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| 2026年 3月 |
補習その9 | 前回の記事で、「史上最高の三遊間は新井・鳥谷コンビだ」みたいな事を書いたが、そういえば、坂本を忘れていた。 坂本が現時点における日本プロ野球史上最高のショートストップであることはほぼ確定的であろう。というか、確定である。対抗馬としては松井がいるが、メジャーへ行っちゃったんでねえ。そこで話は終わりである。勿論、イチローのようにメジャーリーグで活躍していれば、話は別であるが、あのしおしおの成績では話にならない。「メジャーリーグに行かず、日本に残っていたら、」は無駄な仮定である。 で、その坂本とコンビを組んだ大物三塁手といえば、小久保、小笠原あたりであろう。両者ともに、坂本とは年齢的に15歳程度離れているので、ちょいと微妙な感じもあるが、一応調べてみた。 まず、小久保であるが、小久保の巨人在籍期間は2004年〜2006年の3年間なので、2007年デビューの坂本とは被っていない。残念。またもチップ。しかも、その3年間、小久保は全試合三塁手である。惜しい、実に惜しい。もうちょいずれていれば。 一方、小笠原の巨人在籍期間は2007〜2013。んで、2007〜2011までは一塁手三塁手併用みたいな起用法である。打撃成績は盤石の安定感である。高値安定。 一方、その間の坂本は、2008年からレギュラー遊撃手として起用され、打撃成績は申し分ない。キャリアハイかと問われると、微妙であるが、坂本がショートストップとして全試合出場していた時期でもある。守備はエラーが多く、ご愛敬かな。 どうなんだろう、この「小笠原・坂本の三遊間コンビ」。「新井・鳥谷コンビ」より上か下か。人によっては、こちらを推すかもしれない。コンビを組んだ期間は「小笠原・坂本」が5年弱くらい、「新井・鳥谷」が2年弱くらい。ただ、「小笠原・坂本コンビ」の憾みは、小笠原が一塁手との併用という点であろう。がっつりサードだったら、「小笠原・坂本コンビ」に凱歌が上がったかもしれん。あと、「小笠原・坂本」は年齢的に離れているというのも、ちょいとした憾みではある。 ちなみに、坂本とコンビを組んだサードというと、私には古城のイメージが強い。おかしい?。 この「新井・鳥谷・小笠原・坂本問題」はともかくとして、大型三遊間コンビっていうのは、なかなかいないんだよねえ。ショートで打てる選手が少ないっていうのは周知の事実だけど、「打てるサード」も意外に少ないんだよなあ。 前回の記事で、「メジャーリーグはサードが人材難」みたいなことを書いたけど、同様の事は日本プロ野球でも云える。いまだに長嶋茂雄が三塁手としてのほとんどの記録を持ってるっつんだからねえ。もう50年前に引退した選手だよ。それが未だに抜けないなんて。 実際、キャリアのほとんどをサードで全うした選手というと、他には「パ・リーグの長嶋」有藤ぐらいしかいない。中村剛也はファーストやDHとの併用だし、中西は実働期間が短かったし、掛布は引退が早かったし、あとは中村ノリくらいであるが、中村は「メジャー行っちゃって以降」がねえ。メジャーリーグに行かなければ、長嶋を超える三塁手になっていた可能性は高い、というかほぼ確定だったろうけど、これは松井同様、埒の明かない仮定である。 実際、いない。例えば、原辰徳である。原は、三塁手として歴代TOP5かというと微妙なところであろうが、TOP10には間違いない三塁手ではあろう。 では、仮に、原が一塁手だったと仮定して、歴代TOP10の一塁手に入れるかといったら、まず不可能だろう。TOP50とは云わないが、いいとこTOP30ぐらいだと思う。 王に敵わないのは当然として、落合や清原にも及ばないであろう。また、衣笠を一塁手としたら、衣笠にも及ばない。小久保、小笠原、松中あたりと比較しても落ちるであろう。大杉や加藤、松原にも敵わぬであろう。谷沢や福浦あたりと比較したらどうかとなるが、彼らは2000本安打達成してるしねえ。 とまあ、考え出すと、どんどん下がっていっちゃう。そういえば、川上もいるよね。さすがに小早川、広沢以下って事はないだろうけど。 つう感じで、サードは意外に層が薄いんだよね。ファーストと比較すると、「強打」という意味では1/3程度の層になってしまう。つか、典型的な「守備」のポジションであるキャッチャーと比べても厳しいかもしれない。 さすがに「全三塁手」と「全捕手」で比較したら、サードの方が上だろうけど、例えば「上位5名の本塁打数」とかで比較したら、サードとキャッチャーはどっこいどっこいだと思う。「野村・田淵・阿部・城島・木俣」と「長嶋・両中村・有藤・原」みたいな感じでしょ。調べてないけど、いい勝負じゃないかな。 「強打の三塁手」という言葉があるけれど、意外に独り歩きしてんだよなあ。 あと、「強打の三塁手」というと、岡本・村上の御両人がいるけど、メジャーリーグに行っちゃったからねえ。埒の明かない仮定である。佐藤は、日本に残って、「日本プロ野球史上最高の三塁手」を目指すのも一つの生き方じゃないの。 さて、本題の「補習」である。 前回の記事で、「プロスポーツ経営にはメディアのコンテンツになる事が必須である。」みたいなことを書いたけれども、その理由ないし原因はよく分からん。前回の記事では、「プロスポーツ興行には情報が必須だから」みたいな事を理由にしたけど、正直なところ、あるいは実際のところ、それが正しい理由かはよく分からない。 ただし、「過去現在を通じて、メディアなしに成立しているプロスポーツはない。」、これは断言できる。すなわち、「経験上確実である。ただし、その論理は分からない。」という奴である。 ただしというか、故にというか、今後、すなわち未来において、この命題「プロスポーツ経営にはメディアのコンテンツになる事が必須である。」が成立するかは分からない。もしかしたら、今後そういうプロスポーツが出てくるのかもしれない。今現在の日本プロ野球がそれに近い状態かもしれないが、今現在はともかく、過去は「巨人戦」いう形でメディアで散々放送されてきたので、その過去の遺産で食っているとも言えなくはない。というか、地上波はともかく、衛星放送やケーブル放送、あるいはインターネット等々で、「プロ野球」は放送ないし配信されているので、「プロ野球」は今現在でもメディアの優良コンテンツではあろう。 で、今「インターネット」という言葉が出てきたけれども、「今後はインターネットがテレビに変わるメディアの主役になるだろう。」と云われ、それはほぼ確定路線であろう。 ただし、この「インターネット」がかつての「新聞」や「ラジオ」「テレビ」と同様の関係をプロスポーツと築けるのか、それは私には分からない。また、「インターネット」と相性の良いプロスポーツ、それも私には分からない。 そもそも、「インターネット」が「メディア」と謂えるのか、それも微妙だと私は思っている。「メディア」というのは、直訳すれば「仲介」「仲立ち」である。「Mid」と語源を同じくする言葉であろう。事実、「新聞」「ラジオ」「テレビ」は、作者と読者、視聴者の中間にいる。「仲介」「仲立ち」している。 一方、「インターネット」はというと、「仲介」「仲立ち」というよりは、作者と読者、視聴者を直接につなげるものであろう。「新聞」「ラジオ」「テレビ」よりは、「劇場」や「映画」、あるいは「郵便」や「電話」に近いものだと思う。実際、「インターネット」は電話回線を使っている訳だしね。 そのへんの問題はともかくとして、今後、「プロスポーツ」と「メディア」、あるいは「インターネット」の関係がどのようになっていくかは、私には分からない。何らかの結論が出るころには、私はこの世にいないであろう。 ただ、現状、プロスポーツはメディアのコンテンツにならないとお話にならない、興行にならない、経営できない、それは確実である。 では、メディアのコンテンツになれず、それでも「プロスポーツ」でありたいのなら、どうすれば良いかといったら、あとはもうただひとつ、誰かさんのペットになるしかないであろう。 前回の記事で、「江戸時代の相撲取りや碁打ち、将棋差しは殿様のペットだった」みたいなことを書いたけれども、それと同じである。ただし、現在は時代が変わり、殿様はいないから、それに代わって、企業や自治体のペットになるしかない。その大なるものが「Jリーグ」であり、その他数多くのアマチュアスポーツ、アマチュアを標榜しながら、実質的にはセミプロといっていい、企業スポーツの一群であろう。 ただまあ、江戸時代の相撲取りや碁打ち、将棋差し達は、ただのペットとなり、俸禄を拝領していれば良いだけであったが、現在だとそれだけは足りず、ある事を強制される。ユニフォーム等々に企業や自治体の広告を入れる。すなわちチンドン屋になる訳である。 どうして、そんな生き方するのかねえ。恥ずかしくないのかねえ。至る所にペタペタと企業ロゴのはいったユニフォームなんて、よく着てられるなと思う。資本主義経済の極みであるアメリカで、かえってそれが無いのが不思議である。あの国は妙なところでピューリタニズムが生きている。 それの全くない日本の自称アマチュアスポーツマンたち、あるいは自称プロスポーツマンたちは企業ロゴベタベタである。自動車レースのようにべらぼうに費用の掛かるスポーツは致し方ないけどな。 と、このように底意地の悪い、辛辣な書き方をしている事からもお分かりと思うが、私はあの手のアマチュアスポーツマンたち、社会人スポーツの連中が昔から大嫌いなのである。1日1時間くらい出社し、新聞読んでコピー取って、あとは「お疲れさ〜〜ん」で練習や試合に向かう。そうして、引退後はちゃっかりその企業に居続ける。 いや、おめーら、仕事しろよ。1日8時間週5で働いて、その余った時間にスポーツするから「アマチュア」なんだろーーが。「アマチュア」を名乗れるんだろーーが。それでは練習時間が足りない、活動時間が足りないというのなら、アルバイト生活をするしかないであろう。「たった一人のオリンピック」である。 こういうのはスポーツの世界独特だと思う。他の趣味の世界には無い。 たとえば、アマチュアミュージシャン、あるいは売れないミュージシャンが「僕の音楽活動に資金を援助してください。その代わり、ステージ衣装や楽器に御社の企業ロゴを入れます。」なんてことを言うだろうか、するだろうか。 あるいは、アマチュア映画監督やアマチュア漫画家が同様の事をして、「僕の映画に企業ロゴ」「僕の漫画に企業ロゴ」とするだろうか。いや、してっかもしれないけど。 あるいは、アマチュア画家がアマチュア小説家が。 その他、この世には様々な趣味がある。旅行、登山、手芸、プラモデル、囲碁、将棋、クルマいじり、走り屋(いや、これは今は禁止。)等々等々等々。彼らは誰も企業や自治体に援助を求めていない。いや、スポーツの世界だって、草野球や草サッカー、テニスクラブのママさん達も求めていない。トップアマチュアスポーツマンだけである。 何故か。 ひとつには「オリンピック」があるだろう。ナショナリズムの高揚である。それ故に、単なるスポーツがあたかも国家事業のように、多くの人々を錯覚させてしまうのである。スポーツマンその人のみならず、経営者や自治体の長、そうして何より一般市民。それらがトップアマチュアスポーツの跋扈を許してしまっているのであろう。その極みが所謂「税リーグ」である。サッカーには、「オリンピック」のみならず、「ワールドカップ」まであるからな。あたかもナショナリズム醸成スポーツである。 もっとも、最近は野球も「ナショナリズム」以外は売るものが無くなってきているので、近い将来、サッカーの二の轍を踏むことになるかもしれんけどな。実際、「プロ野球」のあちこちに企業ロゴが見え始めてるしな。 「オリンピック」については、次回、あるいは次々回ぐらいで書く。 あともうひとつは、スポーツに「勝負」があるという点であろう。スポーツに勝つと、あるいはゲームに勝つと、あたかも現実の勝利のように人は感じてしまうのだ。プレイヤー、観客ともにな。あんなのは幻想に過ぎないのに。 それを象徴するのが、ボビー・フィッシャーの言葉であろう。曰く「チェスを知らないものはバカである。チェスが弱いものは、もっとバカである。」。 いや、これマジでそう思ってからね。フィッシャーに限らず、多くのスポーツマン共通の感情である。かつて、威張りくさってる芹沢九段に対し、二上九段が「将棋が強いって、そんなに立派な事なのかねえ。」と呟いたらしいが、勝負の世界に生きる者は、そういうもんである、そういう人達である。その幻想を堅く信じていなければ、スポーツは続けられない。もっとも、いずれ二上九段のように目を覚ますのだけどさ。その時を境に弱くなっていく訳であるが。 今の世の中、かつても同様だけど、スポーツマンに対して様々な感想や批評、批判を述べている。私もその一人である。でも、そんなのスポーツマンは聞いて無いからな。なぜなら、「あいつらはホームランを打ったことが無いから」「シュートを決めたことが無いから」「100メートルを10秒台で走ったことが無いから。」。彼らにとっては、そのスポーツのみが人間の優劣を決める唯一の指標なのである。 その極みがアメリカの「ジョグス」であろう。スポーツの優劣がそのまま人間の優劣になっているのだ。 アメリカほど異常でなくとも、スポーツをしたことがある人ならば、大なり小なり、このスポーツカーストを経験しているであろう。スポーツの世界では、不思議な事に、レギュラーと補欠は対等に口が利けなくなるのである。レギュラーが威張るという事もままあるが、それ以上に補欠が気後れしてしまうのである。自身が劣等人種のように感じてしまうのである。 これの面白いところ、あるいは残酷なところは、低いレベルでレギュラーだった人が高いレベルで補欠になると、周囲が卑屈に感じるくらい人格が変わってしまうのである。 例えば、ある高校でエースで4番でお山の大将だった人がプロ入りする。すると高校時代、周囲の人間、野球部員のみならず、同校の生徒までも奴隷のようにこき使っていたお山の大将が、ビックリするほど、どこぞの営業職になったのかと思うくらい、腰の低い人間になって帰ってきて、それこそ同窓会でかつての補欠達にお酌して回ったりしている。そうして、かつての補欠はそれを哀しく思っている。「そんなことしないでくれ。お前は俺たちのお山の大将でいてくれ。」と。 こんな話は沢山ある。本当に人格が変わってしまう。スポーツなんて、所詮幻想なのにさ。 尤も、この幻想と現実、すなわち空想と現実の区別がつかないというのは、以前もどっかで書いたと思うけど、人間の精神の最も重要な問題なのであろう。その最も深刻な事象は、申す迄も無く、宗教である。 こんなスポーツ系のサイトを作っているのにオカシイと思われるであろうが、私はスポーツマンを全然尊敬していない。最近流行りの言葉でいうならば、リスペクトしていない。長嶋茂雄やマイケル・ジョーダンだって、尊敬はしてない。野村克也にしたって尊敬はしていない。参考程度である。 なぜなら、スポーツマンは社会的には全くの無価値だからである。土方の方が遥かに有用だろう。 第1次産業、第2次産業、第3次産業という言葉がある。この中で最も重要なのは当然第1次産業に従事している人達である。農業や漁業等々である。次は第2次産業、工場労働者、トラックの運転手、現場労働者等々である。 スポーツマンや芸能人なんていうのは第3次産業の中でも最下層だからな。立派な体格や体力を持っているのだから、本来はそれをホームランを打つ事やタックルする事には使わず、道路工事や鉱山採掘等々に使った方が、社会にとってはるかに有益だからな。スポーツなんていうのは、社会的には体格や体力の無駄使いでしかない。スポーツは、本来的に趣味である。 例えば、今この瞬間に、プロスポーツマンや芸能人が一人残らず消え去っても、誰も困らない。今までと変わらず、生活する。ところが、土方や水道工事のおっさん、交通警備員、農家、畜産業等々、彼らがいきなり消えたら、我々は途方に暮れてしまう、生活が立ち行かなくなる。 故に、スポーツマンや高給を与えるのも辞めるべきであろう。100億円や50億円を与える必要性や理由はどこにもない。2億円か3億円かは分からないけど、生涯平均収入で十分であろう。上限を設けるとか、膨大な所得税率を与えるとかした方が良いと思う。また、その上がり、プロスポーツ団体の収益にも莫大な法人税率を与えるべきだと思う。 それでも、連中はスポーツをするだろう。勝つ事が大好きだからだ。 それ故に、勝つためなら企業や自治体からお小遣いを貰うような生き方でも構わないと思っているのである。それを組織化したのが、「日本サッカー協会」「日本バレーボール協会」等々、各種アマチュアスポーツ団体である。彼らがロビー活動に熱心であり、そこから多くの代議士が生まれるのも当然であろう。そうして、数多くの汚職が生まれるのも当然であろう。自然な成り行きである。そういう仕事なのである。くだらないけどな。くだらない生き方だけどな。精神の自由は経済の自由から。 つう訳で、ちょいと話が逸れたが、スポーツがプロ化する為にはメディアが必須であり、それが無いならば、企業や自治体のペットになるしかない。後者がプロかはともかくとしてね。実際、彼らはその時々の都合に応じて、プロを名乗ったりアマを名乗ったりしている。セミプロっていうのは、そういうもんだ。その肥大化したものがJリーグであろう。Jリーグが「地域密着」に固執するのは、寄生先、あるいはご主人様を企業に限定せず、自治体にまで広げたかったからである。 ただし、第3の道も無くは無い。それは「著しく給料を下げてしまう」という方法である。群小プロレス団体とか各種マイナーリーグがそれに当たる。 選手の給料を一般社会人のそれと同等、あるいはそれ以下にしてしまえば、この方法も無くは無いであろう。「メディアで情報を与える」という事は出来ないけれども、現代は高度情報化社会である。メディアに頼らなくとも、何らかの方法は与えられるであろう。インターネットはその最たるものである。 ただし、これはプロレス以外のプロスポーツ団体では厳しいと思う。なぜなら、プロレスは選手寿命が異常に長いからである。50代60代、いや70代までプレイ(?)、いやショーが出来る。これなら薄給でも、あたかも一般社会の万年平社員の如く、平穏に(?)人生を全うできるであろう。 だが、他のスポーツ団体では厳しい。マイナーリーグのように、人生一発勝負みたいな生き方をしている人が集まるだけで、「就職先」とは言い難いであろう。すなわち、プロスポーツ団体として経営は出来ないという事である。公式化非公式かはともかく、あくまでメジャーリーグの下部組織的な地位に留まると思う。独立は出来ない。メジャーリーグという夢を売る場でしかないであろう。 ちなみに、話はちょっと逸れるが、プロスポーツ、全部ではないけれど、多くのプロスポーツの給与体系は独特である。前回の記事で、「プロスポーツ経営には選手養生費という特殊な費用がある。」みたいな事を私は書いたけれども、給与体系そのものもプロスポーツは独特である。 それはすなわち、「給料が営業成績にリンクしない」という点である。プロスポーツというのは、入場料、あるいは第2の入場料である放映権収入、あるいは各種グッズ収入等々、すなわち「人気」によって支えられている訳であり、その「人気」がそのプロスポーツ、あるいはプロスポーツマンの「営業成績」な訳であるが、その両者は、プロスポーツの場合、リンクしていない。無関係である。 例えば、長嶋茂雄と野村克也は「人気」という側面、すなわち「集客力」という側面では、10倍100倍どころか、1000倍10000倍くらい(それは大袈裟か。)の開きがある。ところが、彼らの給料はそのスポーツの成績によって決定するのである。となると、長嶋と野村の差はほぼ無い。いや、どちらかと云えば、野村の方に分があるかもしれない。故に、野村は長嶋と同等、あるいはそれ以上の給料をプロスポーツ経営者に要求するのである。当然の権利だと思っている。「営業成績」は箸にも棒にもかからないのにね。 南海の経営陣は歯ぎしりしていた事だろう。「いや、オメーは大阪球場を満員にした事、ただの一度もねーだろ。テレビ局が『野村のバッティングを是非とも中継したい』なんて言ってきた来た事、ただの一度もねーだろ。『取材させてくれ。』って言ってきたの、水島新司とかいう小汚ねーマンガ家だけだよ。」(多少、いや大いに脚色してます。)。 でも、野村は、「僕は三冠王を獲りましたんで、長嶋は獲った事ないんで。」といった調子で、しれっと長嶋と同等、いやそれ以上の給料を要求してくるのである。当然の権利と思っているのである。三冠王それ自体は、「集客力」や「営業成績」とは何ら関係ないにもかかわらず、である。 しかも、これをプロスポーツマンは同一スポーツ団体内のみならず、他スポーツ団体ともするのである。比較対照するのである。例えば、Jリーガーがプロ野球選手と比較するのである。「あのプロ野球選手は、キャリア的に僕と同等だから、同等の給料をくれ。」と要求する。カズは清原と同等の給料を要求するのである。いや、これは同じくらいの「集客力」かな。Jリーグとプロ野球では経営事情、財務事情が全然違うにもかかわらず、である。 こういうのはプロスポーツ独特の現象、事情であろう。一般社会ではありえないし(多少はあるのか。)、プロスポーツと似たようなエンターテイメント産業、例えば歌手とかマンガ家の世界でも同様の事は無い。彼らの給料や収入は「営業成績」と直結している。まあ、彼らの世界には「印税」というものがあるけれど、それを抜きにしても、例えばテレビ出演料とか原稿料とかは人気に直結している。人気のある歌手やマンガ家ほど高い。「歌の上手さ」や「画の上手さ」は給料や収入とは全然関係ない。リンクしていない。 これは、先の「選手養生費」以上に、数多くのプロスポーツ経営者を悩ませた事であろう。かといって、「集客力」や「営業成績」だけで選手を選別していたら、全員ジャニーズになっちゃうしな。実際、ジャニーズチームがプロ野球では最も安定した「集客力」を得るんだろうけどさ。それを「プロ野球」と言ってよいかは難しい問題ではあるが。 でも、女子プロスポーツは似たような事をしてるよね。すぐ脱がそうとする。あるいは、脱ごうとする。 エロくなってきたので、今回はこれくらいにします。以下次回。いつまで続くのやらやら。 春ですね。2026/3/1(日) |
| 補習その10 | 当サイトでスポーツマンの悪口を書いていたら、タイムリーにスポーツマンによる不祥事が報ぜられた。流通経済大学のサッカー部員が麻薬所持で逮捕されたそうである。 この事件そのものについて云々するつもりは無い。麻薬所持者がたまたま流通経済大学のサッカー部員だったというだけの話かもしれないし、あるいは流通経済大学のサッカー部が麻薬流通の温床になっているのかもしれない。それは分からない。また、そのサッカー部員の麻薬所持と大学やサッカー部に罪と罰のいかなる関係があるのか、それも私には分からない。 ただまあ、この手の事件が報じられる度に毎度目にするのが、「学生スポーツは教育の一環」みたいな、それこそどこぞのニュースキャスターあたりが無責任に発言しそうな論調である。 大昔にもどこかで書いたと思うが、スポーツは教育の一環にならねえ〜〜〜〜。むしろ、教育、とりわけ道徳教育には悪影響、反価値である。 道徳とは何か。簡単に定義すれば、「自分の幸福や利益、快楽より、他人の幸福や利益、快楽を優先する」という事である。端的に言えば、「利他的な行為」である。ありとあらゆる「道徳的行為」には必ず「利他的」という概念が含まれている。例外は無い。その行為が道徳的か否かを判断する唯一の基準は「利他的」である。 尤も、どの程度まで「利他的」なら道徳的かといったら、それはなかなか、というか究極的に難しい問題であろう。 太宰治の「人に迷惑をかけずに生きようとしたら、自殺するしかなくなる」とか、ショーペンハウエルの「最も道徳的な生き方は飢えによる自殺である」とかいった言葉はそれを指している。人に一切迷惑をかけない、道徳的に完璧に生きようとしたら、それはとどのつまり自殺しかなくなるであろう。私が生きているというのは、誰かに迷惑をかけているって事である。単純に言ったって、豚や牛、サンマやエビ、大根やトマト等々は私が生きるために死んでいる訳だからな。所謂「原罪」って奴である。 ちなみに、「あいさつ」とか「上下関係」なんて道徳じゃないからな。道徳とは何の関係もねえからな。場合によっちゃ、反道徳的ですらある。サルだった頃の名残りだよ。 実際、「あいさつ」や「上下関係」なんていうのは、ヤクザとか体育会、芸能界みたいな下等な人間集団で横行する悪習である。まさしく、サルだった頃の名残りである。例外として、軍隊にも「上下関係」があるが、これは戦闘組織として必須の技術、制度であって、「道徳」ではない。 また、ここまで極端、極論でなくとも、「利他的」には微細な様々なレベルがある。「他人に迷惑を掛けない」という「マイナスにならない」から、「他人の幸福、利益、快楽に積極的に寄与する」という「プラスになる」まで種々雑多々なレベルがあるだろう。 一見では判断しにくい行為が沢山ある。 例えば、ある人が楽器、ピアノでもギターでもなんでもいい、楽器を演奏していたとする。それを近くで聴いていた人がその演奏を楽しんだとする。 これは道徳的行為か否か。演奏者その人は楽器を演奏する事自体が楽しみであるから、これは「利己的」行為である、すなわち道徳的行為ではない。ただし、それを聴いていた人はその演奏を楽しんでいたのだから、その意味では「利他的行為」、すなわち道徳的行為である。どちらなのだろう。 そうして更に、その周囲でそれを聴いていた人が「うるさい」と怒鳴りこんできたとする。そこでその演奏者はその人の迷惑になると思い、その演奏を辞めたとする。これは「利他的」であるから、道徳的行為であろう。ところが、その演奏を楽しんでいた人にとっては不幸な事であるから、それは排他的行為、非道徳的行為となる。 貧乏アパートでレコードを聴いていても、同じような事になるよね。右隣の人が「うるさい」と怒鳴りこんでくる一方で、左隣の人は「タダで音楽が聴ける」と喜んでいたりする。 これはこの手のカテゴライズには付きものの「境界線問題」なのであるが、それはいい。 ただ、スポーツが純粋に「利己的な活動」、ついては「非道徳的活動」であること、これは火を見るよりも明らかであろう。スポーツとは、つまり勝利を奪い合う活動である。そこに「利他的なもの」は一切ない。 勿論、チーム内で「利他的な行為」はある。「犠牲バント」みたいなものである。でも、結局のところ、それはチームとしての勝利を目指すものであるから、それは最終的には「利己的な行為」である。 実際、スポーツの世界には「殺す」「刺す」「盗む」「奪う」みたいな言葉が横行しているし、「パンチ」「キック」「タックル」「ブロック」みたいな日常生活で同様の事をしたら即ブタ箱行き的な行為も横行している。それらは全て「プレイ」すなわち「遊び」だから許されている訳である。「空想」だから許されている訳である。 ちょうど映画やマンガ等々フィクションの世界での「ヒーローもの」みたいなものである。珍妙なカッコはともかくとして、自分の勝手な正義で悪人を罰し、あまつさえ殺害してしまったら、それこそブタ箱行き、いや精神病院行きであろう。実際、アメリカの田舎町あたりだと、この手の「私刑」「ビジランテ」は実際あるらしいけどね。それはともかくとして、こういう行為は近代国家、市民社会では絶対許されない。それはあくまで「空想」の世界だけで許される話である。 また、近代国家、市民社会でなくとも、高度な政治体制下ではそれらは当然許されない。例えば、日本の時代劇の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」「大岡越前」等々で描かれる物語が、実際の江戸時代で起こったら、それこそ「お家取り潰し」レベルの問題となるであろう。「赤穂浪士」というのは、そういう話である。だから、実際に江戸時代を生きた人々の胸を打った、いや身に沁みたのである。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」「大岡越前」等は、江戸時代を生きた人々にとっては噴飯もの、ギャグマンガ扱いであろう。 また、ヒーローものやヤクザものの出演者が現実の世界でも映画やドラマと同様の行為を求められて困惑するなんていうのは、これと同等の話である。 つう訳で、この手のフィクション、そうしてリアルに見えながら、実はフィクションであるスポーツの世界で「是」とされる事は、現実の世界、一般社会においては「非」である。すなわち、非道徳的行為である。あるいは反道徳的行為である。 実際、スポーツの世界で活躍した人は皆、非道徳的、あるいは反道徳的な人でしょう。長嶋茂雄、マイケル・ジョーダン、ベーブ・ルース、タイ・カップ等々。ボクシングの世界の二大スター、モハメド・アリとマイク・タイソンはともに収監されている。そういうもんである。スポーツの世界で成功した人に品行方正な人、理想的な一般市民なんていない。少なくとも私は知らない。王や衣笠も理想的な市民とまでは云えないでしょう。 故に、人を立派に育てたいのなら、理想的な市民に育てたいのなら、スポーツからは極力遠ざけるべきである。君子は争わず、必ずや射あらん。 一昔前、いや今でも同様かもしれないが、「不良少年にスポーツをさせて、更生させよう。」みたいな考え方があり、大量に実行されている訳であるが、更生した例なんてひとつも無いからな。むしろ勘違いさせるだけであろう。されは先に書いたように、一般社会で「非」とされている事が、スポーツの世界では「是」とされるからだ。スポーツをする前と同じ事をしているのに、今までは叱られたことがココでは褒められる。そんなの「更生」した事にはならないでしょう。 実際、金田にしても張本にしても、スポーツの世界で素晴らしい結果を残したけれども、人格的には何ら改善されていない。悪化とまでは云わないが、「変わらない」が結論であろう。「スポーツの世界に入った事で、ヤクザにならずに済んだ。」くらいはあるかもしれないけどな。 さて、本題の「補習」である。 前々回の記事で、「メディアのコンテンツになる事がプロスポーツ経営には必須である」みたいなことを書き、前回の記事で、「それ以外の方法は、企業や自治体のペットになるか、給料を安くするかの二つしかない」みたいなことを書いた。 その後、ふと思ったのであるが、第4の方法として「ギャンブルの対象になる事」というのはあるのかもしれない。競馬とか競輪、オートレース、ボート等々の所謂公営ギャンブル的なものである。 ただまあ、よくよく考えてみると、ギャンブルは経営の補助、貴重な副収入になっても、「放映権」のような収入の柱、軸にはなりそうもない。実際に、地方の公営ギャンブルは衰退の一途であるし、日本はともかく、フランスやアメリカ等々の世界の競馬も経営はよろしくないらしい。なにしろ、「ウマ娘」が最後の、あるいは唯一の切り札だってくらいであるらしい。 やはり、そのスポーツそのもの、競馬でも競輪でも、その競技そのものの人気や魅力が無いと、それこそメディアの人気コンテンツになるくらいでないと経営は厳しいのであろう。実際、日本の競馬史上最高の収益を上げたのは、おそらくオグリキャップ時代であろう。ギャンブルとは無縁である。ちなみに、このオグリキャップ人気を支えたのも、我々団塊ジュニア世代である。団塊ジュニアは常に消費の主役だったのだ。生産の主役にならなかったのがダメなところなのであるが。 もっとも、このプロスポーツにおけるギャンブルの実態がいかなるものであるのか、正確なところは私には分からない。そのギャンブルによる収益、すなわちテラ銭が経営にいかに作用しているか、私には分からない。もしかしたら、上手くやる方法があるのかもしれない。あるいは、上手くやっているのかもしれない。 ただまあ、トトがあってもJリーグは赤字なのだから、それが経営の切り札にはならないという事なのだろう。実際、ギャンブルが好きな人、ギャンブラーはトトや公営ギャンブルのようなしちめんどくさいギャンブルは好まないだろうしね。もっと手っ取り早い、あるいは自力で勝負できるギャンブルを好むであろう。トトや公営ギャンブルを嗜む人は、やはりその競技そのものが好きな人、サッカーが好き、競馬が好き、競輪が好き、オートレースが好き、競艇が好きというような人達なのだろう。ギャンブルが好きでそれらを嗜んでいるのではないと思う。実際、これらのギャンブルを全部やっているって人は、あまり聞いたことが無いしね。ギャンブルはあくまで副次的なものなのだと思う。 ちなみに、この手のギャンブルがNFL(アメリカにはあるけどな。)やプロ野球にあったら、私はそこそこ儲ける自信がある。ただ、その予想の多くはオッズと一致しているだろうから、莫大な利益にはならないだろうし、その研究に費やす時間はそれなりの量になるであろうから、結局、コンビニで「お弁当、温めますか。」言っているのと大して変わらぬ成果になるであろう。「神の見えざる手」は最終的には真理なのだ。 「神の見えざる手」は色々批判されているけれども、結局は真理なのだと思う。長く生きていると、しみじみそう思う。エネルギー保存の法則は万物に作用するのだ。 これを批判したのは、近代経済学者達である。これに限らず、古典経済学者の提唱した事の多くを近代経済学者は批判してきた。その急先鋒であり、結果的に最も恥をかいたのはマルクスであり、ケインズがそれに続くであろう。結局、古典経済学者らの言う事の方が正しかったのだ。というより、経済学で何らかの結論を出せる事、真理は、ほぼ古典経済学者が提出してしまっているであろう。それ以上の事は人間には分からない。 ただまあ、それでも学者は何らかの新説を提出しないとオマンマ食い上げであるから、何らかの新説を提出せざるえない。以前の人たちと同じ事を主張する訳にはいかない。それでは無価値である。そこで、以前の人たちに反対するような、あるいは異を唱えるような論文を書く。講義をする。で、恥をかいたのがマルクスでありケインズであろう。 この手の事象は社会学に限らず、ほか多くの学問でも見られる。唯一の例外は数学である。完璧に反証できるからである。しかし、数学以外の学問では、自然科学も含めて、なかなか反証は難しい。とりわけ、社会学なんていうのは、なんとでも云える学問である。かつての神学同様、有象無象珍説奇説のオンパレードとなるであろう。まあ、「なんとでも云える」という段階で、それは既に「学問」ではないのだけどな。 で、ちょっと話を戻すが、先に私は「NFLやプロ野球の予想を当てる自信はあるが、儲からないのでやらない」みたいなことを書いたが、資産が莫大ならば、ギャンブルに大量に資金を投入できるならば、話は別である。大きく儲かるであろう。 かつて、競馬の予想番組で、アンタッチャブルのザキヤマが「ディープインパクトに一億円」っていうのをやってたけど、それと同じ理屈である。もしかしたら、ディープインパクトでなかったかもしれないが、とにかくその時の最強馬、大本命のオッズが1.1倍であったので、他の出演者がそれに賭けるのをためらっていた中、ザキヤマが「ディープインパクトに一億円」をやった訳である。 結果的には、そのレースでディープインパクトが快勝し、ザキヤマは正解だった訳であるが、一億円を一億一千万円に増やしたか、それは分からない。 でもまあ、結局ギャンブルとは、そういうものであろう。ジョジョのポーカーじゃないけど、結局は資金がモノを言うのである。資金が多い方が絶対的に有利なのだ。 それは、最終的にはギャンブルである商売でも同様である。いつの時代、どの世界でも、財閥とかコンツェルンというようなものが、その時々で名称を変えながらも、生まれてくるのはそれが理由である。資金が多ければ多いほど、商売は有利になるからである。最近ではホールディングスとか言うのかな。 もっとも、資金を潤沢に持っていたら、それこそ一億円持っていたら、ギャンブルなんかしないけどな。する必要が無いけどな。「神の見えざる手」はここでも働いている。 では何故、莫大な資産を持ちながら、ギャンブルしたり、商売したりする人たちがいるのか。それは「お金を殖やす」以外の理由があるからである。それ以上の言及は野暮というものであろう。 ちょいと話が逸れたが、結局のところ、「スポーツ経営にメディアは必須」という私の主張、いや結論は変わらない。 でまあ、それを得られなかったら、企業や自治体のペットになるか、薄給で我慢するかの二択しかない。上述したギャンブル化は、論理は不明だけど、経験的には切り札とはなっていない。 で、そうした中で収益を増やすためにはどうするかといったら、結局、「第一の入場料」であるところの入場料収入を増やすしかない。「チケット代を上げる」、「入場者数を増やす」である。 でもまあ、何度も書くが、それらはプロスポーツ経営においては無意味無価値は数値、努力である。10万人の観客を年間100試合ほど主催出来るなら話は別であるが、それだけの動員力を誇るスポーツなら、メディアがほっとかないであろう。何らかの形でコンテンツにする訳である。「神の見えざる手」はここでも働いている。 5万人の観客で年間50試合くらいが現実的な数字であり、現今のプロ野球がそれに近いが、それでもトントンか、やや黒ぐらいであろう。結局、今のプロ野球を支えているのは、「巨人戦」は失ったとはいえ、ラジオや地方局、衛星放送等々の「放映権収入」である。 勿論、平均チケット代を5万円とか10万円とかにすれば、話は別であるが、そうしたら、今度は客足が悪くなるであろう。それでも、客足が鈍らないのなら、メディアのコンテンツ。「神の見えざる手」である。 つう訳で、入場料や観客数、試合数はプロスポーツ経営にとっては、無意味無価値な概念といってよいと思う。その最も分かり易い事例は、なんといってもNFLであろう。 8万人前後の観客、ホームで8試合、今は隔年8試合9試合であるが、それで成立している、潤っているのがNFLである。 概算してみよう。 仮に平均チケット代を1万円とする。日本円にした方が分かり易いと思うので、ドル表記にはしません。すると、8万人×1万円なので8億円。これが1試合の入場料収入である。で、8試合か9試合。プレシーズンやプレイオフもあるし、分かり易いので年間10試合で計算する。すると、80億円。これが、NFLの「入場料収入」である。 これじゃあ、全然足りないであろう。選手の給料も払えない。QBとLT、エースレシーバー、エッジラッシャーに支払ったら、それで終了である。この4人のみで試合をするしかない。ヘッドコーチもコーディネーターもいない。 勿論、現実にはロースター50人程度、その他諸々の人員も配置して、チームは運営されている訳であるから、総収入80億円の訳が無い。 どこで増やすか。座席数と試合数は、増やすのが難しい。平均チケット単価か。平均チケット単価が3万円とか5万円なら、それぞれ240億円、400億円になる。240億円では厳しそうであるが、400億円ならトントンであろう。でも、5万円の平均チケット代で客が来るだろうか。それで来るなら、やっぱり「神の見えざる手」になる訳である。 でも、現実的にはトントンでは無いし、アーセイのような専業オーナーもいて、そのアーセイはギター道楽に呆けるくらいの金持ちであったのだから、NFLチームは黒字経営な訳である。その根拠、金のなる木は、申す迄も無く「放映権収入」であろう。 「放映権収入で成立するプロスポーツ」の究極的な事例は、なんといっても、プロボクシングである。オスカー・デ・ラ・ホーヤ等々がPPVで膨大な収入を得ている。実際、ボクシングやプロレスといった格闘技は「放映権収入」が無ければ、話にならないプロスポーツであろう。 日本のプロレス史上、最も稼いだのはジャイアント馬場であろうが、それは何故かといったら、馬場の全盛期、60年代から70年代にかけて、プロレスはテレビの優良コンテンツだったからである。一時期は全民放でプロレスを放送していた。それが、馬場の高額なファイトマネーの根拠である。その後の「全日本プロレス」は馬場のポケットマネーで運営していたと言われているが、その資金はここで稼いだ訳である。あと、アメリカ時代もあるけどな。 格闘技が他の競技以上に「放映権収入」頼みにならざるえないのは、先にちょりっと書いたが、「座席数と試合数は、増やすのが難しい。」からである。 格闘技の座席数はベストが2000人で上限が1万人だと言われている。後楽園ホールがベストで、両国国技館が上限である。 で、試合数は、無論無茶な事は出来ない。ピストン堀口は年間100試合くらいこなしていたらしいけどな(これは大袈裟)。 格闘技に限らず、スポーツには各競技ごとに座席数と試合数の上限がある。 例えば、バスケットボールやバレーボールといった体育館で行われるスポーツは、格闘技同様、1万人くらいが上限であろう。現行のNBAでは2万人規模のアリーナであるが、これはかなり無理をしている。また、テニスもこれに準ずるであろう。 野球は、かつては5万人であったが、実際は3万人であった事が最近バレた。実際、3万人が上限で、無理して5万人といったところであろう。 フットボールやサッカーは5万人が上限で8万人10万人は無理をしている数字である。 ゴルフは、これはちょっと事情が異なるかな。 この上限値は、無論、建築技術で決まる訳ではない。現代の建築技術を以ってすれば、100万人はともかくして、20万人30万人収容できる球場を建設する事も不可能ではないであろう。ちなみに、一昔前には南米で10万人レベルのサッカースタジアムがあったのであるが、よく壊れてた。今はどうか知らん。 南米の建築技術、あるいは建築倫理はともかくとして、各競技場の収容人数の上限を決めるのは建築技術ではない。フィールドやコートと観客席との距離で決まる。 「60ミニッツ」の番組の最後でコラムを担当しているじーさんはスーパーボウルを現地観戦する事を自身に課していた。もしかしたら、第1回から現地観戦しているのかもしれない。 でもまあ、そういう業界人でもスーパーボウルのチケットを入手するのはなかなか難しいらしい。その年のスーパーボウルは貧乏席、すなわち最上階から観戦した。無論、フィールドはマッチ箱程度の大きさ。何も分からない。仕方なく、大型モニターで試合観戦した。 で、ふと思ったのが、「いや、これなら自宅で見た方がいいじゃろ。」。「結局見ているのは同じテレビ映像であるし、自宅なら暖房が効いて、ピザもビールも食べ放題飲み放題である。高い金を払って、ブルブル震えながら、テレビ観戦している私はバカなのか。いや、バカか。」。 で、「来年から辞めよう。」と思ったかどうかまでは知らないが、座席数にはどうしても上限がある。最近のプロスポーツ会場は、収益目当てで無理しているので、このじーさんのような犠牲者が多数発生している。 今ここに書いたのは上限値なので、ベストはもっと少ないであろう。バスケットボールやバレーボールは2000人、野球は1万人、サッカーやフットボールは3万人程度であろう。それを超える観客は、このじーさん同様、無理を強いられている訳である。 ここに、「野球は1万人がベスト」と書いたけれども、実際はもっと少ないかもしれない。外野席では「野球観戦」は出来ないでしょう。彼らが「応援」に熱中しているのも無理は無いと思う。外野からだと、よほど視力が良くないと、コースはともかく球種は分からんしね。 そう考えると、実際に「野球観戦」出来るのはバックネット裏だけなのかもしれない。もっとも、私のように高っっっいところから、すなわち貧乏席から(球場は高い所ほど、チケット代は低くなる。座席の高さとチケット代の高さは反比例の関係にある。)、野球を眺めるのが好きという御仁もそれなりにいるであろうから、この「ベストと上限」問題は一概には断ぜえないのだけど。 それはともかくとして、座席数には上限がある。これもプロスポーツ経営において「入場料収入」を当てに出来ない理由の一つである。上限が、それも結構低いところにある。 あと、試合数であるが、これも各プロスポーツ目一杯であろう。 プロ野球なんて、この週休2日制のご時世に週6でゲーム、すなわち働いとる(3ヶ月くらいは休んでるけどな。)。 大相撲は年間6場所に地方巡業。 NBAも一時よりは軽減されているが、それでも限界ギリギリであろう。 NFLやボクシングは、健康上の理由から、これ以上増やすのはなかなかに厳しい。 プロレスは滅茶苦茶。まさしく、命をなげうって興行しとる。それでも、一時よりは軽減されたのかな。 まあ、仕方がない。プロスポーツが収入を増やすためには試合をするしかないからな。試合をしなければ、テレビ放送も無い。一般商店が週6で開店しているのと同じ理屈である。コンビニに至っては年中無休24時間営業である。儲けるためには、限界ギリギリまで働くしかない。 ただ、そんな中、唯一の例外がサッカーである。週一営業って、そんな商売あるか〜〜〜い。 つう訳で、次回はサッカーの週一営業の話。 2026/3/8(日) |
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| 補習その11 | いや〜、盛り上がってますね〜〜、WBC。全然見てねーけど。ゲームパスすらケチる私がネットフリックスなんか入るかいっ。 イタリア代表が張り切っているそうですな。 でも、これでもしもイタリア代表が優勝しちゃったら、サッカーと野球という二つのスポーツで世界チャンピオンって事である。これって、なかなかの壮挙じゃないの。しばらく破られない大記録になると思う。 これに続く、というか、現時点で最も近い位置にいる、すなわち両方のスポーツで好成績を残している国といったら、メキシコになるであろうが、どちらもチャンピオン経験は無い。 となると、それに近い国といったら、日本、韓国、アメリカあたりになるのだろうけど、この三国がサッカーW杯で優勝するのは、なかなかに厳しい道のりであろう。 一方で、ドイツ、、スペイン、ブラジル、アルゼンチンといったサッカー強豪国が野球でチャンピオンになるのは、それ以上に厳しい道のりであろう。 となると、この偉業に最も近い位置にいるのはイタリアという事になるのかもしれん。 また、これがサッカーとバスケットボールならどうなのだろう。スペインあたりは両競技で世界チャンピオンになっているのかしら。メンドくさいから、調べんけど。 この考え方、というか、この見方をさらに拡大して、全然異なる競技で世界チャンピオンになっている個人はいるのだろうか。それこそ、「100メートル走」と「100メートル自由形競泳」の2種目で世界チャンピオンなんているのだろうか。いや、いねーだろうけどさ。 勿論、似たような競技の似たような種目で世界チャンピオン、すなわち複数金メダリストはいる。我々の世代だと、無論カール・ルイスであるし、競泳の世界にはそういう選手は多いだろうし、格闘技の世界における複数階級チャンピオンも沢山いる。 でも、全然違う競技での世界チャンピオンはさすがにいないであろう。上述した「100メートル走と100メートル自由形競泳」とか「柔道と競歩」とか「テニスとゴルフ」とか、言い出せばいくらでも出てくるだろうけど、そんな人は未だかつて一人もいないと思う。 微妙に近そうな競技なら、有り得そうな感じもするのだが、難しいのだろうか。「テニスと卓球」とか「カーリングとボウリング」とか「レスリングと重量挙げ」とか、いてもおかしくなさそうではある。 「100メートル走と100メートル自由形競泳」だって、同じような筋肉を使いそうなスポーツなのだから、やればやれそうな気がする。いけばいけそうな気がする。 当サイトで何回か書いている通り、私は「二刀流不要論者」ではある(「二刀流不可能論者」ではない。読み間違えんなよ。)。そんな私でも、「そんな挑戦をしてみたら。」と思わなくはない。まっ、無駄な努力だろうけど。「二刀流不要論」の唯一の根拠である「無駄な努力」ではあろうけど。 一昔前は、それこそボー・ジャクソンとかディオン様のように異なる競技でハイレベルのプレイをする選手はいた。また、橋本聖子も確か自転車で夏のオリンピックを狙っていた。 だから、大谷の二刀流同様、それは決して無理な相談ではないと思う。肉体的物理的には十分可能な事であろう。ただまあ、やる意味、やる理由は無いけどな。ボー・ジャクソンやディオン、橋本聖子、大谷が証明したのは、むしろそこだと思う。「二刀流はやる意味が全くない」って事である。 ただ、そこは男のロマン、女のロマン、その無茶、無駄な努力に人生を賭ける若者が出てきても良いのではいだろうか。まっ、オレはやらんけどな。 で、やるんだったら、狙うんだったら、全然違うスポーツの方がおもろいよね。「カーリングと棒高跳び」とか「射撃とスノーボード」とか「新体操とボクシング」とかね。 で、おそらく最も難しい、達成困難なのは「100メートル走とマラソン」であろう。この両種目で世界チャンピオンになったら、人類史は大袈裟かもしれないが、世界スポーツ史に不朽の名を残すことになると思う。あと、「相撲とマラソン」とかな。「ボクシングとマラソン」はいけそうだけど。 で、話は変わって、というか、同じくWBCに関連して、「野球における守備」に関する話である。 一般に、野球というスポーツにおける守備の価値は低い。私の大嫌いなセイバーメトリクスも同じような事を言っているだろうし、私も同じ考えである。 今、ここで私は「野球における守備」と書いたけれども、それは所謂「ピッチャーを含めた守り」ではなく、「ピッチャーを含まない守り」、すなわち純粋な野手の守備、より平たく言えば、「エラー」である。 野球というスポーツにおいて、エラーの多寡はさほど重要ではない。なぜなら、野球はほとんどエラーをしないスポーツだからである。草野球レベルはともかくとして、プロ野球、またそれよりちょいとレベルの落ちる学生野球等々、所謂「マジメにやっている野球」においては、ほとんどエラーの出ないスポーツ、それが野球である。 単純に考えて、「守備の下手な選手」「エラーの多い選手」でも1シーズンのエラー数は20個程度である。7試合に1回程度である。そうして、プロ野球の1シーズンの試合数というのは、メジャーリーグもおおよそ同数であるが、150試合前後。そこで6割の勝率を上げれば優勝というスポーツである。敗戦数は、およそ70前後。仮に、そのエラーが全て敗戦に直結したとしても20敗。70には遠く及ばない。 まあ、勿論、エラーは他の選手もする訳であるが、一方でエラーが敗北に直結する事もそんなに多い訳ではない。試合の勝敗に直結しないエラーも多いであろう。 故に、スターターやレギュラーを決める、すなわち野手の選考の際には、「守備より打撃を重視」となる。 実際、最近では、キャッチャーのような典型的な守備型のポジションでさえ、打撃力が強く求められる。 また、キャッチャーに次ぐ、というか、キャッチャーと同等、あるいはキャッチャー以上に守備型のポジションであろうショートストップでさえ、打撃が求められる。 かつて、宮本が述懐していた。「僕は守備でレギュラーを獲った選手なんですけど、それでも、あまりに打てないとレギュラーを外されるんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしてた。3割とはいわないけど、最低でも2割8分は打ちたいと思っていた。」。 実際、昨季までのセントラルリーグのようなDH制を布いていない野球で、キャッチャーとショートが打てないと、ピッチャーを含めて、7番8番9番が自動アウト、すなわち1イニング、1試合では計3イニングを丸々捨てる事になるので、これは結構イタイ。となると、キャッチャーとショートのどちらかが打撃重視のラインナップとなるであろう。 キャッチャーやショート以外のポジションでは、その指向はより強まる。守備のあやふやな選手が打撃力を買われてラインアップに名を連ねる。具体名を上げれば、マニエルや岡田、ラミレス等々である。 そうして、それでも十分勝てるのである。メジャーリーグは分からないが、日本のプロ野球においては、そういう打撃重視のラインアップで優勝するチームはままある。最も有名なのは1985年の阪神であるし、それに次ぐのが2001年の近鉄であろう。 一方で、打撃力も投手力もないが、守備重視の布陣、鉄壁の守備で優勝したというチームを私は知らない。ボイヤー・米田の鉄壁の三遊間の大洋は万年Bクラスである。また、80年代前半のヤクルトも、角・水谷という広岡直系の優れた三遊間を誇っていたけれども、やっぱり万年Bクラスであった。そういうチーム、「守備はいいんだけど、」というチームは多々ある。 また、野球には「守備固め」という戦術もあるしね。 また、守備位置をぞんざいに決める監督も多い。典型的なのは野村監督であろう。飯田に一度も守った事のないセカンドをいきなり守らせたり、秦のライト、ミューレンのサード等々である。所謂「正面だけ捕ってくれ」って奴である。それでも優勝してしまうのだから、野球というのはそういうスポーツなのだろう。 そうして、そういう守備軽視、エラー軽視の戦術の根幹は何かというと、それは申す迄も無く、野球における守備のほとんど全てを担っているのがピッチャーだからである。多少、いや著しく守備が悪くとも、ピッチャーが良ければ失点は防げるし、逆に守備が良くても、ピッチャーが悪ければ失点は防げない。先に挙げた大洋やヤクルトはそういう事例であろう。 野球というのは、エラーを計算に入れていない、エラー無しで設計されているスポーツである。 た・だ・し、例外がある。それはトーナメント制の野球、分かり易く言えば「高校野球」である。これははっきり守備重視である。エラーは許されないといっていい。 トーナメント制、とりわけ高校野球は優勝するためには、地方大会から数えて、その都道府県にもよるが、おおよそ10連勝くらいしなければならない。 先に私は「エラーの多い選手でも7試合に1回程度」と書いたけれども、7試合に1回という事は、10試合なら必ず1回はエラーするという事である。そうして、そのエラーが致命傷なら、そこで即終了が高校野球、トーナメント制の野球である。 そんな選手は怖くて使えない。 高校野球のスターターは最低でも10試合ノーエラーの選手が必須である。 何回か前の記事で、私は「宮本・立浪コンビ」について触れたけれども、あの場面、すなわちレギュラーの深瀬の負傷欠場が決定した時点で、中村監督が宮本を起用したのはそういう理由であろう。 当時の宮本がどういう評価の選手であったかは知らないが、普通に考えれば「守備の上手い選手」であろう。そこで、中村監督は「深瀬のように打てる選手」ではなく、「深瀬のように守れる選手」を起用したのだと思う。それが宮本だったのだろう。 「深瀬のように打てる選手」なら他にもいたと思う。それこそ片岡をサードに回して、他の選手をファーストにっていう起用法もあったと思う。それをしない、出来ないのが高校野球、トーナメント制の野球なのである。 先に私は、「野球は打撃重視でラインアップを決めるべきである」みたいなことを書いたけれども、高校野球、あるいはトーナメント制の野球はその逆、すなわち「守備重視でラインアップを決めるべきである」にならざる得ない。10連勝を目指すというのは、そういう事である。 まして、高校野球である。10代の若者の野球である。一発のエラーでチーム全体が動揺する。それで崩れていったチームを私は数多く見てきた。 また、プロ野球ならば、ロースターの半分はピッチャーである。ちょっと悪ければ代えちゃえばいいって策が採れる。ところが、高校野球は1チームに2,3人しかピッチャーはいない。いや、本当に使えるピッチャー、勝負できるピッチャーは1人しかいないチームがほとんどであろう。いや、そういうピッチャーもいないチームが大半であろう。高校野球の多くのピッチャーは、「とりあえずストライク投げてくれ。あとはバックが何とかするから」である。 また、高校野球を見ていると、ベンチから出てくる選手、すなわち代打の選手の方がバッティングセンスの良いチームが多い。「なんだ、一番バッティングセンスがいいのがベンチにいるのか」みたいなチームは多い。 それはそういう事なのであろうし、また、そういう選手、チーム一打力のある選手をあえてベンチに置いておくという戦略なのであろう。どんなに良いバッターもどうでもいい場面の打席なら、宝の持ち腐れである。一番良い場面で使いたいという訳なのであろう。「守備固め」と正反対の考え方である。正しい戦略だと思う。 高校野球の監督が皆、それこそ示し合わせたように口を揃えて「守備が大事、守備が大事」というのは、こういう理屈が分かっているというよりも、経験上、イヤっていう程それを知っている、痛感しているからであろう。 実際、「守備だけならプロレベル、いやプロ以上」ってチームは高校野球には多々ある。 ただし、この高校野球が、プロ野球選手のみならず、日本の野球選手全てのスタイルを規定してきた、限定してきたという側面もある。日本の野球選手で高校野球と無縁の選手、没交渉の選手はまずいないだろうからだ。そうして、そのスポーツのフォーマットやレギュレーションはそのスポーツのスタイルを規定する、限定する。 具体的に言えば、日本の野球の特徴である「打力不足」と「堅実な守備」はこれに由来しているだろう。あと、「消極的な走塁」もそれに加えられるかもしれない。 「堅実な守備」というと聞こえは良いが、それはより詳しく言えば「アウトを獲る事よりエラーしない事を重視する守備」である。逆シングルとかスナップスローの問題はここに起因する。 こんな風に書くと、これは日本の野球の欠点であり、実際、日本の野球のレベルの低さの一因、それも大きな一因ではあるのだが、無論良い面もある。 それはまさしく、今現在開催中のWBCのようなトーナメント制の野球大会である。WBCで日本が好結果を出しているのは、このトーナメント制に慣れている、トーナメント制の野球の戦い方を、戦略的戦術的以前に、本能レベルで知っているからであろう。 その一方で、アメリカや中南米のチームがその実力どおりの結果をイマイチ出せないのは、やはりトーナメント制の野球が分かってないって事なのだろう。ラインナップも、リーグ戦のような「打撃重視」で組んでいるしね。 韓国や台湾、ヨーロッパ等々、他の地域はよく分からん。 実際、中南米はともかく、アメリカの野球選手の多くはトーナメント制でプレイした経験はほとんど無いと思う。アメリカでトーナメント制の大会といったら、バスケットボールくらいしかないんじゃないかな。アイスホッケーは全然分からが、フットボールだと決勝トーナメントが数試合あるのみである。 アメリカの野球の場合だと、決勝トーナメントでも所謂「シリーズ制」が大半であろうから、「一戦必勝」の野球は彼らの多くは経験してないと思う。実際、今回のアメリカ代表も、件のイタリア戦が予選リーグでなく、決勝トーナメントだったら、そこで終わってた。 ちなみに、この「トーナメント制」というのは、野球に限らず、日本のスポーツ界の一大特徴であると思う。いつぞやも書いたけれども、日本人は一ヶ所に集まって、トーナメント制の大会を開催することを非常に好む。その極致は高校野球であろうし、都市対抗野球も同様であろう。一会場ではないけれども、一地域に集まってのトーナメント制の大会という意味では、高校サッカーや高校ラグビーも同様であろう。そのほか、国技館や講道館等々で開催される格闘技大会も同様である。 ちょいと様相が異なる、敗戦が許されるのは大学野球であろうが、それでも一ヶ所開催ではある。 まあ、日本の場合は土地が狭いので、スポーツ大会はどうしても一ヶ所に集まりがちであり、となればトーナメント制とならざる得ないのであろう。 欧米のように、ほぼ全てのチームがホーム球場を所有しているならば、所謂「ホーム&アウェイ」という形でリーグ戦形式の大会も出来るのであろうが、日本の場合、風土的にそれは厳しい。 そうして、そういった大会フォーマットが、各スポーツのスタイルや戦略戦術を規定限定していく。美点でもあり欠点でもある。それはスポーツの面白さのひとつでもあると思う。それが顕著に出ているのがWBCなのだろう。 さて、本題の「補習」である。 前回煽っていた通り、「サッカー週一営業」の話をする訳であるが、その前に、もう一度念のために断っておく。私は、当稿で「Jリーグはテレビのコンテンツにならない」的な事を再三再四述べてきたけれども、それはあくまで、この30年と現時点での話であって、将来の話ではない。経験的には確実であろうが、その理屈は分かっていないからだ。 また、「人気」というものは本当に正体不明、得体のしれないものである。将来的に、「Jリーグがテレビで大人気、高視聴率を連発」、あるいは他のメディア、それこそインターネットであるとか、将来的に生まれるかもしれぬ未知のメディアで「Jリーグが大人気コンテンツ」ということも十二分に起こり得る。ただ、「現在はテレビの優良コンテンツではない」というだけの話である。 まあ、Jリーグ側がテレビにもうちょっと協力してやってもいいのじゃないかなとも思う。せめて「クォーター制」ぐらいは導入しても良いんじゃないかなと思う。 それをさせないのは、Jリーグや日本サッカー協会ではなく、FIFAやFAなんだろうけど。もっとも、サッカー、すなわちアソシエーション・フットボールをテレビ番組として面白くしようとしたら、どんどんアメリカンスタイル・フットボールに近づいていってしまうというジレンマはあるのだろうけど。 それはともかく、「現時点ではテレビの優良コンテンツでない」Jリーグが日銭を稼ごうとしたら、「入場料収入を増やす」「グッズ収入を増やす」「広告料・スポンサー料を増やす」の三択しかない。後ろ二者の継続的な営業努力も無論重要であろうが、とりあえずプロスポーツとして最も基本的な収入は前者の「入場料収入を増やす」である。 もっとも、私は当稿で、「入場料収入ではプロスポーツ経営は成り立たない」と主張している訳であるが、それはともかくとして、日銭を稼ぐためには「入場料収入を増やす」しかない。 そうして、「入場料収入を増やす」には、「客数を増やす」「単価を増やす」の二者があり、そうして「客数を増やす」方法は更に二つあり、ひとつは「球場のキャパシティを増やす」であり、もうひとつは「試合数を増やす」な訳である。 昨今の、というか発足以来Jリーグは前者の「球場のキャパシティを増やす」に御執心であるようだけど、「そもそも、満員にならない球場のキャパシティを増やして、意味あるんか」という反論はある。 それはともかくとして、Jリーグは後者の「試合数を増やす」にはまるで無関心なようである。 何故か。 彼らは「サッカーは激しいスポーツなので、週一回しかプレイできない」と主張しているけど、んな事あるかい。 私はその反例をさんざん見てきた。中学や高校の頃、サッカー部の連中は一日3試合くらい普通にやってた。午前中1試合、午後2試合みたいな感じである。 んな事出来んだろー。俺だって、出来るわ。いや、50代の私がそんな事をしたら、速攻アキレス腱を断絶して、家族や周囲の笑いものになるであろうが、20代30代なら楽勝だよ。さすがに3試合目は飽きるだろうけどさ。 水島新司が、かつて60代で一日5完投していたという話であるが、その真偽はともかく、さすがにそれは無理。20代30代でも無理。 また、1日3試合ではなく、プロ野球のように1日1試合週6でも、20代30代の私なら十分可能である。ちょろい仕事だと思って、喜んでやるだろう。 「素人とプロでは疲労度が違う」なんて反論が出そうであるが、んな事あるかい。 いいか、世の中には、1日8時間とか10時間の肉体労働を週5、あるいは週6で、しかも50年くらい続けている人が普通にいるんだぞ。私の亡き父がそれだった。黙って働き続けた父だった。それに比したら、一日1試合のサッカーなんて疲労のうちに入らないだろう。しかも、年に半年しか働いていないのだからな。笑わせんなって話である。 また、他のスポーツと比べたって、サッカーなんて全然疲労しないスポーツであろう。例えば、テニスなんていうのは、おそらくあらゆるスポーツの中で最も激しいスポーツ、疲労度の高いスポーツであろうが、普通に週数試合こなしてるからな。サッカーの疲労度なんて、説明がつかない。 また、フットボールやボクシングのように、疲労というよりは健康問題から、開催やプレイが限定されるスポーツもある。やらない方がいい、禁止した方がいいスポーツである。それを諸般の事情から、開催プレイしている訳であるが、それらは疲労というよりは健康問題から試合数を少なくしている訳である。 そこを無茶するとかつてのボクシングや、昨今のプロレスのように健康被害者続出という事態を招いてしまう。この手のスポーツが、試合数を増やさない、あるいは減らす方向に動くというのは致し方ない事であろう。私も賛同する。いや、むしろ禁止した方が良いのだろうけど。NFLは微増させてるけどな。あんなに儲かっているのに。 でも、サッカーはそんなスポーツじゃないだろう。一応、ヘディング問題が懸念されているけれども、ボクシングやフットボールのようにドランカー的な症状はサッカー経験者には見られない。そういう人達が出てきたら、私も納得するが、現時点ではすこぶる健康的な、あるいはすこぶる安全なスポーツといってよいであろう。アメリカでサッカーを「女子供のスポーツ」というのは、それが理由である。 このサッカーとか、ピッチャーなんかも同様だけど、最近のプロスポーツ選手は「疲労」を理由に働かない奴が多過ぎる。また、それを金科玉条、伝家の宝刀のように思っていやがる。大谷の二刀流が証明したように、「登板日の翌日がバキバキ」なんていうのはウソッパチだからな。世間一般の人は、私の父親とまではいかないけど、みんな週5で働いてんだよ。2時間3時間残業してんだよ。もっと、働け、バカ。しかも、Jリーガーなんて、自身では稼げていない、いい歳こいてお小遣い貰っているような生き方をしているんだから、もっと働け。お前ら、現状はニート同然だよ。 最近、マイケル・ジョーダンが、これら最近のプロスポーツマンの「労働嫌い」をたしなめたらしいけど、ホント、お前ら、もっと働け。 いや、ホント、Jリーガーは残りの6日間、何してんだって話だよ。じっくり見てみたいよ。 「サッカーは週一でしかプレイできない程、激しいスポーツだ」っつてんだから、試合日の翌日翌々日は絶対安静だろうな。それこそ、集中治療室みたいなとこにいるんだろうな。セックスなんか絶対禁止だかんな。 そうして、三日目以降の練習も当然禁止だろう。軽いジョギング程度が精一杯の練習であろう。実戦形式の練習なんて、もっての外である。なにしろ「サッカーは週一でしかプレイできない程、激しいスポーツだ」なんだからな。 実際、ボクサーの試合後はそんな感じであり、1週間どころか、1ヶ月ぐらいは激しい運動は禁止されている。Jリーガーもそれに準じないとな。なにしろ、「サッカーは週一でしかプレイできない程、激しいスポーツだ」なんだからな。 まっ、そんなのはウソッパチなのであるが、では何故、Jリーグに限らず、全世界のサッカーリーグの多くが「週1開催」なのか。これには、ちゃんと理由がある。 それには、サッカークラブの起源を考えてみる必要がある。 サッカークラブというのは、どれくらい昔からあるのかは知らないが、元々は町のサッカークラブである。サッカーを好きな人たちがプレイするために集まって結成された人間集団、すなわち「クラブ」である。決して断じて、サッカーを見せて報酬を得ようとしている集団ではない。「カンパニー」ではない。 日本でそれに最も近い、イメージしやすいのは、どんな町にも一つ二つは必ずある「テニスクラブ」である。「めぞん一刻」で描かれたアレである。テニスを好きな人、プレイしたい人たちが集まり、会費を出し合い、テニスコートとクラブハウスを作り、更にはコーチを雇って、練習や試合を指導運営してもらう。そうして、いい歳こいたオッサンオバサンがラブアフェアを楽しむ。狙う。 ラブアフェアはともかくとして、これのサッカーバージョンというか、同様のものがヨーロッパの「サッカークラブ」「スポーツクラブ」である。 そうして、当初はクラブ内で試合をしていたであろうが、それはそのうちクラブ同士の対抗戦に発展するであろう。最初はごく近隣での試合だったものが、市、県、国、ヨーロッパへと自然に広がっていく。 そうして、当初はクラブの会員やコーチが選手(まさしく「選ばれた手」)として出場していたであろうが、大会が白熱していくにつれ、優れたプレイヤーを「プロ」として雇うようになるであろう。また、会員やコーチを対抗戦専門の「プロ」にするだろう。彼らの生活費や報酬をクラブの会費から捻出するであろう。 その規模の拡大したもの、巨大化したものが現在のヨーロッパ各国のプロリーグやプロチームである。 今現在、その各国のプロチームが、日本の町のテニスクラブのように、素人にサッカーを指導しているかは、不明であるし、いろんなパターンがあるであろうが、その起源、最近作られたチームは別として、古くに起源をもつチームの多くはは、あくまでアマチュアチームなのである。 故に、週一開催。土曜日か日曜日かはともかく、週5日なり週6日なり働いて、その休みの日に趣味としてプレイ、まさしくプレイ、遊ぶのが、ヨーロッパのサッカーチームなのである。その伝統は、良し悪しはともかく、いかにもヨーロッパらしく、今でも固守している。 1部2部といった階級制、それに伴う「入れ替え戦」も同様の起源である。スポーツは、同じレベルの人とプレイしないと楽しくない。上手い人は下手な人とプレイしても退屈であるし、下手な人が上手い人とプレイしても劣等感に苛まれるだけである。いずれも、「つまらない」。辞めてしまう大きな理由となる。それを防止するのが階級制レベル制である。 Jリーグの一部のサポーターは「入れ替え制」を興行目的のように思っているが、そんなのは全然違う。あくまで、プレイヤーのための制度であって、観客のための制度ではない。全然ない。観客の中には、実力差の甚だしいマッチアップを好む人もいるからな。そこから、ボコボコの試合、一方的な試合や、その逆、大番狂わせ、大アップセット、ジャイアントキリングも起こるからだ。 一方で、「入れ替え戦」なんて興行上の効果なんてほとんどねーよ。最下位チームが下部リーグの優勝チームと入れ替わる事に興味持つ人なんて、ほとんどいないでしょ。プレイヤーとファン、当事者だけの問題だよ。 それが証拠に過去30年でJリーグの有名な入れ替え戦なんてひとつもないでしょ。 野球ですら無い。大学リーグのいくつかには入れ替え戦があるけれど、そんなの誰も興味持たんでしょ。東洋大学対東京農業大学の入れ替え戦なんて、当事者以外、誰も興味ないでしょ。甲南大学対大阪産業大学の入れ替え戦なんて誰も興味持たんでしょ。 以上、ヨーロッパのサッカーチームと同様の事情がバスケットボールやバレーボールといった他のスポーツのヨーロッパのクラブチームにも云えるし、南米でも事情は同様であろう。 一方で、日本やアメリカのプロチームは、あくまでプロ組織、興行を目的として、観客を楽しませるものとして、大学スポーツのスターの就職先として発足組織されたものである。ヨーロッパや南米のクラブチームとはそもそもの構造が異なっている。メジャーリーグはまた特殊かな。 プレイヤーのためのチームがヨーロッパや南米のクラブチームであり、観客のためのチームが日本やアメリカのプロチームである。 その日本とヨーロッパの狭間で、ヌエ的存在として発足組織化されたのがJリーグである。その根本的矛盾、構造的齟齬、あるいは妖怪人間的哀しみが、30年の時を経て、露呈化したのが昨今の「税リーグ問題」だと思う。 かつて、三島由紀夫はこのように語っている。普段は私のインチキ記憶に頼って引用しているけれども、幸い手元にその本がある。書き写そう。 「たとえば私は空想するのだが、街の角々に体育館があり、だれでも自由にブラリとはいれ、僅少の会費で会員になれる。夜も十時までひらいており、あらゆる施設が完備し、好きなスポーツが気楽にたのしめる。コーチが、会員の運動経験の多少に応じて適切に応じて指導し、初心者同士を組み合わせて、お互いの引込み思案をとりのぞく。そこでは、選ばれた人たちがだけが美技を見せるだけではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会が与えられる。……こういうスポーツ共和国の構想は、社会主義でなければ実現できない、というものではあるまい。」 いやあ、書いてて、つうかタイピングだけど、写しているだけでも楽しい。昨今のネット上に溢るるゴミみたいな文章とはまるで違う。あからさまに違う。所謂「折り目正しい日本語」「正確無比な修辞法」である。 三島の文章はともかくとして、この文章が公表されたのは50年以上前、私が読んだのは30年以上前、事情は現在もほとんど変わっていない。チョコザップ的なスポーツジムが増えたぐらいである。ウェイトトレーニング的なものはともかく、ゲームは一般市民には依然遠い。 同じ稿で三島も指摘しているが、体育館やスタジアムといった運動施設は一部の上級者が当然のように独占している。そのくせ、一方では、それこそ選挙演説等々では「スポーツの普及」なんてことを謳っている訳である。違うだろ、お前が訴えているのは、自身や仲間の練習施設の拡充だろ。スポーツの下手な人間をヒトとは思って無いくせに。 だから、教えりゃいんだよ、Jリーガーは、週6が空いているんだから、何もすることが無いんだからな。そこらの素人にサッカーを教え、ゲームさせてやりゃいんだよ。それが真の意味での「スポーツの普及」だろう。見込みのありそうな子供に教えるだけでなく、そこらのオジサンオバサンに、まさしく三鷹さんのようにサッカーを教えりゃいんだよ。 で、お金が無くて困っているっつんだから、募金やクラウドファンディングではなく、オジサンオバサンにサッカーを教える事で月5千円なり1万円なりの指導料を採ればよいだろう。それこそがお前らの仕事だよ。本業だよ。誰も見ないサッカーをする事より遥かに価値のある事だよ。「シビックプライド」とか言って地域間対立を煽るより遥かに価値のある事だよ。 同様の事は、サッカーのみならず、野球をはじめ他のスポーツにも云えるであろう。社会人スポーツの問題はともかくとして、学生スポーツにおいても、相も変わらず、上位者優先、あるいは独占である。野球なんてロースターが20人くらいしかいないのに、部員は100人くらいいる。下級生は将来のロースター候補もいるであろうが、それら以外はただの練習補助要員、応援要員である。自分からポジションを奪った人間を応援できるのかねえ。私は狭量だから、そういう事は出来なかった。そういう気持ちにはなれなかった。 そういった人々を救う意味でも、部活から独立したクラブチームは必要だと思う。サッカーはそれに近い活動をしているが、日本のスポーツ界はまだまだ部活独占である。専制部活制である。 そういった部活から独立したクラブチームが出来れば、この稿の冒頭で説いた「高校野球のトーナメント制に支配されている日本の野球スタイル」も幾分か改善されるかもしれない。新しい風が吹くかもしれない。リーグ戦スタイルの野球選手が現れてくるであろう。 元プロ野球選手が私財を投げうてばいいのにね。時間と金が余ってんだから。私財を投げうって、チームやリーグを作ればよいのにね。あんな箸にも棒にもかからない毒にも薬にもならない野球解説やユーチューブ活動より、よほど有意義な事なのにね。野球界の発展に大きく寄与する事なのにね。 で、次回は、この手のアマチュアスポーツ横暴の諸悪の根源であるオリンピックについて書きたいと思います。 当サイトは原則週一更新でやってきたけど(私はアマチュアだからな。)、次週は諸般の事情でお休みしま〜〜す。次回更新は再来週を予定していま〜〜す。 2026/3/14(土) ホワイトデーだ。 |