インディアナポリス研究会コルツ部

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2025シーズン

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Conference
Championships
感想  さて、両チャンピオンシップである。

 まずは、アメリカンから。

 結果は10−7でペイトリオッツの勝ち。

 NFL恒例って程でもないけど、ちょっとしたアメリカの風物詩である雪中でのゲーム。

 でも、これは、あくまで個人的な印象だけど、デンバーでの雪中でのプレイオフはわりに珍しいと思う。ビルズとかジャイアンツとかペイトリオッツとかペイトリオッツとかペイトリオッツとかはしょちゅう、それこそ冬の風物詩的に開催しているイメージがあるけど(ジェッツが無いのは、ゴメンな。)、ブロンコスのプレイオフの雪中ゲームはあまり印象にない。記憶にない。デンバーでのプレイオフというと、ピーカンのイメージが強い。あくまで私の個人的な印象だけどな。統計を取れば、異なる結果が出るのかもしれん。

 つー訳で、そういう天気、降雪の中でのゲームであるので、論評しても意味はない。「雪の中、ゲームをして、ペイトリオッツがブロンコスに10−7で勝った」、というただそれだけのゲームであろう。戦略も戦術も技術もない、子供のフットボールである。

 「あっ、雪降ってる。フットボールしようぜ。」「いいね、いいね。」みたいな感じで始まり、飽きてきたら、「さみーな、うち帰ってゲームしようぜ。」みたいなゲームである。論じても意味はないであろう。

 もっとも、「そういう天気、雪の中のゲームでも、プロなら、それなりの戦略や戦術、技術を持つべきだ。」という批判もあるかもしれないけど、どーしょーもねーもの、だって、練習できないんだから。練習時間に都合よく雪降ってくんねーーし。

 しかも、雨や風の場合は、おおよそ似たようなものだろうけど、雪の場合は、それぞれに降り方が異なる。どんどん降り積もっていく雪もあれば、しとしと降って積もらない雪もある。ドカ雪、吹雪、みぞれ雪、それぞれに降り方が異なる。そういうそれぞれの雪が練習時間に都合よく全て降ってはくれない。

 つーか、そもそもキャンプは夏だし。練習のしようがない。VRとかを使用してイメージトレーニングとかはしてっかもしんねーけどな。

 更に言えば、プレイオフは雪の中でのゲームも十分ありうるから、それに備えて南半球の寒冷地、雪の降る地域でキャンプを張るという考え方も無くは無いし、将来的にそういうチームも出てくるかもしれないが、今のところはそういうチームはない。温かいところで、いや、暑いところで、汗だくでキャンプしとる。

 だ〜か〜ら〜、ドーム付けろって言ってんだろが、コラ〜〜

 いや、でも、そういう議論が全然出て来ないのが不思議だよな。チャンピオンシップがこういう謂わば「子供のゲーム」で決着しちゃって、いいの。これ、完全に運だけだよ。戦略も戦術も技術も全然関係ねーから。

 いやまあね、具体名を出して申し訳ないけど、ブラウンズあたりが数年に一回やるようなプレイオフレースとは全然関係ない「雪のフットボール」は、そりゃ面白いと思うよ。数年に一度の余興だよ。観客も選手も楽しみにしてるよ。テンションあがるよ。でも、プレイオフ、チャンピオンシップが「雪のゲーム」で決着は、おかしくね。「オーバータイムの決着」については、あれだけやいのやいの言ってたくせにさ。「オーバータイムの決着」より「雪のゲーム」の方がよっぽど「運」だよ。いや、「運」だけだよ。

 でも、そういうゲームをアメリカ人は「これぞ、フットボールだ。」なんつって、とりすましているのだから、よく分かんね。まあ、別にいいけどさ。フットボールはアメリカ人のスポーツだから、アメリカ人が納得してるのなら、日本人の私がいちゃもんつけても仕方ねーけどさ。

 で、いまさっき、「観客も選手も楽しみにしてるよ。」って私は書いたけれども、楽しみにしてない選手もいるからな。場合によっては、「命の危機」を感じている選手もいるからな。

 大昔のNFLのドキュメント番組でやってたのだけど、その日はマイナス40℃、いやマイナス40℃って事はないかな。とにかく、マイナス30℃とかマイナス20℃とか「命の危機」を感じるような気温でのゲームが予定されていた。

 で、その試合に出場予定の選手が、朝、家を出る際、家族に最後のお別れの挨拶をしてきたつうんだからな。子供に対して、「○○、もし父さんが家に帰って来なかったら、母さんを守るのはお前の役目だぞ。頼むぞ。」。んで、嫁には「○○、君の事を愛していた。今までありがとう。」。

 で、幸い、命を失うことなく、試合終了した訳であるが、ロッカールームに入っての第一声が、「生き残ったあ〜〜〜。」。

 いや、だから、ドーム付けろって言ってんだろが、コラ〜〜

 でまあ、そういうゲームを運だけでモノにしたのがペイトリオッツさんであるが、まあ「運も実力のうち」だしな。認めざる得ない。

 とりわけ、前回も書いたけど、クラフト・オーナーはNFL史上最高はともかく、ここ50年ではベストのオーナーという事になると思う。決定した。NHLは全然分からんけど、MLB、NBAを含めても、ベストかもしれん。

 ここ数試合のプレイオフのゲームの放送で私は初めて知ったのであるが、前ヘッドコーチのメイヨを1年で解任してんのな。これも何気に凄い。普通の人にはなかなか出来ない事である。

 まあ、勿論、家庭の事情とか健康問題とか、所謂「フットボール以外の理由」での解任なのかもしれない。でも、そうではなく、「フットボールでの理由」での解任なら、なかなかの偉業である。凡人には出来ぬ事である。1年前の自分の判断を全否定する事になるからだ。「非を改める」は凡人にはなかなかに難しい。「非を認める」すら出来ない人は多い。まさしく、「君子豹変す」である。

 ニセアカギに対する川田組長じゃないけど、「こりゃダメだ」と思わせるような何かがあったのだろうけど、にしても、なかなか出来ない「決断」ではある。

 もっとも、広岡GMみたいに「非」を「是」に変えようとする事例もあるにはあるけどな。

 一方、ナショナルは、こちらは31−27でシーホークスが快勝というか辛勝というか、アメリカンとは違って、典型的なフットボールのゲームに勝利。何気にこっちもスーパーボウル復帰かな。

 こちらはダーノルドがコケるかなと私は予想していたのであるが、0インターセプトと無難なクォーターバッキングに終始。私の予想は外れた。がっくし。

 こういうのは手前味噌的な見方になるが、ラムズはちょいと狙い過ぎたんじゃないかな。コール的にもカバーの仕方的にもダーノルドからインターセプトを奪おうとし過ぎていたように思う。それを慎重に避けたダーノルド、そうしてシーホークスの勝利だったと思う。あくまで我田引水的な見方だけどね。

 戦犯的には第3クォーター序盤にパントリターンでマフったクサヴィエ・スミスがヤリ玉に挙げられていたけど、あれはちょと酷だよね。パントのボールを百発百中でキャッチなんて無理だもの。無理難題だもの。

 楕円形のボール、屋外なら風があり、最近のパンターはボールに妙な回転をかけてくる、捕ったら捕ったでハードタックルが待ち受けており、フェアキャッチの判断もしなければならない。で、この判断も後でゴチャゴチャ言われたりする。

 そのくせ、リターン・タッチダウンやビッグリターンはシーズンに数回程度。その数回も、上手くいったと思ったら、待ってましたの「ホールディング」。ぐわっ。めちゃハイリスク・めちゃローリターンの典型みたいなプレイ、あるいはポジションである。

 フットボールには絶対やりたくないポジションが私にはいくつかあるけれども、そのひとつがこのパントリターナーである。

 つう訳で、クサヴィエをあんま責めないでね。

 そのほかの戦犯候補というか、ポイントになったプレイとしては、最後の最後での4th&ギャンブルという事になろう。

 私は素直に(?)FGを蹴って1点差にした方が良いと思って見てた。残り5分弱、1点差なら、ダーノルドにもシーホークス守備陣にも大きなプレッシャーがかかるからだ。「タッチダウンだけ避ければ良い」というのは心理的には非常に楽である。「FGもダメ」とは全然違う。しかも、当然の話であるが、「タッチダウンも無論ダメ」である。FGだけ防げばよい訳ではないのである。「FGは無論の事、タッチダウンも当然防がねばならない」、これである。それくらい30ヤードの差は重い。

 まあ勿論、「ここでダーノルドにボールを渡したら、二度とボールは戻ってこない」と判断してのギャンブル、タッチダウン狙いも有り得るだろう。ダーノルドをラムズ陣営がどう評価していたかは私には皆目分からないので、これ以上は批評できない。

 このへんの判断はいくら考えても答えは出ないであろう。真理には永遠に到達しない。

 まあしかし、この試合に限らず、この「FGかTDか問題」はフットボールに常に付きまとうよね。永遠の課題といっていい。

 何故そうなるかといえば、それは勿論、両者の得点配分、すなわち3点と7点に根拠がある訳である。ほんと、これ実に絶妙、神妙といってもいい。「FG2回だと、TD1回に1点足りない」って誰が考えたのか知らんけど、たまたまこうなったのか知らんけど、ホント絶妙神妙。

 「タッチダウンは6点だろ」とかツッコまないよーに。ここから、この話はXPの1点込みで話を進めます。XPの1点と2ポイントコンバージョンの2点も絶妙神妙に絡んでくるのだけど、ここではとりあえず割愛します。ここからの話、TDはXPの1点込みと解してください。

 で、話を進めるのであるが、この「FG:TDの得点配分」が、もし「3点:6点」だったら、こういう悩ましい問題はほとんど起きないと思う。この手の問題に悩まされる事はほとんどないと思う。なぜなら、得点が3点6点、すなわち3の倍数で得点が推移することが多いだろうからだ。

 このシーホークスvsラムズ戦のこのシーンで言えば、4点差ではなく3点差であったろう。ならば、当然FGを蹴っている訳である。悩むこたーない。

 勿論、セイフティやXP失敗で3の倍数が崩れる事もあるだろうが、それはまた別問題である。

 また、こういう勝敗の分岐点となるようなシーンとは別に、もっと一般的なフラットなシーンにおいても、「FGか、TDか」は、古くからのフットボールの議題であった。

 最近、それは、統計的確率的に「TDを狙うべき」という結論、あるいは風潮になり、その結果ギャンブルが増えた。私もそれを支持している。

 だが、これは「FG:TDの得点配分」が「3点:7点」だからこそ、永らくの議題となり、統計学や確率論を駆使することになったのであり、これがもし「3点:6点」なら、議題にもならないし、統計学や確率論を駆使する事も無かったろう。

 「3点:6点」だと、つまりFG2回とTD1回が同等という事である。だとしたら、それはもう好き好きであろう。向き不向き得手不得手であろう。ランオフェンスが得意なチームだったらFGを蹴っていくべきであろうし、パスオフェンスが得意なチームならTDを狙っていくべきであろう。また、ディフェンスが得意なら、FGを蹴っていくべきであろう。

 また、これが「3点・5点」なら、どうなるであろうか。これはもう完全に、FG大会であろう。現今のNBAが3P大会であるのと全く同じ理屈である。

 極端に言えば、FG圏内に入ったら、1stダウン2ndダウンでもFGを蹴ってくるチームが現れるだろう。ターンオーバーのリスクを考慮したら、そちらの方が効率的という訳である。キッカーは股関節炎必至、かな。

 また、これが「2点:5点」だったら、どうなるであろう。

 「FG2回がTD1回に1点足りない」という意味では、「3点:7点」と同様のように思われるが、ちょいと違う点もある。「2点:5点」は、FG5回とTD2回が同じ10点で同等となってしまうのである。こうなると、「3点:6点」の場合と同様、好き好きになるだろう。自分たち、あるいは敵に得手不得手に合わせてFGかTDを選択する事となる。得点配分は判断材料にならない。

 では、この「FG5回とTD2回」を「3点:7点」に当て嵌めたらどうなるであろうか。すると、あら不思議、15点と14点でFG5回の方が1点有利になってしまうのである。

 これも悩ましいでしょ。FG5回がTD2回より1点有利というのなら、FGを蹴った方が良さげでしょ。あくまで「良さげ」だろうけどさ。統計学的確率論的に、どういう結論が出るのかは知らんけどさ。

 そうして、この「FG5回とTD2回」をもう一つ先に進めてみる。すなわち「TD3回」ならどうなるか。すると当然、「2点:5点」の時と同様、「FG7回とTD3回」が、同じ21点で同等となってしまうのである。

 ただまあ、これはあまり意味のない仮定ではある。なぜなら、FGを7回も蹴る試合は滅多にないからだ。大体通常のゲームのオフェンスシリーズは10回くらい。うち2つくらい、すなわち前後半の最終シリーズは時間に追われてのシリーズなので通常のシリーズではない。また、1試合に1回2回くらいは自陣深くからのスタート、すなわちある程度得点を諦めなければならないシリーズがあるだろう。
 とすると、通常にオフェンスシリーズは、1試合7回6回程度だと思う。その全てでFGを蹴れるようなチームは強力オフェンスのチームであろうから、「FGかTDか」で悩む必要はない。故に、無意味な仮定である。

 面白いでしょ。数学、それが初等数学、算数においても、人間の自然な認識を越えてくる場合がある。以前、「3割と2割5分の問題」をどこかの記事で書いたけれども、なかでも「割り算」は人間の自然な認識を超える事が多い。そのひとつが、この「3点:7点」だと思う。

 なんつーか、いちいち絡んでくる。何か判断をしようとすると、いちいち絡みついてくいる、スパっと、あるいはスカッと判断させない。

 麻雀で喩えると、テンパって、ある牌を切りたいのであるが、どうもそれはロン牌くさい。それも満貫以上の大物手くさい。で、それが70%くらいの確率だったら、「とりあえず回す」という判断になるだろうけど、30%ぐらいの確率、しかも一応スジ。で、えいやっで切ると、「ロン、ロン、ロン、ロ〜〜ン」。親ッパネ、1万8000点、ちゃんちゃん、みたいな感じである。

 で、こういうスポーツはあんま他にないと思う。

 フットボールに似たスポーツとしてラグビーがあるけれども、ラグビーでトライかキックかで悩むって事はあまりなかったように記憶してる。ほぼオートマチックにトライかキックかは判断していたように記憶している。勝敗の分岐点にはなってなかったように思う。

 もっとも、ラグビーはフットボールに似ているといっても、基本的に違うスポーツであるし、トライやキックの難易度はFGやTDとは全然違うので、単純比較は無意味かもしれない。それに、そもそも私のラグビー観戦記憶は堀越今泉、清宮父の頃なんで、今現在は事情が異なっているかもしれない。得点配分も変化しているし、ルールも変化している。今現在のラグビーはトライかキックかで大いに悩んでいるのかもしれん。

 そのほかのスポーツ、野球やバスケットボール、サッカー、テニス、ゴルフ等々で、こういう悩ましい判断があるとは思えない。多くの判断はほとんどオートマチックであろう。絡みついてくるようなものは無いと思う。

 強いて挙げれば、カーリングかな。これも最後の観戦が10年以上前の話なので断定は出来かねるが、カーリングには、もしかしたらフットボールのような「悩ましい判断」があるのかもしれない。

 もちろん、これらのスポーツにも「悩ましい判断」はあるだろうけど、それは好不調とか相性とかケガの回復具合とかに由来するもので、フットボール特有の「得点配分」に由来するものではない。

 そもそも、ほとんどのスポーツは「1点づつ」の積み重ね方式による得点なので、フットボールやラグビー、バスケットボールのようなプレイによる得点の違い自体が無いのだけどな。

 つか、サッカーなんか導入すりゃいいと思うよ。「ペナルティーエリア外は2点」というルールをさ。もっといえば、PKと通常のゴールが同じ1点というのも変えるべきだと思う。そりゃ、シュミレーション大会になるよ。

 こういう「悩ましい判断」つうのも、フットボールの大きな魅力なんだぜ。

 で、話をスーパーボウルに移す。

 一応、予想すっか。縁起もんなんで。

 このまま、ダーノルドに調子づかせるのも腹立つというか、「ダーノルドはプレイオフを勝ち上がっていけるQBではない」と断じた私の立つ瀬が無いので、悔しいがペイトリオッツ勝利を予想。今度こそ、ダーノルドを仕留めると見た。いや、希望する。熱望する。切望する。お願い、助けて。

 いや、別にいんだけどさ。キャム・ニュートンとかゴフみたいに力量的に劣ってもスーパーボウルにたどり着いたQBは何人かいるからさ。その一人って事で納得すればいいだけの話だけどさ。

 でも、ペイトリオッツかあ。これはこれでなあ。悩ましい、実に悩ましい。ちゃんちゃん。

                           7℃を「温かい」と感じた。2026/2/1(日)
2026年
2月
夢と文章と
バラードのバカ
 夢を見た。夢といっても、人生の目標とか希望とか理想とか幻とか、そういう意味での「夢」ではなく、睡眠中に感じる視覚的聴覚的なアレ、である。

 テレビの修理代を20万円、請求された。自宅、これは現実に私が暮らしている自宅ではなく、その夢の中で私が生活しているらしい自宅に、修理屋さんらしき人が3人訪問してきて、アンテナ接続部の接続方法をちょいと変える程度の修理をして、20万円請求された。しかも、部品代とか掃除費とか訪問料とか、事細かに明細された請求書もともなってである。「20万円あれば、新品が買えるな。」と夢の中の私は思った。

 結果、支払わなかった。夢から醒めたからである。あの人たちはどうなったのだろう。20万円が支払われず(?)、ブーブー文句たれたのであろうか。

 こういう事(?)はままある。上述した事以上、それこそ人の生き死に関わるような夢を見ながら(体験しながら、)、大事なところで目が覚めてしまい、いや、意識的に目覚めたのかもしれんが、「あの人たち、あれからどうなったのかなあ。」と思う事はままある。「続きが見れるかな。」と思う事もある。布団から出た瞬間に忘れちゃうけどな。その後の続き、謂わば「続編の夢」を見た事はない。

 ずっと覚えている夢もある。気になっている夢もある。

 あれは20代の頃の夢であるが、とある女性から電話がかかってきて、身体障碍者、あるいは知的障碍者の弟について相談された。あの姉弟はどうなったのだろう。

 「『続編の夢』は見たことが無い」と先に私は書いたけれども、定常的な夢はある。アルバイト斡旋会社みたいなのがあって、そこで私はアルバイトを紹介されていた。十年間くらい、月一くらいのペースで見ていた。最近は見ない。また、夢の中に行きつけの古本屋さんもある。それも数件ある。それも最近は見ない。

 太宰治が「私は夢の中に妻がいる」と書いていたけれど、太宰ほどの女たらしではないからか、私に夢の中の妻はいない。残念ながらなのか、幸運にもなのかは分からんが。

 あと、夢の話題になると、必ず出てくるのが、例の「芥川の夢の本」であろう。私も夢の中で小説を読んだりマンガを読んだり、その他の一般的な書物を読んだりする。あれは一体誰が書いているのだろう。気になる。確かに気になる。

 「私」が書いているのだろうか。では、私は「私」が書いた書物を新鮮な気持ちで読んでいるという事になるのだろうか。そんな事はあり得るのだろうか。松本伊代じゃあるまいし。

 あとまあ、夢といえば、フロイトやユングの例の「夢判断」であるが、これは通用するものと通用しないものがあるよね。

 上述した「電話の女」の夢ならば、フロイト的ユング的にいかようにも(?)解釈できよう。20代の頃の夢である事を考慮すれば、性的欲求不満云々と解釈する精神分析学者も出てきよう。それが通俗か学問的かはともかく。

 また、「アルバイト斡旋会社」の夢も、現在の仕事や境遇云々と解釈する精神分析学者も出てこよう。

 でも、「テレビ修理20万円」の夢は解釈のしようがないよね。確かに、今現在私が使用しているテレビは故障している箇所があるので、それを直したいという無意識レベルの欲求があるのかもしれん。いや、そんなの無意識じゃねーよ、意識してるよ。ただ、修理に出すのがかったりぃから、現状維持を続けているだけだよ。必要不可欠な部位の故障じゃねーしな。

 「夢判断」の課題の一つはここだよね。その「夢判断」は受け入れられるか、すなわち納得できるか否か。そうして、納得できるような「夢判断」は正しいと言えるのか。等々。

 いい歳こいて、夢の話をするのはこっぱずかしいので、このへんで辞めます。

 次は、新年一発目の記事でもちょろっと触れた「文章」の話。ヒマな年末年始につらつら考えた事なので、書かせてちょーだい。

 文章の良し悪しについては色々な観点があろうが、そのひとつは構成、順番である。

 まずは、当然のことながら、A、B、C、D、E…と順番通りに書く事、これが肝要、基本のキである。ただまあ、意外にこれが出来ない人も多い。F、F、E、A、A、A、D、E、T、Z、Y、Y、Cなんていうデタラメな順番で文章を書く人も、これも存外いる。基本的な順番も分からない人は生涯文章を書かない方が良いであろう。最近は生成AIもあるしね。文章はAIに丸投げでよいと思う。

 とまあ、A、B、C、D、E…と順番通りに書く事がまずは基本であるけれども、この書き方だと単調、つまらないという事もままある。読書に厭きてくる。そこで、その順番を変える事、これが「構成」である。

 A、B、Cと来て、「次はDが来るのかな。」と思わせて、E、F、Gと書き、「あれ、Dはどうなったのだろう。」と読者が思ったあたりで、Dを書く。すなわち、A、B、C、E、F、G、D…と順番を変える。これが「構成」である。

 また、このDを書かないまま終わらせてしまうという方法もあろう。

 この順番の変え方、すなわち構成の方法は千差万別、無数とまでは云わないけど、種々様々な方法があろう。

 なかでも最も有名、ベタな構成法としては、結末を冒頭に持ってくるやり方、すなわち、Z、A、B、C、…と書いていく構成である。その最高の成功例は、申す迄も無く、「イワン・イリッチの死」であろう。しかも、タイトルが「イワン・イリッチの死」で、その冒頭にイワン・イリッチの葬儀のシーンを描くのであるから、鮮やかとしか言いようがない。

 実際、トルストイは史上最も構成の上手い作家であろう。他に例えば、「アンナ・カレーニナ」における競馬のシーン等々心憎い構成は山ほどある。まさしく、天才的である。故に文章も、ナボコフが絶賛しているように、べらぼうに上手い。

 そのほか、構成が上手い作家というと、パッと思いつくのは、日本のマンガ界では梶原一騎と本宮ひろ志の両巨頭である。次点は小池一夫かな。あと、池田理代子もうまい。

 何回か前の記事で、「頼山陽と柳田國男の文章は、読みだしたら止まらない。」みたいな事を書いたけれども、上記の作家の小説やマンガは読みだしたら、止まらない。

 ちなみに、少年ジャンプ系の作家は、どういう訳か、構成の下手な人が多い。代表的なのは井上雄彦であろう。「スラムダンク」もあまり上手くなかったのだけど、「リアル」とか「バカボンド」といった他誌での掲載作品はほんとヒドイ。これらが「スラムダンク」ほど売れなかったのは、それが一因でもあろう。

 ジャンプの編集部は、コマの構成はともかく、話の構成はマンガ家に強く求めていないのかもしれない。それは編集部の力でどうにかなると思っているのかもしれない。

 つう訳で、話の順番というのは文章の面白さ、文章の良し悪しを決める大きな要素ではある。

 勿論、なかには順番を変えてはいけない類の文章もある。公文書とかマニュアルの類の文章である。これらの文章が読んでいて面白くないのは、それが理由である。達意が全ての文章といってよいであろう。

 例えば、テレビのマニュアルで、その冒頭にそのテレビの最も高度な使用方法、「画面4分割、ハイレゾ対応音響システム」について説かれて、その次に「アンテナケーブルを差し込みましょう」と書かれても、困るでしょ。困惑するでしょ。おもろいかもしれんけど。

 そういえば、「名探偵モンク」で、モンクの弟がマニュアルライターの仕事をしてた。主役のモンクがそもそもキの字の人なのであるが、実は弟がいて、その弟はそれに輪をかけてキの字という、謂わばお約束パターンなのであり、その職業がマニュアルライターというのは、実用一転張りでつまらん文章を書いている男、すなわち「面白くない人間」の暗喩なのである。「面白いを解しない男」の暗喩なのである。マニュアルライターをお仕事にしている人、ゴメンナサイ。ちなみに、モンク自体もジョークを解さない男である。

 また、構成、順番というのは、文章全体での順番、すなわち話の順番もあるが、一文での順番、すなわち単語の順番もある。つまり、「私は学校へ行った」と「学校へ私は行った」の違いもある。この違いが分かる人が、すなわち「文学の分かる人」である。

 また、「私は学校へ行った」と「昨日、私は学校へ行った」の違いもあるだろう。この一文の前に、明らかに「昨日」学校に行ったことが分かっている文章を書いていたら、それは重複となり、余計という事になる。ただ、そこに敢えて「昨日」を付け加えるという方法もある。まさしく、千差万別種々雑多である。書き手の腕が問われる。

 そのほか、文章の良し悪しを決める要素としては、長文短文の問題もあろう。長文だらけも読みづらいし、短文だらけも、同様に読みづらい。長文短文を、メロディアスとまではいかなくとも、リズミカルに組む必要はあろう。腕の見せ所である。

 そのほか、言葉自体の色や質感、風合いなどもあるけれども、これはどちらかというと、「文体」の問題かな。 

 また、これは日本語の書き言葉特有であるが、「漢字、カタカナ、ひらがな問題」がある。この3種のどれかに偏ると、やはり読みづらい。3種均等にとまではいかなくとも、バランス良く配置すべきであろう。

 当サイトでも、私は「漢字が多いな」と感じたら、「試合」と書かずに「ゲーム」と書いたりする。動植物の名前をその3種で書き分けるのも、主にその配慮である。「犬」「イヌ」「いぬ」。「いぬ」とはあまり書かないかな。「猫」「ネコ」「ねこ」、「狸」「タヌキ」「たぬき」、「朝顔」「アサガオ」「あさがお」、「向日葵」「ヒマワリ「ひまわり」、「柿」「カキ」「牡蛎」、あっ、間違えた、「かき」、等々。でも、「ワイン」を「葡萄酒」とか、「ベッド」を「寝台」とかはさすがに書かないかな。

 ちなみに、「人」を「ヒト」と書くのは、「漢字、カタカナ、ひらがな問題」ではなく、他意がある場合もある。つまり、「ヒト」を哺乳類の一種、動物の一種、生物の一種として捉えたい場合である。「人間」として特別扱いしたくない場合である。

 また、この「漢字、カタカナ、ひらがな問題」に付随して、「アルファベット問題」というのもある。

 これは当サイトでも大いに関係があるが、外国語、とりわけ外国人名にアルファベットをそのまま用いてしまうというものである。

 これに関しては、明治維新以降、日本人をちょくちょく悩ましているが、私は反対派である。やはり、読みづらいからである。森鴎外等々がこれを試みながら、結局定着しなかったのは、やはり読みづらいというのが大きな要因であろう。あと、タテ書きヨコ書き問題もあるしね。

 更には、アルファベット以外の文字はどうするのだという問題もある。韓国語、タイ語、ヒンズー語、アラビア語等々である。これらも当地の文字で表記していたら、収拾がつかなくなる。

 日本語による文字表記は、原則的に、漢字、ひらがな、カタカナ、数字、諸記号に限らるべきだと思う。NBAとかNFL、NHK等々はさすがにアルファベットで表記するけどね。エヌビーエー、エヌエフエル、エヌエッチケーとはさすがに書かない。

 また、外国語、とりわけ外国人名の日本語表記問題に関しては、大昔、それこそ太古の昔、「ピエール・ギャルソン」の選手紹介の記事で詳述しているので、そちらをご参照ください。あれは決定版です。細かな語句はともかく、大意は現時点でも変える必要がない。

 また、一時、ちらっと議論された「ひらがなのみ」とか「カタカナのみ」とか、更には勢い余っての「アルファベットのみにしろ」(「啄木日記」みたいな奴ね。)などが、結局のところ、まるで普及しないどころか、議論も熱くならなかったのは、やはり「読みづらい」という唯一にして強力な理由があったからであろう。

 実際、日本語の表記というのは諸外国語と比較してもよく出来ていると思う。

 その最大の武器、特長は「漢字表記がおおよそ名詞を表してる」という点だと思う。日本語の文章は、パッと見ただけで「漢字表記されているもの、とりわけ二文字連結している漢字は、おおよそ名詞だ」とすぐ分かる。これは大きな利点だと思う。日本度を勉強している外国人も「これは便利だ」と語っていた。

 こういう表記方法はあまり無い。というか、日本語が唯一だと思う。例えば、お隣の中国は、当たり前であるが、全て漢字表記である。パッと見、品詞は分からない。

 古来、中国において識字率が低いのは、ひとつにはこれが要因であろう。「ひらがなやカタカナを導入すればよいのに」と私なんかは思うのであるが、それは中国人の誇りが許さないであろう。

 同じくお隣の韓国、あるいは朝鮮は、逆にほぼハングルである。私は韓国語、あるいは朝鮮語は全然解さないので断定しかねるが、これはこれで読みづらいのではないだろうか。まあまあ、いろんな事情があるのだろうけど、もう少し漢字を混ぜる、すなわち「漢字ハングル交じり文」にしても良いと思う。漢字圏の外国人、すなわち中国人や日本人にとっても便利だろう。

 また、多くのヨーロッパ語は、当然ながらアルファベットのみである。しかし、彼等には「冠詞」がある。

 「冠詞」というと、その起源や機能が大いに謎であり、古来、喧々諤々議論されてきたけれども、その大きな理由、機能は、「名詞と、それ以外を分ける」であると思う。

 先に、「日本語を学ぶ外国人にとって、日本語の漢字表記は名詞とそれ以外を分別するのに便利」みたいな事を私は書いたけれども、同様に、私は、英語、フランス語、ドイツ語等々、ヨーロッパ語を読む際に、冠詞が名詞とそれ以外を分別していて便利だと感じる事がある。ごくまれに、「複数のS」と「三単現のS」を混乱する場合があるけどな。

 それくらい、名詞とそれ以外の品詞、動詞や形容詞、副詞、助詞等々を分別することは人間の言語機能にとって重要な事なのである。

 しかも、ヨーロッパ語の場合、日本語と違って、話し言葉でも冠詞は機能している。こういう事を書くと連中が調子に乗るので、あまり書きたくないけれども、これもアーリア人の優秀性の一つだと思う。

 と、話し言葉について触れたので、ついでに日本語の話し言葉についても、ひとつ。

 今さっき、私は「漢字は日本語の文章表記において便利だ」みたいなことを書いたけれども、口語表現、すなわち話し言葉についてはそうは思わない。

 私は、話し言葉、すなわち日本語を話す際には、漢字表現、唐めいた表現、とりわけ音読みによる漢字表現はあまり使いたくない。「認識」は「知る」と云いたいし、「拡充」は「広げる」と云いたいし、「涵養」は「育てる」と云いたい。

 だって、耳で聞いたら分かりづらいでしょ。まあ、さすがに「認識」「拡充」ぐらいは分かる、一聴瞭然かもしれない。だけど、「涵養」は既に怪しいでしょ。「公僕」「僭称」「必携」等々、というかほとんどの漢語的表現は耳で聞いただけでは分からない。更には、「涵養」と「肝要」と「寛容」と「観葉」と「慣用」と「咸陽」みたいな同音異義語が、それこそ山ほどある。沢山ある。

 「高尚な工匠が工廠で哄笑したと公称したと考証した」みたいな日本語が簡単に作れてしまう。さすがにこのレベルになると、文章としてもどうかと思うが、こんなの耳で聞いたら全然分からないでしょ。

 これはやり過ぎだとしても、漢語的表現の多くは耳で聞いただけでは分からない。もちろん、それらは前後関係、文脈で理解していくのだけど、めんどいっしょ。やまとことばを使えっつの。

 「本邦の精神の涵養の拡充に励行する所存でございます。」なんて演説を私は軽蔑、あっ、間違えた、バカにする。

 んなぐらいかな。そのほか、文章の良し悪しについては、考えればいくらでも出てくるだろうけど、埒が明かないので、これくらいにしておきたい。

 ただまあ、ここで一つ肝心なのは、これら文章の良し悪しは総て、読者あるいは聴者のためのものだという点である。読者と聴者が「読みやすい」「聴きやすい」「分かり易い」、あるいは「飽きない」「面白い」等々、その為の技術が文章法の全てなのである。読者と聴者のためのものであり、作者のためのものではない。

 一方、作者のため、というよりは、作者そのものが「文体」なのである。まさしく「文は人なり」であり、それこそが「文章」と「文体」の決定的な相違点なのである。故に、「文章としては優れているが、文体としては劣っている」という事もあり得るし、逆に「文章としては劣っているが、文体としては優れている」という事も有り得よう。むしろ、トルストイのように「文章として優れており、文体としても優れている」という方が稀であろう。

 再三再四、文章の名人として、私が挙げた頼山陽や柳田國男の文体は劣っているし、文章が優れているとは言い難い泉鏡花や谷崎潤一郎は優れた文体を持っている。

 ここで、「文体が優れている」という表現を今私は便宜上、まさしく文章技術として用いたけれども、文体の場合は良し悪しというよりはむしろ、魅力的、あるいは魅惑的と評するべきだろう。もっと言えば、「美しい」である。

 美しい文体を持つものが文学者なのであり、その文体を感じられるのが「文学が分かる」「芸術が分かる」という事である。そうして、そういう人は少ない。

 勿論、文体は文学者に固有のものではない。論述、叙述等々、あらゆる文章に文体はある。演説にも文体はある。そうして、文体はその作者のモノの捉え方感じ方、考え方の全てを露わにする。まさしく、精神のストリップである。

 インターネット上(内?)にはあらゆる文章が溢れている。誤字脱字だらけのものも多い。私のように1万文字も書いて、校正なしだと、誤字脱字もある程度、あくまである程度だけど、それは致し方ないと思う。でも、100字200字で誤字脱字だらけって、どういう事。それはすなわち、その作者の人格が誤字脱字だらけ、誤字脱字だらけの人間なのである。インターネットが明らかにした事は、おっと、このへんにしとくか。

 んなような事を、テレビ批評とともに「新年特大号」と称して、新年一発目の記事に書こうとしていた。更にはそこに「バラード批判」も付け加えようとしていた。そりゃ書ききれんわな。校正不足で誤字脱字だらけになってしまうわな。

 つう訳で、ようやっと「バラード批判」。

 バラード批判は大小色々書いてきたけれども、その大元は、要するに、今までもあちこちで触れてきた「レシーバー問題」である。ワイドレシーバーの仕事を、バラードはぜんっぜん分かっちゃあいないのである。

 その象徴がピットマンである。

 ピットマンの今季のスタッツは、80レシーブ、784ヤード、安定のアベレージ9.8ヤードである。タッチダウンは例年より増えて、7タッチダウン、キャリアベスト(涙)。

 あいも変わらずの平均10ヤード男なのであるが、実際、ピットマンはWRとして何の役にも立っとらん。

 当然ディープスレッドではない。無論、レッドゾーンの鬼でもない。かといって、ファーストダウン・コンバーターでもない。忘れた頃に、空いたスペースでレシーブするのみである。1年目2年目は、それでもそこからRACがあったのであるが、覚えられたのか、それも今や皆無。ちなみに、1年目2年目の平均は、それぞれ12.6と12.3。RACがあったからであろう。

 ちなみに、この忘れた頃に空いたスペースでレシーブする選手がコルツにはもう一人いて、アリー=コックスである。そんなの二人も抱えていたら、オフェンスは進まんわな。

 で、そのアリー=コックスを押し出したのがタイラー・ウォーレンであるが、シーズン前半はアベレージ10ヤード以上を連発していたのであるが、後半は、理由は不明であるが、10ヤード未満連発。コルツが勝てなくなった一因であろう。もしかした、原因ではなく結果なのかもしれんけど、そのへんは全然ゲームを見ていない私には不明である。ちなみに最終的なスタッツは、76レシーブ、817ヤード、アベレージ10.8ヤードである。及第点ではあるが、TEとしては平均的な数字に落ち着いてしまった。

 話をピットマンに戻す。

 ピットマンが入団して、なんやかんや6年が経過しているが、はっきりいって「ピットマンで勝ったゲーム」を私は全然知らない。「ピットマンMVPのゲーム」が全然思いつかない。この6年間は、私はほとんどコルツのゲームを見てはいないけれども、それにしたって異常である。エースレシーバーとしても無論不満。WR1としても全然足りない。ピアースやダウンズの方がディープスレッドであるだけ、まだマシである。あくまで、「まだマシ」レベルだけどさ。

 なのに、な・の・に、バラードのバカはこのピットマンに全幅の信頼。ここ数年数多くの大物レシーバーがFA市場やトレード市場に出てきているっつうのに、彼らを完全無視。鼻水もひっかけない。今季にしたって、カップ三冠やディグス、デヴォンテ・アダムスがいるのに完全無視。彼らの誰か一人でもいれば、スーパーボウルはともかくプレイオフには十分届いていたと思う。まあ、水面下で誘っていて、フラれたのかもしれんけどさ。

 私にとって、ジャバール・シアードとジョナッタン・ハリソンはパガーノ暗黒時代の象徴的選手であるけれど、ピットマンとフランクリンは、同じく私にとって、バラード暗黒時代の象徴的選手である。

 つかまあ、こんな事くらい、見てて分からんのかね。私なんか、10年以上前はともかく、ここ最近は週に2時間程度、ハナクソほじりながら見ている程度なのに、バラードなんか私の数万倍はともかく、数千倍はフットボールやNFLに時間を捧げている、まさしく人生を賭けているのに、なんでこんな簡単な事分からんのじゃ。認識は経験に依らない。

 たぶん、選手は気が付いていると思うんだよ。特にネルソンなんか頭良さそうだしさ。ピットマンがガンだって事に。

 でも、言えねーだろ、選手は。同じ釜の飯、は大袈裟だけど、一緒に練習している同僚に対して、「お前の能力のせいで、チームは勝てない。」とは言えねーだろ。マイケル・ジョーダンみたいにガンガン公言する奴もいるけどさ。それはマイケルが異常なだけで、普通は出来ない。

 一般社会だって同様でしょ。同僚の悪口は言いづらいでしょ。これが他部署だったら、まだ云えるかもしれない。例えば、自動車の生産部だったら、「デザイン部のデザインが、」とか「営業部の営業が、」とか「開発部の設計が、」とか云えるかもしれんが、「隣のラインの窓ガラスの付け方が、」とは言えねーだろ。いや、云える人いるの?。それは言わない約束でしょ。

 っていうか、それを云うのが上司の仕事だろーがー。GMやHCの仕事だろーがー。

 あと、云える可能性がある選手はただ一人いる。リバースである。リバースは云えるかもしれん。会社を3日で辞めたパートのおばちゃんが会社を救う一語を発する可能性はある。

 つう訳で、バラード解任を熱望、いや切望、いや、それ以外に選択肢はないと私は思っているのであるが、来季も留任。契約が1年残っているからだってさ。

 これを受けて、現地の掲示板ではバラードの事を「保身の天才」「自己保存の天才」と呼んでいる。例の「ドラフト1巡2コ喪失」が次期GMを遠ざけたという訳である。ある種の蛾のヘビの目の模様みたいなもんか。

 んなもん関係ねー。次期GMの意向抜きに解任だろうがーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 正気を疑う。

 あとはもう、肉体関係しか理由が思い浮かばねえ。あの巨乳熟女オーナーがバラード、つかバラードのチンポの虜になっているとしか考えられねえ。バラードのチンポなしに生きてはいけない体になっているとしか考えられねえ。

 あとは、ガチに後任の目途が立たない、後任が分からないというのはあると思う。巨乳熟女オーナー改めカーリー・アーセイ=ゴードン女史であるが、彼女の経歴がいかなるものであるかは私には全然分からん。

 父親のように、大学卒業後、がっつりコルツのオーガニゼーションに身を置き、帝王学は大袈裟だけど、NFLビジネスをがっつり学んできたのかもしれん。NFL」界隈のみならず、フットボール業界全体にその人脈が行き渡っているのかもしれん。

 ただ、一方で、父親の周りをちょろちょろして、キャッキャキャッキャと業界を出入りしていただけのかもしれない。

 もし後者だとしたら、ガチで後任が分からないという可能性はある。GM候補が思い当たらないという可能性はある。そしたら、悲劇である。

 もっとも、父親にしても、ビルズ等々でがっつり実績のあったポリアンを連れてきただけだから、GM選びにその経歴は関係ないのかもしれん。その後のエリクソンはともかく、パガーノとバラードは大失敗しとるしな。一方で、業界の門外漢だったクラフトは一発でベリチックを引き当てとる、というか強奪しとるし。経歴は関係ないのかもしれん。認識は経験に依らない。

 で、今、カーリー女史について軽くウィキで調べたが、1980年生まれ、御年45歳。年齢や性別で人を差別してはいけないのかもしれないけど、不安は募るばかり。

 そういった意味では、親父にはもう少し長生きして欲しかったな。あとは旦那、カーリー女史の旦那に期待か。これが唯一の希望か。

 ちなみに、期待の超大型新人ライアツ・ラツ様の今季のサック数は8.5でした。昨季の4サックから倍増。ちゃんちゃん。

                                一月は辛かった。2026/2/8(日) 

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