンが主演するのも当然であろう。コメディというのは、要するに「キチガイもの」である。一連のバスター・キートンの映画や、ミスター・ビーン、バカボンパパ、こまわり君、皆々キチガイの話である。チャプリンは、ちと違うかもしれんが。 ティム・バートンは「バットマン」を、「スターウォーズ」や「スーパーマン」のようにではなく、「機械仕掛けのオレンジ」や「シャイニング」のように制作したのだ。これこそがティム・バートンの天才であり、ティム・バートンが、ここ30年、いやここ50年くらいで最高の映画監督と言われる所以であろう。 例えば、「バットマン」も「タクシードライバー」も、よくよく考えたら、同じような話である。社会の片隅にいる男、一方は大金持ちで片方はベトナム帰りの貧しいタクシードライバーという違いはあるけれども、社会の片隅に生きる孤独な男が、珍妙な恰好をして、自前の正義感で、彼の考える悪人をぶっ殺すお話である。現実でも、似たような事をしちゃう人はいるよね。 ただ、それを「さわやかな好青年」、それも「芝居な下手な役者」が演ずれば、バートン以前の「バットマン」や、それに類する無数の「ヒーローもの」となり、ロバート・デ・ニーロのような「陰気で上手い役者」が演じると、「タクシードライバー」、そうしてティム・バートンの「バットマン」になるのである。 これに気付いたティム・バートンは、やはり天才としか言いようがない。それまで誰も気づかなかったことだ。手塚や石森、あるいはジョージ秋山あたりは予感していたかもしれないが。 とまあ、キチガイキチガイと連呼してきて、かなり語弊があるが、映画に限らず、ドラマや漫画、小説等々の物語芸術の主人公、登場人物の多くは「キチガイ」だよね。 かつて、水島新司が「マンガはキャラクター。良いキャラクターを創れれば、そのマンガはヒットする。」って幾度となく唱えていたけれども、「良いキャラクター」っていうのは、すなわち「キチガイ」って事である。それが「岩鬼正美」であり「殿馬一人」であり「男どアホウ甲子園」だった訳である。 「キチガイ」っていうか、「エクストラオーディナリー」「異常な人」って事である。それが、太古の昔は「神々」や「英雄」であり、昨今はそれが「岩鬼正美」や「バットマン」となった訳である。「物語」とは、すなわち「異常な人々の生き方」って事であろう。それが「おはなし」になるのである。 もちろん、小津安二郎やちばてつやのように、なにくれの無い人のなにくれの無い人生を「物語」にしてしまうような名人もいるにはいるけれど、それはあくまで少数派、ごくごく少数派であろう。そのちばてつやにしたって、その最大のヒット作は梶原一騎という、作品どころか当の本人も「異常な人」「キチガイ」であろう、その人と組んだ「あしたのジョー」である。 また、小津にしたって、作品そのものは、なにくれの無い人のなにくれの無い生活の物語ではあるが、でも主演女優は原節子である。「異常に美しい女優」である。そのほかの作品も、これは映画会社の意向だろうけど、美男美女以外を配役する事はない。 「異常である」というのは芸術の宿命なのかもしれない。なにくれの無い人のなにくれの無い日常を描いて優れた芸術にしたのは、後にも先にも杜甫だけなのかもしれない。 と考えると、それそのものを題材にした「ドン・キホーテ」はやはり偉大だなとならざる得ない。この手の話をすると、どうしてもここに帰ってきてしまう。 とまあ、長くなってきたので、今回はこのへんで。スターウォーズのDVD、買おうっかな。初期の3部作のね。 ウソウソ。 このネタも使い倒し過ぎて、すっかりチープ、というかタダのスベリ芸になってしまったけれども、とにかくとりあえずドラフトである。NFLドラフト2025である。 この記事の冒頭で触れたとおり、今回のドラフトはリアルタイムで観戦(?)していない。という訳で、リアルタイムでの私の心情、ドキドキ感はここに記さない。というか、無い。 ドラフト初日の結果を知ったのは、葬儀が終了し、帰宅(実家)の途に就いた午後4時くらいである。電車の中で、いや駅のホームだったかな、そこらあたりで知った。 ちなみに、G+の「ドラフト中継」は一応録画してあるが、まだ見てはいない。まあ、あれをリアルタイム以外で視聴する意味や価値があるのかと問われれば、微妙なところであるが、気が向いたら視聴したいと思う。何かしら「発見」があるかもしれん。それが2,3年後、あるいは10年後かもしれないけれど。そういえば、ラックドラフトの録画もまだ残っているよなあ。気が向いたら、見てみよ。 そういう訳で、ドキドキ感皆無のコルツの1巡指名はというと、 1巡14位 タイラー・ウォーレン TE ペン・ステイト大学 う〜む。 1巡14位あたりというと、トレードアップありトレードダウンあり、はたまた、落ちてきたTOP10候補を美味しく頂くなり、あるいは思わぬ選手をピックして世間をアッと言わすなり、GMの腕の見せ所、あるいは派手な活躍のできる順位なのあるが、そんな腕っぷしのないバラードはごくごく普通に指名。それもタイトエンド。 1巡14位でのタイトエンドというと、その年のトップTEの指名になるので、一見「美味しい」感じもしなくもないが、結局のところは「タイトエンド」なのである。どんなに優秀なTEといえど、ポジション的な限界っていうものがあって、同じトップでもトップWRやトップRBとは違う。活躍が限定的である。 例えば、現在現役ナンバーTEであろうトラヴィス・ケルシーが、その活躍も未来新聞的なもので分かってて、ドラフトに20代前半でエントリーしてきたとしても、私は指名しない。よほどチーム力に余裕がある、「ケガ人続出しちゃった」とか「トレードで得た1巡ピックが化けた」とか、そういう理由での1巡14位なら、喜んでケルシーやTEを指名するけど、今回のコルツのような「実力そのままの1巡14位」だったら、他のポジションに行く。行くべきであろう。WRとかエッジラッシャーとか、はたまたQBとか。 そのケルシーも3巡63位だからね。「トップTEを美味しくゲット」つうのは2巡上位あたりであろう。 今回は事前予習を全然していないので、誰もお勧めできないけど、TEは無い。 で、そのタイラー・ウォーレン君であるが、公式サイトのスカウティングレポートを見た限りだと、それなりの体格、それなりの運動能力、それなりのハンド、それなりのルートランニング、そうして何より溢るる闘志。ただし、爆発的な生産性は無い。そんな感じの選手らしい。 まあ、なんつーか、このスカウティングレポートを読んで、私がまず想起した選手は、あのショッキーさんなのであるが、公式サイトでの比較対象も、何とショッキーさんなのであった。 ショッキーさんといっても、今の若い人には分かりづらいかもしれないが、マイアミ大学時代は、あのケレン・ウィンスロー2世をベンチに追いやった男である。単に「先輩」つうだけかもしれんが。 余計分かりづらい?。 1巡14位のタイトエンドで、ショッキーさんぽいなら、まあまずバストって事は無いと思うので、がんばってくらはい。期待しております。 ちなみに、このウォーレンと並んで、今ドラフトにおける二大タイトエンドと謳われていたのが、シカゴが1巡10位で指名したコルストン・ラブランドである。ミシガン大出身。 こっちは知ってた。それも昨年から。だってラブランドだよ。Lovelandだよ。そんな名前、一発で覚えてしまうがよ〜〜(どこの方言?)。「愛の国」だよ。それ完全に連れ込み宿(表現が古くて、スマン)のネーミングじゃねーかよ〜〜〜。 アメリカでもいじられてんの。それとも、そうでもないの。有名なSF作家にラブクラフトというのがいるが、かつて私はそのつづりが「Lovecraft」だと知って、ビックリした事がある。いや「愛の力」って。しかも、今調べたら、本名なのね。筆名ではないのだ。 ラブクラフトって作家自体は当然知っていたけど、そのつづりは「La Bukraft」ぐらいに思ってた。「Lovecraft」とは意表を突かれた。 いやまあ、日本にも「愛沢」とか「愛川」みたいな苗字はあるから、そんな名前にいちいち反応している私が小学生臭いだけなのかもしれんが。うん、僕は永遠の小学生。ジョーダン・ラブもいるしな。 私の大好物である「愛」の話はひとまず置き、ウォーレンに話を戻す。 今回の私はドラフトについて予習を全然せず、マルゴシ刑事の状態でドラフトに臨んだわけであるが、このウォーレン、多分予想出来てた。「私の欲しい選手」ではなく、先のラブランドと合わせて「バラードの指名しそうな選手」のひとりに挙げていたと思う。それくらい、「いかにもバラードの指名しそうな選手」、「典型的なバラード指名」だったと思う。 てか、1巡14位はGM指名だろうがよーーーーーー。 んで、2巡45位。 2日目はスマートフォンでチェックしてた。さすがに、がぶりつきでは見とらん。「ながらチェック」である。何を「ながら」してたかは、ヒ・ミ・ツ。いやん。 2巡45位 JT・ツイモロー エッジラッシャー オハイオステイト大学 お得意の珍名さんパスラッシャーである。 名前からして、サモア系、あるいは○○ネシア系であることは容易に想像できるが、ウィキ情報によると、高校時代、「ポリネシアン・ハイスクール・フットボールプレイヤー・オブ・ジ・イヤー」を受賞している。 同賞は、今をときめくプカ・ナチュアとかタゴバイオーラとかも受賞している。しかも、この賞は、高校のみならず、大学部門、プロ部門もあり、我らがコルツのシーズン4サック男ライアツ・ラツ(大学部門)とか、デフォレスト・バックナー様とかマーカス・マリオッタ(プロ部門)とかが受賞している。 設立は、大学部門が2014年、プロ部門が2015年、高校部門が2017年なので、「歴史ある」とか「権威ある」とかは微妙であるかもしれないが、まあまあ、それなりに評価されているという事の証にはなろう。高校部門大学部門にはNFLで見る名前も多いしね。 そんなポリネシアンの星、ツイモローさんであるが、公式サイトのスカウティングレポートを見ると、それなりの体格と、それなりの運動能力を備えた、どっちかつーと、パワータイプ、ブルラッシュタイプのエッジラッシャーらしい。爆発的なスピードやすばしこさには欠ける。 まあ、なんつーか、いかにも「バラードが指名しそうな選手」ではある。「体格と運動能力を備えてはいるが、突出した何かは無い」つうアレである。私のバラード論(音楽じゃないよ。)については、近日公開予定なので、「なんでバラードはこんな指名ばかりしてしまうのか」、そこで赤裸々にしたいと思う。 上記の通り、ポリネシアン系ではあるが、生まれはワシントン州タコマなので、国籍的文化的には純粋にアメリカ人である、筈。ラグビーからの転向組、相撲からの転向組(?)等々ではない。 最大の懸念材料はバッカイズ出身という事であろう。不安しかない。 しかし、ここでパスラッシャーかねえ。パスラッシャーで実力が折り紙付きなら、当然1巡上位、トップ10で消えるであろう。それがここまで落ちてくるっていうのは、まあ、そういう評価って事なのだろう。実際、このくらいの順位で大活躍したパスラッシャーっていうのは記憶にない。稀に、トレイ・ヘンドリクソン(3巡103位)みたいのもいるにはいるけれど、それはあくまで「稀」、「ごく稀」である。パスラッシャーっていうポジションは、原則的にドラフト1巡上位選手が活躍を独占するポジションである。 なのに、2巡45位でエッジラッシャー指名。今まで散々失敗してきたがろーがよーー。お前、過去の記憶ないんかい。「今を生きる男」なんかい〜〜。「常に前を見続ける男」なんかい〜〜。反省しろ。一日に三回反省しろ。三省堂書店に通いつめろ。 ここでパスラッシャーなら「1巡14位」でパスラッシャーだろうがよ〜〜〜。そうして、「2巡45位」でTEだろうがよ〜〜。それがNFLドラフトの定跡だよ〜〜。 つう訳で、この指名自体には、そのバッカイズという点も含めて、私は全然期待してないのだけれど、別にツイモロー君自体に敵意や悪意がある訳ではありません。がんばって欲しいと思います。シーズン10サック挙げたら、抱きついちゃいます。私の全てを捧げます。ポッ。 で、上記のウォーレンのところで、私は「この指名は予想できた」みたいな事を書いたけれど、この指名も、予想できたちゃあ予想できたかもしれん。候補には入れたかもしれん。でも、予想したくなかった。そんな使命ではある。ツイモロー君、がんばって。 ちなみに、「JT」は愛称らしく、本名はジェイラン・ツイモローらしいです。「Jaylahn Tuimoloau」ね。 こんくらいにしとくか、3巡目以降は次回って事で。 てか、2巡45位はGM指名だろうがよーーーーーー。 連休は風邪気味。2025/4/30(水) |